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4.多武峰と藤原京
天香具山近く磐余(いわれ)の地に古代の大和王権はあったが、推古天皇の豊浦宮(とゆらのみや)以降、政治の中心は飛鳥に移った。皇極(斉明)期には飛鳥の中を転々と遷都する。天智朝で一度近江に移ったが、天武朝で再び飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)に戻り、持統天皇のときに藤原京(宮)に移る。 乙巳の変で天智天皇を助けた藤原鎌足とその子藤原不比等の持統朝での活躍が、後の藤原貴族の全盛につながる。談山神社は多武峰(とうのみね)に在り、藤氏総氏神を祀る。 両槻宮(ふたつきのみや)は冬野にあったかもしれない。(福永他「日本の道教遺跡を歩く」)神僊の地・吉野宮滝により近く、いかにもそれらしい。 |
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(推古天皇)豊浦宮・小墾田宮、(舒明天皇)岡本宮・田中宮・厩坂宮・百済宮、(皇極天皇)小墾田宮、板蓋宮、(孝徳天皇)難波、(斉明天皇)板蓋宮、川原宮、後岡本宮、(天智天皇)近江、(天武天皇)岡本宮、浄御原宮、(持統天皇)浄御原宮、藤原宮 (直木孝次郎「飛鳥」より) |
談山神社 (だんざんじんじゃ) 桜井市多武峰319 |
この日は、早朝から雪だった。雪景色の談山神社は桜に埋もれたようで美しい | ||
石舞台から上(かむら)へ。 上は談山神社の西山麓。 | 登山道を登れば談山神社まで30分ぐらい。 | |
西参拝道には「女人禁制」の碑、 弥勒石仏(1266年) | 尊円法親王染筆の「下乗」、 古い道標石 | |
西入山入口を入ると左に総社拝殿を見て「けまりの庭」へ。中臣(後に藤原の姓を受ける)鎌足が法興寺で中大兄皇子と蹴鞠の席で始めてまみえた故事にちなみ「けまり祭り」が行われる。藤原姓は不比等により政治を執める藤原姓と祭祀を司る中臣姓に分けられ、中臣神道が発祥する。 | 右に神廟拝所を見て、「けまりの庭」から権殿、十三重塔を見上げる。神廟拝所はもとの講堂で白鳳7年(678)定慧和尚により創建された。十三重塔は定慧が唐から帰朝後、父鎌足の追福のため建立した。木造十三重塔は世界で唯一。(談山神社の建造物はこれらを含め殆どが重文。) | |
末社・総社拝殿(重文)。寛文8年(1668)の造営。談山神社拝殿を縮小し簡略化した唐破風を設けた様式。外部小壁に狩野永納筆の壁面が残る。 | 末社・総社本殿(重文)。延長4年(926)の勧請で、天神地祇・八百万神をまつり日本最古の総社。現本殿は寛文8年(1668)造替の談山神社本殿を寛保2年(1742)に移築したもの。 | |
ここから御破裂山(607m)へ20分。談い山(かたらいやま)(566m)へ10分。 | 龍神社と磐坐(いわくら)。古代の聖なる祭場。水の神と龍神を祀る。 | |
石段を登り東西宝庫を見て本殿の楼門へ。 大宝元年(701)、藤原不比等が神殿を創建し神社となし、神仏習合の寺(神社)として栄えた。明治維新時に神社となる。 |
楼門(重文)は三間一戸、朱塗り檜皮葺。左の受付を通って右側の拝殿に靴を脱いで上がる。拝殿と石造りの前庭を挟み談い山を背景にして春日造りの本殿(重文)が建つ。 | |
回廊を配す拝殿(重文)を見上げる。拝殿内には多武峯縁起絵巻などが展示されている。絵巻は鎌足誕生、中大兄皇子との出会い・談合・入鹿誅殺、栄達、没後多武峯に祀られるまで。江戸初期のもの。 | 正面の石段は136段。拝殿下の赤い鳥居を進むと東殿(鎌足の子である鏡女王、定慧和尚、藤原不比等を祀る)がある。 | |
谷間の向こうに飛鳥・岡地区。 | 冬野を訪ねるのは今回は断念するが、重なる霊峰。 | |
談山神社は一山全て神社(寺のこともあった)。御破裂山には藤原鎌足公墓所(古墳)がある。多武峰とはこの辺り一帯を云う | 中大兄皇子が剣を振い、鎌足が弓をかまえる。入鹿の首が御簾の向こうの皇極天皇に救いを求める。(多武峯縁起絵巻) | |
(談山神社パンフレットより) |
藤原京 (ふじわらきょう) 橿原市高殿町 |
大化改新の頃の天智・天武・持統天皇を江戸幕府が生まれる際の信長・秀吉・家康に準えて論じることもある。(直木孝次郎「飛鳥」)家康が優秀な人材を登用し幕藩体制を固めたのと同じように、持統天皇は藤原不比等という大政治家を重用し律令国家体制を確たるものとした。 持統天皇はそれまでの「宮」と異なる中国の制度にならった大帝都の建設にとりかかった。それが「藤原京」である。平城遷都後跡形も無くなっていたが、1969年より奈良文化財研究所による本格的な発掘調査が始められ、次第にその様相が明らかになってきている。 天香具山の麓、耳成山、畝傍山との大和三山の中心にあり、「春過ぎて夏来るらし白たへの衣乾したり天の香具山」と持統天皇が詠んだのはあまりにも有名である。 日本(大和朝廷)を確立さた持統天皇の行動が、中国の思想・哲学すなわち陰陽五行の理に拠っているとする吉野裕子「持統天皇」は興味深い。 |
藤原京跡。 耳成山を見る。 | 天香具山を見る。 | |
畝傍山を見る。 | 南の方向(飛鳥・檜隈)を見る。 | |
奈良文化財研究所・飛鳥藤原宮跡発掘調査部が天香具山の西山麓(藤原宮と接して)にある。元々は”国立”であったが、現在は”独立行政法人”である。展示室が開放されていて、飛鳥・藤原京(宮)の解説、瓦および土器が展示されている。同研究所の飛鳥資料館、平城宮資料館と併せて古代の飛鳥・奈良を偲ぶことができる。 |
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