ちょこっとした感想を「日記のフリ」のほうに書くこともあるので、そちらもどうぞ。
アンハッピードッグズ(近藤史恵) (11/2)
プレーンソング/草の上の朝食(保坂和志) (11/22)
詩のボクシング 声の力(楠かつのり) (12/1)
木曜組曲(恩田陸) (12/28)
*感想
版型や表紙の感じがフランスっぽいなあ(イメージ)と思ったら、本当に、舞台は空気がひんやりした(そうなのかどうか知らないけど)パリの街。ぬるま湯的曖昧さは、気持ちよいのと同時に不安定だと思う。そういう状態だと、不安定をゆさぶれば安定になりそうな気がする。ただそれは、壊して"みたかった"のであって、本当に壊すつもりとは違うだろう。所詮頭で考えたことを行動に移してみたのであって、最終段階で、それを心が思いとどまらせた、という感じがした。頭と心は違うと言うね。
1999/11/2
保坂和志『プレーンソング/草の上の朝食』講談社文庫 1996(1990/1993)
*感想
一応、正→続の関係。淡々と描かれる他人の日常。何がそんなにいいのか自分でもわかってないまま読んでいる。血縁以外、恋愛感情以外で成り立っている「共同生活」が出てくると気になる。こういう「共同生活」にひどく惹かれてるのかもしれない(こんな協調性のない人間が?
だからこそ?)。普通ではない、"奇妙な"共同生活と言い直すべきほどの、変なやつがいい。「なんとなく集まってきて」「なりゆきで」「ライバルなのに」とか、突発的に必然性もなく始まる生活に憧れているのかも。そういうほうが、始まりにエネルギーを使わない分、持続のほうへエネルギーを使うんじゃない?
それはそうと、「草の上の朝食」での、ミナちゃんに来られて困っちゃってる三谷さんが最高におかしくっておかしくって(特に文庫版p.347)、電車の中で困惑。口に手まで当ててグッとこらえた。まさか保坂和志の本で笑うとは思ってないので不意をつかれちゃった。
1999/11/22
*感想
6月、「すばる文学カフェ」に行った時に同行者が話してくれた「詩のボクシング」。それについて詳しくわかりました。詩のボクシング「朗読による世界ライト級王座決定戦」のCD付。初代朗読王:ねじめ正一vs挑戦者:谷川俊太郎。
「文字で書かれたものを→読む」のではなく、音が始まりであるような"音声詩"の可能性についても模索している。愛の告白に台本はいらないよなあ……と変なことを思ったり。
文字だけでのやりとりだと、「これはちゃんと届いているのか?」という距離感がつかめない時があって、すごく不安になる。本当に言いたいことって、声の力を借りて口に出して言いたいと思う。自分の声が、トントンと肩を叩くように相手にちゃんと届いているのか確認したいと思う。それは電話でも構わない。受話器から伝わってくる向こうの空気感でも、ビリビリわかったりするのだ。
非常時に手紙を使うのにはどうにも不安が残る。ああきっと届かない、と絶望的な気分になる。文字にそれだけの力を込められる自信がない。相手に届く力を持つために、声を含めた身体全体を総動員させたいと思う。つまり、「私のこの感情」を示す、目の動き、身振り手振りなどの身体動作を。
1999/12/1
*感想
3日間での、ぴりぴりしているようで、どこか凪いでいるような雰囲気が良い。全体を読んだ印象は、軽いあきらめから、(皮肉にも)軽やかな助走へ、って感じがしたなあ。それが、とても因果なことだとはわかっていても、後味悪くない。対象物を客観的に見られるようになって初めて、それを描写できるんだろうね。恩田陸なら、これくらいやってしまうだろう、と予想しながら読んだのは、ちょっともったいないことだったかも。でも、今回、物語の本筋の流れより、枝葉部分や、観察描写が気に入った。特に静子←→絵里子の、お互いを観察している様子、その描写が最高。
1999/12/28