古代出雲の旅 1/4(島根県)

はじめに   出雲大社・日御碕神社
荒神谷遺跡
  須佐神社・西谷古墳群
加茂岩倉遺跡・須我神社
  熊野大社・風土記の丘
神魂神社・佐太神社
  古代出雲王陵の丘
妻木晩田遺跡・大山寺

出雲市→出雲大社日御碕神社→出雲文化伝承舘→荒神谷史跡公園→湖陵温泉

2006年7月14日(第一日)

出雲周辺の神社、古代遺跡・古墳を巡る旅の第一日。出雲市駅前のビジネスホテルから、一迫電鉄の軌道越に「出雲の神名火・仏経山」の朝明けを見る。この日は猛暑であった。


出雲大社 8:30〜10:15
『出雲国風土記』には、出雲郡・寺社の項に”杵築(きづき)の大社”、『延喜式』に”杵築大社”とある。
『古事記』では、オオナムチが天つ神の御子(天皇)の宮殿と同じ規模にするように要求し、『日本書紀』では、タカミムスビがオオナムチに「汝の天の日隅宮は、長いタク縄を幾重にも結んで作り、柱を高く、板を広く厚くせよ」と命じて造らせたという。
『出雲国風土記』では、出雲の祖神カミムスビの命令で、天上の宮殿の規模になぞらえて杵築宮を造営し(楯縫郡の条)、この造営奉仕のため多くの神々が参集した(出雲郡の条)と記す。

勢溜の木製の鳥居は出雲大社駅から歩いて小高い丘の上にある。大駐車場は、参道の左神苑奥にある。往時は勢溜の広場が出雲詣の人で賑わった所。

神苑の中を松並木の参道が緩い下りで延びる。

藩主毛利綱広寄進の銅鳥居を囲んで荒垣。
御本殿の御神坐の祭神は、大国主大神(オオナムチ、オオモノヌシ、所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)など多数の異名がある)である。ご本殿の中心の柱が心御柱(しんのみはしら)であり、右手前の御扉から入って心御柱を右回りに一段上の御客坐から御上坐に至る。心御柱の南北の二柱が宇豆柱(うづはしら)で棟持柱である。御客坐には所謂造化三神である天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神と宇麻志阿斯訶備比遅神、天之常立命の五座が祀られている。

玉垣外にオオクニヌシ由縁の女神が祀られている。御向社はスセリヒメノミコトを祀る。スセリヒメは「出雲国風土記」の神門郡滑狭郷で「スサノオノミコトの御子、ワカスセリヒメノミコト座しき。爾の時、所造天下大神大穴持命、娶ひて通ひ座しし時・・・」とあり、大国主命の正妻とする。天前社はキサガイメとウムガイメ(オオナムチの蘇生神)を祀る。筑紫社はタギリヒメノミコトを祀る。タギリヒメノミコトは美人の誉れ高い宗像三女神の一(沖つ島に鎮座)で、その子がアジスキタカヒコネノカミ(奈良・高鴨神社に鎮座)とシタテルヒメ(天若日子の妻)である。以上が瑞垣内にあり、一般参詣人は瑞垣外から礼拝する。

御本殿の真後ろで瑞垣外に、素鵞社があり、大国主命の親神とされるスサノオノミコトを祀る。氏社は国造家の祖・天穂日命(アメノホヒノミコト)と宮向宿禰命を祀る。釜社の祭神は宇迦之魂神であり、十九社は、神在月に集う八百万神の御旅所・遥拝所である。彰古舘の一階は大国さま彫物のオンパレードで、階上に神・仏像、絵画が展示される。神祐殿の二階が宝物舘で、国宝の蒔絵手箱、後醍醐天皇の直書、境外摂社から出土した銅戈、勾玉などが展示されている。
昭和34年竣功の拝殿と横一の大注連縄 二拝四拍手一拝
八足門  拝殿の間の石敷に、古の巨大神殿の柱跡が示されている。 瑞垣内で朝の神事を終えた神官が出てきて一礼。八足門の右側に東廻廊と観祭楼がつづく。
八足門から楼門を覗く。彫刻は左甚五郎作の流水文と瑞獣の美しいもの。 楼門は見事だ。これらの建造物は、寛文7年(1667)の造営。
東瑞垣外から御本殿(国宝)とそれにとりつく引橋を見る。現在の御本殿は、延享元年(1744)の造替で、高さは千木の先端まで八丈(24m)であるが、奈良時代には2倍の高さがあり、引橋は109mに達した。太古には、さらに2倍(32丈)の高さであったという。 西瑞垣から本殿の神坐に向って遥拝出来るようになっている。神座は西を向いている。御本殿の大社造りは、神の住居をそのまま神殿としたもので、伊勢神宮などの神明造りが御神体の鏡を奉安する神殿として造られたのと趣を異とする。
彰古舘 素鵞社は大国主命の親神とされるスサノオノミコトを祀る。
平成12年(2000)に、拝殿と八足門の間の地で、古の出雲大社を構成した宇豆柱(棟持柱)や岩根御柱(心御柱)が発掘された。これらは三本の杉柱をひとからめにして直径3mの巨大柱とした。心御柱と宇豆柱2本と6本の御柱の9本の柱で本殿が構成された。巨大柱は、巨大高層神殿が実在した証拠とされる。 荒垣外の神楽殿では、国造家古伝の祈祷・結婚式・団体神楽などが行われる。

駐車場脇の店で、出雲三段そばを食って出雲大社を去る。

「稲佐(いなさ)の浜」を通って、日御埼へ。現代の稲佐の浜は海水浴場。
「古事記」では、高天原の三番目の使いであるタケミカズチがアメノトリフネ(日本書紀ではフツヌシ)を伴い、剣を波の上に逆に立て、その上にあぐらをかき、オオクニヌシ(オオナムチ)に国譲りを迫った舞台である。

                   日御碕神社と日御埼灯台  11:10〜12:50
日御碕神社は、「出雲国風土記」出雲郡の寺・社の項に、”美佐伎の社”とあり、『延喜式』に”御碕神社”とある。オオナムチのミサキ神(神使、部下)としての神を祀ったという考えもある。海人系の社で、龍蛇神との関係を示唆する。現在の祭神は、上の宮にスサノオ、下の宮にアマテラスを祀る。
日御碕神社へは岬への直前で右に入り港に出る。出雲大社から9km、バスも通じている。日御崎港からグラスボートで水深20m透明な海中公園を見学できる。 神門内の右手から上の宮へ登る道(神の道)がある。コンパクトで綺麗な神社である。出雲国風土記での美佐岐社である。
権現造りで朱色が映える。下の宮は天照大神を祀る。 崖上の上の宮はスサノオを祀る。白装束・ホラ貝を吹く本格的な親子三人連れを見かける。

岬には国民宿舎や民宿があり、海産物を売るお土産屋がひしめく。灯台までは気分の良い遊歩道がつづく。
広い海原、灯台、夕陽、ウミネコ、潮風と絶景地だ。

出雲国風土記には、「御前の浜。広さ一百二十歩。百姓の家有り。」とあり、御前の浜とは日御碕神社の前の浜で、日御碕自体は出てこないが、「鮑は出雲の郡尤も優れり。所捕る者は、所謂御崎の海子、是也。」とある。
鮑は古代より、貢上品・神饌として珍重され、この辺りが海人の一大居住地であったと考えられる。(萩原千鶴「出雲国風土記」参照)

白亜の日御崎灯台は地上43mの現役の灯台で、最頂部まで¥300で登らせてくれる。眼下に絶景が広がる。
日御埼灯台上より西方を見る。夕陽が綺麗なことで有名である。眼下の経島(ふみしま)は、ウミネコの飛来地・繁殖地としては最西南方の地である。渡り鳥であるウミネコは、毎年1月に飛来し、4月始めに産卵し、6月頃に産まれた雛鳥とともに飛び去る。 日御崎灯台より東北を見る。絶壁と島々が点在する。右奥が宇竜港で、中世以来、対外(朝鮮)貿易や日本海航路の主要な通商港であった。
日御碕は、『出雲国風土記』意宇郡・郡総記に述べられるところによると、オミズヌ(八束水臣津野命)が国引きして島根半島を造る際に、一番初めに引張って出来た岬である。加志(杭)を佐比売山(三瓶山)として、綱を薗の長浜(神門郡北部海岸の長い砂丘)とした。出雲の開闢神話(国引き神話)である。

出雲大社と出雲駅の間に”出雲文化伝承舘”がある。旧江角邸の出雲屋敷、庭園が見られる。常設展示室では出雲平野の変遷が学べる。

出雲市から国道9号線を宍道方面に進み、一休みした後、標識に従い荒神谷遺跡に向う。9号線から「出雲ロマン街道」と称する農道に入る寸前に仏経山を目の前にする。仏経山を囲む荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、西谷古墳群が今回の旅のメインテーマだ。
荒神谷遺跡では、昭和59年(1984)に358本の銅剣と昭和60年に銅鐸6ケと銅矛16本が出土・発掘された。

荒神谷遺跡(こうじんだに)  14:50〜16:50
荒神谷史跡公園は、荒神谷遺跡を中心にして平成7年(1995)に「出雲の原郷」の歴史的景観を守るために整備された。遺跡面積が1.3ha、公園全体の広さは27.5haである。公園としては古代復元住居、バーベキューサイト、ちびっこ公園などがあり、市民の憩いの場を提供している。

荒神谷博物館は、遺跡をテーマとして平成17年(去年)10月開館した。大型スクリーンや国宝・重文の展示可能な機能を備えた立派なもの。今回の旅は、7/12~8/27開催の「2006年特別展ー青銅器の谷に国宝銅鐸が集うー荒神谷銅鐸のなかまたち」を狙ってのもの。鰭(ひれ)に刻み目を持つ桜ヶ丘遺跡出土の銅鐸(神戸市立博物館)や荒神谷銅鐸に兄弟銅鐸がある梅ケ畑銅鐸(京都文化博物舘)と加茂岩倉遺跡出土の実物などが一堂に会した。銅鐸の年代、紋様、使用目的などが分り易く展示されていた。

当地でなくては入手困難な博物館のガイドブックがたやすく購入出来るのも嬉しい。「遺跡の場所を探すのが苦労だ」と話すと、「古代出雲王国の里ルートマップ」(出雲市・加茂町・斐川町の推進協議会発行)というパンフレットその他を戴いた。翌日からの行動が楽になった。
博物舘から5千株を越える古代ハス池の周囲を200m余り歩くと遺跡の谷奥に到達する。 標高22mの斜面の中腹に青銅器が埋まっていた。この斜面の上からは神名火・仏経山が望める。
出土時の模様が再現されている。
昭和59年まず表土下50cmより銅剣4列、358本が出土した。それまでの銅剣出土の全国総数が約300本であったので反響は大きかった。銅剣は弥生中期の中細形で、出雲で作られた可能性が高いという。銅剣の成分比は、銅85%、鈴10%、鉛5%程度で、表面に水銀朱が塗られたものもある。保存修理には、埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の場合と同様に、元興寺文化財研究所に持ち込まれた。
電磁波反射法、浅部電磁法探索装置、金属探知機などの調査により、昭和60年に銅剣出土地点の7m右に銅鐸6ケと銅矛16本が一緒に埋められていることをみつけた。これまでに銅鐸と銅矛が同時に出土する例はなかった。周囲には柱穴5個もみつかった。5号銅鐸は国内最古(弥生前・中期)のもので、銅矛は弥生中・後期の中細形が2種、中広形が1種で、同じ鋳型から製作された同笵の可能性がある銅矛もある。
銅剣、銅鐸・銅矛は、丘陵斜面に切込みをつけ平坦にして埋納されていた。これらは、弥生時代の稲作農耕祭祀に用い、銅剣などの武器的祭器は悪霊を追い払い、銅鐸は神を招くものという。埋納の理由としては、祭祀説、保管説、隠匿説、廃棄説、境界埋納説などがある。 古代農耕地では赤米がとれ体験農耕が催される。農耕地の奥から、一段高い所を農道が通る。農道に登り、奥の「荒神さん広場」に行く。
農道(出雲ロマン街道)から農耕地を見下ろす。その向こうに荒神谷博物舘が見える。この辺りは、斐川町神庭西谷(ひかわちょうかんばさいだに)という。 荒神さん広場にはホソーされた農道を横切る。この農道を遺跡内に予定して調査した結果、青銅器の発見があった。南西の方向に仏経山が見える。
広場の一隅に、土地の人々が大切にしていた「荒神さん」の鳥居がある。荒神谷の地名の由来である。 石段を登ると、立派な三つの岩の三宝荒神がある。磐坐信仰が根強い。
史跡公園内には、水生植物池(西谷池)もあり、神庭荒神谷の豊かさを感じさせる。

第一日はここで切り上げて、出雲ロマン街道を神西湖(じんぜいこ)の湖陵温泉宿に向った。仏経山の登山口を通過し、いたる所に古墳を見かけながら・・・。

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