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『日と霊(ひ)と火』(2002年5月 洛西書院・刊)の紹介
本書については「書籍の紹介のページ」もご覧下さい。
( 伊福部隆彦の紹介は下にあります。)
『奥の細道を読む』
(私家版1996年)より
『和の光 文学と平和』(2015年刊に収録)
私はこのような態度を親鸞を通して学んだ。彼の経典研究が普通の学僧と違ったのは、徹底して自分にとって
の意味を問い続けた点にある。客観性などというもので人の目を気にしたりはしなかった。だから比叡山の学僧の
解釈とは全く違っていただろう。しかし自分の生死をかけた問題に人の目は意味をなさない。自分の魂を喜ばせる
のを彼は求め、それが独自の解釈になっていった。結局はそれが人々に貢献したのである。研究というよりは、
やはり参入と呼んだほうがいいだろう。あるいは両者を合わせた参究と呼んでもよい。もちろんこれは単純な崇拝
とは異る。崇拝者はやはり自分をどこかに棚あげにして、自分を忘れようとしているのであって、その人にとっての
進歩はない。真理によって白由になることがないのは、研究者と同じである。私も結局は研究者にはなれなかっ
た。もちろん能力がなかったと言えばそれまでであるが。人は自分に忠実に生きるしかない。『奥の細道−につ
いて書く態度も今述べた参入を中心として、研究を周辺に置くこととする。『奥の細道』や芭蕉についての研究は
あまりに多すぎて、かえって自分の目をくらまされそうである。旅行にあたって私は文庫本とガイドブックを持って行
ったが、文庫本の注でもかなりのレベルである。それらの注釈とともに、何よりも自分の足で歩いてみて感じた
ことを中心に置いて書いてゆきたい。ただし私の訪れたのは『奥の細道』の旅が日本海側に抜けるところまでで
あって、『奥の細道』の後半部である越後からの北陸路は今回は行っていない。また行きたくて行けなかったのが
、出羽三山である。後に述べる,『奥の細道』の旅の意味から考えると、出羽三山は重要だと思うのだが、また
の機会に訪れたい。また本稿は紀行文ではないから、,『奥の細道』の要所要所で私が考えたことを記すという
形にとどめたい。続いて十章では現代社会における芭蕉の意義を考えた。合理主義と情報化がとめどなく進行す
る現代文明の中で、言葉本来の役割とは何かを芭蕉の発句を通じて考えてみた。国語教師として言葉にたずさわ
る私の課題であるとともに、昨年度に引き続いての平和論の一環でもある。
二、 『奥の細道』の旅の意味
芭蕉の紀行文としては『野ざらし紀行』(『甲子吟行』)、,鹿島紀行』(『鹿島詣』)、『笈の小文』、『更科紀行』、『奥の
細道』の五点がある。その中で旅としても、紀行文としても最大のものは言うまでもなく『奥の細道』である。その
旅は旧暦の三月下旬に始まり・、約五カ月を要して、六百里(二千四百q)を歩くという当時としては大旅行であ
る。これほどの旅行が思いつきではできないことは言うまでもなく、「そぞろ神の物につきて心をくるはせ」と述べ
ているが、ふらりとあてもなく旅立ったものではない。やはり二つ、ないし複数の目的意識のもとにこの旅行はな
しとげられた自覚された旅であったと思うのである。経済力や体力、脚力もさることながら、意志の力がなければ
これだけの大旅行はなしえないと思う。太陽暦では五月から十月にあたるから、途中梅雨をはさみ、雨にたたら
れ、道はぬかるみという悪条件の中での旅である。これを歩き通したのは意志の力だと思わざるをえない。私自身
は乗物を乗り継いで巡ってみたのだが、暑さと疲れのために、行くことを断念した場所が幾つかあり、体力と意
志力がなければこの旅は続かないということを強く感じた。単なる物見遊山の旅であればこれだけの苦労をわざわ
ざする必要はない。
その目的意識あるいは自覚とは何であろうか。仮に私はこれを「巡礼、風雅、行」の三位一体の旅と名づけた
い。これは,『奥の細道』の旅の二つ前の旅である,『笈の小文』の旅ともほぼ共通する要素であるが、『奥
の細道』の方が徹底されている。『笈の小文』の後半部に「きびすはやぶれて西行にひとしく、天竜の渡しをお
もひ、馬を借る時はいきまきし聖の事心にうかぶ。山野海兵の美景に造化の功を見、あるは無依の道者の跡をし
たひ、風情の人の実をうかがふ。なほすみかをさりて器物のねがいなし。空手なれば途中の愁もなし。……
もしわづかに風雅ある人に出合いたる、悦かぎりなし」とあり、旅論として知られているが、これらの要素を整
理すると上の三つとなり、それを徹底しようとしているように見える。 (p8〜p9)
『日と霊(ひ)と火』
2002年5月出版 洛西書院・刊
(一)森の国から
(二)火の国から(九州編)
(三)木の国から(紀伊半島編)
(四)水の国から(出雲編)
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『日と霊(ひ)と火』より
二、火の国から --神道の源流--
高天原とは何か
記紀神話では神々の住む国は高天原と呼ばれている。多神教である神道においては、個々の神の性格
の把握も大事であるが、総体としての把握も大事である。記紀神話の神々は大きく分けて「天つ神」と「国つ神」
に分けられると考えられている。「天つ神」は大和朝廷の直系の神々で、征服者の立場にある。それに対し
て、「国つ神」は、大和朝廷に服属していった神々で、被征服者の立場にあると考えられる。日本の神々を表す
のに「天神地祇」という言い方があるが、「天神」が「天つ神」、「地祇」が「国つ神」である。「国つ神」は大和朝廷に
服属することで大和朝廷に協力することとなったから、神道の中に吸収されたわけである。高天原の中心を
なすのはこの「天つ神」であって、もともとは「天つ神」だけが高天原の神々であり、「国つ神」は各地に祀られる
ものであったが、「国つ神」も神道に組み込まれることで、広義での高天原の神々に組み込まれたと考えて
よいだろう。高天原は天上に存在する神道の神々の霊域であって、それが大和朝廷の成立過程で、拡大して
いったと考えられる。もともとはある地域の天上、おそらくは九州の上にあると考えられたものが、やがて
日本全土の上にあると考えられたのであろう。九州の上空にあると考えられたことが、九州の高山である高千穂
への降臨神話を生んだのかもしれない。
このような天上の神という概念をもったことで、宗教的にも大和朝廷は、各地の神々に対して優越的立場を
築いたと考えられる。前章で見てきたように、縄文時代に神の概念があったとすれば、それは人霊や動物霊
から発したもので、それに加えて、自然現象や白然存在のように、人間の力を越えたような力をもつもので
あったろう。縄文の神を、「森に棲む神」、「森に宿る神」、あるいは「山の神」というように述べたが、自分達の
住む世界と非常に近い所に神が住むと考えられていたと思う。それがストーン・サークルやウッド・サーク
ルが成立する時期になると、いく分か天上の神の要素も持ち始めたのではないかと思う。「国つ神」の原点は、
各地を霊域とする「棲む神」、「宿る神」だったと思う。ある一族の生活圏の範囲内がその支配地域と考え
られたであろう。これは現在の鎮守の森に棲む産土神の考えと同様のものであったろう。日本の神社は有名な
神社でなければその祭神がわからないことが多く、村の鎮守の神の場合は、記紀神話に登場するような名の
ある神だった可能性は低い。しかしそれでもその土地の人々にとってはその土地に最も近い大事な守り神なの
である。また国つ神も大きくいえば高天原の神々に加えられると考えて、鎮守の森で拝むことは、結局は高
天原の神々に祈ることと考えてよいだろう。神道は自然崇拝と祖霊崇拝の宗教と言われるが、日本人が「神様」
に祈るときは、どういう神なのかという意識はあまりないはずであって、神とは漠然とした、しかし人間の力
を越えた尊い存在であろうと思う。この漠然さ、あいまいさは、神道の神が、一神教の神のように自分だけを拝む
ことを要求し、それ以外を排除する神ではなく、支配域の拡大とともに神々も増えるというきわめて受容性
に富んだ神であったことと結びついている。大和勢力に対抗した最大の勢力は出雲勢であると考えられ、
出雲の神である大国主は、国つ神の代表的存在であるが、社を建てて祀られることで、神道の中に組みこま
れた。通常の征服者と被征服者の関係ならば、大国主は排除されて、出雲の人々は新しく天つ神を拝むことを
要求されてもおかしくはないのだが、そうはならなかったのである。こうして高天原は拡大する霊域となったのであ
る。 (p34〜p35)
先頭へ
伊福部隆彦について
伊福部隆彦先生はダンテス・ダイジの最初の恩師です。私(渡辺)はダイジに出会ってから伊福部先生のこと
を知りましたが、縁があったのでしょうか、在京中に私が住んでいたところが石神井台で、偶然にも伊福部先生
のお宅のすぐ近くであり、何度かお宅におじゃましました。先生はすでに亡くなられていましたが、ご子息の
高史さんがおられ、お話を伺い、また当時すでに入手しにくくなっていた先生の本を譲っていただきました。
私は東洋哲学を専攻し、授業でも老子がありましたので、伊福部先生の本はよく読ませてもらい、勉強させて
いただきましたました。先生の経歴とその著書を紹介します。
経歴
明治31年(1898年)5月〜昭和43年(1968年)1月。享年69歳。本名は隆輝。
鳥取県智頭町南方出身。生家は代々の社家。県の教育会講習所卒。以後独学。二十三歳で上京し、生田
長江に師事する。二十五歳以降詩人、文芸評論家として活躍する。その後、老子に開眼し、四十歳以降は、
文壇を離れ、老子と禅の実践研究を中心とした生活に入り、人生道場無為修道会を主宰する。
著書
先生の著書は数十冊に及び、分野も多岐にわたっています。ここに紹介するのは私が入手したものが中心で
先生の著作の一部です。手に入りにくいものが多いと思いますが、図書館にはあるかもしれません。検索してみて
ください。(下に述べているように人生道場のホームページで購入できるものがあります。)
老子 『老子眼蔵』 昭和39年 黎明書房(改訂増補第三版)
『無と人間』 昭和49年 近畿大学出版局
『老子道徳経研究』 昭和30年 池田書店
『無為修道会経典』昭和27年 人生道場出版部
道元禅 『正法眼蔵新講』(上) 昭和62年 壮神社(新版)
詩集 『定本 無為隆彦詩集』 昭和41年 神無(かんな)書房
その他(各種評論 宗教論・社会論・人生論等)
『若い人のための宗教論』 昭和30年 学風書院
『新しき文明の礎石を求めて』 昭和43年 帰徳書房
『運の研究』 昭和43年 帰徳書房(発売元 今昔社)
『幸福への出発』 昭和44年 潮文社(新装版)
『書と現代』 昭和40年 木耳社
『近代漢方二人の天才』 昭和41年 東明社
『世界名言集』 昭和51年 潮文社
個人的には『老子眼蔵』が先生の特徴がよくでていて、最も好きです。その次が『正法眼蔵新講』です。
『正法眼蔵新講』(上)(5500円)は現在入手可能だと思います。
問い合わせ先 壮神社 埼玉県川口市朝日2−14−5 TEL
0482-24-3158
壮神社刊行物一覧 http://www.budoshop.co.jp/SojinshaBook-VT.html
現在、人生道場はご子息の伊福部高史さんが継いでおられます。
人生道場のホームページ http://www.vells.jp/jinsei/
伊福部先生の書籍が購入できます。
他に
インターネットで伊福部先生をとりあげたページにつぎのものがありました。伊福部先生のお宅への訪問記が
あります。興味のある方は御覧になってください。
http://www.asahi-net.or.jp/~ep8y-osk/ 「風の便り」のページ
伊福部先生がはじめて見性したときのことを『十三番目の冥想』の中でダンテス・ダイジが語っています。
総合冥想部門のページを御覧ください。ここにはそのときのことを伊福部先生自身が語った文章を紹介します。
『老子眼蔵』より
最初に私がこの不言の教を体験したのは、今より十四年前の昭和十三年六月十五日の午前八時
であった。
それまで私は神という語は使っていたが、それはただ空疎なる概念にすぎなかった。然るにそ
の時、私は突如として神そのものをわが全心身をもって体験したのである。否全心身という言葉
もなお正確ではない。その時、私の全心身はこの宇宙と一体となり、このわが身心をふくめての
宇宙一体、世界そのものが生ける生命、神自体であり、現実のわれはその一部であることを覚っ
た
のである。
今その時の経験を掻いつまんで記して見る。
その時私は何かのことで妻と争論したのであるが、何とかして根本的に妻の性格を改造しなけ
ればわれらの生活は向上させることが出来ぬ。このように間違っている抑々の根本的病根はどこ
にあるか、またわれにも間違いがあろうが、その根本はどこにあろうか、という問題について私は
その時悩んでいたのである。が、その悩みの中で、私はふと思ったのである。それはこんなこと
を何時まで考えていても限りがない。それは救われる道ではない、他人は他人、自分は自分、相
手がどうであろうとそういうことにはかかわりなく、自分の今正しいと思うことだけを実行して
ゆこう、そうしよう、と考えて無駄なことはやめてしまおう、そして私は今の今迄の腹立ちをす
っぽりと棄て去ってしまって机に対い、机の上を整理し、書くべき原稿を書き出したのである。
ところがこの時、ハッとした瞬間、私は異様な心境に自ら入ったのを感じた。それは今迄机に
対いペンを執っているこの自分、それはこの外界、机やペンや室や空気や窓外の景色や、それら
のすべてこの自分ならぬ他のものとは全く別物であったところのものが、その時ハツと気のつい
た刹那に、忽ちこの天地全体と一体のものになってしまったのを感じたのである。その時の気持
を言うと、自分というものが忽如としてこの天地にとけ込んでしもうて、天地即われとなり、窓
外の樹木(柳の木が姻るようにみどりだつた)の梢の空にのびているその姿がわが肉体と同じく感じ
られ、その柳の木の上に見る雲の動きそのものまで、その意味すらわかるぞという気がしたので
あった。
そしてそう思った瞬間、これが神の世界だ、そして自分は今、神と一体になったのだという意
識が全身をふるわすほどの聖らかなる喜びと一緒に湧き起って来た。
この間、最も高潮した時間は十秒に満つか満たぬかの時間であったろうか。
けれどもこの未だ曽つて夢にだに考えたことのなかった新来の経験は、次の瞬間から私に新し
い自覚の内省を与えたのであった。
すなわち、私はこの経験をとおして、これまで単なる物質と考えていた、乃至は、そこに生命
があるとしても、それは個々別々の生命であって、全体としては生命的関係なき単なる個々の集
合にすぎないものであったこの世界が、全一なる厳たる大生命、神の肉体であり、否神そのもの
であり、われ亦その一部であり、真に吾我の念を払拭して無為に住するとき、われらはわれらの
本体たるこの神を経験し得るのだと覚り得たのである。
この歓喜に充ちた自覚の拡大と深まりは数日間つづき、その自覚の記録は私の最初の宗教的宣
言、「生命自然の道」(拙著『幸福の開拓』所載)となって一応の終結を示した。
(『老子眼蔵』p136〜p138)
詩人としての伊福部隆彦
『無為隆彦詩集』から
「曾つて彼は」という詩を紹介します。
じっくり味わってください。
曾つて彼は
曾つて彼は
五月の山谷の残雪の下から出た
一本の真紅の独活であった
その日彼は春霞む山々を見ながら
自らが神であることを知つた
曾つて彼は
ねむの花かげの
小さい渓流の中の
子供の小指ほどの
一尾の小魚であつた
その時彼はさざめきながれる夏川水の清らかさの中で
美しい夏山を神と見た
彼は曾つて
村の小川の一尾の鮒であつた
その流れにうつる のうばらの白い花かげに
ひそかなるおもひをよせた
彼は曾つて
秋の山路の一株の 紅玉にうるる秋ぐみであつた
山の子等が
かちどきをあげては彼にとリつき
その甘い実を舌にのせるとき
彼は自分が母たる大地であることを知った
彼は曾つて
一つの栗のいがであつた
そのつややかな褐色の三つ栗を笑みわらせ
流れる朝霧の中で
山がらの声を美しくきいた
彼は曾つて
春霞すむ中国山脈の一つの峯であつた
北には はるかに日本海が その春霞に煙つて見えた
彼はその目本海を自分の恋人と思つた
彼は曾つて
洋々と流れる大河であつた
白帆をうかべ
魚竈をすませ
彼は自らが一つの文化の大動脈であることを知った
彼は又曾つて 一つの岩石であつた
千年ぢつと人知れぬ山中に
夏は蝉の声をしみいらせて
みどりの松林としづかに対話し
秋は色づいた山葡葡の葉に 自らをかくした
彼は又曾つて
一尾の蛇であつた
幾度か自らの皮を脱ぎ
新しい自然と和した
彼は又曾て 鷲さへ来ぬ深山の老松であつた
彼がそのみどりの節を失はないことを知つてゐるのは唯白雲だけであつた
然し彼自らは その節よりも
その初夏の花粉の日をひとりたのしんでゐた
彼は又曾つて 一匹の狼であつた
群することを忘れた彼は
若き日の牙もぬけ
狐や狸に馬鹿にされながら
洞窟の中でさびしく餓死した
彼は又曾つて 一匹の山椒魚であつた
彼は山深い沼にひとり住んでゐたが
その沼に十五日毎にうつる 満月の夜の月を愛し
その虚しいなげきをくりかへした
彼は曾つて又 一羽の鶴でもあった
明月の夜
山河湖海を下に見て
自分のふるさとへかえつた
彼のふるさとは月であつた
彼はついに何であつたらうか
彼は最後に人間の体をして生れたが
平凡にろくろくとして老い朽ち
その子らが彼を火葬にしたとき
一片の白骨すらとどめず
青いけむりだけが天にのぼつた
それは子供の時 彼が手製の竹の小串にさして焼いた川魚の
あの青いけむりそのままだつた
一九六二、一〇、一二
(『無為隆彦詩集』「第一部 老鶴」よりp32〜p37)
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