飛鳥・奈良の旅

葛城の古道 2.飛鳥の史跡@ 3.飛鳥の史跡A 4.多武峰と藤原京 5.平城京と奈良

3.飛鳥の史跡A

”飛鳥(あすか)”とは、6〜7世紀の人には「飛鳥川の右岸の一帯」であったようだが、天香具山の山麓辺りを北限とし、飛鳥川の両岸を含むこの川の流域とするのが通説である。

飛鳥”と”明日香”は古代から併用されたようで、一方は”飛ぶ鳥”と勇ましく、他方は”明るい日の香り”と清々しいイメージを伝える。

現在は、明日香村に飛鳥や豊浦などの地名があり、明日香村の飛鳥資料館などと使われている。


甘樫丘から (豊浦)
豊浦(とゆら)展望台[甘樫丘北端]から北側には「大和三山」が一望できる




甘樫丘地区公園内を歩く。

豊浦、雷(いかづち)方面。飛鳥川は雷方向に流れる。

豊浦展望台
豊浦展望台から東側(飛鳥寺方面)を見る。

甘樫丘南端より天武持統陵、高取山方面

多武峰、岡地区(岡寺)方面

     飛鳥寺、 山田寺跡
水落遺跡。 斉明天皇6年(660)に中大兄皇子(天智天皇)が初めて造った水時計跡。裏手の石神遺跡からは須弥山石と石人像(飛鳥資料館で保管)が明治時代に発掘された。水時計(漏刻)は出勤時間を厳格にする官僚・律令体制の始まり

飛鳥寺(安居院)。法興寺、元興寺が建創当時の寺号。平城遷都後、元興寺は奈良に移った。 飛鳥大仏は焼け出されたり放置されたりした時代もあったが、修理再生されて飛鳥時代の止利仏師の造形を伝える。
入鹿の首塚。中大兄皇子に刎ねられた蘇我入鹿の首が蘇我氏代々のこの地に飛び帰ったという。蘇我蝦夷・入鹿の大邸宅のあった甘樫丘が見える。 飛鳥坐(あすかにいます)神社。大国主命の第一子・事代主神とその娘神・賀夜奈留美神を主祭神とし創建されたという。飛鳥神奈備がここにあり、”国譲り神話”と関連する。事代主命の末裔の飛鳥氏が代々宮司を務める。

山田寺への入口に、井上靖の書による「磐余道(いわれのみち)」があった。磐余(香具山の北山麓)は5〜6世紀の大和政権(大王)のあった地で、山田は”磐余の南端”である。大和政権の始めは三輪山山麓や磐余に拠点があった。 山田寺跡。 舒明天皇13年8641)に蘇我倉山田石川麻呂が創建し、乙巳の変の後謀反の疑いにより一族が自殺に追いやられた悲劇の寺。石川麻呂の娘・越智娘の娘が鵜野讃良皇女(持統天皇)である。



     酒船石(さかふねいし) 明日香村岡   
「岡」地域は飛鳥時代の宮跡が多い。板蓋宮(飛鳥浄御宮原宮)跡近くの丘の上にひっそりと酒船石がある。東西長軸5.5m、南北2.3m、厚さ約1mの扁平長方形の加工石造物である。溝の掘り方は五臓六腑を示した道教的な造形と見る事もある。


岡の酒船石と山つづきに、西国33ケ所第7番・龍蓋寺「岡寺」がある。岡寺の本堂には「五色の幡」が掲げられている。五色の幡は中国古代思想・道教的なもので、神の威徳を表し談山神社や伊勢神宮の祭祀に用いられている。
山麓には酒船石遺跡公園 亀形石槽と石積みが見える。平成4年からの明日香村教育委員会の発掘で、岡の酒船石から流れた水は谷間の車石を通り南側に導かれ、山麓の亀形石槽に導かれる。平成11年からの調査でこれらが明らかにされ、この丘が斉明期の両槻宮(ふたつきのみや)であったとされている。(飛鳥資料館)
  
飛鳥資料館では酒船石が導水装置または中池を配した苑池が庭園として斉明期に作られた様子を展示している

     飛鳥資料館  高市郡明日香村奥山601

明治35-36年に石神遺跡から発掘されたもので、現物が飛鳥資料館に展示されている。
石人像。 高さ1.7m、幅70cm。衣服を着けた老人男女が組み合わされ、口に噴水穴があり噴水として使われらしい。斉明期に須弥山石が饗宴の装飾として遠来の客をもてなしたとあり、この像も饗宴の装飾用と推定されている。 須弥山石。 高さ2.3m、三段積みの円錐状の噴水機能を持つ装飾石。上段が須弥山、中段がとりまく山脈、下段が水波紋を表す。内部は空洞になり下段の波間の4つの噴水穴から水を噴出す。
須弥山を崑崙山とし、石人像を道教の神・東王父と西王母と見なすこともできる。(福永他「日本の道教遺跡」)
              
        高取の猿石         人頭石(上に水が入る) 韓国弥勒寺石塔にある石像のレプリカ
飛鳥資料館は奈良文化財研究所の明日香村展示室で、一般¥260である。第一展示室は万葉集、宮殿、石造物、古墳、寺院の五部門に分けて遺物・出土品を展示している。第二展示室は山田寺に関する展示である。地下でキトラ古墳の特別展示がされ、高松塚古墳よりも状態の良い殆ど同様な壁画の写真が公開されている。

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