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春夏秋冬 総目次

 春夏秋冬 (7)

11/06/18 秋神温泉 (高山市)

秋神温泉の正面。 秋神川沿いの客室・風呂場
湧水と樹々の自然庭園。 
栗の大木(高山市指定文化財)

高山から、美女平を越えて、国道361を南下し、秋神ダムで右折する。秋神川に沿い、途中、朝日町西洞で鈴蘭高原への道を別け直進し、民家が途絶え左右の山が迫ってくると、一軒宿の秋神温泉に到着する。

標高1026m、御嶽山の北東麓に秋神温泉がある。

旅館左側の小さなゲートから入ると、秋神川に沿って原生林を切開いた庭園がある。湧水が流れ、ミズナラ、クリ、オオモミジ、イタヤカエデなどに囲まれた癒しの空間である。秋神川を見渡す温泉は、鉄分を含み茶色に濁り、御嶽山のマグマの隙間より流れ出した鉱泉を沸かしたものである。露天風呂の流行る昨今であるが、自然と一体となるプラベート空間がここにもある。冬には、宿周辺に氷柱が造られ、ライトアップされるようだ。

宿のご主人は、山を知り尽くした多才な方のようで、宿の中に「山村の資料館」がある。朝日町西洞地区をはじめ近隣の遺跡から収集した先史時代の多数の遺物が収められている。旧石器・縄文草創期の遺跡が、秋神川沿いに点在していると話して下さった。色々な文形をした押型文土器片、ナイフ形石器、尖頭器などの他に、完成度の異なる打製石斧、縄文中期の土器片、はるばる和田峠から運ばれた黒曜石のブロックなど、縄文の居住地がこの山間にあったことを示している。

翌日、岳見峠から濁河温泉・仙人滝へ、さらに日和田へ抜けた。昭和50年代の飛騨御嶽周辺は、飛騨小坂と濁河温泉を結ぶ千尋の谷を見下ろす電源開発道路、くねくね曲がった狭路、ガレ場の林道やフラットな林道が混在していて、日本アルペンラリーの舞台ともなり、山岳ドライブの醍醐味があった。現在の濁河温泉と日和田間は、昔の林道にほぼ沿ってはいるものの、二車線の立派なホソー観光道路となっている。日和田周辺もすっかり開拓されて、高地トレーニング場などの施設などもある。昔のラリーでは、御嶽の川渡りとして難所だった所も今は見つけられない。


 11/05/19 しののめの道 (松本市)

松本平の東端は、美ヶ原・鉢伏山・高ボッチ山で遮られている。山麓の県道63号線は信州・しののめ(東雲)の道と名付けられ、沿道には多くの縄文・弥生遺跡、幾つかの古墳群、奈良・平安時代の遺跡・寺社など先史・古代の里がつづく。

南端の塩尻では、国道20号(甲州街道)と国道153号(三州街道)と国道19号(中山道)が合流する。国道19号は、上高地を水源とする梓川に沿って東進してきた国道158号(野麦街道)と合流し北上し、長野市に至る。梓川は千曲川と名を変え併行する。

すなわち、松本市(松本平)は、東は山梨・武蔵と、南は伊那谷・美濃と西は飛騨と往還し、北は長野市(善光寺平)につながる。長野市からは、日本海沿岸(越後)と関東北部(群馬・栃木)と結びつく。

牛伏寺(ごふくじ)山門   (mouse-over)
境内(池を挟んで如意輪堂、右上に仁王門)
(仁王門の内側に、観音堂・弁天堂・聖徳太子殿などを配す)

牛伏寺(ごふくじ)は、鉢伏山の中腹、海抜1000mにある真言宗の古刹である。

天平勝宝7年(756)に、善光寺へ大般若経600巻を運ぶ牛二頭がこの地で斃れ、この赤黒二頭の牛の霊を祀ったことを縁起としている。
山号を金峯山と称し、鎌倉時代以降は山岳修行の場であり、庶民にとっては厄除け観音のお寺として栄えた。江戸時代に二度の大火に遭い、現在の堂宇はそれ以降に再建されたものであるが、山の静けさと飾り気のない堂宇が一体となり清々しい。本尊は、本堂(観音堂)の秘仏・十一面観音(木造)で、33年に一度御開帳される。

鉢伏山は古来から信仰の山であった。西麓に位置する縄文後晩期のエリ穴遺跡には祭祀場が見つけられ、縄文人は鉢伏山の頂近くに昇る太陽を拝し、その日の安全と収穫を願ったものと想像される。


   

弘法山古墳を東下から見る。古墳は丘陵上に築かれた。
中央の立木列の辺りが後方部で、その右に、前方部前面の傾斜が見える
前方部前面から北側を見る。(上の写真を撮った地点がほぼ中央)
右の白い建物が開成中学(棺護山)
松本平の西を遮る北アルプスの山々が美しい。
(左に上高地の山、中央に常念岳・大天井岳

古墳時代になって、信州(長野県)に初めての大古墳(墳丘長66m)が松本平に現われた。3世紀中ー末頃の弘法山古墳である。美濃の矢道高塚古墳、ヤマトのホケノ山古墳などと同時期の出現期初期の前方後方墳である。松本市立考古博物館に、後方部の礫槨からの出土品が展示されている。半三角縁四獣文鏡、ガラス小玉のほか、美濃との関連が深いパレス型壺や手焙型土器などが見られる。

中山にある考古館の歴史は古い。遺物が多く出土することから、土地の人々の考古学への関心が深く、遺物収集の溜り場だった中山小学校での展示を濫觴として、昭和6年(1931)には中山考古館が開館した。昭和61年に市内各地での遺跡発掘調査での収蔵庫・展示の拠点として松本市立考古博物館として再開館した。縄文から奈良・平安までの遺物が要領よく展示されている。郊外にあり交通の便が良いとは言えないが、遺跡歩きの中心にあり、古代を偲ぶには好位置にある。

弘法山古墳と谷一つ挟んだ棺護山(かごやま)には、中山36号墳(消滅)が築かれた。弘法山と同系統の銅鏡が出土し、出土した土器形式より、弘法山に埋葬された首長の後継者の墓と考えられている。
その後の信濃の首長墓は松本平では見られず、4世紀半ばになって、善光寺平に森将軍塚古墳や川柳将軍塚古墳が築造されるようになる。

しののめの道周辺には首長墓とは言えないまでも、多くの古墳が築かれている。里山辺には5世紀後半に築かれた径20mの円墳・針塚古墳がある。積石塚であることを特徴とし、石室内から内行花文鏡や刀子・ガラス小玉が出土した。同じく5世紀後半の円墳・桜ヶ丘古墳からは、短甲・衝角付冑、鉄剣などとともに金属製の天冠が出土している。伽耶・百済の文化が信濃にも顕著になる。棺護山、中山霊園、向原・坪ノ内や山麓尾根上にも、中小の古墳が点在する。いずれも5-7世紀のもので、馬具の出土が目立ち、古屋敷近辺に牧の存在が推定されていることと関連づけられる。

信濃の5世紀以降は、南信・中信・北信に亘って馬の飼育、牧の形成につながっている。南信・伊那地方には馬の埋葬墓も見つけられており、北信・松代の大室古墳群はその特異な墳墓形式(積石塚や合掌形石室)から、馬の飼育に関わった渡来人の群集墓と考えられている。

崖の湯近くに知人が居たので、30年前から高ボッチへ、入山辺へと林道を分け入った想い出が甦る。当時は、眼下に広がる松本平とその背後にそそり立つ北アルプスの長閑な景観を楽しむだけだったが、古代に想いを馳せると、また別の風景を見る思いがする。松本平は、八ヶ岳南山麓に広がる縄文の世界と美濃・尾張から押し寄せた弥生の世界との接点にもなっている。




3.11以来、被災地の惨状、近代文明の”おごり”と”もろさ”に心を傷つけられている人々は多い。
日本の各地域で育んできた”小さな日本の風景”に接して、日本人の心の原点を振り返ることも必要であろう。



山梨県・釈迦堂の桃の花(2011.4.3)

 11/04/05 東日本大震災

春が近づき、翌日から東北南部を旅しようとしていた金曜日の午後(3月11日)、突然に、大きな長い揺れが来た。窓外から見える幼稚園のポールは、メトロノームのように、左右に揺れていた。東京の西端の町田市は震度5弱。すぐ停電になった。

午後10時に灯りが戻ると、見たこともない大惨状が、テレビで続々と報道されていた。東北太平洋沿岸沖、青森県・八戸から茨木県・いわき沖までのプレートが、一斉に動いたらしい。超巨大津波により、美しい三陸の港町が全て壊滅状態になっていることが伝えられた。

私がここ数年間に訪れた東北の地が壊されていた。
福島県では、双葉町周辺の装飾古墳、南相馬市の4世紀後半の首長墓・桜井古墳などを訪ねた。海岸線の美しさ、相馬野馬追いや鎧工房など、内陸では見られない風景があった。国道45号線を走っていると、立派な福島原発に出くわした。その原発問題の処理が収まらず、地震・津波の初期の被害も未だ判然としていない。近隣の被災者は、ろくろく遺体の収容も行方不明者の捜査も出来ずに、避難民として、転々と移り住まわされている。

東北道仙台南から海岸地帯の名取市・多賀城市へは、仙台南・東部道路で、美しい田園地帯を抜けていたが、一瞬の中に泥沼となった。名取市は、信心深い老女が奥州33観音を発願した地である。古代には、観音塚古墳、雷神山古墳などに眠るヤマトを支えた首長が活躍した。多賀城市は、古代エミシとの接点としての多賀城が築かれた地である。JR国府多賀城駅前に、平成11年にオープンした東北歴史博物館がある。塩釜・七ケ浜町の大木囲貝塚は、東北の縄文前期~中期の標識遺跡である。石巻の町は、北上川河口にあり、広大な港には外国航路の船が出入りし、新鮮な魚と酒が街中にあふれていた。奈良・平安初期には、多賀城の出城である雄勝城・桃生城が築かれた。

三つの港町、気仙沼・陸前高田・大船渡には、奥州33観音の札所がある。
気仙沼は、多くの漁船が集結し活発な漁港であった。札所・補陀寺はJR気仙沼駅の北の高台にあり、難を逃れたかも知れないが、港は目と鼻の先にあった。海に接した岸壁には、魚加工工場がひしめき合っていたが、一瞬にして流されたようだ。
陸前高田の高田松原は、7万本といわれる松林がつづく白砂海岸である。道の駅「高田松原」には、土地の物産販売所、地域の観光案内所があり、野外ステージ、イベント広場が賑わっていた。土地のお祭り・「けんか七夕」で使う山車が、施設の一角に展示されていた。訪れた普門寺は、格調高い曹洞宗の禅寺だった。市街北の丘陵部に、古寺らしい佇まいをみせていた。
大船渡の札所・大善院の観音堂は海辺にあり、もろに津波を被ったものと思われる。道を間違えて、尾崎岬の頂上にあるフレアイランドまで登り、土地の人々に道を尋ね、土地の話を聞いた想い出がよみがえる。山頂から見る大船渡湾は、この上もない美しいものだった。気仙杉やあすなろなど良材に恵まれ、船大工が活躍した地でもある。江戸時代の大船渡の長者が、四代にわたって整えた百体の観音像(中善観音)が、内陸・奥州市のえさし郷土文化館で煌びやかに飾られている。

震災・津波から3週間が過ぎた。あまりにも多大な被害と広域性に呆然としているが、日本中の人々、世界中の人々が間髪を入れずに支援に動く姿は素晴らしく、有難い。神戸大震災、中越大震災、今回の東日本大震災、それ以後も、東北関東はまだまだ揺れ動いている。「天災は忘れた頃にやってくる」という時代でなく、明日は我が身のようである。先ずは、福島原発の未解決問題を安定路線に戻し、日本中で息の長い復興援助をしながら、我が身の災害対策を見直す必要がある。そして、便利さと経済性の損得勘定では、人類を滅ぼすことになる科学技術への妄信について、じっくり考える機会でもある。

日本列島で人間が定住生活を始めたのは、13,000年前に遡る。いわゆる縄文時代の始まりである。5,500年ほど前の縄文中期には、三内丸山遺跡とその周辺などで、共同生活・共立体制を示す集落が見られる。2500年ほど前からの輸入文化(弥生文化とそれにつづく文化)に目を奪われがちだが、日本列島の基盤にはそれまでの長い歴史がある。北の縄文文化を世界遺産登録する運動が、東北三県(青森・岩手・秋田)と北海道南部で推進されている。東北新幹線が青森まで開通し、東北文化への理解がこれまで以上に進む時期であった。復興に当っては、現在の被災者の安定な生活への支援が第一であるが、日本の原点を秘める東北の文化を損なわない配慮が必要となろう。


 11/01/11 日向薬師 (神奈川県)

平成の大修理に入る宝城坊・日向薬師(伊勢原市)の本堂
墨田区に建設中の「東京スカイタワー」を、町田市・七面山から望む
(200mmズーム、2011.01.08、16:52)

各地で大雪が降る中で、東京のお正月は快晴の日々がつづいた。神奈川県伊勢原市にある日向薬師(ひなたやくし)とは、奈良時代初頭に僧行基開山と伝えられる「日向山 霊山寺」のことである。丹沢大山の東山麓に位置し、役行者(えんのぎょうじゃ)開山の伝説もある。開創時より元正天皇による勅願寺として天皇家による帰依が深く、梵鐘の寄進や勅額の下賜、堂宇の改修が行なわれた。鎌倉時代には、源頼朝・政子の度重なる参詣を受けている。

しかしながら現在見る日向薬師は、格式ばった姿よりは、平安末期に始った修験道の世界の自然観と素朴さを漂わせている。麓のバス停附近の元修験坊であった民家から30数段の石段を登り朱の山門を過ぎると、岩肌を削った参詣道と自然林の中を歩く。最後の急な石段の先に茅葺の瀟洒な本堂が現れる。この本堂は宝城坊の名を持ち、かつては日向の多くの修験坊を取仕切る別当坊であった。

日向薬師の本尊は、鉈彫りの秘仏・薬師三尊である。昭和40年頃までは本堂内に安置されていたが、現在は本堂脇に建つ宝物殿に四天王像、十二神将像などともに安置されている。秘仏は室町期の彩色豊かな宮殿風厨子の中にあり、正月三ケ日、初薬師(1月8日)と大法会(4月15日)に御開扉される。

秘仏の薬師如来像(像高115cm、台座高68cm)と脇侍の日光・月光両菩薩像(像高122cm、台座高27cm)は、平安時代の一木の鉈(ナタ)彫りで、鉈の彫目を残し古くからの巨木信仰の姿を伝えるものである。鉈掘りの仏像は関東・東北地方に多く、弘明寺(横浜市)の十一面観音立像、東北岩手では天台寺(岩手県二戸市)の聖観音立像や奥州市の藤里毘沙門堂の兜跋毘沙門天立像などが傑作とされている。仏の空間と同時に木の霊気を感じさせる仏像である。江戸時代の円空仏も同様な味わいがあるが、こちらは鉈のような山刀で木の中の仏を一気に彫り起したという。

現薬師堂は、室町時代(1380)と江戸時代(1660)に大修理を受け、茅葺屋根の美しい姿を現在に伝えているが、細部には傷みが激しくなり、今年の初薬師(正月8日)をもって7年間に及ぶ平成の大修理に入る。今年の初薬師は、山の霊気溢れる参詣道、茅葺本堂、鉈彫りの薬師三尊が一体となって迎えてくれる大修理直前の参詣日である。日向の人々の奉仕する薬師粥が境内で振舞われ、多くの人で賑わっていた。

4月15日の大法会には、境内の樹齢800年の大杉を中心にした修験道の儀式が行なわれる。
帰り道、相模原公園のグリ-ンタワーからと町田市七面山から新しく建設中の東京スカイタワーを探した。七面山からは約40kmの距離にある。

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