飛鳥・奈良の旅

1.葛城の古道 2.飛鳥の史跡① 3.飛鳥の史跡② 4.多武峰と藤原京 5.平城京と奈良

2.飛鳥の史跡①

葛城山麓の平野を一つ小丘を越えたところに檜隈(ひのくま)の地がある。檜隈は5~6世紀(応神期)に百済から渡来した東漢(やまとのあや)氏が本拠とした所である。

大和朝廷(大王)の中心地は、飛鳥川流域の豊浦(とゆら)付近の飛鳥地方にあった。檜隈は飛鳥に隣接しており、舶来の軍事・経済力を持つ東漢氏は政権と深く関わり重用された。

大化改新(645年)を成し遂げた天智天皇は都を近江(滋賀)に移した。そこでは多くの百済滅亡に伴う亡命貴族が渡来し新知識が導入された。この時期、檜隈の東漢氏の出る幕がなくなった。

壬申の乱(672年)で大海人(天武)側の勝利により、再び都は飛鳥地方に帰ったが、新しい知識・技術に勝ことが出来ず、東漢氏の復活はなかった。東漢氏の流れを汲むのが、奈良時代に軍神として復活した坂上刈田村麻呂、田村麻呂親子である。

檜隈にある天武持統陵などは藤原京(持統朝)の真南に位置する。「道教」でいう朱火宮(よみがえりの宮)に相当すると言われている。
飛鳥には不思議な石造物が多い。古墳としての鬼の俎・雪隠や石舞台の他に、益田岩船、亀石、猿石、石人像、須弥山石どがある。これらの用途は石室、占星台、霊水苑などの装飾、道祖神などとも言われ現在解明が進められているが、道教思想を反映しているとの説もある。

檜隈(ひのくま)の古墳 (文武陵、高松塚古墳、中尾山古墳、天武・持統陵)飛鳥歴史公園
文武天皇(在位697-707)檜隈安古岡上陵
(真偽が疑われている)
高松塚古墳は修理中。 普段は竹で覆われているのが屋根つきハウスで覆われていた。
 
高松塚古墳
    星宿図と壁画の配置(壁画館パンフレットより)
隣接地に「高松塚壁画館」がる。現状模写のものと一部復元して見易く模写修正した2組の壁画の全貌が見られる。天井部の星宿図は約1m四方に描かれたもの。

高松塚古墳の北東隣にあるのが、真の文武天皇陵(八角墳)とされる中尾山古墳。
高松塚古墳公園

天武持統天皇陵を北に見る。

南を眺めると中尾山古墳、高松塚古墳方向。
東西約58m、南北約45m、高さ約9mの円墳状の陵である。鎌倉時代に盗掘され、その時の記録「阿不幾乃山稜記」に墳丘が5段築成の八角墳であること、天武天皇が布張りの朱塗りの棺に、持統天皇の火葬骨は金属製骨蔵器に納められている。天武天皇の在位は673-686、持統天皇の在位は686-697。
天武天皇・持統天皇檜隈大内陵 檜隈の風景

    鬼の俎と雪隠

鬼の俎(まないた)。(底石)

鬼の雪隠(せっちん)。(蓋石)
大化の薄葬令で墳丘土を失った(7世紀)古墳の部分。石室は花崗岩巨石を加工し、底石・蓋石・扉石の3個で組み合わせた。 

     欽明天皇陵、吉備王姫墓、檜隈猿石
欽明天皇(在位539-571)陵(梅山古墳)の全景。 「全長約140m、後円部径72m、前方部107mの明日香村内では最大の前方後円墳。欽明天皇の妃で推古天皇(在位592-628)の母である堅盬媛(きたしひめ)を合葬」との説明板がある。 参拝道の左上すぐに吉備姫王墓がある。
森浩一「巨大古墳」(講談社)では、”文久の大修陵の記録「山陵図)(1697)では、修理前に双円墳状であったものが、修理後に前方後円墳になり、濠も同一水面の周濠になっている。これは、幕府の朝廷対策として行われたこの修陵事業で、天皇陵=前方後円墳により改造された。”と述べられ、橿原市の見瀬丸山古墳の方がより本当の欽明陵ではないかとの指摘もある。
欽明天皇陵の遥拝所
くびれ部に向っている。
吉備姫王墓(檜隈墓)。吉備姫王(吉備島皇祖母命)は孝徳天皇と皇極(斉明)天皇の生母。 
吉備姫王墓域内に江戸時代に欽明天皇陵の南側の池田から掘り出された石像物4体が移されている。檜隈の猿石(吉備姫王墓猿石)と称される。 左が「僧と男」。右が「女と山王権現」。



     益田岩船 橿原市南妙法寺町
橿原市南妙法寺町(バス停石船下から団地内の道路の坂を上った所)に公園があり、ここから5~10分ほど登る。 滑りやすい急坂を登りきると突然現れる。下の公園近くで散歩の人に尋ねても知らなかったほど無視されている。側面の格子状の溝が目立つ。
竹薮の中にある東西幅11m、南北奥行8m、高さ5mの巨石。立派に水平が出ている表面、正確に加工された四角穴。この石造物と似たものが近くの牽牛子塚古墳の石室に使われている事から、斉明天皇・間人皇女の合葬陵の未完成石造物とされているが(飛鳥資料館:あすかの石造物)、占星台とか天体観測台などの説も似つかわしい。

甘樫丘南側 (橘、川原)

     亀石と橘寺 高市郡明日香村
   亀石(長辺4.5m、短辺2.8m、高さ2m)。
明日香村・川原の橘寺から通じる畑中の裏道にある。人工の完成品と見る(飛鳥資料館)。
橘寺の裏門から境内を見る。橘寺は太子建立七ケ寺の一つで、飛鳥寺に次ぐ古い尼寺であったが、平安中期に焼失し、現在の建物は江戸時代のものである。
橘寺の本堂。聖徳太子誕生の地とも云う。もとは四天王寺式伽藍の壮大なものだったことが発掘調査で分っている。 三光石。 推古天皇14年(606)に「聖徳太子が勝鬘経を講じた時、”日・月・星”の光を放った」と伝えられる。
境内には二面石(不思議な石造物の一つ) 右側の顔の表情

     川原寺跡
川原寺跡(向こうに見えるのは弘福寺は中金堂跡)。斉明天皇の川原宮を寺に改めた。飛鳥寺、大官大寺とで三大寺。 川原寺跡から南側(橘寺)を見る。橘寺と向かい合っている。

戻る このページの先頭へ 次へ