古代出雲の旅 3/4(島根県)

はじめに 出雲大社・日御碕神社
荒神谷遺跡
須佐神社・西谷古墳群
加茂岩倉遺跡・須我神社
熊野大社・風土記の丘
神魂神社・佐太神社
古代出雲王陵の丘
妻木晩田遺跡・大山寺



7月16日(第三日)

海潮温泉→熊野大社神魂神社八雲風土記の丘 →八重垣神社
国分寺跡→出雲国庁跡 →佐太神社→松江

前日訪れた須佐の山中や斐伊川中流域では、弥生時代の出雲国と「出雲国風土記」の原風景が広がったが、この日は、大和朝廷に恭順した出雲国造の本貫地(意宇)なので、風土記の世界より「記紀」の世界の方が近いようだ。出雲国国府跡は、大和の飛鳥・奈良時代である。島根半島の佐太神社に行って再び風土記の世界に帰る。

風土記や記紀に述べられている神の在り方・神話の世界は、この出雲国の変遷をそれとなく今に伝えているようだ。

この日から、梅雨前線が山陰地方から動かず、集中豪雨状態が居座る。私が出雲を離れた直後に、出雲市・佐田支所の神戸川が溢れ、山陰道の宍道PAに土砂崩れがあり車が埋まる。さらに、松江の町が水浸しになっている様子がTVに写しだされた。

そんな大雨の前触れに出会いながら、「古代出雲の旅」の後半・2日間を過ごす。

海潮(うしお)温泉の宿の軒下を赤川が流れる。 スサノオ街道を行く
熊野大社  9:30~10:10
「出雲国風土記」では、意宇郡の寺・社の項で、「熊野の大社」とあり、山野の項で、「熊野山。郡家の正南一十八里。檜・檀有り。所謂熊野大神の社、坐す。」とある。熊野山は現在の天狗山で、熊野大社の旧鎮座地としている。(荻原千鶴「出雲国風土記」) もとは、意宇川の上流にあり、熊野大神は稲魂の神であった。
駐車場から鳥居をくぐり抜け、意宇川にかかる橋を渡って参拝する。 熊野大社の図
随神門 舞殿
拝殿には、出雲特有の注連縄が張られている。
御本殿 主祭神は、加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(カブロキクマノノオオカミクシミケヌノミコト)と称える素戔嗚尊(スサノオノミコト)である。当然として千木は男千木(おちぎ)である。 
本殿左の伊邪那美神社 伊弉冉命(イザナミノミコト)を祀り、千木は女千木(めちぎ)である。 本殿右の稲田神社 真髪觸奇稻田姫命(クシイナダヒメノミコト)を祀る。


土俵の向こうに参集所があり、参詣の人々で賑わう。相撲は神事である。
鑚火殿(さんかでん)  出雲大社へ火鑚臼(ひきりうす)・火鑚杵(ひきりぎね)を発遺する神事を行う。
出雲国造の世継ぎの式は、「火維式(ひつぎしき)」または「神火神水の式」と呼ばれ、火鑚臼と火鑚杵でおこした火と、天の真名井から汲んだ聖水で神餞を造り、これを新国造が食べると、不死不滅になると信じられた。明治維新までは神魂神社で行い、こちらからは火鑚具を持っていくだけであった。明治以降は、千家国造家はここで行い、北島国造家は神魂神社で行っている。
同様な行事として、古伝新嘗祭があり、古くは意宇郡熊野社に出雲国造みずからが参向して火鑚りの神事を行ったが、中古以降は神魂神社で行い、明治以降は出雲大社で行うことになった。熊野大神クシミケヌから国造の先祖アメノホヒが火鑚具を授かり、これで杵築大社のオオナモチを祭ったという。
杵築大社、熊野大社、神魂神社の関係 (松前健「出雲神話」)
1.出雲国造の奉仕する神は、杵築のオオナムチと熊野のクシミケヌとの二柱であり、二重性を持っている。(『令義解』では、天神(あまつかみ)として、伊勢、山城の鴨、住吉、出雲国造の斎く神(熊野大神)など、地神(くにつかみ)として、大神(おおみわ)、大倭(おおやまと)、葛木の鴨、出雲大汝神(おおなむち)などをあげる。)
2.熊野大神を国造家が奉じた時期は何時か。「風土記」でも「国造神賀詞」でもカブロノミコトとなっている。「国造神賀詞」で「イザナギノ日の愛児カブロギ熊野大神」と呼び、イザナギの子でアマテラスの弟に当たるスサノオと同一視している。これは後世の出雲側の無理な筋書きに過ぎなかったようで、朝廷側もこれを認めたとは思われない。
3.熊野大神を奉じていた出雲臣が、なぜ西部出雲の杵築の大神オオナモチを祀るようになったか。これは、東武意宇の一族が西部オオナモチの祭祀権を掌握した歴史的事実を背景とする。
4.アメノホヒを祖神とする出雲臣一族が、熊野大神を祀り、どうしてアメノホヒを祀らなかったのか。これは、『延喜式』の天穂日命神社や『風土記』でアメノホヒと同一神とされる野城大神の祭所は、出雲東部の飯梨川下流で、この地から出雲臣族はおこり、意宇平野に移動し、その地に古くから鎮座していた熊野大神の祭祀権を独占したのかも知れない。
                      
神魂神社(かもす)  10:26~10:45
大庭(おおば)大宮とも云ひ、出雲国造の太祖・天穂日命(アメノホヒミコト)が、この地に天降し創建したという。国造就任の神事・神火相続式(おひつぎしき)を代々行ってきている。出雲国造家は意宇の首長としての勢力を有していた。斉名天皇の勅令で出雲大社が創建され、国造家は杵築に移住したが、神火相続式では現在も神魂神社と熊野大社とに参向している。大和朝廷に出雲が恭順する事情・時代を彷彿させる。
祭神としては、イザナミ大神とイザナギ大神が合祀されている。「出雲国風土記」には神魂神社の社名は見当たらないが、神魂(かもす)は、「カミムスビ」である。カミムスビの神はもともと出雲の古い霊格であり、『出雲国風土記』にもしばしば出て来る。カミムスビの神は造化三神のひとつ(他の二神は、アメノミナカヌシとタカミムスビ)として、後世に宮廷神話や祭祀に取り入れられた。
この近辺は、奈良時代に国庁、国分寺が置かれ、鎌倉時代まで政治・経済・交通の中心であった。現在もすぐ近くに文化庁の協力の下に「八雲立つ風土記の丘・郷土博物館」が建てられ、出雲文化発祥の転移を紹介している。

神魂神社の駐車場。時には激しく振る雨にほとんど車はいず、居ても車の中で待機している。近くの八重垣神社に比べて、華やかさがない分人気が少ない。
神魂神社の鳥居をくぐり20mほど坂道を登ると、右手に神社への石段がある。
しっかりとした石段が天に向う。静かな雰囲気が良い。以前にも一度訪れたこともある。 石段を登りつめるとすぐに拝殿がある。前横面が開け放たれていて、素朴な佇まいをみせる。雨が激しく降ってきた。
拝殿につづいて御本殿がある。室町時代に建造されたものである。現存する大社造りとして最古のものである。境内は余計なものは何もなく、簡素である。全国の八百万の神々が集う10月には「神在祭」が行われている。
御本殿は国宝であり、天地根源造りの形態をもつ大社造りで屋根は栃葺きである。女神イザナミノミコトあるいは女神カミムスビを祀ることからか先端を水平に切る女千木(めちぎ)で、本殿内部は二間の右側から入り、心柱を左に見て左奥の神座に至る女造(めつくり)とする。

八雲立つ風土記の丘 (資料館)  10:50~12:30
資料館に到達した時は、豪雨の最中だった。企画展「鬼神・祭祀・鉄 鬼の源流」が昨日から催されていた。資料棺はリニューアルのため、平成18年10月から平成19年7月まで休館される。
「鬼の源流」では、たたら製鉄との関連で、山陰地方を中心に、古代から中世の製鉄、鬼の考古資料が展示・説明されていた。

常設展示も興味深いものだった。左にパンフレットの「展示品の案内」を転写させてもらった。他にも家型埴輪、鹿の埴輪などが展示されていた。
銘文入太刀は岡田山1号墳出土で重文。神獣鏡は神原神社古墳出土で重文。中細銅剣は荒神谷出土で国宝である。銘文入太刀の「額田部臣」は、埼玉・金錯銘鉄剣の銘文中の「乎獲居臣(オワケノオミ)」と比較検討されることが多い。以前来訪した時(8年ほど以前)には大型埴輪が多数展示されていた事を思い出した。
雨の中を屋上展望台に上った。あまりの豪雨で、岡田山古墳まで歩いて行くのは止めた。

晴れた日には、このように見えるらしい。
左奥に神名備野(茶臼山城址)、その前に四天王寺跡、岡田山1号墳、2号墳、
右奥に大山、その前に真名井神社、国分寺・尼寺跡、天平古道、・・、国庁跡、六所神社、大草古墳群まで

岡田山1号墳(前方後方墳)は展望台から
                      
八重垣神社  12:40~13:10
御由緒によると、スサノオノミコトはヤマタノオロチを退治して須我の地でイナダヒメと暮らした後に、姫の御避難地であったここ佐草に宮造りして生活したとある。しかしながら、[出雲国風土記」意宇郡の条では、佐久佐社(さくさのやしろ)とあり、スサノオの子のアオハタサクヒコの社であった。この祭神がスサノオとイナダヒメとなったのは中世以降らしいと松前「出雲神話」は記す。  
大鳥居、随神門、拝殿、御本殿が一直線に並ぶ。本殿の玉垣外に右に伊勢宮と脚摩乳社、左に手摩乳社と貴布神社がある。脚摩乳と手摩乳はクシイナダヒメノミコト(国津神)の両親である。後方の森は佐久佐女の森で、夫婦杉、鏡の池、結婚式場などがある。 大鳥居、随神門の向こうに拝殿がある。雨の中を若い女子が大勢で参拝に訪れている。”縁結びの大神”というからだろう。”天津神(スサノオ)と国津神(イナダヒメ)の結婚を両親が正式に認めた”という謂れが受けるようである。神魂神社より人気がある。
祭神は、スサノオノミコトとイナダヒメノミコトほかに青幡佐久佐彦命(先祖神)と大国主命を合祀する。 ご本殿。 千木は切り口が水平の女千木である。内部は、神魂同様に女造か出雲大社のように男造かは分らない。
重文・壁画(巨勢金岡筆とされ、スサノオ、イナダヒメと天照大神、市杵嶋姫命、脚摩乳命、手摩乳命の六神像を描く)を収める宝物収蔵庫。 鏡の池には、若い娘たちが詰めかけ、紙片に硬貨を乗せ、「早く沈めば良縁早い」と占っている。

出雲国分寺跡・天平古道・出雲国庁跡  13:20~13:40
出雲国分寺跡 天平古道は国庁方向にまっすぐ延びる。
この辺り一帯が出雲国府跡 国庁を仕切る大溝
出雲国庁跡

姿を見せた神名備野(茶臼山)

                     
佐太神社  14:30~15:45  
『出雲国風土記』では、秋鹿郡の「社」の項に「佐太の御子の社」とあり、「山野」の項に「神名火山。郡家(こおりのみやけ)の東北九里四十歩。高さ二百三十丈、周り一十四里。所謂佐太大神の社は、即ち彼の山下之。」とある。ここでいう神名火山は朝日山のことでる。

八雲立つ風土記の丘から、松江城をかすめて地方道を北に向う。

旧暦10月は神無月である。出雲では全国の神が集うので、神在月という。神々が集う場所は、古くは漠然と出雲であったが、戦国・室町時代から特定の社とされ、佐太神社とか出雲大社とされた。そして、神魂神社などを巡幸するとされる。この期間は、出雲地方では幟も立てず、神楽もあげぬ厳粛な「物忌み」が行われる。

佐太神社参拝の後、境内にある鹿島歴史民俗資料棺を見る。「海の記憶」と題して、縄文時代の佐太講武貝塚(近くにある)の出土品(朝鮮半島の影響が著しい)、弥生時代の古砂砂丘遺跡、南講武遺跡、稗田遺跡の船の遺物、奥才古墳群の出土品などが展示されていた。

正面から見た佐太神社。三殿並立の大社造り(重文)で、祭神は、正中殿に佐太大神、イザナギノミコト、イザナミノミコト、速玉之男命、事解男命、北殿に天照大神、ニニギノミコト、南殿にスサノオノミコト、秘説四座の神々。佐太大神は、大穴持命(天の下所造らしし大神)、熊野大神、野城大神とともに出雲の四大大神とされ、地方神の神格が強い。
左に手水舎、随神門の向こうに南殿が神門を経て見える。 北(右)側から見た北殿、南殿の屋根、南殿の千木を見る。いずれも男千木(おちぎ)である。

前へ このページ先頭へ 次へ