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このページの内容
ダンテス・ダイジの人と思想
『素直になる』の紹介
『最高に生きたい』の紹介
『君がどうかい?』の紹介
『十三番目の冥想』の紹介
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ダンテス・ダイジの説明は下にあります。
ダンテス・ダイジ(雨宮第慈)の講話録を
紹介しています。
購入希望の方は書籍の紹介のページを
ご覧下さい。
現在 『十三番目の冥想 雨宮第慈講話録1』
『君がどうかい? 雨宮第慈講話録2』
『最高に生きたい 雨宮第慈講話録3』
『素直になる 雨宮第慈講話録4』
を紹介中
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『素直になる 雨宮第慈講話録4』より
本書については書籍の紹介のページも御覧ください。
ダン「うん。よく救世主というか、偉大な聖者というか、そういうものっていうのはさ、一つの時代に一人いるとか
さ、いろんなこと言われるでしょ。それはサットグルとかなんとかいう(笑)。
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『最高に生きたい雨宮第慈講話録3』より
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M「キリスト教で言う内在のキリストと仏教で言う仏性というのは同じものなんですか。」
ダン「同じものです。ただし同じものだけど注意してほしいのは命そのものにおいては同じなんだけど、個性にお
いては違うということ。それは信仰にも関係するんだけど、本質的な個性ということと、神でも絶対無でも実相で
もいい、君は今、実相の本を読んでるからね、その実相ということと個性というものは切り離すことができない形
で存在するんだ。例えばよく宗教というものをただ額面通りに読むと、個性というものを否定して完全に帳消しに
してゼロになって無我になってそこが悟りだ、ということを言うんだけど、そうじゃない。実相というものが厳然とし
て存在していて、実相的個性というものがみんなに備わっているんだ。」
M「その個性というのは、いいも悪いもないんですか。」
ダン「ない。絶対的にいいことだ。」
M「別の言葉では魂と言ってもいいんですか。」
ダン「うん、いいよ。みんなどっちかを選ぶよ。タイプによるんだけど、厭世的というかこの世の全体を否定してし
まうという性分の人だといきなり実相そのものの中に飛び込もうという形で生きていくよ。そうではなくまだこの世
の中に魅力や心ひかれる部分をもっている人の場合だと、自分自身の本当の個性に出会おうとして生きていく
よ。」(P7〜8)
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の約束ごとに立ってはいないんだ。例えば君はおふくろさんを絶対と言うかも知れないし、おふくろさんを神と言うかも
知れない。純粋宗教の場合に、それが自分のバイブレーションと密接に結びついていた場合、誤解しやすいんだ。科
学的な客観性を持っていたら、それはたいした意味はないよ。もちろん、冥想中に、呼吸とか心拍とか脳波が変化す
るというのは科学的なものだよ。それは生理学的なものだよ。だけど、それは純粋宗教とは何の関係もない。ただ、
そっちからそれを見つめたに過ぎない。イエス・キリストだって、フロイドが何かの精神分析学者にかかったら、精神
分裂病になつてしまうかも知れない。
大切なことは君がどうかいだよ。君がどうかい?いい?君がどうなのかということさ。そして、君が生き生きしている
か、君がOKか。君がOKならさ、君は今度は共通の約束事の中でさ、本当に役立つことができるよ。そういう約束事
の世界を越えたものだから、宗教は。越えたものじゃなきゃあ、絶対じゃないじゃないか。」
て、それは全くカラーがない。どういう風に生きなくてはいけないということを全然与えてくれない。それは宗教でさえな
いから。もし宗教なら、宗教的人生を生きたいとか生きなければならんとなるかもしれない。そうすれば、いろんなそ
れらしい姿というのを選んでいかなくちゃあならない。だけど冥想そのものはそうじゃないんだ。だから冥想から宗教
家になる人もいる。冥想から詩人になる人もいる。冥想から遊び人になる人もいる。冥想から武人になる人もいる。
冥想から政治家になるやつもいれば、冥想からパン屋になるやつもいる。冥想から乞食になる人だっている。ただ冥
想というのは、完全にその人間というのが絶対そのものである、絶対というのも愚かなぐらい絶対そのものであるとい
うことを確認させるもの、そしてそこから自然に流れ出して彼自身の人生を歩ましめるもの。ただその限りにあるだけ
なんだ。あとどのような生き方をしようともう全然関係ない。それはその人自身が持って生まれた本性。冥想を冥想自
体の中で戯れる人というのは主に、禅で言えば魔境、意識のレベルの中でいろんな世界があるわけ。霊の世界と言
っていい。その中だけで充分もう楽しめるというのかな。早い話が誰にも会わないでさ、こもって、今日は仏界の方に
旅したとかさ、今日は、金星の方に幽体でもって行って来たとかさ、それだけでもう充実しちゃっているというの。そう
いうのは、冥想の冥想者にあたるわけだ。幻想家と言ってもいい。神秘家と言ってもいい。だから冥想の何々、という
風になるわけ。冥想のパン屋さん。冥想のおまわりさんとか。」
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『十三番目の冥想』雨宮第慈(ダンテス・ダイジ)
講話録 渡辺郁夫編より
付録として『原典救世主入門』が入っています。
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『君達にはいつでも選択が任されている。別の未来、
そして別の過去も。』
ダン「ここで肝心なことは、未来はともかく、過去は固定的なものだと考えているでしょ。動かすことのできない
ものとして。そうではない。もし心が本当に素直な状態になったらね、過去さえも変わってしまう。
例えばね、
早い話が、俺がここに憎しみの心でいたとするだろう。そうすると、周りの人は皆は恐ろしがる。もし愛の心でいた
ら、とか…ものの見方というのは無数にあるんだ。そして、段階に応じて変わってくるんだ。ある人間にとって悪いこ
さ、もっと高い目から見たら、ものすごくいいことがあるかもしれない。だから運命学の限界というのはそこにあるん
だ。占いとかね。それは一つの立場からしかものの見方を教えないんだ。だけど実際はそうじゃない。もっと無数の
目がある。悪いことに見えても、ものすごくいいことがある。そういうものがある。そしてそれは何によって支えれる
かというとね、一番自分の中にある素直な優しさ。もし君がさ、優しい目で自分と周りを見るとする。そうすると、
どんなに優しい一つの神秘的な流れがあるかがわかる。
ええとね、正確に言うと、冥想によらないで人間が進化するということはあり得ない。絶対にあり得ないんだ。
そういうふうにできているんだ。それはものすごく偏った見方のように受け取られるかもしれない。だけどそうじゃ
なくてね、ええと、それは、今の科学的な合理的な考え方の中にあまりに染まっているから、その価値がわからな
いんだ。だからよくインテリが,『歎異抄』を読むでしょ、親鸞の。ところがちっとも南無阿弥陀仏をあげないんだよ。
読むだけで、ああ、なんて、哲学的に理解するばかりで、ちっともあげやしないんだよ。ところが親鸞が,歎異抄を
書いたのは(正確には弟子の唯円が、親鸞の言葉を書いたもの)、南無阿弥陀仏ってちゃんとあげてほしいため
なんだよ。だからみてみな、聖者と呼ばれる歴代の人物は皆やってるだろ。やらない人なんて一人もいやしない
じゃないか。クリシュナしかり、釈迦しかり、イエス・キリストしかり、マホメットしかリ、老子しかり。
そしてもう一つ言えることは、ただし、冥想というのは、一つの座ったりというような形だけではないということ。
ある人間が、本当に素直な生き方を通している時に、ぶつかった壁というのを、心をかたくなにしないで、
素直にぶつかった時、自分が本当に解放されるといったこと、それはもちろん冥想。
例えば、俺の最初の恩師である、老子の生まれ変わりの人(伊福部隆彦氏、人生道場の主宰者であった。故
人。)はさ、女房とのけんかがもとなんだ。あの人はそれまで冥想という一つの決められた行というものを全く
信じない人だった。奥さんというのがものすごく勝気な人で、インテリで、二人していつもけんかばかりしていたん
だ。毎日考えるわけ。女房も悪いところがある。俺も、悪いところがある。何としてもこういう生活を改めなくちゃ
ならない。そうしてそれを毎日のように考えて、またけんかをするんだ。そして女房も悪い。しかし自分の中にも
悪いところがあるとまた考えるわけなんだ。ところが、ある日ふと思ったんだ。女房の悪いところを指摘したって、
それは自分の都合だし、自分の悪いところを指摘したってそれに対して知的理解を得るだけで何も起こりはしな
い。その時思う。ああ、こういうことをやっているよりは、今一番自分が素直にやりたいことをやろう。そして机に
向かってさ、原稿を書きだしたの。それがなすべきことだったから。心ある道だったから。その人にとって。そして、
その瞬間、それまで、神というのはどこかよそにいると思ってた。あるいは、そんなものは人間の想念の作り出した
空想だと思っていた。それがそうじゃないことがわかった。神しか本当には存在していないことがわかったんだ。神
が様々な姿をとって、一つの道を、一つながりの愛を。
うん、そして、別の未来、別の過去の選択ということなんだけど、選択というのは、肉体人間の立場から書かれて
いる。本質的には選択するんじゃなくて、流れそのものになるんだ。流れそのものになったとき、肉体人間の側から
見れば、あたかも、自由に選択したように見える。で、絶対の白由というのは、絶対の不自由。例えばね、絶対
の自由というのはさ、チューリップはチューリップとして咲くこと。ひまわりは、ひまわりとして咲くこと。桜が桜と
して咲くこと。だから、それは絶対の束縛でしょ。自分の与えられた流れは桜かもしれないし、それとも雑草かも
しれない。でもそれを咲くことだ。だからそれは、絶対の白由であり、同時に絶対の不自由。ところが、頭で理解
した自由というのは、そうじゃない。桜のくせにチューリップになりたがったり、なれると信じ込んじゃう。そういうこ
と。でもそうじゃない。一番自分にふさわしい流れというのは、既にあるんだ。その流れに自分達が一致した時、
そして一致させるためには、素直になることだ。一致した時、ほんとにその人は安らぎを得る。そういうわけで、
別の未来、別の過去ということは、あなたがあなたに忠実になったっということ。」
(p31〜p32)
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ダンテス・ダイジについて
雨宮第慈、如意第慈の名も用いています。ダンテスの名は『十三番目の冥想』に述べているように、過去世
での名の一つをとっています。なおダイジは現在知られている歴史に残っている名ではインドのクリシュナ神の
実在のモデルであったと述べています。
本名は雨宮第二、旧姓は大塩で、学生時代までは大塩であったようです。姓が変わったのはお母さんの結婚の
関係と聞いています。伊福部隆彦先生のご子息である高史さんとは高校時代の同級生と聞きましたが、高史さん
は大塩と呼んでいました。その縁で、伊福部先生と会ったようです。伊福部先生からは印可を受け、杖をもらっ
たそうです。
1950年2月12日東京生まれ。
十七歳で神に目覚める。この時のことは、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』にテレビを消したときのこと
として書かれています。なお私がダイジよりもらった「死の二の助言」という肉筆原稿には、大塩第慈の署名
のあとに、私にくれるときに書き加えたと思われる「(16才の時) 如意第慈」の署名があります。その内容は
これが十六歳かと思われるようなものです。筆跡もすでに後年のものと同様です。
十八歳で只管打座により大悟徹底。この時のことは、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』に伊福部先生
の詩を読んでいたときのこととして書かれています。伊福部先生と同様に、道元禅をダイジは高く評価し、
その関係か曹洞宗の大学である駒沢大学の仏教学部に進みますが、中退したようです。
ただ大学時代に講義を受けた先生の中には、悟った人もいて、そういう先生(横井覚道師)とは本気でやりあった
ことをなつかしく話すのを聞きました。
なお大本教や生長の家でも勉強し、私には出口王仁三郎の本をくれました。『十三番目の冥想』の後書きに書い
ているように、私との冥想中に、ダイジが王仁三郎の歌を歌いましたが、本当に心に響くものでした。
生長の家の谷口雅春師には会ったことがあるそうです。ふだん神道の話はそれほどしませんでしたが、神道
を体得したそうです。
その後沖縄にいましたが、沖縄時代に首里の臨済宗万松院の木村虎山師と出会い、臨済禅でも大悟していま
す。
その後1977年に東京に帰り、そのころのことが『十三番目の冥想』に書かれています。その後インドに行き
ますが、シャンバラに行って来るといいました。私はシャンバラはこの世のものではないと思っていました
のでどうしてインドなのかと尋ねましたが、ダイジはインドに入り口があるのだと言いました。私はダイジはもう
帰ってこないのかもしれないと思いました。ダイジを一カ所にとどめておくことは無理なのです。(ただし
『十三番目の冥想』にカルカッタでのことが書かれているように、ダイジがインドに行くのはこの時が初め
てではなく、在学中か中退後に行っているはずです。)
インドではババジに会い、クンダリーニヨーガを伝授され、クンダリーニヨーガで体外に出たそうです。ダイジが
37歳で亡くなったとき、驚きはしたものの、ある程度冷静に受け止められたのは、インドに行く前後のこと
があったからだと思います。
そもそもダイジとの関係は普通に考える師弟関係とは違っていて、「君は君になれ」といつも言っていましたから、
頼ったり、よりかかったりすることができません。ダイジも自分のコピーを作ろうとはしませんでした。道場(それ
らしいもの)があった時期はありますが、教団など作る気はありませんでした。そういうことを期待した人は
当てはずれだったろうと思います。噂を聞いて、一二度だけ会ったという人が多いと思います。ダイジは
すべて見透かしてしまうので、一二度会ってそれが分かってしまうと、もう会えなくなるのだと思います。
ダイジが自分の恩師を伊福部隆彦先生、木村虎山師、ババジの三人としているのは、以上のような経緯によりま
す。
東京では、沖縄から帰ったころは、両親のおられた三鷹に住み、インドから帰ってからは青梅、さらに福生と
移りました。
福生にいた死の前年86年に『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』という本を出しましたが、この本には
ダイジの住所と電話番号が書いてありましたので、連絡を取った人も多いと思います。この本は冥想方法の解説
で、本が出るまで我々はそのコピーをもらい、参考にしていました。
1987年12月11日遷化。その死の意味はいろいろうけとり方があるでしょうが、私は冥想の延長上にあると思っ
ています。自らの意志で肉体を離れたのだと思います。
1989年に『アメジスト・タブレット・プロローグ』が出ました。この本は『救世主入門』の延長上にあり、一般の人に
もわかりやすいと思います。これも我々は生前コピーをもらって参考にしていました。
1990年に『絶対無の戯れ』が出ました。一種の詩集です。この中の詩は部分的には見たことがあるような気が
しますが、ほとんど遺稿と言っていいのではないかと思います。残念ながらこの本は今は絶版のようです。
なお、ダイジの死後に出た二著作の編者となっているのは、ダイジの母方の従弟である南雲浩一(浩乙)さん
です。『十三番目の冥想』に登場します。南雲さんと私は早稲田の東洋哲学専攻の同窓です。南雲さんの方が
年長ですが、大学の仏教青年会で知り合い、専攻も同じになりました。私がダイジと知り合ったのは、南雲
さんの紹介です。南雲さんはダイジの死後は道院(道教寺院)に入り、その後離れたと聞きました。『十三番目
の冥想』は、東京では南雲さんを通じて配布しました。
ダイジは結婚はしませんでしたが、佐藤のり子さんという人と住んでいました。子供はありません。のり子
さんはダイジの死後、石垣島に移ったと聞いています。
ダイジの指導を受けた人のその後は様々です。一人一人が心ある道を歩むというのがその教えでした。
私は教員となり、大学時代以来の浄土教の勉強を続け、その他のテーマも含めて、研究と著作を続けていま
す。『十三番目の冥想』に出てくる中広君は私の友人ですが、広島で会社に勤めながら、大学時代以来の
修行を続け、真言宗の僧侶になりました。会社勤めは続けながら、根気よく人生相談に応じています。
一度ダイジの原稿を整理する必要があると思っています。また何かありましたら追加したいと思います。
ダイジの他の著作(私家版)・講話録 (いずれも現在は頒布していませんので、ご了承下さい。)
『超宗派的冥想』(1976年発行)
副題が「自己解放の手引き」。 ダイジが沖縄時代に書いたもので、冥想の意義を述べた上で、
主な冥想法を解説したもの。 パンフレット状の薄い冊子(B5版17ページ)です。
その内容にクンダリーニ・ヨーガを加えて、大幅に増補したものが『ニルヴァーナのプロセスと
テクニック』と言えると思います。初期のダイジを知る上での資料的価値はありますが、内容的には
『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』にほぼ包含されます。
『メディテーション・トラベル・ガイド』(1978年発行)
ダンテスの特色を述べた序文に続き、『原典救世主入門』とその他のアフォリズムから成るA5版の冊子。
『原典救世主入門』の解説の講話録が『十三番目の冥想』です。『原典救世主入門』は『十三番目の冥想』
に付録として入っています。
(追記)『君がどうかい?』に『メディテーション・トラベルガイド』の後半部分の朗読が入っています。
『窮極講義』(講話録)
『臨済録』の講話録で、禅的な内容ですが、原典を離れても成立する内容です。
渡辺録音のテープを手書きで起こした小冊子。なお冊子には題名も奥付もなく、『窮極講義』という
のは元になった私のテープに付けていた仮の題名で、ダイジが付けたものではありません。
他にダイジの講話、質疑応答をまとめ、ダイジの目を経たものとして、渡辺編『随時説法』があり、
これらの講話録は今後出版の予定です。 講話録としては『十三番目の冥想』が最も長くま
とまったものです。
(追記)『素直になる』の第十章が『究極講義』に当たります。
その他のダイジ関係書籍としてブルー著『ぬけがら日記』(1999年無明庵発行)があり、「古書大予言」
(書籍の紹介のページを参照)で扱っていますので入手可能です。その後半にダイジの思い出が
書かれています。著者のブルーさんは、晩年のダイジに4〜5回会ったという人です。
この日記はブルーさんのホームページに載せられていたものだそうですが、現在そのページは
閉鎖されたとのことです。
ダイジの思想を知る上では、『アメジスト・タブレット・プロロ−グ』と『十三番目の冥想』がいいと思います。
『十三番目の冥想』は講話録ですので、思想のみならず、雰囲気や語り口が伝わると思います。
ダイジの行法は、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』に書かれています。ダイジの指導した冥想法は、
ほぼここに尽くされていると思います。他にハタ・ヨーガや導引術も指導していました。私は導引術の一種
である八段錦を教えてもらいました。(市販されている八段錦のテキストのものとは形や呼吸法が若干異な
ります。)これらは、冥想の前後に組み入れることで、冥想に入りやすくし、また心身のバランスをとるための
配慮であったようです。ダイジはインド、中国、日本の主な行法はほとんど修めていたと思います。その中
から相手に合ったものを教えていました。
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ダンテス・ダイジの著書 『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』森北出版刊
『アメジスト・タブレット・プロローグ』森北出版刊
『絶対無の戯れ』森北出版刊
(森北出版の本は直接書店か、下記のホームペジで注文してください。)
森北出版ホームページ http://www.morikita.co.jp/
お知らせ 『絶対無の戯れ』復刊のために投票のお願い
読者の方からダイジの『絶対無の戯れ』復刊のために投票をしてほしいとの要望を受け、投票しました。
こういうサイトがあるのを知りませんでした。http://www.fukkan.com/ です。リクエスト検索で、
ダンテス・ダイジを入力して下さい。投票に際して情報の入力を求められますが、私は住所や電話番号は
入力しませんでした。それでも受け付けてもらえます。ご協力お願いします。
NEW! 『絶対無の戯れ』 がPOD版(プリントオンデマンド)で森北出版から再版されました。
読者の皆様の協力のおかげです。どうぞ森北に御注文下さい。
なお復刊ドットコムへの投票は引き続きお願いします。できればPOD版ではなく、書店に並ぶ一般書の形に
してもらいたいからです。よろしくお願いします。
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