記事No | : 1939 |
タイトル | : Re^5: 「当たり前」という感覚 |
投稿日 | : 2013/03/06(Wed) 12:09:18 |
投稿者 | : 桃青 |
>
> 僕が両親を選んで生まれたからです。もう5年まえですか、母を
> 亡くしてから、つまり 自分一人になった時以来、ああ お袋は
> 最後を俺の看取りで死んでくれた、五百塵点劫の昔から
> この両親の下に生まれるように請願して生まれたのだ と思うよう
> になりました。
>
そうだったのですね。
ぽん州さんのお母様への深い想いが伝わり、少し胸が熱くなりました。
少し立ちいった質問をすることをお許しください。
お母様が生きておられる間に、そのように思われたことは無かったのでしょうか?
身近なかたで、「自分がこうなったのは、母親のせいだ。」と、母への恨みを折あるごとに言っておられたかたがいました。
このかたはカウンセリングを生業としておられましたので、カウンセリングを受けに来られるかたそれぞれに、いかに母親というものが子供に決定的なダメージを与えるものか、ということを御自身の体験を踏まえて、カウンセリングをされていました。
その頃お母様は病院で闘病中でしたが、殆ど顔を出すことも無く、繰り返し、「私がこうなったのは、あの母親のせいだ。」
と、言っておられました。
ところが、間もなく御母様が亡くなられると、
「お袋がいかにこの私を愛していてくれたか、初めて解った。
お袋は、全身で私を愛してくれていたのに、その愛し方があまりに不器用だったので、私には解らなかったのだ。
何故、今までそのことに気付かなかったのだろう?
不器用だったお袋も可哀そう。私も可哀そうだった。」
と、泣かれ、以後カウンセリングでも
「母親の責任だ。」と言うことを控えるようになられました。
また私の従妹も、叔母(叔父の配偶者)が、亡くなったとき
「私は母が嫌で嫌で・・・。私は母親が嫌いなんだと思っていたのに、亡くなったら、本当は母のことが大好きだったのだと気が付いた。」と、言って涙をぬぐっていました。
認知症介護のブログでも、何人ものかたが、
生きている間はどんなに嫌々お世話し、ウンザリ感をぶつけておられたかたでも、イザ、死の床に付かれたり、亡くなったりすると、ブログにそれまでと打って変わって優しい思いやりの言葉を書かれるのを拝見しました。
また、以前死刑執行を家族に知らせる役目をされていたかたの手記にも、どんなに迷惑をかけられ、絶縁している家族であっても、死刑執行を知ると、例外なく声をはなって泣く。
と、ありました。
以上、皆皆、何故生きている間に、その気持ちに気が付かないのでしょう。
生きている間に気がついたら、どんなにか心が楽になったでしょうに、と思わずにはいられないのですよ。
世間では、「子供は親を選べない。」云々と言い、それを受けて「こんな親の子供に生まれたくなかった。」と激しく親を怨むものもいます。
なので、「子供は親を選んで生まれてくる。」と、言われたぽん州さんの言葉が新鮮で、なにか、そこに「こんな親のもとに生まれたくなかった。」と親を怨む子供、怨まれる親の関係を変換できるヒントがないか、と、思いまして不躾な質問をさせていただきました。
> >
> > ちなみに私は、親となり子となるのも縁だと思っています。
>
> 因縁生起、縁というものも自立存在であるはずもないと思ってい
> ます。
>
もちろんそうです。
子供ができて親となる。