三輪山 纒向遺跡 (奈良県・桜井市)
    みわやま まきむくいせき
   
10月8日、JR「まきむく」駅を基点に、狭井神社(さいじんじゃ)から三輪山に登り、下山後、桜井市立埋蔵文化財センターで、平成19年度秋季特別展「ヤマト王権はいかにして始まったか」を観て、その後、纒向遺跡の中心部を歩いた。
以前に歩いた三輪山西山麓の古墳群を補間する。

神山・三輪山に入山し、頂上の奥津磐座(おくついわくら)を実見すること、埋蔵文化財センターに展示されている弥生時代の木製仮面を観ること、纏向遺跡の中心部を歩くことを目的とする。

ひきつづき、唐古・鍵遺跡でのシンポジウムと企画展に参加することになる 
古墳時代の纒向遺跡は、3世紀初頭(庄内0式期)の桃色線内より始まり、3世紀後半(布留0式期)に最盛期の黄緑線まで拡がり、4世紀前半(布留1式期)まで存続した。(埋蔵文化財センター展示目録より)

三輪山へ
三輪山を正面に見る。まきむく駅から緩い上りで三輪山に近づく。今回の主題である纒向地区の東方・山辺の道の桜井側に相当する。纒向が衰退した後に、山辺の道近辺に多くの巨大古墳が出現した。 狭井神社の鳥居をくぐる。まきむく駅から東進して山辺の道に入り、笠縫邑(かさぬいのむら)伝承地である桧原神社を通り抜け、1時間ほど歩いて到着する。
社務所で入山受付をする。住所氏名を届け、御祓いを受けて、鈴つきの礼拝登山のタスキを拝借し入山することになる。入山料¥300を納める。拝殿の左裏に神明水が湧き出ていて、自由にいただけるようになっている。 入山心得をよく読む。神山(おやま)内は撮影禁止である。禁足地の中の整備された山道を登る。途中に禊所があり、そのあと急坂がつづく。中間に大きな岩が散在している所があり縄で囲ってある。中津磐座(なかついわくら)の一部であろう。登り1時間程度である
頂上には高峯神社(こうのみねじんじゃ)があり祭神は日向御子神(ひむかいのみこがみ)とされている。その裏手100mに奥津磐座(おくついわくら)がある。注連縄がかけられた巨石が2体あり、横に周ってみると、巨石を中心に自然石が約10m四方の中で取囲んで、磐境(いわさか)を形成している。自然な配石か手が入れられているのかは分からない。古来、大物主神(オオモノヌシノカミ)の坐す所とされ、三輪山祭祀が定型化したのは5世紀後半と言われている。
磐座に面して拝所があり、若い男女が長い時間手を合わせていた
下山して、大神神社(おおみわじんじゃ)に向かう途中に、磐座神社があり、少彦名神(スクナヒコナノカミ)を祭神とする。御神体として頭大の小さな石が置かれている。スクナヒコナが小人神なので、山麓に広がる辺津磐座(へついわくら)の石として祭ったのであろう。奥津磐座に大物主神、中津磐座に大己貴(オオアナムチ)神、辺津磐座に少彦名神が鎮座していて、出雲の諸伝承との絡みが強い
ここで見た磐座のほかに、飛鳥奈良地方には、亀石・猿石などの飛鳥の石造群、酒船石、益田岩船など石に関する遺物が多い。とくに、三輪山の磐座は、縄文時代の関東・東北で多く見受けられる配石遺構と対比して興味深い
大神神社から参道を下り、大鳥居をくぐる。三輪の交差点北西側に桜井市立埋蔵文化センターがある


桜井市立埋蔵文化財センター
平成19年度秋季特別展「ヤマト王権はいかにして始まったか〜王権成立の地 纒向〜」が催されていた。
弥生時代前期から後期までの纒向地区の集落はそう大きくはなかったが、、一度後期に集落が縮小した後に古墳出現期(3世紀前半)から突如として大集落が形成し始め、古墳時代前期(3世紀後半)に最盛期を迎える。
古墳時代に入ってからの纒向遺跡の集落規模が極めて大きいこと、この時期に纒向の前方後円墳を典型として古墳の規格化がなされていること、農業集落でなく祭祀・都市型集落であること、他地域から持ち込まれた土器が非常に多いことなどから王権成立の地として注目している。4世紀前半になると、箸墓古墳を最後として纒向地区の集落構成内容も変わり、古墳築造はヤマトの他地域に移っていく。
特別展示では、この変遷を纒向遺跡出土品から分かり易く展示・説明していて、さすがに古都の埋蔵文化財センターの手馴れた展示だと感心した。常設展示も面白い

古墳時代・出現期の形象埴輪である鶏形、冠帽形が坂田地区で出土した。形象埴輪の起源・展開に重要な資料となる
平成19年度の発掘調査では、祭祀遺物が出土する土坑から木製仮面が出土した。長さ26cm、幅21.5cmで、アカガシ製の広鍬を転用して作られ、口は鍬の柄孔であるが、目、鼻は新しく刻み、眉毛は線刻されわずかに赤色塗料が残る。同時に出土した土器の編年から3世紀末のものとされる。 弥生時代の木製仮面として最古のものであり、手で持って顔につけたものと見られている。
北東北を旅した時に、縄文時代の鼻曲り土面(蒔前遺跡出土)を見た。こちらは紐の通し穴があり、顔にくくりつけて使用したものと解せられている。顔の造り・神秘性では、縄文文化の遺品の方が完成度は上のようだ。

纒向遺跡に近く・・・
国道169号線を歩く。箸中付近。 二上山に夕日が落ちる。
箸墓古墳の西側を歩く。箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫大市墓として宮内庁の陵墓となっている。(全長280m、後円部径160m、前方部幅140m)で、纒向遺跡の中心部の出現期古墳よりやや遅れての築造で、邪馬台国・卑弥呼の墓とする説もある。 三輪山と箸墓古墳
 
 纒向遺跡はJR西日本・桜井線「巻向駅」の周辺に広がり、駅近傍・北西に住居跡がみつけられている。駅西方0.5〜1.0kmに出現期古墳がまとまって築かれている。
                纒向遺跡の出現期古墳 
纒向小学校を囲んで、東に纒向石塚古墳、北西に勝山古墳、西に矢塚古墳がある。いずれも、出現期の古墳で、3世紀
後半の築造である。出現期古墳としては、ほかに東田大塚古墳(後出)、ホケノ山古墳(箸墓古墳の東側にある)があり、全長:後円部径:前方部長=3:2:1を原則とする。上総(千葉県市原市)の神門5号墳がこの仲間であることは驚きだ。
纒向石塚古墳
(全長93m、後円部径62m、前方部幅45m)。最古の前方後円墳とされる。
墳形は素人目には定かでない。説明板によると、左部分(平らに見える)に墳丘があったようだ。
勝山古墳
(全長100m、後円部径60m、前方部幅20m)
纒向小学校と勝山古墳の周濠の間に三輪山が見える。一連の古墳には全て周濠があったようだ。
矢塚古墳
(全長96m、後円部径64m、前方部幅40m)
東田大塚古墳(全長96m、後円部径64m、前方部幅30m)。箸墓古墳の端部が東田大塚古墳の左端に重なって見えている。夕闇の三輪山を再度拝しながら、まきむく駅に向かう。