いや、と反町は首を振った。
「…いや。僕には正直言ってよく判らない。何が一番いい道なのかも」
「大人ってあんまりそうは言わないですよね。やっぱり、反町さんって変わってる」
「有り難くないことに、よく言われるよ」
「そうかな。僕はいいと思うけどな。たまにはそういう大人も居てくれないと」
 無責任なだけさ、と反町は笑った。つられて彼も少し笑った。それからしばらく、二人して黙りこくってグラスを重ねていた。重くは無いが、その無為な沈黙が五分近くも続いたあとだろうか。
「僕は、反町さんにだから喋りました。あなただから、全部黙って聞いてくれたんだと思う。…ありがとうございました。感謝してます。今日のことは忘れません」
 そう言っていきなり立ち上がった彼に、反町は驚いて自分も腰を浮かせた。
「おい、まさか帰るのか? この時間に? 客用の寝室くらいうちにだってあるんだぜ」
「こんな話のあとに、バツが悪くって泊めてなんかもらえませんよ。朝、牧歌的にツラ突き合わせるのも間抜けでしょう?」
「…確かに」
「大丈夫です。これでも、泊めてくれる友達の一人や二人居ますから。ご心配なら家に帰ったって構わないし」
 それを全て本気で受け取ったわけでも無いにしろ、反町も今はとやかくは言わずに頷いておいた。たまにIQと精神年齢と反比例を起こしてるような奴もいるが、この子は大丈夫だ。精神的に、それはいっそ可哀想なほどしっかりしている。(そう、あいつがそういう子供だったように)
「ただ忘れるなよ、未成年。君は少々酔ってるんだぜ」
「ああ、そうでしたね。そこのへんは自覚して行動します」
「それがいい。自覚してる内は大概、なんとかなるもんなんだ」
 彼は残したグラスや氷の後片づけを気にする素振りを見せたが、反町は笑って構うなよと首を振った。躾は案外とまともにされたらしい。それとも、親がだらしがないと子がしっかりするというあの典型だろうか。
「──…なあ。最後に君、このあとどうするつもりなんだ」
 見送りに出た玄関フロアで、反町はついに我慢し切れず尋ねていた。
 このあと、と言うのが表層的な意味でないのは少年にもすぐ伝わった。彼は屈んで、革靴の紐を丁寧に一旦解いてからまたきちんと結び直した。そこで思うが、彼の服装や持ち物というのは、多分に育て親の好みが反映されたものだった。シンプルで派手派手しくなく、しかしよく見れば明らかな一級品。
「一つだけ、考えてることはあるんです。実行するかどうかは別にして」
「聞きたいね」
「…どうしようかな。あなただから、言っておいた方がいいのかな…。ほらさっき、ちょっとヒントは言ったじゃないですか」
「判らない」
 本当はその答えを知っているような気がしながら、反町は敢えてそう答えた。それが彼にも察しがついたらしい。意地悪だな、と子供っぽい笑みで反町を見上げた。
「母親との不義、それから父親殺し、ですよ。もっとありきたりに言えば痴情のもつれの無理心中、とかね」
「正気かい?」
「だと思います。取り敢えず、今のところはって、その程度のことかもしれないけど」
 戻した視線の先で、結び終った紐から少年は手を離した。それから一瞬、息を殺すように動きを止める。
「───そう、祈ってて下さい。救われるように、全部が夢で終らないように。僕の愛情が何もかもを壊してしまわないように」
 それだけ、きっぱりとした調子で言い切ると、彼はすっとしなやかに立ち上がった。ドアを開けてやることも、肩を叩いてやることも反町はしなかった。うまい救いの言葉を投げてやれないのと同じだった。
「じゃあ、お邪魔しました。ほんと、こんな夜遅くにすいませんでした」
「ああ。気を付けて」
「ありがとうございます。…おやすみなさい」
 おやすみ、という反町の言葉に最後に笑って、彼は静かにフロアを出て行った。オートロックの扉が音もなく滑ってその背中を隠す。
 ───祈っていて下さい。
 夢で終らないように。愛情という得体の知れない力が、何もかもを打ち壊してしまわないように。
「構わんよ、…ああ、ちっとも構やしないさ。どうせ、それぐらいしかオレは出来ないからな」
 あれだけ飲んだのだから、もうアルコールが思考を食い潰すまで回ってきてもいいはずだった。なのに酔うことは酔っていても、やけに頭の芯の一部分だけが冷えている。仕方がないが、今夜はもう眠れそうにもない。

 背を横の壁に預けて、グラスに残ったバーボンを一息に空けながら、反町は心の底からその神の名を唱えた。



[END]

 


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