記事No | : 1450 |
タイトル | : Re: 秩序への憧れ |
投稿日 | : 2012/04/01(Sun) 16:38:01 |
投稿者 | : ぽん州 |
> フロムの「自由からの逃走」が名著とされ、今も多数の読者を魅了するのは、「ファシズムには、そのような構造は確かにある。」と納得するかたが多いということなのでしょう。
>
> 私もある部分を取り出してみれば、確かにそういうこともあるだろう。と、思う。
やっぱり桃青さんも、そうゆう部分もあると納得されるのですね。
> でも、それは、あくまで一部に見られる様相であって、それでファシズムに人間が集まる全てを説明できるかといえば、そんなことはないだろう。と、思うのです。
フロムの分析に対する有力な批判の一つだと思います。少なくとも私は、「すべてを説明できる」とは思っていません。
> そう思う理由は簡単です。
> 私は、今まで支配に自ら進んで隷属するひとや、やむを得ず隷属するひとは見たことはあっても、そういうひとで隷属することを悦んでいるひとを見たことがないからです。
「支配に自ら進んで隷属するひと」の心理分析は、複合的な要因があり、その中で「サディズムとマゾヒズムとの類似性」は有意な因子であるということでしょう。ですから「やむを得ず隷属するひと」とは分析対象が違うと思います。具体的に申しますと、ドメスティックヴァイオレンスや犯罪による拘禁の被害者に対して、「サド・マゾの類似性」を云々してはいないのです。DVの被害者は、止むに止まれない事情、庇護すべき家族(子供とか親とか)を捨てることができないとか、レイプ被害者のように身体的・生理的にいわば金縛り状態に陥って、逃げ出せないことはあるのです。
> そもそも人間が普遍的に隷属に悦びを感じるものならば、ひとを支配するのに恐怖政治という手法など必要ないのじゃないでしょうか?
>
国家を覆う空気のような恐怖というものはあったでしょう。ヒットラーユーゲントのような組織による暴力もあったでしょう。しかし、曲がりなりにもワイマール憲法を持つ民主的な国家が、民主的な方法で国民を隷属させたのは、恐怖政治という手法だけでは考えられないということです。そこには隷属させられた国民=被害者が、他者には加害者となるという「権威主義的パーソナリティー」があったのではないか。ローマンカトリックからの解放は、自由を手にした民衆の戸惑いが自由からの逃走という心理を招き、更なる神の絶対的な権威・神の恩寵という絶対的な隷従を求める宗教的思潮を招いたように、民主的な自由を手にした民衆が、それに戸惑いそして維持に疲れ個の不安の中に、全体に隷属することに安心し、自己のアイデンティティーを見出していった部分もあるのではないかということですね。