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          2013年12月30日版「宗教と平和」

              『アジア・太平洋戦争を考える視点』の紹介

                『流光』より「心の被爆者」

     




    
2013年12月30日版 

     「宗教と平和」


  『和の光 文学と平和』(2015年刊に収録)







 私が『十三番目の冥想』を1993年12月11日に発行してから20年になりました。実質的な頒布は年が明けて1994年から始まりました。活動開始20年です。12月11日はダイジの命日です。第二版の新装版を発行したのが2004年4月11日です。『十三番目の冥想』の講話の第一回は1978年3月11日でした。2011年3月11日が東日本大震災の日です。 2004年4月11日に第二版の新装版を発行したのは頒布から10年経って残部が無くなったからですが、4月11日という日付をどうして付けたのか覚えていません。後から気付いたこれらの日付の不思議な符合は何かを伝えようとしているように思えます。

 この本は二十世紀末に当たり、ダイジの語った愛の時代を切り開く一助となればと思って出したものです。私は本当に二十一世紀には水瓶座の時代と言われてきた愛と自由の時代が来るのだと思っていました。神仏の存在がもはや宗教という枠組みもいらないくらいに、それこそそこに空があり、海があり、風が吹くように、私達が当たり前に愛を呼吸して生きていく時代が来る。笑われるかもしれませんが本当にそう思っていました。当然宗教は超宗派です。一応これまでの人類史で宗教的な意味で使われた言葉を用いていますが、その言葉の形にこだわることが全く意味がなくなる時代が来ると思っていました。私はその希望を今も決して捨てていません。パウロが語った「信・望・愛」。愛が時間の中に展開すればそれが希望です。キリストの時代、パウロは本当に神の国が来ると信じて語っていたはずです。その精神はその実現が1000年、2000年遅れたからと言って廃れるようなものではありません。二十世紀末という時代の転換点の中で、新たに愛の時代の到来を語った人がいて、それを聞いた若者がいました。これ自体が人類の希望だと思います。その思いを私は決して忘れません。

 私の著書を読んでくださった方々にとって当たり前のようなことをなぜここにあらためて持ち出したかと言うと、『十三番目の冥想』の発行から二十年目という私にとっては記念すべきときに、それもこの12月になってから、愛と平和の時代が来るという希望の逆を行くような出来事が次々と起こっているからです。憂慮すべき事態になりつつあります。私は自分の原点を確認するためにこれを書いています。

 現在の日本は海外から見れば戦争の準備を進めているように見えるでしょう。憲法改正までが視野に入っているようです。平和憲法と呼ばれる現在の憲法から言えば後退ということになります。戦争放棄から平和放棄に変わってしまいます。平和放棄は理想放棄です。理想放棄は希望放棄であり未来放棄です。現在の憲法には問題点は多々あるでしょうが、「戦争放棄」という理念は人類共通のものとしてむしろ今後の人類の進むべき道を示していると思います。人類が国連を越えてさらに「地球共同体」になるに当たって、日本がいち早くその理念をもっていたことは各国から賞賛されるべきもののはずです。現在の国連憲章の理念も基本的には戦争放棄です。この理念を放棄することは、日本にとっても人類にとっても損失です。現在の憲法は占領憲法と言われ、それは事実でしょうが、戦争の反省に立って理想を謳ったことは確かだと思います。結果的には日本の本来の国是と言うべき聖徳太子の十七条憲法に言う「和を以て貴しと為す」という精神に一致することになりました。聖徳太子のこの言葉は「本願」、「イデア」から出ていると思います。宗教と平和についてあらためて書こうと思ったのは、「本願」、「イデア」に立脚した視点が必要であり、またそれを認識するには宗教的精神が必要だからです。

 宗教のことを言うと靖国問題がからむために、靖国神社や日本神道をどう考えるのかという疑問が出されるでしょう。宗教もまた争いの原因になっているのではないかという疑問です。よくある答え方は、仏教やキリスト教という世界宗教や普遍宗教と、日本神道のような民族宗教の立場の違いというものです。人類愛は民族の違いを越えて広まった世界宗教や普遍宗教で説くものであり、民族宗教はときには戦争もあることを前提にして愛国心を説くというものです。同じ愛であっても対象や範囲が異なるという考え方です。この考え方だと愛と愛が時にはぶつかるということになります。

 しかし日本神道をそのように狭い範囲で考えていいのでしょうか。この点に私は異論があります。私は日本全国の主な寺や神社を回ってきました。そこで文献だけではわからない実地での雰囲気を味わってきました。その中で神社には非常に清らかで純粋なものが宿っていることを何度か経験してきました。代表的なところでは、伊勢神宮や出雲大社です。他にも小さくても、あるいは有名でなくても、確かに清らかな何かが宿っていると感じることが何度もありました。人々の幸せを願う目に見えない心があることを感じてきました。記紀神話の時代からの神社だけでなく、比較的新しい神社でも場所によってはそれがあります。意外に思われるかもしれませんが、最近では今年の夏に萩の松陰神社に行ったときに、ありがたくてたまりませんでした。松陰の精神の純粋性が宿っていると思いました。

 この純粋性は神と言われるものの表れであり、民族がどうのこうのという枠を越えたものだと思います。この純粋性を「愛」と言い換えても問題ありません。問題はこの純粋性がイデオロギーとなって排他性に変わる場合です。愛がイデオロギーになると似て非なるものに変質するのです。形になってしまい、形と形がぶつかるのです。純粋性を排他性と混同する傾向が多くの宗教においてあり、世界宗教とか普遍宗教と呼ばれるものでもそれがあります。国粋主義もそうです。従って問題は純粋性を排他性にしないということ、ここが肝心なのです。純粋性を純粋性としてそのまま感じ取るという感性がぜひとも必要です。日本における神社は純粋性を保持する場として貴重な存在だと思います。

 さてそこで靖国神社の問題ですが、靖国神社は記紀神話の神や自然神を祀る場ではありません。戦争で亡くなった兵士をいわゆる英霊として祀る神社です。明治維新後に始まりましたが、戦死に宗教的価値を与える場として、死んで神になる場として、いわゆる国家神道の一つの大きな柱になりました。この明治以降の国家神道と、記紀神話からの神道は区別して考える必要があります。記紀神話による神道の中心理念は「産霊(むすひ・むすび)」でしょう。これは愛の創造原理を表す美しい言葉で私の好きな言葉の一つです。それに対して国家神道の中心となる教義は何だったかと言えば「忠君愛国」でしょう。この愛国心が「愛」はついているけれども本当の「愛」なのかどうなのかということです。愛国心が排他的なイデオロギーになりやすいということは先の戦争を持ち出すまでもありません。愛国者によって国が滅びることがあり、忠君と言いながら天皇の意思に反したことが行われるということがあるのです。世界宗教と言われる宗教でも信仰者を自認する人々によって神の意思に反することが行われます。いずれも自分の信奉するイデオロギーに従っているのであって自己愛の変形です。

 愛国心の問題点はここ数年、中国の反日デモで叫ばれる「愛国無罪」という言葉を聞いてもよくわかります。愛国心に基づくならどんな破壊行為も無罪になるというのです。この「愛国無罪」と言う言葉はよく考えられたものだとある意味で感心します。それは愛国心のあり方をよく表しています。

 東アジアの緊張が高まる中で国民の間に高まる不安感や恐怖感を何とか払拭したいと考えるのは国を動かす人としては当然でしょう。しかしそれを追い風として利用していいものでしょうか。不安感や恐怖感が集合化すると、仏教で言うなら業の流転であり、それも共業(ぐうごう)という業の集合化したものであって非常に危険です。人間は自分一人の業でもそれから逃れることが難しい存在です。親鸞が繰り返し語っていることです。業の中で最も恐ろしいのがこの共業です。低気圧が発生し、それが熱帯低気圧になり、台風になるようなもので、急速に回り始めた業は誰にも止められなくなります。今まさに右回りの台風になりつつあるのではないでしょうか。最初はリーダーは英雄視されるかもしれませんが、自分も巻き込まれて逃れられなくなります。人類はその姿をさんざん見てきたのではないのでしょうか。このような動きになると個々人の責任感は急速に低下していきます。同時にそれは倫理観の急速な低下を招きます。「愛国無罪」と言うとおり、何をやっても許されると思ってしまうのです。これは日本だけの問題ではありません。アメリカも最後は原爆を使ったのです。

 同様のことは国家だけではなく、宗教でも起こっています。宗教戦争も起こりました。古い宗教だけに限りません。宗教教団の転落していく姿も同じでしょう。教祖も自ら巻き起こした渦から逃れられなくなるのです。

 純粋性を排他性にしないということは、今後の宗教の基本です。「真空妙有」という言葉がありますが、本当の純粋性は包容性になります。残念ながらかつて日本でも鎌倉時代には純粋性を排他性として語る傾向がありました。しかしより正確に言えば他の行を捨てろとか、他の経典を捨てろという言い方は、誰にでもできる易行として勧めるための方便だったはずです。それによって初めて念仏とか題目とか禅が人々に広まることになりました。純粋性を謳う複数のものが出ることで選ぶこともできるし、広まることにもなりました。これはこれで計画的になされたことだと思います。しかしイデオロギー化した純粋性は排他性に転化しやすいという傾向は残っていて、原理主義的になるとたいていそうなります。純粋性を排他性として語る時代はもう終わったのだということをはっきりと認識すべきです。

 愛国心は「愛」の一つの表れであることは確かですが、集合化しやすく、そのエネルギーが巨大なだけに、一歩その扱いを間違えると他を傷つけ、自らも傷つくということをよくよく理解すべきだと思います。戦後の日本はこの愛国心を鼓舞したことへの反省から愛国心を否定し、また国家神道と本来の神道との区別も無く、神道そのものを否定し、さらに宗教心さえも否定する極めて唯物的な方向に走りました。今再び愛国心を強調する方向へと向かいつつありますが、本当はどうすべきなのでしょうか。

 私はしばしば三段階で考える弁証法的発想をします。日本では親鸞の「三願転入」が有名です。例えば「知」の方向としては、まず無知の段階があり、それに対して分別知の段階があります。ここでとどまることなく、さらに無知と分別知を越えた無分別智があります。分別知と無分別智は次元が違います。この第三段階が宗教本来の立場と言えると思います。見る目がないと無知と無分別智の違いがよくわかりません。同様に考えれば愛国心が無い状態に対して愛国心を持つ段階があります。これは隣人愛の一つの形としてあると思います。しかしそこでとどまるのではなく、さらにより大きな隣人愛である人類愛に目覚める必要があります。「非戦論」を唱えた内村鑑三のように人類愛を語る人が、愛国心がないのと同じで非国民だと非難されるようでは困るのです。ここの違いを見分けることが重要だと思います。

 神道もまだまだ発展する可能性を秘めていると思います。どういうことかというと、元来「地域共同体」や「氏族共同体」の中で信仰される自然発生的な素朴な神道がありました。これに対して近代になり人知の分別心によって作られた人工的な神道が国家神道だったと言えるでしょう。近代国家の人工性とよく対応しています。これはいったん解体されましたが、次の段階として重要なのは第二段階に戻ることではないはずです。次の段階としては「地球共同体」としての新たな次元の神道が考えられます。決して無理なことではありません。太陽神への信仰があるからです。「日の本」の国とは太陽を中心にした国です。太陽は全ての国を照らしています。地球共同体としての「地球神道」はもともと日本神道に用意されていたと言ってもいいでしょう。私が神道家だったら現代は地球規模での「天の岩戸開き」の時代であり、第三神道の時代だと言うでしょう。さらにその次の段階として第四神道と言うべき「宇宙神道」の時代もあるはずです。そう考えておられる神道家もおられると思います。神道の理念としては太陽神である天照大神が地球神道に対応し、天御中主が宇宙神道に対応しているのだと思います。非常に長いスパンで考えられた優れた理念をもった宗教だと思います。

 宗教界も先に言いましたように、純粋性を排他性と混同して宗派のエゴを出すようでは「地球共同体」の宗教とは言えないでしょう。ダイジが高く評価していたクリシュナ・ムルティは自らの教団を解散して、その後は世界各地で対話集会を開いて遊説した人でした。その言行録は財団によって管理されています。ダイジも教団はもちませんでした。宗教家も芸術家と同じように、組織によってではなく、その言行を自らの作品として、それを通して自らの知る世界を伝えていく時代になっていくと思います。それが「本願成就」、「イデア顕現」の本来の宗教のあり方だと思っています。

 人類が「地球共同体」になるためには愛国心の罠に陥ってはならないと思います。これが二十世紀の教訓だったのではないでしょうか。その罠にかけようとしている力も裏で働いているのではないかという気がします。何度も言うように愛がイデオロギー化するときにすでに愛は変質していてそこをつかまれるのです。愛が本来の愛であるときは、空(くう)と同じでつかまれることはありません。つかめないのです。これを形にするときにつかまれるきっかけを与えてしまうのです。愛は固定化できないのです。宗教が陥りやすい罠もここにあります。教義や教団という形にするときにすでにいつの間にか愛は逃げてしまっているのです。特に愛国心は愛の中でも固まる傾向が強いと言えるでしょう。それだけつかまれやすいと言えます。また人間はそれに染まることによって自分の問題から逃げることができます。卑小な人間がより大きな国というものに一体化して感じられるのです。英雄になれるのです。こうなると謙虚さなど吹き飛んでしまいます。自戒を込めてそう思います。

 もう一度人類が進むべき方向を見直しましょう。
 


  
 『アジア・太平洋戦争を
              考える視点』
(1995年)より 
 
  『和の光 文学と平和』(2015年刊に収録)


       
宗教と平和
 
 普遍的道徳の根本をなし、殺人や戦争を禁止するはずの宗教が現実には宗教の名のもと戦争を起こす例を

我々は見ている。このような例から、宗教こそが平和を阻むものであるという考えも出てくる。しかし既に見たよ

うに道徳の根幹をなしているのは世界宗教であって、発生順に言えば宗教が道徳を生み道徳が法を生んだと

言える。このうちの道徳と法だけでよいと思う人もいるであろうが、それは現代の日本人が、無宗教的雰囲気の

中にひたっているからそう思うのであって、宗教生活が人生の根幹を占めているという人の方が、世界的には

はるかに多いのである。そのために宗教的信条については譲ることができないという傾向がある。一つの教義

体系をもつ宗教から見ると他の宗教は自分達の信条をおかすもののように見えるのである。こうして異教徒は

悪魔のように見なされて、人権も無視されてしまうのである。世界宗教においてもこのような傾向があるのだから、

民族宗教となると、民族が違うだけで敵とみなされてしまう。こうして、宗教の名のもとに戦争が起きてきた。この

宗教的信条の違いの難しさは、はたからみるとそれほど差異のないように見えるものでも、わずかな違いが問題

となる。たとえばユダヤ教とキリスト教とイスラム教は同じ神からの啓示に基づいており、親戚のようなものである。

『コーラン』にはモーセもイエスもその使命が明らかにされている。マホメットは自分の受けた啓示はユダヤ教徒

にもキリスト教徒にも認められるはずだと初めは考えていたようである。しかし先行する者は、自分達の正統性

に固執して後なる者を認めたがらないのである。この関係は同じキリスト教内のカトリックとプロテスタントもうで

あり、日本の鎌倉新仏教も旧仏教から排撃された。カトリックとプロテスタントの場合には両者の間に宗教戦争が

起きているが、同じ教典を共有し、同じ神、同じ救い主を信仰するのになぜあれほど対立するのか理解に苦し

む。近親僧悪と言うのであろうか。だとすれば、明らかにイエスの教えに反する行為を行っていることになる。プ

ロテスタントとカトリックは兄弟であり、最も近い隣人である。このような例を見ると、宗教上の教義の違いか

ら争いが起きていると考えて、教義を統一することによって争いをなくそうとしても、それは無意味であることがわか

る。一つの宗教が、他の全ての宗教を駆逐することで、宗教的統一をはかろうとするのも、緒局は同様に失

敗することは目に見えている。教義の違いが派閥をつくり争い合い、教義が同じでも派閥をつくって、ささい

な違いを見出して争いあう。宗教の名のもとに起こっているのは、世間一般の争いと何らかわるところはないと

いってよい。もともと人は徒党を組んで争いやすいものであるうえに、宗教的信条がその火に油を注いでいるような

ものである。(p67〜p68)



『流光』
(修道中高等学校発行 被爆50周年記念誌 1995年11月4日発行)より   p145〜p150

  心の被爆者

  『和の光 文学と平和』(2015年刊に収録)

                               修道中学高等学校教諭    渡辺郁夫

 終戦五十周年の夏が終わろうとしている。原爆記念日のころ内外の訪問者で異常なにぎわいをみせた平和公園

は、再びいつもの静けさを取り戻している。今年の盛り上がりはいったい何だったのだろう。半世紀を過ぎて老いた

被爆者やその関係者にとっては、今年は自分達の思いを伝える最後の夏だったのかもしれない。五十周年まで

は何とか続けたいという思いは被爆者のみならず、先の戦争被災者や遺族に共通した思いだったかもしれな

い。特に年老いた母親にとっては。毎年蝉しぐれを聞くと私は夏の訪れとともに原爆とその被災者のことを思

うが、蝉はいつまでも鳴き続けるわけではない。やがてばったりと声の途切れる時が来る。この夏の盛り上が

りは、秋が近づくにつれてかえって祭の後のような虚しさを残しはしないか。八月も終わりに近づいた今、私は

秘かにそれを恐れている。そうしてこれから鳴き続けなければならないのは、たとえそれがひそやかな声であ

ったとしても、その声を上げ続けなければならないのは、我々第二世代なのだということを思わずにはいられな

い。

  私の母は黒い雨を浴びた被爆者だが、今は大きな病気もなく五十代の終わりを過ごしている。しかし私の

親類で被爆者だったものは、ほとんど六十代に癌で亡くなっている。それも発病の直前までは非常に元気だっ

たにもかかわらず突然癌が発見され、手術のかいもなく亡くなっている。この数年何回もそれを経験した。

私が井伏鱒二の『黒い雨』を読み返す気にならないのは、主人公の女性が外傷はないのに黒い雨を浴びただ

けで発病してゆくことが、半世紀を経て私の親類に起こっていることと共通しているように思えてならないか

らだ。私は母に長く元気でいてほしい。
 
 私の親類の被爆者は、この黒い雨を浴びた人達と、旧市内で披爆し亡くなった人とに分かれる。私の母方

の実家である大平家の伯父と伯母が後者である。伯父は当時旧制中学生であったが、学徒動員で建物疎開に

出ていて被爆した。一週間後に救護所となっていた寺で、うわ言のように自分の名前を言い続けているところ

を、捜していた兄弟に発見された。顔は黒く焼けただれ本人と識別出来ないが、目だけが光り、本人の名乗

りと焼け残った服の胸元に縫いつけられた名札で本人と確認したという。戸板に乗せられ変わり果てた姿で

帰宅した。治療と言えば赤チンを塗るだけで、 もはや死を待つばかりであった。それでも一週間ほど生き、

時計の鐘が鳴ると学校に行くと言って起き上がり、廊下に倒れたり、うわ言で同級生に号令をかけたり点乎

をとったこともあった。最期におはぎを食べたいというので祖母が作り、喜んで食べたが、まもなく亡くなったという。

私はおはぎを食べるとこの話を思い出す。また平山郁夫氏の修道中学時代の被爆体験を聞いた時にはこの伯

父のことを思った。三年前放映された平山氏の修道中学時代のことを描いたドキュメンタリードラマ『炎の

絵』にほんのわずか出演させてもらった時もこの伯父のことが頭をよぎった。そして、学校は異なるけれど

も本校の慰霊碑の儀牲者の中に私は伯父を見る思いがする。同じく学徒動員による建物疎開中の被爆であっ

た。夫を早く失った祖母にとってこの息子 への期待は大きかったようだ。この伯父の名を勝(まさる)と言ったが、

私も祖母から「勝が生きていたら」という言葉を聞い たことがある。母はよく祖母から、子供が勉強したがった

らさせてやれと言われたというが、それは祖母の念頭にこの学業半ばで亡くなった伯父のことが常にあったからだ

ろう。子供にしたいだけ勉強をさせてやりたかったという思いはおそらく修道中学儀牲者の遺族にも共通する思

いであ ろう。
 
 もう一人の犠牲者である伯母の名をハツネと言い、看護婦であったが即死に近かったらしい。堺町一丁目

にあった伊藤病院の看護婦であったが、病院の全員が死亡し、焼け跡の焼死体の中から金歯の位置で推測

し、それらしい死体の骨を兄弟が持ち帰ったという。伯母は非常時には本川小学校に集合するように言われ

ていたということだが、堺町も本川小学校も、爆心地に非常に近いから助かる見込みはなかっただろう。爆

心地と言われる島病院の御子息がかつて私のクラスの生徒だったが、島病院の前を通ると私はこの伯母を思

う。香川京子さんが『ひめゆりたちの祈り』の 中に沖縄戦で亡くなった日本のナイチンゲールと呼ばれる

上原貴美子さんのことを書いておられる。非常に感動的な話だが、香川さんが苦労して発見された上原看護

婦の写真の昔風の白衣姿を見ると、私の伯母もあのような姿で戦時下の広島で働いていたのだろうかと思

う。あの八月六日の 朝までは。

 これらの話はいずれも母や祖母から聞いたものだが、祖母は三年前に亡くなった。大平家の跡取りである

従兄は、被爆死した伯父に似たのか優秀で東京で大学教師となったために、広島の家は今空き家のまま閉ざされ

ている。病床の祖母を見舞ってはよく話をしたことがなつかしい。祖母は九十歳を過ぎてからも驚くほど記

憶カがよく、おかげで貴重な話を聞くことができた。祖母は熱心な真宗の信者だったが、亡くなる何年か前

に長年愛用していた経文を全て私にくれた。自分はもう覚えてしまったからいらないと言っていた。読み続

けて傷んだのを糸でかがって修復してあっ た。この経文と耳の底に残る話し声が今では祖母の形見で

ある。それは同時に祖母の心に生き続けた伯父や伯母の形 見でもある。
 
 以上は聞き伝えの被爆体験だが、私にとってはこれ以上に大きい被爆体験がある。それは心理的被爆体験

と呼ぶべきものであり、ほとんど私の一生を決定づけたと言ってもよいものである。小学校の一、二年生の

時のことだったと思うが、私は父に連れられて市内に遊びに出かけた。可部線の沿線に住んでいた私にとっ

て中心部に出かけることは、「街に行く」と呼んでこの上もない楽しみだった。当時デパートは福屋と天満

屋しかなかったが、そこの屋上遊園地で遊ぶのが楽しみだった。その日もそういう楽しい日の一つで終わる

はずだったのだが、時間が余ったのだろう、父 が平和公園に連れて行ってくれた。そこで私は何を思った

のか、原爆資料館に入りたいと言ったのだった。おそらく空中に浮かぶような資料館の建物に幼い好奇心を

そそられ たのだろう。父は気が乗らないようすだったが、私がせが むので連れて入ってくれた。

 しかし建物の中は、その美しい外見とは全く正反対の地獄図の世界であった。幼い私にはその体験はあま

りに衝撃が強かった。その日家に帰ってから私は泣いた。泣き続けて父や母を困惑させた。時間の観念が充

分に確立していなかった少年にとってそれは過去の出来事ではなく、今にもいつ起こるかわからないことに

思えた。私は恐怖の中に突き落とされた。戦争が起きたらどうすると言って私は泣いた。父が自分が守って

やるから心配するなと言ってくれた のを覚えている。しかしそれが気休めにしかすぎないこと は私にもわかった。

 そうしたことがあってから、私は安心を求めて毎晩仏壇 にお参りするようになった。戦争が起きませんように。世

界が平和でありますように。原爆が落ちませんように。私は熱心に祈った。この心理的被爆体験は戦争の恐

怖にとどまらず、死の恐怖、さらに言えば、戦争をする人間への不信、外界への恐怖、存在の不安と結びつ

き私は心底からものごとを楽しめない人間になってしまった。夜寝るのも怖かった。そのまま死ぬのではな

いかという恐れとともに、空襲の夢をよく見てうなされたからである。いつ死ぬかもわからないのにどうし

て人は平然と生き、他の子供達は楽しそうなのだろう。不思議だった。自分はどうしてこんな暗い世界に生

まれたのか。自分はどうして広島のような恐 ろしいところに生まれたのか。少年の疑問はとどまるとこ

ろがなかった。あれほど楽しみだった「街に行く」ことも楽しみに不安が入り混じるのだった。可部線の電車が横川

鉄橋を越えて中心部に近づくと私は言いようのない不安に襲われ、帰りに電車が横川鉄橋を越えるとほっと

一安心するのだった。今にして思えばこれらの問いは幼いながらも、きわめて正統的な哲学的、宗教的疑問

であり、後の私の進 路を決定づける問いだった。

 私は何年も祈り続けた。時折祖母がやって来て、数日間滞在した。祖母の名はマサノと言ったが私はこの祖

母が大好きだった。好きなだけでなく、熱心に念仏する祖母は最も尊敬すべき、あるいは信頼すべき、唯一

と言ってもよい大人であった。それはこの祖母が私と同じ問いをかつて有した人であったことを私が感じた

せいかもしれない。私は、家族や、友人達が自分と同じような問いを抱いて生きているように見えなかっ

た。私は孤独だった。私は祈り続 けた。しかし不安は解消しなかった。

 高校生になったころ私は思った。自分はいつも恐怖心から祈っているがそれでいいのだろうか。恐怖心か

ら祈るからいつまでたっても不安は解消しないのではないか。全く別のあり方があるのではないか。私はよく本を

読んだが、文学、哲学、宗教が結局は私の関心事だった。私はよく念仏したが、念仏して行くという極楽浄

土の世界に、自分のような恐怖と不安の塊が行けるのだろうかという思いにとらわれた。極楽には恐怖はな

いはずだからだ。全く別のものが湧き上がってそれが新しい生を創るのではないのか。平和な世界も恐怖、

不安、悲しみ、憎しみ、恨みからは生まれないはずだ。憎悪の入り混じったような政治的平和運動に私は疑

問を感じた。真の平和はそこから生まれないと 思った。

 この解決は大学生活に持ち越された。私は上京して大学に入り東洋哲学を学び、また仏教青年会に入ったが、

それは自分の疑問を解き、真の安心と平和への道を求めたからである。私がようやく本当の安心を得たのは

二十歳の時のことだったが、そのことについては二十歳の時に書いた『十三番目の冥想』に述べてある。あ

る師との運命的出会いがあった。師との冥想中、天地が裂けた。私は世界が愛に包まれていることを知っ

て、はじめて平和というものの正体を見た。最近、この師の亡くなられた七回忌にあたり、師との出会いの

思い出となる『十三番目の冥想』を活字にすることができた。図書館に寄贈したので詳しくはそちらに譲る

が、あの被爆体験以来、十数年かかってようやく私は、真の平和の入り口にたどりついたのだった。それ以

降はそれを深めるとともに、自分の見出したものを人に説明できるように勉強し、さらには、文明・文化の

方向を平和に向けていかにすべきかを考えるようになった。それが大学、大学院と続いた二十代の私の営み

だった。完全なる平和がすでにある。それが私の平和論の出発点だった。二十代の終わりに私は広島に帰っ

たが、研究紀要に書いたアジア・太平洋戦争論はこの延長線上にある。これからもヒロシマから考える平和

論を書いていきたい。

 しかし今思い返すにつけ、少年期のあの体験はあまりに強烈であった。私は自分の苦しみを思うと小さい子供を

原爆資料館に連れて行くのは賛成できない。父が私にせがまれてとまどったのも無理はない。子供の心に心

理的外傷(トラウマ)を作る恐れがある。小学校時代私は原爆関係の写真には拒絶反応を示した。級友にそ

のことを知られてしまい、意地の悪い一人に、ある本の中の被爆者の写真を無理やり見せられたことがあ

る。小学校三年生の時のことだ。外傷はほとんどなく、防空頭巾をかぶり血痕のついた顔で、何かを訴えか

けるような眼差しの少年の写真だった。私は目をそむけたが、自分と同年代のその少年の姿、その眼差しは

私の目の底に焼き付いて忘れられなくなった。被 爆した自分の姿のように思えた。私が原爆のことを思うと

き、見たことのない伯父や伯母に代わって、あの少年の眼 差しが浮かぶのだった。

 そして、三十年近くたった去年のこと、私はある写真展 で全く思いがけなくその少年に再会した。それは「ファミ

リー・オブ・マン」という写真展だった。人類を一つの家 族に見なして、その生から死へのドラマが世界各地で撮ら

れたおびただしい数の写真を用いて展開されていた。一つの壮大なドラマを見るような写真展だった。その終わり

の方の一枚に私はこの忘れられない写真を見出したのである。突然の再会に驚いたが、確かに彼だった。も

はやかつてのように目をそむけることはなく私はその少年に再会した。心理的被爆者であった少年の日の私

に再会したような気分だった。胸元に縫いつけられている名札の字が読み取れそうなので目を近づけた。そ

の字は「山田郁二」と読めた。「郁夫」である私は自分の分身のようなその「郁二」という名に驚くととも

に、写真につけられた説明で少年が長崎の被爆者と知ってさらに驚いた。私は少年が広島の被爆者だと思っ

ていたからである。よく考えてみると、自分は級 友に写真を見せられたときに、その写真の説明もその本も

読んではいないのだった。広島の被爆少年というのは私の勝手な思いこみに過ぎなかった。しかし不思議な

ことに私は広島に生まれながらも原爆関係の本で最もよく読んだのは『長崎の鐘』で知られる永井隆の著作

であり、私は自分と長崎とのつながりを深く感じていたのであった。私の中ではいつの間にか「広島−真宗

安芸門徒−祖母」と「長時ーキリスト教カトリックー永井隆」という構図ができていて、自分はどちら側に

も立てるように思っていた。この少 年の目が私の目を長崎に向けさせていたのかも知れない。

 この写真はこの夏の中国新聞の夕刊に、被爆の写真の一つとして掲載され、そこで、「おにぎりを持つ母

子」という題が付いていることも知った。思えば私の平和の探求はこの少年の眼差しとともに続けられたよ

うなものだ。被爆二世の心理的被爆少年と、実際の被爆少年は、広島と長崎とに別れて、同じ名を共有しつ

つ生きてきたはずであった。山田少年のその後のことは記事にはなかった。私は生きていると信じたかっ

た。長崎の電話番号で調べてみたいという思いにも駆られた。しかし、もし生きておられたら私とその人の

年齢は二十歳ほど離れているはずである。あの写 真のために迷惑されたこともあったかも知れないし、私に

は想像もつかないような苦難の戦後を歩まれたかも知れない。そう思うと私は調べる勇気がなくなった。そ

うして新聞からその写真を切り取って形見として保存しておくこととした。心に被爆した少年の日の私の形

見として。その人 の無事を祈りつつ。(一九九五年八月二十八日)

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