記事No | : 2262 |
タイトル | : Re^2: 信仰とは見破られるウソを信じることなのか |
投稿日 | : 2013/09/13(Fri) 16:28:31 |
投稿者 | : 桃青 |
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> 考えるのをやめた時、我々は簡単にこういう御伽話を信じたくなります。
> 幼稚なんだと思います。
>
おっしゃる通り・・・幼稚なんですね。
> 先進国と呼ばれて久しい我が国ですが、
> 年々、御伽話がはびこり、流行っているような気がします。
> これでは、難題に取り組み、解決するという
> 人類の英知が退化していってしまいます。
「仏の顔も三度」という言葉の元となった御話がありますね。
はじめてその話を知った時、正直言うと、私は生国が滅ぼされるのを止めることができなかった御釈迦様に失望したのですよ。
超能力で奇跡を起こせなかったのか、とか、攻めて来る敵の大将をどうにかして説得する力も仏教には無いのか、とかね。
キリスト教や某M教ばかりでなく多くの宗教や民族の伝説は、「我に仇為す敵」を打倒してしまう神や英雄の話を持っていますから。
ずーっと、何故、御釈迦様は生国が滅ぼされるままにされた。という話しになっているのだろうか。
と、考えていたのですが、そのうちにだんだんその答えが解ってきました。
最近、奥さんがシリア人というかたがシリア情勢について書いているものを読んだのですが、シリア人は「アメリカでもどこでもいいから政府軍の暴虐を止めて欲しい。」とアメリカの武力攻撃を歓迎しているというのです。
もちろん、シリア人が本当にそう言っているかどうか、裏付けがとりようがないし、シリアの独裁体制を考えれば、こういうことを言うのは憚れるのですが、あえていいますと、
御釈迦様が御覧になったのは、誰か圧倒的な力を持ったものが自分達を救いだして呉れたり、自分達に富と平和をもたらして呉れるという世界では無く、そういう世界にしたいのなら、自分達で地道になんとかして行くしかない世界だったのだろう。と。
自分達を苦境から救いだしてくれる誰かを期待する気持ちは、独裁者の登場も許してしまう下地にもなるのでしょう。