記事No | : 1657 |
タイトル | : Re: 人間は自由意思を持つのか |
投稿日 | : 2012/09/21(Fri) 23:22:43 |
投稿者 | : 三森至樹 |
> 某M教は、いとも簡単に
> 「神様はー 人間に選択の自由と自由意思をお与えになりましたー。」
> などと、言いきっておりますが、
> 実は
> 人間に自由意思があるのか、ないのか、というのは、
> 哲学では、未だ結論が出ていない命題なのですね。
> 最近では、浮気の遺伝子、アル中の遺伝子、なるものも発見されて、この問題はさらに混沌としてきました。
>
> キリスト教なら、「神と自由意思は両立するか。」
> 仏教なら「縁起と自由意思は両立するか。」
>
> 縁起を突き詰めて行くと、自分の意思も縁起によって成り立っているということになる。
> 縁起によって成りった意思は、そのひとの自由意思と言えるのか。
> どうなんでしょうね。
>
> 某M教は
> 「神様が、自由意思というものを作って人間に持たせてくれたのだから、人間には自由意思がある。」
> で、終わりにしていますが、現実には、それでは説明できない事象は、いっぱいあります。
> 自由意思というものも、自由競争と同じで、そういうものがある気になっているだけで、実はあるか、ないか、あやふやなもののようです。
>> 某M教は
>> 「神様が、自由意思というものを作って人間に持たせてくれたのだから、人間には自由意思がある。」
>> で、終わりにしていますが
確かに、旧約聖書の創世記には、神がアダム(人間)を創って、その鼻から命の息を吹く入れたので、彼は人間となったという話があります。これは人間は神のイメージとして、神と同じような自由意志を持っていることの喩えの話でしょう。
しかし話はそこで終わらず、アダムとその妻のエバは、その自由意志によって神の命令に背き、楽園を追放されたという話が続いています。
つまり人間は自由意志を持っていることは確かで、その自由意志によってあれやこれやの善いと思えることを選択し、善いことをしようと行動するわけです。しかしその選択と行為が、究極的な基準から見て、必ずしも善い結果をもたらさず、むしろ常に悪い結果をもたらす、という問題があるわけです。
だから親鸞聖人も、「善人なおもて」という言葉で、善人が自らの自由意志でなす「善」が結局、究極的な基準から見ては悪でしかなく、本当の善をもたらさないと言っているわけです。
ルターも、原罪の支配のもとにある人間の自由意志は、神の目から見て、つまり究極的な基準から見て、義しいと結果をもたらすことができず、絶えず罪に拘束されて、悪い結果しかもたらさない「奴隷的意志」であると言いました。
人間が自分の目で見て「良さそう」と思えることを選ぶ自由意志があるのは確かですが、しかしその結果が常に「絶対に善い」かどうかは、よく考えてみなければならないでしょう。むしろ親鸞やルターと同様に、人間には自由意志はあるが、絶対に善いと言えるようなことを実現する能力はない、というふうに考えるべきなのではないかと思います。
ということは、「何か善いことを実現する能力」という意味で自由意志を考えるのであれば、人間にはそれがないとも言えます。