記事No | : 1660 |
タイトル | : 絶対の善、 |
投稿日 | : 2012/09/25(Tue) 17:12:18 |
投稿者 | : 桃青 |
> だから親鸞聖人も、「善人なおもて」という言葉で、善人が自らの自由意志でなす「善」が結局、究極的な基準から見ては悪でしかなく、本当の善をもたらさないと言っているわけです。
そもそも究極的な善、あるいは絶対善というものを人間は知ることができるのでしょうか?
知りようがないものを基準にしても仕方ないと思うのですが・・・。
と疑問に対して、某M教は
「自分達は絶対の善を知っている。絶対の善とは神だ。」と、言いますが、
神とは何だ、との問いかけには、「神とは絶対の善だ。」
と言う。
それでは、絶対の善を知っているということにはならないのですが、
そう答える当人たちは、大真面目に絶対の善を知っているつもりになっているところが怖い。
某M教会には「相対的な善など興味はない。この教会には絶対の善があるので会員になった。」
と断言されるかたも珍しくない。
人間て「この教会には絶対の善がある。」と断言されると、すーっとその気になってしまうものなのでしょうかね。
絶対の善について某M教のように考えるのは、某M教だけというわけでもなさそうですが某M教の始末が悪いところは、
そのように「絶対善」について何も知らないのに、
「神様由来のものは善」として、三森さんが書かれたような「ひとが思いつくような善」を絶対善と等価にしてしまうところです。
これも某M教ばかりではありませんが・・・。
> ルターも、原罪の支配のもとにある人間の自由意志は
>神の目から見て、つまり究極的な基準から見て、義しいと結果をもたらすことができず、絶えず罪に拘束されて、悪い結果しかもたらさない「奴隷的意志」であると言いました。
> 人間が自分の目で見て「良さそう」と思えることを選ぶ自由意志があるのは確かですが、しかしその結果が常に「絶対に善い」かどうかは、よく考えてみなければならないでしょう。むしろ親鸞やルターと同様に、人間には自由意志はあるが、絶対に善いと言えるようなことを実現する能力はない、というふうに考えるべきなのではないかと思います。
確かに「絶対善を実現する能力」は、人間にはないでしょうね。
人間には「絶対善」を知ることができませんもの。
> ということは、「何か善いことを実現する能力」という意味で自由意志を考えるのであれば、人間にはそれがないとも言えます。
「自由意思」を論議する場合、「何か善いことを実現する能力」と捉えるのは、一般的ではない、と思われますが、どうでしょうか。