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  4. ジェリーフィッシュは凍らない

ジェリーフィッシュは凍らない/市川憂人

2016年発表 (東京創元社)

 まず、「第1章」の冒頭に置かれている、搭乗者の一員としてエドワード・マクドゥエルの名前が記された航行試験計画書が、かなりアンフェア気味でいただけません。捜査陣が検討している(222頁)、UFA社に提出された計画書と空軍に提出された計画書のどちらにも、エドワードの代わりにサイモン・アトウッドの名前が記されている(263頁~264頁)わけで、エドワードの名前がある計画書は(普通に考えれば実在しないはずでしょう。

 その計画書が実在したか否かにかかわらず、エドワードが試験に参加していたのは事実ではあるのですが、これは読者に事実を示すのと引き換えに作中人物の認識――特に“エドワードの存在が知られていない”こと――を読者の目から隠す、いわゆる“逆叙述トリック”のようなもの。その隠し方が問題で、地の文のレベルで読者に示された計画書によって、“エドワードの存在が公に知られていた”と強力にミスリードする仕掛けになっているわけですから、その計画書が“嘘”(実在しない)とすれば、完全にアンフェアといわざるを得ないのではないでしょうか*1

 これについては、「エピローグ」で真相の大半が明かされてからようやく“後出し”で、マリアが技術開発部内向けの計画書には、サイモンの代わりにあんた(注;エドワード)の名前が載っていたんだろうけど”(286頁)と推測――正確にいえば“読者に向けた作者の代弁*2をしています。しかしながら、この説明がまた非常に苦しいところで、以下の理由で納得しがたいものがあります。

 技術開発部内向けの計画書が作られていたとすれば、当初のそれは冒頭のものと違って、サイモンを含む七名の搭乗者が記されていたはず。そこから、サイモンが不参加を申し出た試験の二日前(306頁)以降の忙しい時期に、サイモンの不参加を承知している技術開発部メンバーのために、サイモンの名前を削除しただけ*3の計画書をわざわざ作成しなおす必要性が見出せない、というのがまず一点。
 そして、そもそも“亡命組”はエドワードの痕跡を消そうとしていたわけですから、エドワードの名前が記された計画書を作成するのは余計なリスクでしかない、というのがもう一点。ちなみにこれは、(ジェリーフィッシュが二隻あったことを隠すために)“試験計画書も、念には念を入れて(注:文脈からみて「技術開発部のメンバーにも」)一隻バージョンのしか配られなかったんじゃないかしら。”(296頁)――というマリアの推測とまったく同じ理屈です。

 このように、技術開発部メンバーの中心である“亡命組”にとってはメリットがなくデメリットしかないので、現実問題として冒頭の計画書が実際に作成されたとはとても考えられないのですが、とにかく作者自身が“実在した”ように書いている以上は、それを作中の事実としてそのまま“丸呑み”するのが筋なのかもしれません。しかしそうだとしても、冒頭の計画書が公式のそれとは違うことが読者に示された時点(263頁~264頁)では、読者が納得できる説明も材料もない以上、不当に騙されたという印象しか残りません。

 実のところ、計画書の齟齬は比較的早めに明かされることもあって、本書において(見過ごせない難点ではあるものの)必ずしも大きな瑕疵とはいえないのですが、読者をミスリードする上で必要不可欠とも思えない――エドワードが試験に参加している描写だけで十分ではないでしょうか――ので、無理に搭乗者の名前まで書かない方がよかったのではないか、と思います。

*1: 個人的には、冒頭の計画書が作中で実在したとしても、アンフェア感が拭えない――というのは、たとえ“嘘”でなくとも不当なミスディレクションはアンフェア(“地の文の嘘”はあくまでも典型にすぎない)だと考えるからです。もちろん、“どこからが“不当”なのか”は、“手がかり/伏線が十分か否か”と同様に個人差があると思いますが、後述しているように、作中人物が冒頭の計画書を作成するのは著しく不合理なので、不当なミスディレクションといわざるを得ないように思います。
*2: 計画書の記載と実際の搭乗者が違っていたことから、“正しく記載された計画書が作成されたかもしれない”と推測することは可能ですが、作中の“現実”ではそれで何が変わるわけでもないので、マリアとしてはまったく必要のない推測であって、あたかも本書を読んで冒頭の計画書の存在を知っているかのような行為、といえます。
*3: ついでにいえば、サイモンを殺害したネヴィル・クロフォードにとっては、計画書からサイモンの名前を削除するのは都合が悪い――サイモンが航行試験に参加して失踪ないし死亡したことになる方がいい――ようにも思われます……が、“何かが埋められたような痕跡”(250頁)がすぐに発見されているところをみると、サイモン殺しが発覚することはさほど気にしていなかったのかもしれません。

*

 さて、本書ではいささか奇妙なことに、以下のような点で、読者にとっては犯人がわかりやすいように意図して書かれている節があります。

  1. 「プロローグ」では、犯人の動機がレベッカの復讐――良心の呵責からの贖罪などではなく――であることが示唆されています。そうなると搭乗者のうち、少なくともレベッカから“すべてを奪い取った”立場であることが明らかになってくるエドワード以外の五人は、犯人ではあり得ないことになります。
  2. 「ジェリーフィッシュ(IV)」でウィリアムらが疑いを向けている(136頁)サイモンは、今ひとつ立場がはっきりしないところがある*4ものの、犯人視点で記述された「インタールード(II)」視点人物とは別人として登場している(90頁~91頁)ので、これまた犯人ではあり得ません。
  3. 「ジェリーフィッシュ(VI)」でウィリアムがバラバラ死体を発見する場面、(ウィリアムの思考を除いた)情景描写の地の文では、は静かに座っていた。”(236頁)青年は背を向け続けていた。”(237頁)などのように死体の身元が“エドワード”と明記されず、搭乗者の中でエドワードただ一人だけ、その死が確実でないことになります。

 このうち〈2〉については、ここでサイモンと出会っていたことが、「エピローグ」で犯人が回想するサイモンへの接近(299頁)のきっかけなので、やむを得ないところがあります。しかし〈1〉については、犯人の動機を明かすにしても、せめて“レベッカが彼らにすべてを奪い取られ”(8頁)という他人事めいた記述がなければ、犯人が(研究成果の剽窃は別として)“レベッカの死には関与していない”可能性も残ったはず。そして〈3〉は、このあたりの“フェアな”記述そのものは不可避ではあるのですが、“青年”一頁に五回も出てくる(237頁)のはさすがにやりすぎ(苦笑)というか、逆に目立たせようとしているとしか考えられません。

 決定的なのはもちろん、「地上(VI)」で捜査陣が明かした被害者の身元で、「ジェリーフィッシュ」のパートを読んで実際の搭乗者を知っている読者にとっては、バラバラ死体がエドワードではなくサイモンだったことが示された時点で、エドワードが犯人であることは明らか。かくして読者には――マリアら捜査陣が、推理によって犯人に到達するのは不可能だということもありますが――作中の捜査陣よりもかなり早く犯人がわかってしまうことになります。

 ちなみにこの部分、“そして最後の六人目、首と手足をバラバラにされた奴は、/サイモン・アトウッド。”(263頁)という一文にはさすがに驚かされたのですが、「地上」のパートでマリアがサイモンの名前にたどり着いている(158頁)にもかかわらず、その後サイモンが捜査の対象になった様子がなかったので、サイモンが被害者だったことには腑に落ちる感覚がありました。
 それよりもむしろ、ここでサイモンの名前が出たこと自体が衝撃的。というのも、上の〈3〉に書いたようにエドワードと被害者の入れ替わりトリック――別人の死体がエドワードのものだと偽装される――を想定していた*5ためで、捜査陣が犯人の目星をつけていない以上、当然“被害者はエドワードだと見なされている”――被害者がエドワードではないことが判明すれば、技術開発部の最後の一人であるエドワードが最有力の容疑者となる――と考えていたので、前述の冒頭の計画書に完全に騙されてしまいました。

 いずれにしても、作者が最後まで犯人を隠し通すつもりがなかったのは明らかで、半ばフーダニットを放棄してあるといっても過言ではない状態となっているのは、この種のミステリとして異例でしょう。“なぜそうなっているのか”*6をつらつらと考えているうちに、一つ思い浮かんだのは、もはや〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉形式での“意外な犯人”は困難になっているのではないか、ということです。

*4: 「ジェリーフィッシュ(V)」では、サイモンが大学時代にファイファー教授の研究室に入ったことが語られ、その中で“本物の飛行船好き”(198頁)とされているので、そのままUFA社の技術開発部に所属した可能性は高そうですが、“サイモン――あいつは今、どこで何をしているのか”(198頁)というウィリアムの独白が、微妙なミスディレクションとなっています。
*5: DNA鑑定が不可能な時代だとこれ見よがしに説明されている(179頁)ことで、それを利用した入れ替わりトリックが使われているとミスリードされてしまうところがあり、なかなか巧妙な仕掛けだと思います。
*6: アンフェア気味の冒頭の計画書が絡んでいるから、ということもあるかもしれませんが、これはどちらかといえば逆に、どうせ早めに明かすつもりなのでアンフェア気味の仕掛けを突っ込んだような印象があります。

*

 以下、本書から少し離れて〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉全般に話を広げますので、興味のない方は  まで飛ばしてください。

 まず、三津田信三による〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉の定義を、以下に引用します。

 一、事件の起こる舞台が完全に外界と隔絶されていること。
 二、登場人物が完全に限定されていること。
 三、事件の終結後には登場人物の全員が完全に死んでいる――少なくとも読者にはそう思える――こと。
 四、犯人となるべき人物がいない――少なくとも読者にはそう思える――こと。
  (三津田信三『作者不詳 ミステリ作家の読む本』講談社文庫下巻123頁)

 定義〈一〉・〈二〉はクローズドサークルもの全般に通じる条件ですが、それを前提として定義〈三〉の状況が作り出されるのが〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉の特徴です。そして定義〈三〉の結果として定義〈四〉の状況が生じる――つまり、“登場人物の全員が完全に死んでいる”ことで“犯人となるべき人物がいない”わけで、その状況自体が強烈な謎となるのはもちろんですが、同時に、いわば拡大・変形版バールストン先攻法”――必ずしも犯人が“死んでいる”とは限らない――として犯人を隠蔽する役割を担っている、といえるでしょう。

「いい? たとえ真相がどんなものだろうと、可能性はたった二つしかないのよ。
 犯人は、試験機の中で発見された六人の中にいる
 犯人は、試験機の中で発見された六人の中にいない
  (208頁)

 〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉の犯人について、本書には上に引用したマリアの台詞がありますが、“発見された六人”(=死体)が対象となっていることからもわかるように、これはあくまでも事件終結後の結果しか知り得ない作中の捜査陣の視点によるものであって、クローズドサークル内部での事件の進行を俯瞰できる(ことが多い)読者の視点からすると、事件発生前の犯人の所在の方が重要ではないかと思われます。

 この、事件発生前の犯人の所在については、上の三津田信三による定義のうち、前提条件となる定義〈一〉・〈二〉の真偽に基づいて、以下の三つのパターンに分類することができるでしょう(注:“三つのパターン”が思い浮かばないという方は、できれば以下のリストを飛ばしてください)。

1.定義〈一〉・〈二〉が真の場合
 舞台が外界と隔絶され、登場人物が限定されているのですから、当然ながら――定義〈三〉の真偽にかかわらず*7――犯人はその中にいることになります。
→ A.犯人はクローズドサークルの中にいた

2.定義〈一〉が偽の場合
 舞台が外界と隔絶されていなかった――つまりはクローズドサークルが見せかけだったという状況で、必然的に定義〈二〉も偽となります(むしろ、それを成立させるために“見せかけのクローズドサークル”が用意されている)。
→ B.犯人はクローズドサークルの外にいた

3.定義〈一〉が真で定義〈二〉が偽の場合
 舞台が外界と隔絶され、なおかつ登場人物が限定されていない――というのはわかりにくいかもしれませんが、『作者不詳 ミステリ作家の読む本』での“この場合の限定というのは(中略)全ての登場人物を等しく舞台に上げるという意味がある”(同書下巻124頁)を踏まえると、どのような状況なのか想定できるのではないでしょうか。
→ C.犯人はクローズドサークルの中で隠されていた

 対応する作例が思い浮かぶ方も多いと思いますが、アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』が発表されてから現在まで80年近くの間、いくつかの〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉が書かれてきた結果、上に挙げた〈A〉~〈C〉の三つのパターンはすでに網羅されている、というのが現状です。そして、〈B〉と〈C〉は犯人の所在自体がトリックであるため、読者がすでにそのパターンを知っている場合には当然、ほとんど意外性はないでしょう。一方、〈A〉は犯人の所在についてトリックが仕掛けられているわけではないので、〈B〉・〈C〉のような問題は生じません……が、しかし。

 クローズドサークルものでも“全滅”でない場合には、生き残りの容疑者が存在することによって、一般的な手法で“意外な犯人”を演出できる余地もありますが、〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉では定義〈三〉・〈四〉がネックになってきます。つまり〈A〉の場合、犯人も含めた登場人物たちの全員が“死んでいる(ように見える)”ことによって一様に容疑の圏外となるわけで、誰もが等しく“死んだはずの犯人”候補(?)である状況の中で、さらなる意外性を演出することは困難――極論すれば、誰が犯人であっても同程度に“意外”でしかないことになってしまうので、実質的には登場人物の中の誰一人として“意外な犯人”たり得ない*8、といっても過言ではないでしょう。

*7: 殺人事件である限りは定義〈四〉が偽であり、したがって定義〈三〉も原則として偽(例えば、“事件の終結”が見せかけであるなど)ということになりますが、例外的に定義〈一〉~〈三〉がすべて真という作品もあります。
*8: サプライズがあるとしても、“死んだはずの人物がどうやって犯人たり得たのか”というハウダニットの性質が強くなると思います。

*

  (ここまで)

 というわけで本書は、〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉での“意外な犯人”が困難という認識の下、フーダニットにはいわば“見切り”をつけて、〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉の状況をどのように成立させるか――すなわちハウダニットに特化させた作品、ととらえることができるように思います。

 ここで連想したのが、〈読者が犯人〉ネタを前面に押し出した(←ネタバレではありません)深水黎一郎『最後のトリック』で、本来は“究極の意外な犯人”であったはずのネタが、いくつかの作品で既知のものとなって犯人の意外性が失われた結果、フーダニットから“どのように成立させるか”というハウダニットへ移行するに至ったものです。これと同じように、〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉もフーダニットからハウダニットへ移行する時期が訪れているのではないか――今にして思えば、本書以前にも一部の作品でその傾向が表れている感があります*9――と考えてみると、本書は新たなステージの〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉であり、まさに“21世紀の*10『そして誰もいなくなった』”というべき作品ではないでしょうか。

*9: 例えば三津田信三『作者不詳 ミステリ作家の読む本』では、二通りの〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉が収録されていることで、その手法の違いがクローズアップされるところがあると思います。また井上真偽『その可能性はすでに考えた』は、バカトリックが連打されるハウダニット指向の作品ですが、カーター・ディクスン『ユダの窓』風に容疑者を一人だけ残した〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉と考えることもできるでしょう。
*10: 知る限りでは、20世紀中にはまだ、〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉に“意外な犯人”の“フロンティア”が残されていたので、本書のような作品が書かれる可能性は低かったのではないかと考えられます。

*

 本書の最大の見どころである、〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉を成立させるハウダニットは、事件終結までの前半部分と事件終結後の後半部分との二段階に分かれており、異なる二つのトリックを用いることによって、クローズドサークル内部の被害者(ウィリアム)、クローズドサークル外部の捜査陣、そして双方を俯瞰できる読者という三つの視点に向けて〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉を演出してあるのが非常に面白いところです。

 まず事件終結までの前半部分は、犯人自身が殺されたように見せかける典型的な“バールストン先攻法”。クローズドサークルの外部から密かに持ち込んだ死体を利用するトリックには前例がありますし、たまたまエドワードとサイモンの“背格好が似ていた”(321頁)こと*11や、ウィリアムがサイモンの死体だと気づかなかった幸運など、この部分だけみるとさほど面白味があるとはいえません。もちろん、他ならぬサイモンが身代わりとなることが、搭乗者を誤認している捜査陣に向けた“仕込み”となっているわけですが……。

 一方、事件終結後の後半部分は非常に秀逸。「プロローグ」“最後の仕事”として“私自身を、この雪の牢獄から消し去る”(いずれも9頁)ことが挙げられているので、クローズドサークルからの脱出トリックがポイントとなることは示唆されているともいえるのですが、〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉でこの部分に注力されている作品はちょっと思い当たりません*12。これは、通常はあくまでも犯人を隠蔽するトリックに重点が置かれるため、さらに脱出のためのトリックを用意する“贅沢”は難しいからだと考えられるのですが、その点、従来の作品とは違ったところで勝負して、〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉を一種の密室ものに仕立ててみせた本書は、実にユニークな作品といえるでしょう。

 そして、トリックそのものも非常によくできています。実をいえば、トリックの要である“脱出のためのガジェットがもう一つあった”というところまで、海外のSFミステリに前例があるのですが、その扱いは本書の方が格段に――といったら前例の作者に失礼かもしれませんが(苦笑)――巧妙です。

 目を引くのはやはり、「ジェリーフィッシュ」のパートに仕掛けられた叙述トリック“たった三部屋に全員でどう夜を明かすのか”(15頁)や、(“ウィリアムは二号室を見やった。/フィリップ・ファイファー教授は(後略)(15頁)の後に)“二号室の扉が視界に入った”(19頁)ネヴィルが教授のことを思い出しているあたりは、ややあざとすぎるようにも思われますが、露見する危険が最も高い無線での会話を 、“内線電話は引かれていない。(中略)小型無線機がその代わりだ。”(13頁)という一文で同じ船内での“内線電話”だと思わせる*13仕掛けがお見事。また、作中でエドワードが(読者のために)解説している(312頁)「ジェリーフィッシュ(III)」冒頭の〈ジェリーフィッシュ〉を繋留する場面(92頁)もよくできています。

 叙述トリックを見抜く手がかりとしては、教授のいた二号室で“上段のベッドにはシーツも敷かれていない”(21頁)――誰もそこを使っていないこと、エドワードが自動航行システムの暴走を報告するのに被せてクリスがこっちもだぜ”(52頁)と口にしていること(“航行モード切替スイッチ”と“緊急停止スイッチ”はすぐ近くにある(一人で操作する)はず)、そして散弾銃を持ち帰ったクリスが“前髪から小さな雫を滴らせ”(144頁)ていた――取りに行くのに一旦船外に出る必要があったこと、などがありますが、これらに気づくのは困難ではないかと思われます。

 一方の「地上」のパートでは、“もう一つの〈ジェリーフィッシュ〉”という仮説が検討されながら、他の〈ジェリーフィッシュ〉の“アリバイ”が成立(262頁)して否定される中で、“ゼロ号機”が盲点から飛び出してくるのが鮮やか。完成していたステルス素材や“対照実験”の意義など、真相につながる手がかりは用意されていますが、「ジェリーフィッシュ」のパートを知らないために先入観のない作中の捜査陣に比べると、読者が真相を見抜くのは難しいようにも思います。

 大がかりなトリックなので、単独犯が一から準備するのは無理がありますが、“亡命組”の計画を乗っ取る形になっているところがよくできています。もう一つの〈ジェリーフィッシュ〉の準備作業などももちろんですが、エドワードを“身代わりの死体”にする――そのためにエドワードの痕跡を消す――計画が逆用されることで、作中の捜査陣に対しても〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉の状況が完成しているのが絶妙です。

*11: エドワードの外見もほとんど描写されていませんが、本篇には直接登場しないサイモンの外見は描写する機会がないので、“後出し”気味になるのもやむを得ないところでしょう。一応、“第二チェックポイント”(257頁)に現れた人物(実際にはエドワード)の“特徴に当てはまるメンバーが教授ら(注:捜査陣が把握しているのはエドワードの代わりにサイモン)の中に(中略)ひとりだけいた”(258頁)ことで、容貌が似ていることは示唆されていますが……。
*12: 本書以外での結末は、犯人が(一応伏せ字)クローズドサークル内で自殺することによって“全滅”が完成する(ここまで)か、あるいは最後に生き残った犯人の正体が読者に明かされたところで終わる場合(外部の捜査陣を考慮することなく、読者に対してのみ〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉が成立すれば十分、とするもの)が大半ではないでしょうか。
*13: 実際に、自動航行システムが暴走した場面で、同じ船内にいるウィリアムとエドワードが“内線電話”として使っている(51頁~52頁)ところも見逃せません。

*

 「エピローグ」での“正しい質問”――あんた、誰?(282頁)は、やはり衝撃的。“エドワード・マクドゥエル”が偽名であることは直前に明かされていますし、犯人がレベッカの身近な人物でないことも「インタールード」で読者に示唆されているのですが、犯人とレベッカの――レベッカが実験ノートを贈り、犯人が復讐のために殺人に手を染めるほどの――交流が、外面的には、警察の捜査力をもってしても浮かんでこないほど希薄なものだったという落差には、心を動かされるものがあります。

 そして、最後まで犯人が無名のまま、逮捕されることもなく〈ジェリーフィッシュ〉で空のかなたに消えていく、犯人とレベッカの関係さながらに儚くおとぎ話めいた印象を残す結末もお見事です。

2016.10.20読了