フンディングに「ああ、お目覚めですね」とか言って、 それから決闘、じゃいけないのか?
できれば戦いは避けたいのか?
2002-12-11 (3) 20:29:54 +0900
ト書きではいきなりヴォータンとブリュンヒルデのシーンだが、 音楽は逃走の動機を奏するので、 ジークムントとジークリンデの逃走を見せる演出もあると聞く。 その場合、 すでにフンディングの家からかなり離れたところを走って逃げているシーンであろう。
しかし、幕が上がってもまだ第一幕の幕切れのまま、 つまりフンディングの家の中だったらどうだろう。 これだと逃げきれそうもない感じだが、 フンディングが眠っているのを確認し、 殺してゆくかやめるかの相談をパントマイムでやって、 それから家を出る ---。
2002-12-11 (3) 20:28:02 +0900
ト書きではいきなりヴォータンとブリュンヒルデのシーンだが、 音楽は逃走の動機を奏するので、 ジークムントとジークリンデの逃走を見せる演出もあると聞く。 では、二人に逃げられたフンディングのほうを見せたらどうか。
床の中で目を覚まし、 「しまった、不覚にも熟睡してしまった」 という様子を見せてからはね起きて、 二人がいなくなったこと、 トネリコの木にささっていたノートゥングがなくなっていることに気づいてしばらく考える。 そして、事態がわかるとフリッカに祈りをささげ、 それからイヌたちを連れて飛び出してゆく ---。
2002-12-11 (3) 20:19:40 +0900
広辞苑第五版で「兄弟子」「弟弟子」をひいてみると、 自分と同じ師についた女性の弟子も「兄弟子」「弟弟子」 と呼ぶことになりそうである。
2002-12-11 (3) 20:02:03 +0900
本文ナシ
2002-12-11 (3) 20:00:56 +0900
本文ナシ
2002-12-11 (3) 19:33:17 +0900
上越線「越後湯沢」駅と北陸本線「金沢」駅との間をほくほく線経由で走る 「はくたか」という名前の特急列車があるが、これは「白鷹」であろうか。 もしそうだとすれば重箱読みだ。
岩波新漢語辞典によると「白」には漢音ハクと呉音ビャクが、 「鷹」には漢音ヨウと呉音オウとがあがっている。 ということは「白鷹」は漢音で読めば「ハクヨウ」、 呉音で読めば「ビャクオウ」となるわけか。
これをごっちゃにして「ハクオウ」とか「ビャクヨウ」 と読むと恥ずかしいんだろうな。:-)
付)広辞苑第五版には「はくたか」「びゃくよう」は出ていない。 「はくおう」は「白鴎」だ。
付)google で「白鷹 はくたか」を調べると、 「白鷹」と書いて「はくたか」と読ませているページが見つかる。 この列車の名前とは限らない。
2002-12-11 (3) 19:27:14 +0900
横から矢が飛んできて鼻を貫くにせよ、 前から矢が飛んできて鼻に突き刺さるにせよ、 想像してあまり気持ちのよいものではない。
2002-12-11 (3) 19:15:17 +0900
第 20 章第 3 節に
《ヱレミヤ彼にいひけるはヱホバ汝の名をパシユルと稱(よば)
ずしてマゴルミッサビブ(驚懼(おそれ)周圍(まはり)にあり)
と稱(よ)び給ふ
》とある。
「パシユル」も 0 件。 最近の訳に見える「パシュル」は 8 件。
2002-12-11 (3) 01:42:08 +0900
日本語の分かち書きについて考えていたことがある。 「整えさせられなければ」は私が思いついた中で“最も長い”語である。
「させる」は「せる」と同じ働きで、 「書かせる」は kakaseru と切らずに書くから 「整えさせる」も totonoesaseru と切らずに書きたい。 「られる」は「れる」と同じ働きで、 「思われる」は omowareru と切らずに書くから 「整えさせられる」も totonoesaserareru と切らずに書きたい。 「なければ」は「書かなければ」を kakanakereba と書くように切らずに書くから、 「整えさせられなければ」は totonoesaserarenakereba と切らずに書きたい。
「考えさせられなければ」は kangaesaserarenakereba で、 ローマ字で書けば一文字だけ短い。 こちらは google で 5 件見つかる。
2002-12-11 (3) 00:56:03 +0900
現在、朝日新聞は生没年を「1813〜83」のように書きたいとき
1 8 1 3 | 83(「|」は実際には「〜」を縦にしたもの)と書くので見にくい。 最初見たときは何のことかわからなかったものだ。 なんとかならないだろうか。
18 13 | 83も変だが、慣れればこのほうがましかもしれない。
個人的には、縦に書くなら
一 八 一 三 | 八 三だし、算用数字で書きたいなら横書きにしたら、と言いたいところだ。
2002-12-11 (3) 00:09:04 +0900
「やまびこ」が八戸まで延びるのではなく、 「はやて」という別の名前の列車が走ると聞いて、 山形新幹線や秋田新幹線のようなものかと思ってしまった。 (もしそうなら在来線が3セクになるはずはないのだった。)
2002-12-11 (3) 00:00:28 +0900
「大学入試は撤廃して、その代わり卒業は厳しく」という意見があるが、 高校で学んだはずのことを理解していないことが判明した学生はどうするか。
「その時点で退学」というなら、今の入試とどちらが厳しいかわからない。 (現状ではそういう学生も入学してきている、ということ。)
「大学で補習をせよ」というなら、 大学で九九を教えたり英語をアルファベットから教えたりすることも起こりえる。 (それでも卒業できる高校があるらしい、ということ。)
2002-12-10 (2) 23:52:38 +0900
その後もますます活躍し、ムラマツ隊長の後を継いで隊長になった、とも思えるし、 ウルトラマンと一心同体だったときの記憶をすっかり失ったため、 戦った怪獣の名前が思い出せないなどほかの隊員と話が合わなくなり、 「一身上の理由」で科学特捜隊をやめ、 記憶は消されたもののウルトラマンと一心同体であったときの “何か”が心の片隅に残っているのでそれを元に新興宗教を始める、 というようなことになりそうな気も……。
そもそも、ウルトラマンの姿も、 「ウルトラマン」という名前も忘れているはずなんだよな……。
2002-12-10 (2) 23:46:40 +0900
これは、本放送の最終回を見たときからの疑問である。 それまでずっと、ハヤタの意思、 あるいはハヤタとウルトラマンの意思で動いていると思って見ていたが、 ウルトラマンと切り離されたハヤタが、 帰って行くウルトラマンが姿を変えた火の玉を見て、 あれが竜ヶ森で自分がぶつかった物体で、あれから自分は何をしていたのだろうか、 とつぶやくシーンがあったからだ。
割と最近になって、 ゾフィーがウルトラマンとハヤタを切り離す際にハヤタの記憶を消したのではないか、 と気がついた。 考えてみればそれしかない。
2002-12-10 (2) 23:38:48 +0900
ウルトラマンには、バルタン星人再登場の回に見せたように、テレポート能力がある。 一方、最終回ではゾフィーがたまたま“命”を二つ持ってきていた。
だったら、 間違ってハヤタを死なせてしまった第一話で、 ウルトラマンがM78星雲にテレポートして命を取ってくることはできなかったのか。 もちろん、これではお話が始まらないのだが。
「命を持っているとウルトラマンはテレポートできない」と考えるか。 でも、とりあえずハヤタと一心同体になり、 それからM78星雲にテレポートしてハヤタに新しい“命”を与え、 それから帰ってくることはできなかったか。 この場合、M78星雲でウルトラマンとハヤタの身体を切り離すことになる。 「人間はM78星雲では生きていることができない」 「切り離されたハヤタはウルトラマンと一緒にテレポートできないので、 地球に帰ってくることができない」……。
2002-12-10 (2) 23:32:15 +0900
ウルトラマンは地球より文明の進んだ光の国からきたけれど、 裸で怪獣と戦っているのだからあまり高等とは思えない、 という説を聞いたことがある。しかし、 ウルトラマンは本当に裸なのだろうか? あの姿は実は戦闘用の服で、 カラータイマーがついているのも体力を消耗した仲間を見分けるため、 ということはないのだろうか。
この説が正しいとすると、 中にはいっているウルトラマンそのものの姿はどのようなものか、気になる。 アマギ隊員そっくりだったりして。
2002-12-10 (2) 23:19:20 +0900
「日本には四季がある」というが、 それは夏と冬が苦しい季節であって、 その間に楽しい季節である春と秋がはさまっており、 一年が「楽−苦−楽−苦」になっているからではないか。
聞くところによると、 ヨーロッパでは夏がいい季節だそうである。 すると、 一年は苦しい季節(冬を中心とする部分)と楽しい季節(夏を中心とする部分) とに分かれるので、「二季」となる。
ヴィヴァルディーの「四季」は夏と冬が短調で、春と秋は長調である。 そして、音楽そのものからも、ついているソネットからも、 夏と冬はつらい季節であることがわかる。 イタリアでは夏はつらいのであろう。
2002-12-10 (2) 23:13:27 +0900
前に 《(確か)幼稚園のころやらされた運筆練習を思い出した (2002-11-18 (1) 22:42:26 +0900)》 を書いたが、 それを左手でやるようになってから急に左手が動きやすくなったようだ。
毎晩、ラジオを聞き流しながら左手で落書きをしているのだが、 きのうの夜、突然 「右手で書けば簡単なのになぜ自分は左手で書いているんだろう」 という感覚が消えた。 そして、きょう、「左手で書いている」という感覚が消えた。 まだまだ右手と同じとまではゆかないが、 いちおう読める字が書けるようになったようだ。
もっとゆるやかに上達するのかと思っていたが、 意外と突然、という感じである。
2002-12-10 (2) 22:43:26 +0900
上のリンクはいまはった。それまでは a href タグをおいていなかった。
2006-05-15 (1) 01:31:59 +0900
24 時制の 12 時 10 分は 12 時制では「午前 12 時 10 分」なのか「午後 12 時 10 分」なのか、 という問題があった。 「午後 0 時 10 分」とすればよいが、「0 時」はあまり普及していない。
前に 《12 時制の呼び方を一時間ずらすと「午後 12 時 10 分」の問題がなくなる (2002-11-28 (4) 23:38:35 +0900)》を書いたが、 そうしなくても、常に「*時*分前」のように言うことでも解決できる。 上で例にあげた時刻は「午後 1 時 50 分前」と言うことになる。
2002-12-08 (0) 23:08:10 +0900
上のリンクはいまはった。それまでは a href タグをおいていなかった。
2006-05-15 (1) 01:33:33 +0900
前者の“訓読み”が後者である、ということに割と最近まで気づいていなかった。 私の頭の中では両者は意味がやや異なる。 突撃して行ったら戦闘になる前に相手がおそれをなしてちりぢりに逃げてしまった場合、 「撃破」ではあるが「撃ち破る」ではないと思っていた。 どうやら「撃破」を「突破」と結びつけて考えていたらしい。
2002-12-08 (0) 22:53:35 +0900
…になる。 普通、 気づかずにローマ字入力を始めると意味のないカナの列になるが、 これは意味があるので ---「ありそうなので」と言うべきか ---、ちょっと驚いた。
それだけの話である。
2002-12-08 (0) 22:32:02 +0900
「わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。
見よ、しえたげられる者の涙を。
彼らを慰める者はない。
しえたげる者の手には権力がある。
しかし彼らを慰める者はいない
」(口語訳)の、
二度目の「彼らを慰める者」の彼らとは、
しえたげる者だろうか、しえたげられる者だろうか。
意味からすれば後者だろうが、
“実はしえたげる者も慰めを必要としているのだ”
と著者が考えたのであれば前者であってもおかしくはない。
文語訳、新共同訳は同様に不明。
岩波版(訳者は月本昭男氏)はその前の文に
「彼らを虐げる者たちの手には
」と主語「彼ら」を入れるので、
三度現れる「彼ら」はすべて「虐げられる者たち」と読める。
関根正雄訳では二度目を
「しかも彼らのために仕返しする者はない
」
と違えて訳してある。
これも虐げられる者を指すことにほぼ間違いない。
欽定訳、TOB も虐げられる者たちを指すように読める。
ヘブル語の原文は私には読めないが、 字母の並びの同じ文章が二度くり返されていることはわかった。
2002-12-08 (0) 22:26:34 +0900
modulus の与格・奪格なら最後の o は長母音(だろう)。
2002-12-08 (0) 21:39:52 +0900
1886 年生まれなので、 84 歳まで生きていれば 1970 年の大阪万博を見たことになる。 彼が太陽の塔を見たらどんな短歌を詠んだだろうか。
参考:武者小路実篤は 1885 年生まれ、1976 年没である。
2002-12-08 (0) 17:56:55 +0900
岩波文庫「ROMAZI NIKKI」の索引を見ていて気づいたのだが、 啄木の親友であった金田一京助(1882-1971) は啄木より前に生まれ、 大阪万博の後に亡くなっている。
2003-01-12 (0) 22:49:18 +0900
本文ナシ
2002-12-08 (0) 17:31:08 +0900
「道産子じゃない」と言ってしまうと 「じゃあ北方四島は北海道じゃないんだね」と言われたりして。
2002-12-08 (0) 17:29:10 +0900
北海道からのプロ野球中継で 「道産子のみなさんの前で大きなホームラン……」 などと言っているのを聞くことがある。 「道産子」は北海道生まれの人のことだから、 仮に観客の多くが北海道に住んでいる人だとしても、 道産子とは限らない。
「じゃあ神宮球場のファンは江戸っ子か?」とラジオに向かってつぶやいたりして。
2002-12-08 (0) 17:27:48 +0900
理科年表の暦部。
2002-12-08 (0) 17:10:58 +0900
手元の 1999 年の理科年表によると、 日の入りが最も早いのは冬至のころではなく、 十二月 6 日を中心とした二週間ほどである。 道理でここ数日は早く暗くなるわけだ。
……と思ったが、それはわれわれが現行の時刻の決め方をしているからである。 もっと素朴な時刻の決め方をしていたら、 南中から日の入りまでが最も短い日をもって 「日の入りが最も早い」というのではあるまいか。
そう思ってもう一度理科年表を見てみると、 十二月は南中の時刻が単調に遅くなるようで、 1 日には 11 時 30 分より前だったものが、31 日には 43 分台になる。 暗算で引き算してみると、 この意味では「冬至のころが日の入りが最も早い」ということになりそうだ。
ちなみに、日の出が最も遅いのは一月 8 日を中心とした十日間ほどであり、 日の出から南中までが最も短いのはやはり冬至のころである。
付)この理科年表は、 南中の時刻は秒まで載せているが日の出と日の入りは分までである。 また、これらの時刻は東京でのものである。
2002-12-08 (0) 17:02:30 +0900
「前奏曲」はもちろん見出し語になっているが、 この意味を載せていないのである。
2002-12-08 (0) 16:33:28 +0900
思いつかない。
旧カナなら「まひこ(舞子)」とか。
JR北陸本線の駅名に「小舞子」というのがあるが、 これは旧カナで書けば「こまひこ」で、 「駒彦」と思われるかも知れない。
P.S. 「サザエさん」に出てくる「タイコ」さんも「鯛子」だとすれば「たひこ」である。
2002-12-08 (0) 14:52:12 +0900
そして、それではお経が書いてあるのかどうかわからないので効果がないのでは、 と子どものころからずっと思っていた。 つまり、一つの文字を拡大してみれば中に白い部分があり、 そこにはお経が書いてないのである。
割と最近気がついたことだが、 そこにはもっと小さな字でお経を書けばよいのである。 その小さな字にも白いすき間があろうが、そこにはさらに小さな文字でお経を書く。 そしてこの操作の極限をとればよいのである。
2002-12-08 (0) 14:15:58 +0900
……というか楽屋落ちというか。メフィラス星人の回。
前に書いたような気がしたが書いてなかったのでここに記す。
2002-12-08 (0) 14:02:05 +0900
ペスターは、 二匹のヒトデのまん中にコウモリの顔があるというユニークな怪獣だったが、 地上を歩くシーンでは人間が二人並んではいっていることがはっきりわかってしまう。 それにヒトデが“立って”歩くというのも変だ。
グビラが地上に出たのはウルトラマンと戦わせる都合だったと思うが、 ペスターはウルトラマンとほとんど戦わないので、 海中から半身を見せるぐらいにとどめたほうがよかったような気がする。
そう考えてからほかのウルトラ怪獣を順番に思い浮かべてみると、 「怪獣は必ず全身を見せる」という“お約束”があったのでは、と思えてきた。 (全身が写ったコマがある、という意味ではない。)
「この怪獣は上半身しか見せないので下半身がどうなっていたかは不明」 というのは「ウルトラ〜」の世界にはなかったのでは、ということだ。
ただし「ウルトラQ」では例外もあったようだ。 トドラはスモークで足元が見えないし、 モングラーは全身を地上に出したかどうかよく覚えていない。
2002-12-07 (6) 22:50:23 +0900
本文ナシ
2002-12-07 (6) 22:27:21 +0900
ダダAには“あばた”があるので、abata の A と覚える。 ダダBにはひげがあるように見えるので、英語の beard の B と覚える。 ダダCは目が“小さい”ので、ciisai の C と覚える。
注意1:ダダBのひげは口ひげなので正しくは beard でなく mustache であろう。
注意2:ciisai は新日本式ローマ字である。
2002-12-07 (6) 22:24:24 +0900
整列集合 X が三つの部分集合 X0, X1, X2 の disjoint union であるとする。
単に拡張してみただけ。
2002-12-07 (6) 00:26:36 +0900
ハノイの塔のルールや、その最小手順の解、 およびそれが(最初に円盤を動かし始める方向を除いて)unique であることについては既知であるとする。
僧侶は日夜この円盤を移動しているそうだが、 当然、途中で交代するのであろう。 その際、ある僧侶が次の僧侶にどこまで作業したところかを伝え忘れたとしよう。 次の僧侶はどのように作業を始めたらよいだろうか? 以前に書いた
しかし、もっと簡単に“次の一手”を知ることはできないだろうか。
話を簡単にするため、円盤は可算無限枚あるとしよう。 それらを小さいほうから順に円盤 0, 円盤 1, 円盤 2, ... と呼ぶ。 三本の棒は棒 0, 棒 1, 棒 2 と名づけよう。 初めに全ての円盤がささっているのは棒 0 だとする。 最初のステップで円盤 0 を動かす先は二通りあるが、 ここでは棒 1 へ動かすとしよう。
次の事実が成り立つ。
円盤 0 から円盤 i までを棒 a から棒 b に移動する操作を Hanoi(i; a, b) と書こう。
証明:1. N に関する数学的帰納法で証明する。 N = 0 のときは明らか。 N までできたとする。N+1 の場合の手順は、 N が偶数のとき
3. a, b, c は 0, 1, 2 を並べかえたものとする。 円盤 i が動くのは Hanoi(i; a, b) のまん中の 1 ステップである。 Hanoi(i; a, b) は
4. この二種類の操作しかないのだから、 もしも命題が成り立たないとすると、 どちらかの操作を二度続けて行なうことになる。 すると、いずれにせよ、 より少ないステップ数の解が存在することになり、 矛盾する。 [Q. E. D.]
よって、問題は 「円盤の配置を見て上の命題の 4 のどちらの操作をすべきかを判定せよ」 となる。
実際には、円盤は
‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ■ ‖ ‖ ■■■ ‖ ■■■■■ ■■■■■■■■■ ■■■■■■■ 棒0 棒1 棒2のようにすぐ下の円盤あるいは床に接しているであろうが、 各円盤には固有の“高さ”があって、その高さに円盤が止まるとする。 つまり、次のようになるとする。
‖ ■ ‖ ‖ ■■■ ‖ ■■■■■ ‖ ‖ ‖ ‖ ■■■■■■■ ‖ ■■■■■■■■■ ‖ 棒0 棒1 棒2この状態で、円盤群が何個の連結成分に分かれているかを数える。 上の例では 5 である。 (ここで、円盤 0 から円盤 N までの移動を考えているとしても、 連結成分数は円盤 N+1 以下も込めて数えるものとする。 上の絵では、一番左の棒 0 の下には無限個の円盤があるのである。)
この連結成分数は、一ステップごとに偶奇が変わる。 このことは上の命題からすぐわかる。
次は、その原理に基づくプログラムである。
#include <stdio.h> #define N 16 /* 円盤の枚数 */ int next(char* a, int size); void print(char* a, int size); int main() { int i; char a[N+1]; /* その円盤がどの棒 (0, 1, 2) にささっているかを格納。*/ /* +1 はその下にある仮想的な円盤の分 */ for (i = 0; i <= N; i++) { /* 初期化 */ a[i] = 0; } print(a, N); while (next(a, N)) { /* 次へ */ print(a, N); } return 0; } /* 次の状態に変更。終わっていて変更できなければ 0 が、それ以外は 1 が返る */ int next(char* a, int size) { int i; int count = 1; /* 連結成分の数 mod 2 */ for (i = 1; i <= size; i++) { /* 連結成分の数 mod 2 をカウント */ if (a[i] != a[i-1]) { count ^= 1; } } if (count) { /* 連結成分の数が奇数のとき */ a[0] = (a[0] + 1) % 3; /* 円盤 0 を一つ先の棒へ */ return 1; } else { /* 連結成分の数が偶数のとき */ for (i = 1; a[i] == a[0]; i++) { /* 円盤 0 と違う棒にささって */ ; /* いる最初の円盤をさがす */ } if (i == size) { /* “なかった”とき */ return 0; /* 操作完了 */ } else { /* みつかったとき */ a[i] = (0 + 1 + 2) - (a[0] + a[i]); /* それを第三の棒に移す */ return 1; } } } /* ハノイの塔を印字 */ void print(char* a, int size) { int i; for (i = 0; i < size; i++) { putchar('0' + a[i]); } putchar('\n'); }
このやり方を、 ステップ数最小の解の途中状態でない状態に使うと、 無限ループにはいることがある。
‖ ■ ‖ ■■■ ‖ ‖ ‖ ■■■■■ ‖ ■■■■■■■ ‖ ‖ ■■■■■■■■■ ‖ ‖連結成分数は 4 なので円盤 0 でない円盤を動かすべきところである。 よって、左端の棒から右端の棒へ円盤を移すことになる。
‖ ■ ‖ ‖ ‖ ■■■ ‖ ■■■■■ ‖ ■■■■■■■ ‖ ‖ ■■■■■■■■■ ‖ ‖これでも連結成分数は 4 だから、 ふたたび円盤 0 でない円盤を動かすことになり、 上の絵に戻ってしまう。
このような局面からゴールに至る方法がないわけではない。 円盤 0 を円盤 1 の上に移動する方法はある。 円盤 0 から円盤 N-1 までを円盤 N の上に移動できたら、 ハノイの塔の解を利用し、 円盤 0 から円盤 N までを円盤 N+1 の上に移動すればよいのである。 (そうやっていってゴールに達すればそれでよし、 スタートに戻ってしまったらそこからやり直す。)
このような局面にも適用できる“次の一手”は?
2002-12-06 (5) 23:40:33 +0900
上のリンクはいまはった。それまでは a href タグをおいていなかった。
2006-05-15 (1) 01:41:56 +0900
もしもしていたら、 ハヤタ隊員のフラッシュビームも、ダン隊員のウルトラアイも、 発見されていたに違いない。
検査をしないとなると、 宇宙人との間で覚醒剤の取り引きなどを行なう隊員が出てこないとも限らない。
2002-12-06 (5) 19:45:51 +0900
割と最近まで、剣が縦横に並んで踊っているのだと信じていた。 実際は剣を持って人間が舞うらしい。
2002-12-06 (5) 19:11:29 +0900
ギルガメシュ叙事詩(月本昭男訳、岩波書店、1996 年)によると、 原文では「同上」と書かれた部分があるそうだ。 例えば 97 ページ、第八の書板の「あなたのために泣くように」がくり返される部分。 注に書くということは、 日本語で慣用となっている「〃」「々」「ゞ」や 「く」を縦に倍に引き伸ばしたような文字とは異なり、 あくまでも「同上」と書いてある、ということだろうか?
英語の ditto みたいなもの?
2002-12-01 (0) 02:14:16 +0900
google で検索しようとしたが 「ニセコ・イン」は「ニセコ イン」と同じ扱いのようで 4580 件もひっかかり、全部見るのは無理。 「ニセコイン」は 51 件で「偽コイン」の意味ばかり。
2002-12-01 (0) 02:05:57 +0900
何年も小学三年生をやっているから有名なのではあるまいか。 現実の小学生のように今年は三年生、来年は四年生と学年が進んでいったら、 「はて、いまあの子は何年生だったっけ?」と言われるので 「日本一有名な小学*年生」にはなれないような気がする。
2002-12-01 (0) 01:49:56 +0900
ギルガメシュ叙事詩(月本昭男訳、岩波書店、1996 年)
ではギルガメシュはウトナピシュティムに教わって手に入れた
「若返りの草」を蛇に盗まれる。
訳者はここに「蛇により不死の生命が奪われる、
というモティーフは旧約聖書のエデンの園の物語を想起させよう
」
と注をつけている。
そこで気がついたのだが、 「ラインの黄金」で神々はフライアを巨人兄弟に奪われる。 フライアは神々の若さを保つ金のリンゴを育てているのだった。 「ジークフリート」では巨人兄弟の一人ファフナーは大蛇の姿になっている。 ということは、ここでも永遠の若さが蛇に奪われた、と言えないだろうか?
2002-12-01 (0) 01:42:50 +0900
私がメインに使っているのはダイバーズウォッチで、 リュウズの回りが傷んで防水性能が落ちるのを避けるため、 なるべくリュウズ操作はしないようにしている。 精度は月差 ±15 秒だが、実際にはこんなには狂わないので、 小の月の月末に日付を合わせる際に時刻も合わせれば、 あとは回転ベゼルでいま何秒ずれているかを表示しておくだけでたいてい用が足りる。
十一月が終わったので、その時刻合わせの日になった。 いま合わせると次は二月末まで合わせないことになる。 この時計は寒いと遅れ、暑いと進む。 私のやり方だと、 寒い十二月、一月、二月に合わせる機会がなく、 暑い七月、八月、九月にも合わせる機会がない。
買ったばかりのころは年に一度、四月末に合わせるだけで済むぐらいだった。 だんだんと精度は落ちるようだ。
2002-12-01 (0) 01:30:00 +0900
シチズンの電波時計だったと思うが、小窓に午前午後の別が色で表示されるのがある。 しかし、12 時付近ではあてにならないのではないか。
瞬時に切りかわるという触れ込みの日付表示を持つアナログ腕時計を見たことがあるが、 やはり切りかわるタイミングに少しの誤差はある。 よって、0 時付近に読み取った日付には ±1 日の誤差があるかもしれないのである。
それと同じでは。
これを防ぐには、一日をもっと細かく分け、 朝はこの色、昼はこの色、夕はこの色、夜はこの色、とすればよい。
2002-12-01 (0) 01:17:58 +0900
デジタル表示の腕時計ではボタンを押さないと日付が見られないのがあるが、 アナログ表示ならすべての情報が常に表示されている、と思っていた。
しかし、午前か午後かは表示されていないのだった。 24 時針つきのなら表示されているが。
2002-12-01 (0) 01:11:11 +0900
いま、「(ウトナピシュティムは)ギルガメシュ叙事詩に出てくる人物」 と書きそうになって 「いやいや、人物そのものではなく人物の名前だ」 と思い直したが、「人物の名前」には「人名」という言い方もある。 しかし、「ギルガメシュ叙事詩に出てくる人名」 と書くと名前は出てくるが登場はしない人物の名前、と思われるかも知れない。
2002-12-01 (0) 01:06:44 +0900
前者はギルガメシュ叙事詩に出てくる人物の名前。
2002-12-01 (0) 00:55:51 +0900
…だそうだ。 同校のホームページを見て知った。
国立大学では「附属」と書くことが多いが、 門柱に「付属」と書かれていたので不思議に思っていた。 その門柱はもはや取り壊されて、ない。
2002-12-01 (0) 00:20:18 +0900
前に、アナログ時計には七日間で連続的に一周する“曜針”をつけたら、 と書いたが、それが表示する情報は時・分・秒に曜日つきのデジタル時計と同じだ。
そういうデジタル懐中時計を持っている。 曜日は横に七つ並んでいるうちの一つが“点灯”する。 (ボタンを操作すれば時・分・秒表示からが月・日表示に切りかわる。)
2002-11-30 (6) 23:34:55 +0900
教師の間で出る話に、 「あのクラスはもうだいぶ学生の顔と名前を覚えた。 でも、まだ全部は名前と顔が一致しない」というのがあるが、 どうもこの「名前と顔が一致」が気になってしかたがないのである。
2002-11-30 (6) 22:51:57 +0900
割と思いつかれやすいような気がしたのだが。
2002-11-30 (6) 02:07:24 +0900
「集合と位相」の授業で、集合の話を済ませたあと、 「これから位相の定義を説明します」のように言うことがあるが、 もうすでに「与えられた集合のベキ集合が集合になること」 「与えられた集合の要素のうち、ある性質を満たすもの全体が集合になること」 は済んでいるのだから、 与えられた集合に対しその上の位相になるものは決まっている。 ということは、「『位相』という言葉の定義を説明します」と言うべきなのだろうか?
別に「位相」に限らない。「群」とかでも同様。
2002-11-30 (6) 01:58:24 +0900
漫才で、 「『足が悪い』と言わないで『足が不自由』のように言うんだ」と教えられ 「お前は顔が不自由だ」と言うのがある。
2002-11-30 (6) 01:52:20 +0900
死体をもみ続けることになるが、ぐちゃぐちゃになったりしないだろうか?
2002-11-30 (6) 01:49:07 +0900
あと十二月が 26 日、27 日、28 日の三日あり、 そのあとに十三月がある!
年の初めに〇月を置くか。
2002-11-30 (6) 01:38:50 +0900
一カ月は 28 日になり、毎月同じ曜日から始まるが、 もしも 1 日を日曜日にすると毎月 13 日は金曜日となり、 「13 月 13 日の金曜日」は非常に不吉に感じられる(かもしれない)。
2002-11-30 (6) 01:37:26 +0900
実は二枚が一続きの紙になっているから、 25 枚ずつというのは不可能なわけだ。
24 枚と 26 枚は、見た目ではほとんど区別できないだろう。 工場ではどうやっているのだろうか。
2002-11-30 (6) 01:34:56 +0900
そうでないと、せっかく 24 時制で 01:29:56 と書いても 「(午前)」などをつけないと午前か午後か不明になる。 これでは、短く書けるという 24 時制のよさが生かされない。
2002-11-30 (6) 01:30:34 +0900
天丼と牛丼のハーフ&ハーフ。
2002-11-30 (6) 01:28:37 +0900
後者は鼻濁音だ。
2002-11-30 (6) 01:25:58 +0900
広辞苑は第五版(1998 年)で初めて「切れる」にこの意味を載せた。 が、語源の説明はない。
2002-11-30 (6) 01:19:39 +0900
それだけ。
2002-11-29 (5) 20:28:13 +0900
岩波文庫(1986 年改版)第一分冊 223 ページ。
2002-11-29 (5) 20:23:59 +0900
タイトルはトルストイの「人にはどれほどの土地がいるか」のもじり。
プロの作家などで、本が増えすぎて置き場がなくなってしまった、 というのを自慢話のようにしている人がいるが、 一年にどれだけ本が増え、あと何年仕事をするから、 あとこれだけの書架が必要だ、と考えて書庫を作らないのは、 計画性がないと言われてもしかたがあるまい。
トルストイの民話のほうはそういうお話ではない。念のため。
2002-11-29 (5) 20:19:36 +0900
…冷蔵庫の電源をいれてなかった、という人はどのくらいいるだろうか。
ホテルの冷蔵庫で、チェックイン時には空で電源がはいっておらず、 客が必要ならスイッチを入れて自分の持ち込んだものを冷やす、 というのがあるが、あれだと起こるかもしれない。
2002-11-29 (5) 20:16:02 +0900
私は、 語彙は制限するわけにはゆかないが漢字の数は制限しないわけにゆかないだろう、 よって「ハ虫類」「ホ乳類」「メイ王星」 のような混ぜ書きを積極的に取り入れるべきだ、と考えているのだが、 このようなカタカナとの混ぜ書きはあまり行われておらず、 ひらがなと混ぜるのが普通である。
すると「よく把握してない」は「よくは握していない」 となっていちじるしく読みにくい。 それは「は」を助詞とカン違いしてしまうからである。 だったら、助詞の「は」を別の文字で書くようにしたらどうか。
いま名案が思いつかないので仮にローマ字の「wa」としてみよう。 すると「よくは見えない」は「よくwa見えない」と書くことになる。 これになれてしまえば、 「よくは握していない」の「は」を助詞とカン違いすることはなくなる。
カタカナで「ハ」と書く手もあるか。 その場合、「よくハ見えない」となる。
2002-11-29 (5) 19:36:07 +0900
前者だと「総合的にみてお前はだめだった」ということになるが、 後者なら「この試験には合わなかっただけだ」と思えばいいから。
ここで「総合的に判断する試験」と言っているのは 「総合的に判断し、一つでもいいところがあればとってくれる試験」のことである。 いろいろな項目について試験し、合計点で上位から定員までとる、というのは 「機械的」に含める。
2002-11-29 (5) 19:23:46 +0900
「ひとりひとり」とは言うから、三モーラになるとダメというわけではない。
「広々」に対し、古語だが「狭々し(せばせばし)」という言い方があるから、 ネガティブな概念については言わない、というわけでもない。
2002-11-29 (5) 19:16:16 +0900
12 時制には、 「午後 12 時 10 分」がいつを指すのかわかりにくいという欠点があった。 また、夜中の 12 時の次に 1 時になるところで日付が変わるとカン違いする人がいる、 と指摘するページがあった。
では、次の表のように呼び方を一時間ずらしたらどうか。
24 時制 | 改訂 12 時制 |
---|---|
0 時 | 午前 1 時 |
1 時 | 午前 2 時 |
… | … |
11 時 | 午前 12 時 |
12 時 | 午後 1 時 |
13 時 | 午後 2 時 |
… | … |
23 時 | 午後 12 時 |
24 時 | ? |
「日付が変わってすぐに 1 時だなんて」と言う人には 「月が変わって最初の日は 1 日でしょ?」と言って納得してもらう。
この言い方は現行の 12 時制と混同されやすいが、 現行の「午前 10 時 10 分」を 「午前 11 時へ(向かって)10 分(経った時刻)」と言うようにすれば、 両立も可能だ。
付)むかし、ロシア語を少しだけ勉強したとき、 ロシア語での時刻の言い方はこれに近いと習ったような記憶がある。
付)この案では、 24 時制の「24 時」にあたる、その日の終わる時刻を指す言い方がうまくできない。 「午後 12 時 60 分」? 「午後 12 時 59 分 60 秒」は、 UTC と時差のないところではうるう秒のあるとき 「(翌日の)午前 1 時 00 分 00 秒」 とは別に実在するのでうまくない。
2002-11-28 (4) 23:38:35 +0900
改暦案にはいろいろあったらしい。
週七日制を崩してもいいのなら、
2002-11-28 (4) 23:06:15 +0900
international week number というものがあることは前にも書いた。 ある年の第 1 週とはその年の日を四日以上含む最初の週である、 と定義するのである。 ただし、ここでは週を月曜から始まる連続した七日間と考える。
これはひと月の中の週にも適用できるが、あまり見かけない。 「十一月の第 2 月曜日」という言い方はよく聞くが、これは必ずしも 「十一月の(上の意味での)第 2 週の月曜日」と同じとは限らない。
二月は平年は 28 日なので必ず第 4 週までになるが、 28 年に一度、
月 火 水 木 金 土 日 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29のようになって 5 週目がある年がやってくる。 最近では 1996 年がそうだった。
2002-11-28 (4) 22:50:09 +0900
この番組は、 月・火、水・木、金・土は同じ内容であり、 二週で一まとまりになっているので、 五週ある月は余った最終週の六日間で第一週・第二週の再放送を行なう。
十月はそのようになっていたが、 冒頭部分が再放送用に録音し直したものと取り替えられていたことが、 声の高さからも明らかだった。
講師は十月から担当の西垣知佳子先生。 女性講師の場合、担当し始めたばかりのときは声が高く、 だんだん普通の声に下がってくるもののようである。 何年か前にフランス語講座を担当された先生もそうだった。
2002-11-28 (4) 22:34:41 +0900
楽章全体は変イ長調であり、 第二主題は提示部でヘ短調、再現部でロ短調と、増四度=減五度ずれている。 ちょうと正反対の調である。
こういう曲って、ほかにあるのだろうか?
2002-11-27 (3) 23:19:02 +0900
ベートーベンの交響曲のスケルツォ楽章は
「第一」「第二」ではトリオのあとにダカーポと書かれているので、 全く同じである。 「第三」から「第六」はそうではない。 このことが最もはっきりしているのは「第五」だろう。 最初はホルンで力強く奏された運命の動機が、 反復時には木管や弦のピチカートで弱々しく響く。 モーツァルトのメヌエット楽章ではダカーポに決まっていたものを、 ベートーベンが進歩させたといえよう。
しかし、 「第七」「第九」ではそれが元に戻っている。 コーダは別に書かれているものの本体は同じである。 (「第八」の第三楽章はスケルツォでなくメヌエットなので、 より古い形に戻っている。)
ちょっと不思議な気もする。 「第九」の場合、スケルツォ自身がソナタ形式であり、 再現部が提示部の単純なくり返しでないので、 スケルツォ−トリオ−スケルツォの反復は単純にした、と考えればいいのかも。
2002-11-27 (3) 23:08:15 +0900
金子建志「こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲」 (音楽之友社 1994 年)の 103 ページで読んだ話だが、 マーラーがベートーベンの第九交響曲を指揮した際、 第二楽章でスケルツォ−トリオときてスケルツォに戻ったところの、 最初の 8 小節 --- オクターブ下がる動機がフォルティシモで四回奏される部分 --- をカットしたことがあるそうだ。 スケルツォが全く元のままでリピートされるのではおもしろくない、 という考えであろう。
その考えに立つなら、くり返しの際のスケルツォはNHKの「名曲アルバム」 のように途中を大胆にカットすることも考えられるのではないか。
私はオリジナルのままがいいけれど。
付) いくら大胆とは言っても、 スケルツォに帰らずそのままコーダに突入なんてのは無しね。:-)
2002-11-27 (3) 19:41:14 +0900
私もそうでした。
野菜のキュウリにつられるのだろうか。
2002-11-27 (3) 19:18:33 +0900
だから「《ゴルトベルク変奏曲》から《アリア》」と言ったらおかしい、 なーんてのは揚げ足取りだ。 現在では、 アリアと30の変奏曲で「ゴルトベルク変奏曲」という作品、 と考えるべきだろう。
付)タイトルの「 」内は通信販売のカタログでよく見かける文章をまねてみたもの。
2002-11-23 (6) 19:31:29 +0900
電話をかけてアポイントメントを取るのが仕事のようだ。
リーダーズ英和辞典では appointer は「任命者」、 appointor は法律用語で「《財産指名権による》指名権者」となっている。
2002-11-21 (4) 23:43:24 +0900
2002-11-21 (4) 23:33:27 +0900
それだけ。
2002-11-21 (4) 23:20:39 +0900
「十一月 21 日から一泊、朝食付」と言えばその朝食は 22 日の朝食であると決まっているが、 「21 日のだと思っていた」と言い張る客はいないだろうか?
2002-11-21 (4) 23:18:57 +0900
入試問題を作る際、全ての教科書をチェックするのが大変な労力、 と聞いたことがある。 もしも教科書が“国定”でただ一種類だったら、 それを見て作ればいいから手間が省ける。
教科書は“国定”にするが、 授業ではそれをそのまま教えようが批判しようが、 反対の立場の“副読本”のほうを“教科書”にしようが教師の自由、 でも上の学校の入試はその“国定”教科書から出る、というのはダメかな?
入試問題は「次の中で、……であると教科書に書いてあったのはどれか」 のように聞く。
やっぱりダメだな、きっと。
2002-11-21 (4) 23:10:06 +0900
「みんなが『自分一人ぐらい投票しなくたって結果は同じだろう』 と考えて棄権したら民意と異なる結果が出るかもしれないからよくない」 という意見には 「みんなが時差出勤して通勤時間帯の電車がガラガラということがあるか?」 と反論できるのではないか?
電車がガラガラでもたいしたことはないが、 不適切な代表者が選ばれたら長いあいだ悪い影響を残す、 と再反論されるか。
2002-11-21 (4) 22:57:01 +0900
24 時制と 12 時制のどちらがよいか考えてきたが、 前者が優れているのは人工的であるがゆえに 「午前 12 時 = 午後 0 時」のように一意に呼び方が決まらない時刻が少ない、 というだけのことではなかろうか。
(24 時制でも「21 日 24 時 = 22 日 0 時」の問題は残る。)
2002-11-21 (4) 22:49:19 +0900
人間に全くかかわりなく存在するものを「自然〜」と呼ぶのはわかるが、 言語は人間がいなかったら存在しなかっただろうに、 ある言語は「“自然”言語」と呼ばれるのだった。
(だからどうした、と言われると困るが。)
2002-11-21 (4) 22:38:14 +0900
ジークムントとジークリンデの場合は双子で、 姉弟か兄妹かはおそらく不明と思われるが、 エルザとゴットフリートの場合、 第一幕第一場でフリードリヒのセリフに Elsa, die Jungfrau, und Gottfried, den Knaben; とあるのでまず間違いなく弟であろう。
2002-11-21 (4) 22:29:53 +0900
それとも、広い道に沿って直進、となるのか。
2002-11-21 (4) 02:28:59 +0900
もしも横断歩道が歩道だったら、 自動車は常に直前で一時停止しなければならないことになる。
2002-11-21 (4) 02:26:55 +0900
相手がどこまでの切符を買ったかはわからないから、 とにかく最高額の切符を買って乗る。 むだになるが、精算などしていたら見失ってしまう、 と読んだことがある。
いまはパスネットとやらがあるから。
2002-11-21 (4) 02:22:18 +0900
少なくとも最近は全く見かけない。
2002-11-21 (4) 02:19:35 +0900
もしできるなら、 「そうやって補償を行なうことが日本国の信頼を高めることになるのだから、 憲法改正をしてそうすべきだ」 という意見もありそうなものだが……。
2002-11-21 (4) 01:38:23 +0900
まとまった曲では最後となったこの四重奏曲は、
「何となく生命の衰えにも似たものが感じられる
」
(諸井三郎氏、全音のスコアの解説冒頭)
などと言われることがある。
確かにそう感じられる面もあるが、彼の交響曲第8番と同じように、
いったん古典的なものを書こうとしただけではないか、という気もする。
同じヘ長調だし。
2002-11-21 (4) 01:25:59 +0900
ここを聞くと、 天国のベートーベンがマーラーや中国の詩人たちと散歩しているさまを想像してしまう。
2002-11-21 (4) 01:21:08 +0900
伴奏は五音音階ではない。
2011-10-10 (1) 23:05:18 +0900
ベートーベンには、 未完成のまま演奏されている曲や補筆されて演奏されている曲はない(はずだ)。
彼の最後の作品は弦楽四重奏曲第13番の新しいフィナーレだそうだが、 その直前に完成した第16番の第三楽章 Lento assai, cantante e tranquillo があまりに美しいので、 もしもここでブルックナーの交響曲第9番のように終わっていたら、 そして「第4楽章の冒頭には Der schwer gefaßte Entschluß と書かれ、 Muß es sein? なる歌詞をもつ Grave の主題と Es muß sein! Es muß sein! なる歌詞をもつ Allegro の主題が書きつけられているが、 これが何を意味するのか、 弦楽四重奏に声楽を導入する計画だったのか、すべては永遠の謎である」 などと解説されていたら、と想像してしまうのである。
(もちろん、私はあの曲が完全な形で残されたことを喜ぶ者です。)
2002-11-21 (4) 01:13:17 +0900
LP時代に「運命 / 未完成」 というレコードをよく見かけたことから考えてみたのだが、 もしもベートーベンの交響曲第5番「運命」が未完成で第二楽章までしかなかったら、 どうなっていただろうか?
もちろん、それでも名曲として演奏され続けていただろう。 「第三楽章のスケッチとして、 モーツァルトの交響曲第40番のフィナーレの主題の冒頭部分と同じ音の並び (をハ短調に移調したもの)が書きつけられている」 なーんて書かれていたかもしれない。
2002-11-21 (4) 00:54:12 +0900
《朝日新聞>プロ野球>「読売新聞社の〜社長」で全読者がわかるだろうか? (2002-02-05 (2) 02:03:59 +0900)》にこう書いた。
2001年1月9日づけ朝日新聞大阪本社版スポーツ面 「EYE 西村欣也」は「ドラフト改革 議論深める時」。 《
読売新聞社の渡辺恒雄社長が報道陣に囲まれて発言した。 「ドラフト廃止ができないなら、新リーグを結成する。 西武と同調して、プロ四球団にノンプロ二球団を誘い、 六球団で》 とあるが、この人がプロ野球とどういう関係にあるのか、 一言も書いていない。朝日新聞は「読売ジャイアンツ」を「巨人」と呼んでいることに注意。
19日づけ同紙同面の同コラムは
《93年3月だった。
まだ巨人のオーナーにも就任していなかった読売新聞社の渡辺恒雄社長が報道陣に囲まれて話した
》。
これならわかる。
なお、続く部分は
《「ドラフト廃止ができないなら、新リーグを結成する。
西武と同調してプロ4球団とノンプロ2球団を誘い6球団で」
》
であり、前とほとんど同じだ。(別にそれでいいんだけど。)
付)上の「同紙」「同面」「同コラム」はあまりいい言い方とは思いません。 面白半分にやってみました。
2002-11-21 (4) 00:40:40 +0900
上のリンクはいまはった。それまでは a href タグをおいていなかった。
2006-05-15 (1) 01:49:54 +0900
本文ナシ
2002-11-21 (4) 00:22:48 +0900
19日づけ朝日新聞大阪本社版「政治・総合」面、
“主婦と生活社”の広告で
「週刊女性」のわきに出ている
「ふにゃふにゃ日記」に
「若くして夭折した著者渾身の書!
」。
えっ、 著者は菜摘ひかるさん、 ってことは彼女、亡くなったの?!
2002-11-20 (3) 01:51:01 +0900
小学校の算数で重要なポイントの一つが「比の三用法」である。 細かい用語は違っているかもしれないが
内分点の位置ベクトルの公式は (mu+nv)/(m+n) の形だが、m と n を取り違えてはいけない。 この例では、 m がうんと大きくなるとこっちに近づくから……、 と考えれば間違いを避けることができるのだった。
2002-11-20 (3) 01:15:49 +0900
紙をひっかいて書くものは除く。
2002-11-20 (3) 01:06:03 +0900
NHKラジオ「英語リスニング入門」の十月 18/19 日分の聞き取り問題に関連して。
2002-11-20 (3) 01:02:44 +0900
ウルトラシリーズ後期の作品に、ウルトラ兄弟たちに変身した --- ウルトラセブンの場合はウルトラセブンが変身した --- 隊員たちが集まるシーンがあったと聞くが、 そこにウルトラQの万城目淳が加わったら、 きっと場違いな感じだっただろうと思う。
2002-11-20 (3) 00:55:35 +0900
「同一人物とはどこにも書いていない」 「この人は使用前(し・ようぜん)、 この人は使用後(し・ようご)という芸名のタレント」
2002-11-19 (2) 23:47:46 +0900
祈る人もあるし、 すでに合否は決まっているのだから祈らない、という人もあるだろう。
2002-11-19 (2) 23:43:50 +0900
毎月の 4 日、14 日、24 日に市が開かれたから「四日市」。 だったら 10 日、20 日、30 日は「〇日町」ではないか。
2002-11-19 (2) 00:47:17 +0900
ほくほく線の車内に「在来線最速」という掲示が出るのをみて、そう思った。 秋田新幹線に乗ってみた感じではそれほど速くなかったが、 整備すれば標準軌のほうが速いに決まっている。
2002-11-19 (2) 00:42:17 +0900
座席のわきについている。 「緊締」という言葉が珍しいので写してきた。
2002-11-19 (2) 00:38:39 +0900
調号を使わず、臨時記号をつける記法がある。 激しく転調する曲には便利であろう。
このやり方では、Ces や Eis のような、 白鍵の音なのに臨時記号をつける音は出てこないと思っていたが、 そうではなかった。 F, H を嬰ヘ長調=変ト長調の第七音、 第四音として使う場合は増四度ではなく減五度だから。
こういう音楽では増四度と減五度は区別しないから書くときも区別しない、 となればまた別か。
2002-11-19 (2) 00:32:37 +0900
ベートーベンはいろいろと型破りなことをしたが、 マーラーの交響曲第9番のように緩徐楽章で終わる曲は書かなかったな、 と思って彼の交響曲、弦楽四重奏曲、バイオリンソナタ、チェロソナタ、 などを思い浮かべていたが、後期のピアノソナタにはあった。 第30番、第32番。
ただし、どちらも変奏曲で、 前者は途中でテンポが上がるし、 後者はテンポは変わらないもののかなり動きが多くなるので、 あまり緩徐楽章という気がしない。
2002-11-19 (2) 00:19:31 +0900