今回の出雲の旅の探訪先 |
「出雲国風土記」時代の出雲は、縄文海進(縄文時代に海水面が5mほど上がり陸地面積が狭くなった)の影響が残り、現在の弓ケ浜の辺りは"夜見島"で、神西湖は"神門水海"で外海とつながっていた。出雲平野などの沖積低地平野の出現は縄文海進が最も進んだBC6000以降である。斐伊川(出雲大川)の流れが現在のように宍道湖に流れこむようになったのは、江戸時代(1639)の大洪水の後のことである。 |
『出雲国風土記』において、カムナビ山と称せられるのは、宍道湖を東西南北から取囲む西出雲の仏経山(366m)、大船山(327m)、と東出雲の茶臼山(172m)、朝日山(342m)、の四山であり、付近には豪族の墳墓が多い。5世紀には、宍道湖を中心にして豪族が勢力を確立し、お互いに連合していた。6世紀以降に二大勢力となる神門と意宇の勢力が主宰する出雲大社と熊野大社の近くの山は、カムナビ山と呼ばれていない。(原島礼二「出雲神話から荒神谷へ」) (「古事記」ではスサノオ命は斐伊川上流の鳥上山(1142m)に降臨し、八岐大蛇退治をする。) |
歴史探訪旅の面白さは、「何時、何処で、何が起こっていたか」をその背景とともに見て歩くことである。専門知識の希薄な身では、まずその土地・風物に触れることが大切だ。とくに古代史・文化・信仰はその地方そのものなので、できるだけ幅広く歩きまわった。 |
荒神谷遺跡での昭和59年(1984)の358本の銅剣と昭和60年の銅鐸6ケと銅矛16本、さらに平成8年(1996)の加茂岩倉遺跡での39ケの大小の銅鐸など弥生中後期の祭祀器具が大量に出土し、記紀伝承あるいは出雲国風土記に頼っていた出雲の古代が、実証的な面を含めて次第に明らかとなりつつある。内陸部では見られない四隅突出型古墳の西谷古墳群も興味の中心だ。伯耆国・米子市の妻木晩田遺跡は、吉野ケ里遺跡に勝る広さの弥生集落遺跡である。 |
古代出雲 |
門脇禎二「古代出雲」では、原イツモ国とイツモ王国をキーワードとして、弥生時代の集落の首長と古墳時代の王国とその変遷、意宇勢力と神門勢力、東部意宇から発した出雲国造家の西部への進出、物部氏と蘇我氏の介入、出雲国造家と大和朝廷との間の”出雲国造神賀詞”に見られる政治的譲歩などが述べられている。 出雲を旅して思うに、過去において大和朝廷に「国譲り」と称して乗っ取られた出雲の歴史を感じた。これは、奥州会津における「戊辰戦争」にも似た歴史だ。出雲風土記の農村・山村の平和な神々が、記紀では荒ぶる神・屈服する神に変わる。この辺の事情を知りたい。 |
出雲の信仰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
「イヅモ系といわれる信仰形態が、大和によって中央を分断され、北と南の辺陬の地、出雲と紀伊に濃厚に共存している・・・・・大和に根強く残ったイヅモ系と呼ばれる在地信仰は、絶えず侵入者のそれを圧迫した。在地のそれはいわゆる三輪山説話であり、賀茂説話である。・・・」(松本清張「私説古風土記」) イヅモ系の信仰形態を松前健氏は、巫覡(ふげき)信仰と見て、水野裕氏は、スサノオを須佐の地方神と考えずに、渡来氏族系の巫覡神であると考えた。(松前健「出雲神話」p.26) さらに、松前健は、遺稿集「古代王権の神話学」(p.117、2003年)で、「私はこうした薬方や呪禁、それに神託、予言、卜占等々のシャマニックな技法をもった巫祝の徒「出雲人」が、出雲で宗教王国を作ったばかりでなく、その超地域的な活動によって、やがて出雲ばかりか、中国、北九州、四国、近畿、北陸、東国にまでもその宗教圏を拡大していったという、一種の出雲信仰文化伝播説を唱えたのである。」として、1984年以降の神庭荒神谷の358本の弥生式銅剣埋葬の発見や、加茂岩倉遺跡で大和、山城、紀伊などに出土するものと同型のものがある38(39)個の銅鐸が出土したことが、出雲地方での大王クラスの支配者の存在の可能性を示唆した。 大和王権成立時だけでなく、明治維新で王政復古が叫ばれた時にも、政治的な力が絡み合って伊勢系の神道が国体の主流となり、「幽冥」の世界を基とする出雲系(平田篤胤流)の宗教としての神道は敗北した。(原武史「<出雲>という思想」) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
『出雲国風土記』の神統譜と出雲の神々(松前健「古代出雲」p.37〜p.52)のメモ
|
遺跡と古墳 |
勝部昭「出雲国風土記とその古代遺跡」は今回の旅の指南書であった。 |
弥生時代の出雲の考古学的理解は、昭和58年からの西谷墳墓群四隅突出型墳墓丘の調査、昭和59年の荒神谷(こうじんだに)遺跡での358本の銅剣の出土と平成8年の加茂岩倉(かもいわくら)遺跡での39ケの銅鐸の出土により大きく進展した。とくに後二者は、それまでの神話の世界としての「出雲」が、青銅器文化の中心地として認識され、銅剣・銅矛と神を招く銅鐸の華やかさが浮かび上がった。これらは、稲作農耕に関わる祭祀で悪霊を払うのに用いられる。荒神谷では多数の銅剣と銅矛・銅鐸が同時に埋蔵されており、加茂岩倉では銅鐸が集中的に埋蔵されていた。銅鐸については、神戸・桜ヶ丘遺跡で集中して出土した例と比較・検討されている。 |
出雲では、四隅突出型古墳が約90基確認されている。弥生後期に造られ始め、朝鮮半島に源流を持ち、北陸の一部(日本海沿岸)にだけ分布するのが特徴である。銅矛・銅鐸祭祀に変わっての墳墓祭祀の出現と考えられている。規模の大きいものとして、西谷墳墓群、と仲仙寺・塩津山墳墓群がある。弥生後期後半(2世紀後半)の西谷墳墓群の3号墓は、屈指の規模を持ち、出雲の最も栄えた時代と言われる。朝鮮半島から渡来した鉄器製作集団とその宗教性を帯びている。 |
古墳時代(3世紀後半から7世紀始めまで)には、四隅突出型古墳は造られていない。前期では、斐伊川中流域の神原神社古墳の方墳、前方後方墳の松本1・3号墳、安来市荒島丘陵の塩津山1号墳、大成古墳、造山1・3号墳などが大型古墳として知られている。6世紀中頃に出雲東部に築造された山代二子塚古墳は方墳で規模が大きい。同時期に前方後円墳も築かれ、規模の大きいものとして出雲市に大念寺古墳が残る。欽明期に、意宇と出雲にあった二大勢力が大和朝廷と結びついたことを示す。6世紀後半の岡田山1号墳から出土した「各田部臣」銘の銀装円頭太刀は、推古天皇=額田部皇女⇒蘇我氏配布とつながる。 |
出雲西部における原イツモ国以後の地域史的発展の諸段階は、原イツモ国の段階(西谷墳丘墓群に照応する)、次が出雲平野にフルネらが割拠した段階(古墳は点在的に出現)、次に進出したキビ勢力に制圧された段階(松本1号墳・神原神社古墳の出現)、次に東部のオウ王が勢力をのばしてきた段階、そしてこの次に、出雲への進出(北からは物部氏の、南からは蘇我氏の主導)したヤマト勢力と現地の新興勢力(カンド氏)との結合(大念持古墳の出現)した段階、を経たと想定する。(門脇禎二「古代出雲」p.164) |
次へ |