次ページ
春夏秋冬 総目次

春夏秋冬 (6)

 10/11/30 能登半島 (石川県)

私は高校時代に愛読した寺田虎彦随筆集の影響もあり、物理学科に進んだ。物理という趣味で日常の糧が得られると安易な気持ちで、電気メーカーで研究開発に携わり糊口をしのいだが、そう甘い生活ではなかったように思う。著名な随筆集を残した米国のファインマン教授は、物理を志す高校生に、何であろうと達人になれば、好きな事でお金がもらえるようになると言っている。 私は大した達人にはなれなかった。退職後は、もう一つの趣味(日本の古代史)を今度は純粋な趣味として、各地の遺跡を巡り妄想の糧としている。今年の納めとして、福知山(京都府)を出発点として、丹後半島の赤阪今井弥生墳丘墓と丹後の古代王墓の系譜を尋ね、 北陸の著名な縄文遺跡である若狭三方の鳥浜遺跡・奥能登の真淵遺跡・糸魚川の長者ケ原遺跡を旅した。

”なぎさドライブウエイ”
禄剛崎灯台 
(mouse-over) 金剛崎は登り道の途中で見える
狼煙の食堂に飾られた一昔し前の「ランプの宿」風景
湖月館に残したファインマンの直筆(1985.8.21)

能登半島には和倉温泉に行ったことがあるくらいで、見るもの全てが珍しかった。能登有料道路を使えば、金沢から真淵遺跡のある能登町まで2時間余りで行くことができる。今浜から千里浜までの約8kmは、”なぎさドライブウエイ”に寄道して、波打ち際を疾走した。真淵遺跡は、日本海を抱え込む入江に拡がる縄文前期初頭(約6000年前)から晩期終末(約2300年前)まで続いた遺跡で、イルカ漁を物語る大量のイルカの骨、中期中葉(約4500年前)の板敷き土壙墓、晩期(約2800年前)の祭祀遺構とされる巨大環状木柱列など、他に類例を見ない風景が附属の縄文館に展示されている。

海岸沿いに奥能登をドライブした。半島先端の禄剛崎(ろっこうざき)灯台へは、登り口の古い食堂に駐車して登った。急な登り坂の途中、南西方向に金剛崎が見える。その波打ち際に秘湯としてよく紹介される”ランプの宿”がある。土曜日というのに、遊歩道を備えた広い公園には人気は疎らである。こじんまりした白亜の無人灯台が鎮座する。明治16年に灯台が設置されるまでは、狼煙(のろし)を揚げて海上交通を見守ったという。この辺りの地名を狼煙という。

同じ道を下り食堂に入り、田舎そばを頼んだ。老夫婦二人で店をやっている。”ランプの宿”のことをなんとなく尋ねると、奥さんの実家だと言う。店には、一昔前の宿の写真が掛けてあった。大波が押し寄せた時には、家の屋根を飛び越し、娘時代にはどうしてこんな所に住まねばならないのかと嫌でたまらなかったと。先祖代々10何代も住み着いたのは、蛇毒に効く鉱泉が湧き出ていたことによるという。現在では、秘湯・パワースポットとしてよく取上げられ、宿泊客が絶えない。
”ランプの宿”を知ったのは、15年ほど前である。その頃、初老の写真家と知合いになった。彼と一緒に居た女を最初は奥さんだと思っていたが、二人は訳あって、夫婦でないままの永い恋人同士であった。男は癌を患った。各地の風景を撮りつくした写真家は、最後の二人の旅行に”ランプの宿”を選んだ。彼は間もなく亡くなったが、数年後に彼女に会う機会があると、能登の想い出を大切に生きていると言っていた。そんな話を老夫婦にすると、能登への思いを有難がり、この地の今昔をも色々と話してくれた。小芋の入った蕎麦に新鮮な焼海老をのせた田舎そばは大変美味く、帰り際には店の前まで出て見送ってくれた。

輪島でキリコ(切籠)会館に立寄り、富来(とぎ)の湖月館に宿泊した。宿舎選びは、翌日の都合と楽天トラベルの宿泊者の声にファインマンのサイン入り色紙があることを知ったからである。
リチャードPファインマンは、米国の著名な理論物理学者で、1965年に日本の朝永振一郎らとともにノーベル物理学賞を受賞した。湖月館に一週間ほど宿泊したのが1985年8月であるが、3年後の1988年2月に亡くなっている。現在の湖月館は息子夫婦に代を譲っていて、当時お世話した大女将の母親とは翌朝にお会いした。ファインマンの色紙を前に、当時の模様を色々話していただいた。
ファインマン教授は、随筆「ご冗談でしょう、ファイマンさん」でも記しているように、日本に来ると日本の旅館に泊り、日本の習慣・心に触れたいと願っていたようだ。湖月館には、金沢大学の先生の紹介で、昔ながらの町の小さな旅館として滞在を楽しんだようだ。夏の暑い日がつづくと、Gパンをちょん切った半パンにランニング姿で、同行していた奥さんと一緒に、午後4時頃から近くの海岸に泳ぎに行っていたらしい。気さくな方で、片覚えの日本語と手振り身振りで、女将さんと話をしたという。部屋を片付けに行くと、女将さんとの会話用に、日本語で綴った紙切れが散乱していたという。近くの神社の神事に招待されると、びっくりするほどバリッとしたスーツ姿で出かけ、見違えたという。一日、輪島に出かけ、御陣乗太鼓(ごじんじょだいこ)も楽しんだらしい。

色紙二枚と菓子袋に描いた女将さんの似顔絵を見せて貰った。色紙は旅館のもてなしへの感謝を表しているが、ryokan(旅館)とかTogi(富来)の単語が微笑ましい。女将さんの似顔絵も貴重だ。ファインマンの芸術への関心は有名で、幾枚かのデッサンと油絵を残している。ファインマンには、友人の絵描きに量子力学を教える交換条件として、絵描きから芸術のレッスンを受けたという話がある。すっかり話し込んで午前10時頃に宿を出た。若女将と大女将が見送ってくれた。
注:ファインマンの富来での出来事は、「困ります、ファインマンさん」(岩波書店)の”シャベルを持っていきましょうか”の章に書かれている。)

中能登町の眉丈山脈の尾根筋に広がる「雨の宮古墳群」を見学して、氷見から高岡に向った。雨の宮古墳群の1号墳は雷が峰(188m)を後方部とする前方後方墳で、2号墳はその北東50mに位置する前方後円墳であり、いずれも全長約65mを測る中大型古墳で、綺麗に整備されている。4世紀後半から5世紀初期に造られた能登国初期の首長墓と考えられている。


 10/10/20 神戸 (兵庫県)

六甲の山々を背景にした神戸の港
西求女塚古墳(灘区)
処女塚古墳(東灘区) 墳丘は昭和59年に整備されたもの

小学校クラス会が故郷・神戸で催された。この会は、東京と関西で二年に一度、交互に久しく続けられている。戦後の混乱期に育った子供達も今は古稀を過ぎ、それぞれの人生を生き抜いてきた。東京在住の6人、関西在住の10人と米国に住む1人を交え、昼食会と水陸両用車「スプラッシュ」での神戸市街観光をした。
「スプラッシュ」は、第二次世界大戦時のGM社製軍用車両で、日本の運行基準に改良されてハワイから輸入された第1号車である。2007年10月から運行されているが、街行く人々は、その黄色に塗装された厳つい車両を不思議な顔で見ている。ポートタワー下を出発して、異人館の立並ぶ北野町から三ノ宮界隈をゆっくりとドライブして、ハーバーランド近くから水に浸かり、海からの神戸の町と湾内風景を楽しんだ。

当然のことながら、私達の子供の頃と阪神間の風景は大いに異なる。戦後の復興、バブル期、海浜地区の工場移転と整備、さらに平成7年の阪神淡路大震災とその後の復興、と目まぐるしく街の景色は変貌した。しかしながら、六甲山系がすぐ海岸近くまで迫った東西に細長く伸びる神戸近傍の町は、一定の枠内にいつも納まっている。

昼食会の始る前の午前中を利用して、西求女塚古墳(にしもとめづかこふん)と処女塚古墳(おとめづかこふん)を訪れた。西求女塚古墳は、阪神西灘駅の東南100m、処女塚古墳は阪神石屋川駅の西南200mの地にある。阪神住吉駅近くに東求女塚古墳(現在は碑だけが残る)があり、三つの古墳の間隔は約2kmであり、東西の求女塚が中央の処女塚を向いている。これらの古墳の存在は古くから知られていたようで、処女塚を挟んで東西の求女塚が向き合う位置関係から、処女塚に眠る莬原処女(うないおとめ)をめぐる若者二人の恋伝説が万葉の昔から生まれ、歌・謡曲の舞台となった。いずれも古墳時代前期の築造で、処女塚古墳は全長70mの前方後方墳、東西求塚古墳は前方後円墳とされていたが、昭和60年以降の発掘調査で、西求塚古墳は全長98mのこの時期最大級の前方後方墳であることが明らかとなった。

西求女塚古墳は、平成4年の発掘調査で、三角縁神獣鏡7面を含む11面の銅鏡が出土したことで、特に有名である。最近私が訪ねた椿井大塚山古墳(京都府)、佐味田宝塚古墳(奈良県)、豊前石塚山古墳(福岡県)などから出土した三角縁神獣鏡と同笵の鏡が含まれていることは興味深い。三角縁神獣鏡は、”卑弥呼の銅鏡百枚”に相当するか否かは別としても、限られた期間に限られた地域に分配され、その時期に「倭(日本)」という国の礎が築かれたことには間違いないと思われる。
西求塚古墳出土鏡の中には、より古い鏡とされる鏡が含まれている。天神山古墳(奈良県)などに出土例がある獣帯鏡や画像鏡が含まれ、奈良県の桜井茶臼山古墳、天神山古墳、新山古墳などに出土例のある画文帯神獣鏡が出土している。西求女塚古墳は、出土鏡と古墳の性格・年代を推量るに重要な位置を占めている。
その他に、椿井大塚山古墳、豊前石塚山古墳で最初に出土し、黒塚古墳(奈良県)、雪野山古墳(滋賀県)などでも出土した小札革綴冑の残欠鉄片が、西求女塚古墳からも出土している。西求女塚古墳の石室が四国・和歌山の石材で造られ、祭祀土器としては山陰系土器が用いられているのも印象的だ。

処女塚古墳は、国道43号線(西国街道)と阪神高速3号線から北へ一筋入った処女塚交差点の東南角に、前方部を南に向けて端正な姿のままで保存されている。現在は、海を隔ててすぐ南側に六甲ハイランドが造られているが、大阪湾を見渡す海辺に築かれたものである。処女塚からは山陰系土器が出土している。阪神間のこの地域が、この時代の地域交流の要であったことが窺がわれる。


10/09/09 西部ニューギニア (インドネシア)

サルミ上空(西から);手前が降立った空港。海岸線はマッフイン、トム、ワクデ島へと続き、海岸線と内陸(南)側に陣地を設け、戦闘が行なわれた。後方の山並みと海岸線周辺が主戦闘地域となった。
(マウスを写真上):ワクデ島には日本軍滑走路跡が今も残る
サルミの海岸沿に築かれた慰霊碑の前での慰霊・追悼式
(マウスを写真上):慰霊が終り、献花を海に流す。

(財)日本遺族会が実施する「西部ニューギニア慰霊友好親善訪問団」に長兄と二人で参加した。慰霊団の主旨は、さきの大戦により海外での戦没者遺児が旧主要戦域を訪れ、友好親善、慰霊追悼、恒久平和の祈願を行なうことを目的としている。8月28日成田発・9月5日帰国の長旅は、飛行機を乗継いでニューギニア島に至り、4日間の慰霊巡拝を行なった。参加者遺児31名は戦没地により二班に分れ、我々はインドネシア・東イリアン州(西部ニューギニア)の幾つかの戦域を巡った。初めて知った父の最期の足跡・戦場となった地域の写真と慰霊追悼式の様子を記す。

昭和18年2月ガダルカナル島敗戦以後、3月ラバウル(ニューブリテン島)と東部ニューギニア(現パプアニューギニア)の輸送路も遮断され、9月には東部ニューギニア戦線は連合軍の掌中に入る。大本営は西部ニューギニア・ホランジア(現ジャヤプラ)を”撤退せざる前進陣地”とするが、昭和19年3月、連合軍はフンボルト湾に陣取った艦隊からの砲撃と完全に制圧した制空権により、ハマデー海岸への上陸を皮切りに、ホランジア地域を占拠する。ホランジアでの敗残兵は、センタニ湖からゲニムへと、さらにサルミを目指して、密林と丘陵地帯での死の行軍を強いられる。

今回の慰霊団参加に際し、日本遺族会は父の所属した隊の略歴を調査して下さった。物心つく頃には既に兵役にとられ、私にとっては殆ど記憶のない父である。その死の直前の足跡が僅かながらも知る事ができたことには感動した。父が中国よりスマトラ島、ジャワ島を経由して西部ニューギニア・サルミに上陸したのは、昭和19年2月末で、連合軍がホランジア地域への進行を開始しだした時期に相当する。2月~4月は、サルミ、マッフィン附近及びワクデ島での警備、4月~5月は、サルミ、マッフィン附近の対空戦闘、5月~8月は、トム及びマッフィン附近での戦闘、8月以降はサルミ附近の敵侵攻破砕作戦への参加、昭和19年9月2日戦没となっている。小型チャーター飛行機で激戦地を眼下にサルミへ向かった

ニューギニア前線での悲惨さは、もっぱら敗残の戦いであり、補給路の絶たれた飢えと病魔との戦いであり、”大和魂”と”神風”に望みをかけての戦いであったところにある。行軍においては、武器らしき武器も持たず、敵の目に脅え、密林を切開き、湿地のマラリア蚊に犯され、わずかな携帯食料もすぐに絶え、地獄絵を見る思いであったという。

サルミ地区では、ワクデ島、マッフィン、トム、ウオスケへの上陸に応戦した。物量にまかせた艦砲射撃・空爆を受けた日本軍は、大和魂で頑張っても、武器補充はおろか食料補給の輸送路も絶たれ、如何ともできなかった。食料確保は自生に頼っても、食料生産に適さない石灰質の土地である。医療薬品もままならず、栄養失調、マラリア、熱帯潰瘍、アミーバー赤痢、デング熱などで命を落とす者が多かった。父の戦没も、戦死なのか戦病死なのかは明らかでない。連合軍は壊滅作戦に出ずに、米軍は昭和20年2月には撤退した。引続くフィリピン方面への進行に対して、すでにサルミは戦略的重要性が少なく、日本軍に”玉砕”をあおることにより連合軍に死傷者を出すのを避けたようだ。

私服ポリス同乗(色々な部族がいるので常に我々にはガイドとポリスが同行)でチャーター小型機が降立ったサルミ空港には、我々のほかに飛行機はなく、待合室は田舎のバス停の大形みたいなものがあるだけだった。車で2~3分のすぐ近くに、山形県が建てた立派な「平和友好の碑」がある。サルミ附近の戦闘での戦没者は東北地方出身者が多く、13,911人である。少し小さな町を通り過ぎ、5分ほど行くと、海岸沿いの部落の奥に「戦没日本人之碑」と彫られた御影石が、15m四方程度の広場にある。入口にはインドネシア語の看板がある。広場の草の茂みを慰霊団で取除いていると、附近の部落民がナタで切開いて手伝ってくれる。部落の人達が管理して呉れているようだ。

南太平洋には、いたる所に珊瑚環礁が点在する。ニューギニア島内陸は3000mを越す山々・湿地・密林で覆われ、ファンレース山脈から流れ出した大河は蛇行し海岸線に達し、マングローブ・椰子の木々が生茂る。長老を軸とした部族社会があり、純朴な目をしたパプアの子供達が遊んでいた。

 10/08/06 岩村城跡 (岐阜県)

最上部(本丸)城門跡の中世の石垣と
(マウスを写真上)その下方の六段壁(江戸時代の石垣)
六段壁は背面(本丸)・高石垣の崩落を防ぐ補強の石垣。
城下町の商家の町並み(枡形より見る)。 正面に岩村城。

恒例の年一度の旧友11人旅の最終日に、恵那市岩村の城址・城下町を見学する機会を得た。当地の観光大使K君の企画で、新穂高・高山・下呂・中津川・馬籠・恵那を巡った四日目である。美濃岩村城は、大和高取城(奈良県)と備中松山城(岡山県)とともに、日本三大山城に数えられる。いずれも、戦国時代・江戸時代を生きぬいた名城であるが、岩村城は日本の山城の中で最も高所(海抜717m)にある山城である。山上の本丸からやや急坂の石畳道を、城下に時を知らせる太鼓櫓まで下る。ここからは、明智鉄道・岩村駅まで緩やかな傾斜道の両側に、江戸時代の名残を留めた商家の町並みを眺めながら歩く。

地酒・女城主(おんなじょうしゅ)の岩村醸造㈱がある。女城主とは、戦国時代・元亀2年(1571)に岩村城主・遠山景任病没後、織田信長の5男・幼少の御坊丸を養子とし、御坊丸に代って指揮をとった景任夫人のことである。翌年、武田信玄が遠江を攻め、武将・秋山信友に岩村城を攻撃させた。秋山信友は策をめぐらし、女城主を妻に迎え御坊丸(7才)に家督を譲ることを条件に開城させた。天正3年(1575)、長篠合戦で武田軍敗退を機に、織田信長は岩村城奪還の攻撃をしかける。数ヶ月の長戦の後に岩村城は陥落する。陥落に際し織田側は、信友夫妻助命の約束をするが、戦後これを翻し、信友・女城主らは長良川河畔で逆さ磔に処刑される。戦国の世にあって、城と家を守ろうとした女城主は悲劇の幕を引き、ここで、岩村遠山家は断絶する。その後、岩村城主は、森長可・森忠政・田丸直昌を経て、関ヶ原以後は、松平家乗から2代、丹羽氏信から5代、松平乗紀から7代と、明治維新まで城は維持された。

戦国時代、東美濃には遠山七家が城を構え、岩村、明知(明智)、苗木(中津川)の三人衆が中心となり、岩村城主遠山景任が惣領の地位にあった。遠山氏の出自は、鎌倉時代に源頼朝が東美濃の遠山庄の地頭に任じた加藤次景廉とその長男・遠山景朝を始祖としている。景朝の頃(承久の変(1221)の頃)に岩村城を築き居館とした。東美濃の遠山家はこの系譜に繋がっている。江戸時代には、明知城は一国一城政策により廃絶し、苗木城だけが遠山氏の居城として残った。

南信濃・天竜川を越え南アルプス山麓の和田に遠山郷がある。戦国時代に和田城を築いた第1代・遠江守遠山景広は、遠山六ケ村、鹿塩、上伊那などを支配した。和田の遠山は江儀遠山と呼ばれ、岩村遠山の始祖・加藤次景廉の系譜に繋がるとされている。ここでも、戦国の世に、甲斐武田の伊那谷侵攻に対峙し、永禄11年(1569)に遠山景広は武田に降った。岩村城をめぐって女城主と秋山信友と織田信長が鍔ぜりあいをしていた時期である。天正10年(1582)の織田の武田攻略では、和田城の遠山景広は、武田側の一員として高遠城で戦い討死している。織田に抗したことにより、景広の子・遠山景直は一時期不遇をかこったが、信長横死後は、徳川家康、豊臣秀吉に仕え江儀遠山家を再興し繁栄する。しかしながら、3代目の景重・景盛兄弟に家督相続争いが起こり、徳川幕府の天領として全て召上げられ、遠山家支配は終わる。一説には、幕府の御用林確保の策謀とも言われる。日本の秘境・遠山郷では、毎年12月初めから年末まで、上村・下栗・木沢・和田と国道152に沿って南下する霜月まつりが催される。この祭・神事に遠山景広のお面が登場する。遠山様の威厳と民の畏怖が寸劇に盛り込まれている。


 10/05/10 斑鳩と南山城のお寺 (奈良県・京都府)

もっとも”斑鳩の里”らしさをかもしだす法起寺の三重塔
法隆寺、法起寺、法輪寺を巡る斑鳩の里散策は長閑だ
クリック:法隆寺・中宮寺・浄瑠璃寺・岩船寺のスライドショー)

美濃・大和を周回する旅に出かけた。本来は3月末を予定していたが、春先の天候不順で、真夏日と雪の降る日が交互に現われ、出かけるのを戸惑っていた。今回の旅の目的は、美濃の古墳巡りと三角縁神獣鏡を多数出土した雪野山(近江)、椿井大塚山(南山背)、黒塚(大和)など興味ある古墳を見ることにあった。知多半島・半田の兄宅を中継地として、別図のような4ステージの旅となった。ここでは、第2ステージで兄夫婦と日帰りした斑鳩・南山城のお寺探訪を記す。

法隆寺では、中門を入り左右に塔と金堂、奥に講堂を配する端正な伽藍・世界最古の木造建築を拝し、百済観音堂を中心とする大宝蔵院に入る。大宝蔵院で最初に出合う仏像は、白檀の一木から削り出された唐伝来の九面観音立像である。像高37.6cmで、周囲の諸仏に比べても小ぶりである。何十年も前に、始めてこの像に接した時は古い宝蔵殿の中ほどの目立たない場所に置かれていたが、その頃より愛着のある像である。最近では、3月末の日経新聞「かんのん道をゆく」で、羽賀寺(福井)の十一面観音立像とともに「美の美」として特集された。
法隆寺秘宝展も開かれていた。日本仏教の祖としての聖徳太子の遺徳を偲んで、宗派を問わず寺・信者より寄贈された多くの秘宝を公開するものである。玉虫厨子の現代の模造品があった。近年、高山の資産家が寄贈したものであるが、国宝の厨子には見られない玉虫の青い発光を見ることができた。
当日は雲一つない晴天で、初夏の光を受けた仏像は、薄暗い光の中で見る姿より明るい印象を受けた。御開帳されていた夢殿の秘仏救世観音は、聖徳太子等身の像とされるが、以前から持ち合わせていたおどろおどろしい印象を解放し、憂いに満ちた優しい面影に見えた。中宮寺の如意輪観世音菩薩半跏像の美しさも再認識させてくれた。

浄瑠璃寺(じょうるりじ)と岩船寺(がんせんじ)は、木津川南岸の京都府と奈良県の県境近くにある。古くからヤマト・奈良の影響を色濃く受けた地であが、岩船寺の伽藍整備がなされたのが弘仁4年(813)、浄瑠璃寺の九体阿弥陀堂創建が嘉承2年(1107)とあるので、平安・藤原時代に栄えた寺である。とくに、浄瑠璃寺は、末法(まっぽう)の時代に入って、九品往生(くほんおうじょう)を約束する九体阿弥陀仏を拝む信仰で栄えた。現在の騒々しい世の中にあって、九体仏に新しさを感じる人もいるだろう。秘仏・吉祥天女像の年3回の御開帳時にも当り、昔から好きな不動明王三尊像のコンガラ童子とセイタカ童子にもなつかしく再会できた。浄瑠璃寺と岩船寺を結ぶ山道には、いたる所に石仏が点在し石仏巡りができる。岩船寺から笠置に向かい、尾根筋の道を走った。京都府と奈良県がコーナー毎に変わった。

厳粛な海住山寺境内  
(マウスを写真上):海住山寺五重塔)

二日後、南山城の木津川北岸にある椿井大塚山古墳と山城郷土資料館を訪ねた時に、海住山寺(かいじゅうせんじ)を訪れた。前に訪れた岸船寺を含む七寺よりなる南山城十一面観音巡礼札所の一つとなっている。三上山(海住山)の中腹に位置し、歩いて登るには相当にきつく、車道も急勾配の細い道を上る。人の訪れも少なく、境内も、塔も静かである。聖武天皇が大仏像立工事の無事を祈って建立したとも伝えられる。
本尊の十一面観音と本尊左右の補陀落渡海図が見ものである。お寺の方は、観音像の真下まで入ってよく見て下さいという。本尊の表情は穏やかに見えたが、白州正子の”十一面観音巡礼”では、・・・貞観時代のしっかりした彫刻で、どことなく天平の残り香がただよっているように見える。が、何事か一心に思いつめた表情で、はれぼったい眼で凝視する姿は、密教的とでもいうのだろうか、やや重苦しい印象をうける。肩をはっている為に、首が落ちこんでいるのも、窮屈である。別にこの本尊にかぎるわけではない、有名な室生寺の十一面観音でも、山間に祀られている仏像には、みな共通の特徴がある。・・・と表現している。

海住山の山裾と木津川の間に開けた田園地帯・瓶原(みかのはら)に、恭仁京(くにきょう)跡がある。聖武天皇は、天平12年(740)に平城京から恭仁京に遷都し、3年後には紫香楽宮、2年後に難波宮と遷都を繰り返し、天平17年(745)に再び平城京に戻った経緯がある。現在催されている平城遷都1300年祭は、前の藤原京からの平城遷都した和銅3年(710)からの1300年祭であり、再建された大極殿は当時の大極殿である。恭仁京遷都に際し大極殿は解体し移築され、恭仁京廃絶後には山城国分寺として使用された。


 10/02/06 多摩川中流域の二つの古墳 (東京都)

       熊野神社古墳(府中市) (7世紀中頃の築造) 国史跡 
三段構成の上円下方墳。一段目は一辺約32mの方形、二段目は一辺約23mの方形、三段目は直径約16mの円墳である。二・三段目は葺石で覆われている。前庭部・羨道につづいて石室入口(写真で左端に見える)がある。前室・後室・玄室の3室構成の横穴式石室が円墳の真下に達する。玄室は卵殻状に膨らみ、武蔵地方特有の胴張り型と呼ばれる。平成21年春に復元工事が完了した。
        稲荷塚古墳(多摩市) (7世紀前半の築造)
全長34mの八角形の壇上に長さ22mの八角墳が載る八角墳とされる。幅2mの周濠がある。二段目の八角墳は削平(元は4mの高)されていて恋路稲荷神社が建つ。横穴石室は保存のために埋められているが、胴張型で、凝灰岩を加工した切石で精巧に造られている。覆われたブロック舗装上に長さ7.7mの石室(羨道・前室・玄室)が描かれている。

冬篭りの一日、多摩川中流域の二つの古墳を訪れた。多摩川中流の左岸・府中市にある熊野神社古墳と、右岸・多摩市にある稲荷塚古墳は、珍しい墳形(上円下方墳と八角墳)をもつ終末期古墳として興味深い。上円下方墳は、現在確認されている全国15万基以上の古墳の中で、熊野神社古墳の他に、奈良県の石のカラト古墳、静岡県の野地久保古墳と清水柳北1号墳、埼玉県の宮塚古墳と山王塚古墳など数例を数えるだけである。最近の調査では、東京都三鷹市の天文台構内古墳は、方形の周濠内に円墳が築かれており、上円下方墳に類似した古墳とされている。

古墳時代(3世紀~7世紀中頃)は、古墳の形状・大きさ、埋葬施設、副葬品の豪華さで権力を誇示した時代である。畿内王権(大王)は、渡来文化の導入・対外的な軋轢への処理過程で次第に力をつけ、地方豪族(首長)との共同体的な政治体制から中央集権的な律令国家へと変貌する。7世紀に入り、文字文化、宗教・祭祀、律令制度の整備が進み、祭りの場としての墳丘墓は形骸化し、墓所としての古墳は天皇と一部の皇族に限られるようになる。熊野神社古墳はこのような古墳終焉期に築造された。

関東の終末期古墳を見るに、過去に一大王国を誇った毛野(群馬)には、前橋市惣社に宝塔山古墳があり、房総半島には、下総・印旛郡に竜角寺岩屋古墳がある。宝塔山古墳は一辺60mの二段構成の方墳で、見事な石組み・広い石室・立派な家形石棺を持つ。岩屋古墳は一辺79mの三段構成の方墳で、周溝・周堤を巡らし、同時代の天皇陵(用明陵や推古陵)を凌ぐ立派な方墳である。熊野神社古墳も、これらに優るとも劣らない上円下方墳という特徴的な墳丘を見せてくれる。築造に精巧な版築工法が採用されていたり、出土した鞘尻金具に道教的色彩の濃い「七曜文」が銀象嵌されていることから、背後にある渡来文化が窺われる。

熊野神社古墳が造営された7世紀中頃から8世紀にかけて、上野国から武蔵国府を経由して下野に至る東山道武蔵路が整備され、武蔵国府・武蔵国衙が設置され、聖武朝には武蔵国分寺が建立された。

古代の武蔵国では、6世紀の半ばに武蔵国造の乱があり、乱後処置として、武蔵国造は横渟(埼玉県比企)、橘花(川崎北部)、多氷(東京多摩)、倉樔(横浜南部)を畿内王権に屯倉として献上した。屯倉には畿内王権の政策で渡来人の入植が多くなる。7世紀に入り、畿内では乙巳の変(645)が起こり、大化改新による国府の設置があり、武蔵国では、それまでの国造支配地を避けて、現在の府中市が選ばれた。朝鮮半島での争乱から逃れた渡来人が移住し、先端文化・技術が導入された。天智5年(666)に高句麗使者として来日した高麗王若光は相模国大磯に住み、716年には武蔵国高麗郡の大領として移った。平安時代(835)の武蔵国分寺焼失に際しては、壬生吉士福正は豊富な財力を提供して七重塔の再建を果たしている。

稲荷塚古墳は八角墳とされているが、上段の墳丘がかなり削平されていて墳形は分りにくい。明治・大正・昭和の天皇陵(伏見桃山陵、多摩陵、武蔵野陵)が上円下方墳であるのは、伏見桃山陵を造るに際し、山科の天智天皇陵をモデルとし、それが上円下方墳と見誤った結果だと言われている。7世紀中葉の舒明から、皇極(斉明)、孝徳、天智、天武、持統、文武までの天皇陵は全て八角墳である。その中で、舒明陵(段ノ山古墳)から天智陵(御廟野古墳)までが方形壇の上に八角墳が載った八角墳で、天武・持統陵(野口王墓古墳)から文武陵(中尾山古墳)までは方形壇のない八角墳である。律令国家確立に中心的な役割を果たした時代の諸天皇陵が上円下方墳に近い八角墳または純然たる八角墳であること、更には明治維新でこれを見習ったことは意味深い。

上円下方墳では「円が天、方が地」を表し、八角墳では「八紘(八荒)」につながる道教的世界観(宇宙観)を表現している。天武天皇は、列島の盟主である大王(おおきみ)から脱皮して、中央集権的な盟主さらには世界(宇宙)の頂点に立つ天皇大帝を選び、「天皇」を名乗り現人神(あらひとがみ)となった。

前ページ