記事No | : 1650 |
タイトル | : Re: 人間は自由意思を持つのか |
投稿日 | : 2012/09/18(Tue) 12:24:01 |
投稿者 | : 桃青 |
「法華経の行者となる事は過去の宿習なり、同じ草木なれども仏とつくらるるは宿縁なるべし、仏なりとも権仏となるは又宿業なるべし。」
どうでしょうか?
これを「選民思想」のように読むひとがいるが、
それは全く違いますね。
日蓮聖人がこの言葉で伝えたかったものは、「選民思想」のようなツマラナイクダラナイ思想ではありません。
なにしろ、この言葉が出て来るのは
『諸法実相抄』ですからね。
「宿業」は、ね。
ただ、様々な因縁の束、なのですよ。
様々な因縁がただ集まっているだけなのですよ。
ですから、
生まれて選民思想に出会いて「我選民なり」と名乗るも又宿業なるべし。
でしょう。
生まれて仏教に出会うも、選民思想に出会うも、
出会って、仏教に共感するのも、選民思想に共感するのも、
出会っても共感しないのも、それは、ただいろんな因縁が積み重なって、そうなるように条件が整ったからでしょう。
宿業の説明に、
「現世で報いとしてこうむる、前世に行った善悪の行為。」
などと、あって、それを受けて、「肉体を離れて存在する個の霊魂」を連想させるような解説が本当に多い。
あまり多すぎてイヤになる。
そいういうひとにかかると、日蓮聖人の御遺文は、
此処にある樹が、仏像になるか、木の椀になるか、
仏像になったからその樹は偉くて、木の椀になったら偉くない、
という話になってしまう。
切り倒された樹にしてみれば、迷惑なだけの話でしょう。
続いて、仏像に成った樹は、過去世において法華経を聞いたからで、汁椀のなった樹は、過去世で法華経を聞かなかったからだ。
などというのでは、某M教の選民思想と同じレベルの発想ですね。
どうですか?
日蓮聖人は、そんな単純な因縁話を言いたかったですか?
違うでしょう。