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5.平城京と奈良
”飛鳥・奈良の旅”は、葛城王朝の里から始まり、大和朝廷が成立・確立した飛鳥(明日香)地方を旅した。最終回は、飛鳥地域から北上し、三輪王朝の里・磐余(葛城王朝にとって代わったあるいは同時期にあった)を通り抜け、律令国家としての完成を意味する「平城京」跡を訪ねる。
もう一つの興味は、大和朝廷成立時の宗教事情を仏教だけでなく道教思想の影響を含めて思い巡らすことであった。 道教というキーワードを確認することで、我国古代の信仰・宗教がもっと正確に理解できそうである。日本国が成立した時期(天智・天武・持統朝)の朝廷・貴族には道教マニアが多く、それが政治・宗教に影響しないわけはない。 飛鳥の古墳群(天武持統陵などの所謂「聖なるライン」)、飛鳥に点在する石造物と霊水信仰、両槻宮の存在、木簡に残された道教的禁呪、百済渡来人からの当時の最新思想・技術などを確認しながら旅をした。 |
石上神宮 (いそのかみじんぐう) 天理市布留町384 「神武天皇即位の年(B.C660)に東征の時に携えた神剣・布都(フツ)御魂大神を祀ったのが草創」とは神話の世界である。フツは剣の振りを云い、ニギハヤヒがナガスネヒコを斬った剣が、ニギハヤヒの子孫の物部氏の総氏神である石上神宮で宝物として貴ばれている。 天香具山の北東・三輪山麓は「磐余(いわれ)」として応神天皇以降のほぼ史実とされる天皇の宮があった。その頃(5〜6世紀)の巨大軍事氏族である物部氏は、河内・大和に大王家に匹敵する勢力を持ち、水路・交易・技術を抑えていた。物部氏は筑紫の出であるとか出雲系であるとか言われているが、武蔵・東北にも物部伝承は多い。軍事氏族としては大伴氏もあげられるが、物部氏の方が格が上であったようだ。587年に物部氏は所謂”神仏戦争”で蘇我氏に敗れたが、天孫降臨以来の伝統を持つ物部氏はその後も随所で活躍する。 |
石上神宮は武門の棟梁である物部氏の総氏神。境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ静かで神々しい。鳥居をくぐり右に折れると”山の辺のみち”で桜井へ通じている。 |
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見事な回廊と楼門(重文)でかこまれた石上神宮。 | ||
拝殿(国宝)。かつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地を御本地と称したが、大正2年に本殿が造営された。禁足地にある神庫には莫大な武器が保管されていたが、中世以降に盗難・散逸した。 | 楼門前の石段を上ると摂社「出雲建雄(いづもたけお)神社」(拝殿は国宝)がある。祭神は出雲建雄神。 拝殿は中央に一間の「馬道(めどう)」と呼ぶ通路を開く割拝殿(わりはいでん)の典型的なもの。 |
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七支刀(ななつさやのたち)(国宝) (石上神宮案内より) 数少ない残存する宝物の一つ。百済王から神功皇后摂政52年(372)に贈られたというが、「3:3:1」の刃の比率は中国古来の錬金術理論と関係し、銘文から道教的禁呪(この刀で百兵を退ける)が窺える。 (福永「道教と古代日本」) |
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神社奥から”山の辺のみち”(奈良へ) | ||
三輪山周辺には日本最古の古墳群がある。崇神天皇の時代にそれまでの銅鐸の祭りであった三輪山信仰を古墳を通して神奈備としての三輪山信仰に宗教改革がされたと見る説がある。古墳を作り死者が永遠に生きる「永世思想」は当時通交のあった魏の国で流行していた「道教」に基づいている。(梅原猛「神々の流竄」) |
平城京 (へいじょうきょう) 奈良市二条町 近鉄奈良駅から阪奈道路(大宮通)を少し行き、国道24号線を跨いだ北西一画に平城宮跡がある。平城京は東は興福寺、西北は西大寺、南はJR郡山駅近くまで含む碁盤目状に区画され、平城宮は中央北端にある。和銅3年(710)元明天皇の時に藤原京から遷都した。この前後に”不改常典(あらたむまじきつねののり)”で天皇の嫡子譲位を、また「古事記」により日本の神話を確立した。この中心には右大臣になった藤原不比等が居たと言われている。不比等は鎌足ゆかりの飛鳥・厩坂寺を平城京の北隅に移し”興福寺”とした。 701:大宝律令、702:持統崩御、707(慶雲4年):元明天皇即位、710:平城遷都、712(和銅5年):古事記、715:元正天皇即位、720(養老4年):日本書紀完成、不比等の死 |
幅74mの朱雀大路が再現され、朱雀門(すざくもん)に到る。朱雀門は平成9年に再現された。高い土堀(築地大垣)で囲まれた南北1kmの方形が平城宮であった。遺跡は公園化してよく保存されていて、「古都奈良の文化材」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。 | 朱雀門を抜けると、正面奥に現在復元工事中の(2010年完成予定)大極殿が見える。「大極殿」の名は太極星(北極星)からきている。道教的には北極星を神格化した天皇大帝の居となる。広大な敷地が平城宮跡として確保されている。中央を近鉄奈良線が西から東に横断している。 | |
奈良文化財研究所・平城宮跡資料館(無料)が平城宮跡・西北隅にある。発掘調査の実際、平城京の全体・個々などが分りやすく説明され、瓦・土器・木簡などの展示がある。ボランティアの方の丁寧な説明が聞ける。 上の転写した写真は、左から人形、木片に描かれたいたずら書きである。人形(ひとがた)の説明には、「けがれや災い・病苦を人形に移して水に流す。ここにも道教系統の思想の影響が見られる。」とあり、いたずら書きには仙人らしき姿、紫微宮か東華宮も描かれている。猿、馬などもあり、それらがこの都に飼われていたことを窺わさせる。道教的呪文「急急如律令」の文字のある木簡なども期待していたが展示がなく、また木簡自体保存が大変であることも知った。 |
海龍王寺 奈良市法華寺北町897 聖武天皇妃・光明皇后が父・藤原不比等の邸宅跡に天平3年(731)に創建し、僧・玄坊の入唐求法の安全を祈願し「海龍王経」を詠み、玄坊帰国後、玄坊僧正が開基した。皇后宮の隅に建立されたので「隅寺」とも呼ばれた。 |
崩れそうな土塀でかこまれた山門から細い参詣道が境内に導く。 | 本堂には、本尊・十一面観音像や文殊菩薩像(いずれも重文)が拝観できる。 | |
西金堂(重文) | 西金堂には高さ約4mの木造五重小塔(国宝)。 |
法華寺 奈良市法華寺町 正確には、「光明宗・法華滅罪寺」という。光明皇后が藤原不比等邸宅跡に建立、天平19年(741)に「総国分尼寺」となる。光明皇后が千人の垢を流したと伝えられる「から風呂」が別廊にある。海龍王寺とは隣り合わせになる。 |
南大門(重文)は道路に接し、白壁がつづく。 | 東門(赤門)が現在の通用門である。 | |
境内には重文の鐘楼、本堂が並び、京都御所のお庭を移築したという本坊書院がつづく。 | 本堂内陣の桃山様式の須弥壇上の厨子に素木の一木造りの本尊・十一面観音立像が納められている。光明皇后の姿を写したと言われている。 光明子は不比等の娘であるが、不比等のやり方に必ずしも同調しておらず、むしろ憎んでいたとする説がある。光明子は通説の”鉄の女”でなく、蘇我(聖徳太子を含む)の祟りを恐れ藤原独占を嫌ったとする。晩年は藤原仲麻呂(恵美押勝)に利用され紫微中台(道教的な名である)で政治をしたかの印象を与えているが・・・もっとたおやかであると。 春秋の特別ご開帳以外は厨子の扉は閉められているが、前立ちは昭和40年にインド政府に依頼し白橿の一木造りである。この分身像は左写真で見るご本尊と寸分のもないほど精巧なものである。 毎年10月25〜11月10日に本尊が特別御開扉され、わが国最高峰の仏画・名宝絹本着色阿弥陀三尊及童子像の公開がされる。 |
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(法華寺絵葉書より光明皇后の姿を偲ぶ) |
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