記事No | : 2249 |
タイトル | : 信仰とは見破られるウソを信じることなのか |
投稿日 | : 2013/09/10(Tue) 12:22:16 |
投稿者 | : 桃青 |
「あなたが元気なのは御主人が(あなたの代わりに)病気になって呉れたから。御主人に感謝しなくてはね。」
これを信じこんで御主人に感謝できるようになった女性は、信仰心を称えられ、
「あなたたちが元気なのは、御姑さんが(あなた達の代りに)病気になって呉れたから。御姑さんに感謝しなくてはね。」
これを信じこめなくて、これ以上の介護はどうにも経済的に苦しいから早く死んで欲しいと口走る女性は、仏を信じる心が無いからダメだ。と眉を顰められる。
しかし、どうだろう。
「あなた達が元気なのは、誰かがあなたの身代わりに病気になって呉れたからです。あなたの身代わりに病気になって呉れた人に感謝しましょう。」
こんな話が世間に通用するだろうか。
私たちは生きていれば様々な病気になる。それは決して誰かの身代わりに病気になるのではない。
内的外的要因によって病気になるのである。
仏法はそもそも科学的知見を無視しなければ成り立たないような教えではない。
世間に通用しないような御伽話を信じこまなければ非難される。というのでは、トンデモ教義を信じこませるカルト集団と変わるところはないではないか。
カルト集団では、信者は集団に忠誠を誓うために、あるいは指導者に阿るために、信じていないことでも信じていると言うらしい。