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   漱 石 は 見 た か
      
―熊本時代の漱石とハンセン病―

杉山 武子  

 


文芸誌「海」 第57号所収(2003年10月1日発行)

1 二人の女性宣教師

二〇〇一年五月十一日、熊本地裁でハンセン病訴訟判決があった。強制隔離規定に違憲性があるとして、国に十八億円の賠償を命じた判決に対し、 五月二十三日、国は控訴を断念した。このニュースを聞いて、私は十九世紀末から半世紀にわたり日本のハンセン病患者さんの救済にその一生を捧げた、 尊い二人の英国人女性を思わずにはいられなかった。

無知ほど恐ろしいものはない、とはよく聞く言葉である。また自分の無知ほど自覚症状がないのも事実である。私がそれを強く感じたのは九年ほど前、 ハンナ・リデルとエダ・ライトという二人の英国人女性宣教師の存在を知った時だった。

ハンナ・リデルは英国国教会に属する聖公会の新任女性宣教師として、明治二十四年(一八九一)一月、キリスト教布教のために来日。他の四人の 宣教師と共に神戸港へ降り立った。三十五歳の若さだった。

その後、熊本に赴任を命じられたリデルは、着任するとさっそく第五高等中学校の教授や生徒たちにキリスト教の伝道をはじめた。第五高等中学校には 英語の堪能な教師もいた。リデルは親しくなった五高の教授たちに誘われて、本妙寺へお花見に行き、そこで一生を決する出来事に遭遇する。 明治二十六年四月三日のことだった。

本妙寺は加藤清正公の菩提寺として知られるばかりでなく、日蓮宗の名刹としても有名である。晴天のその日、参道にずらりと続く満開の桜並木の美しさ とは対照的に、その花の下にはボロをまとい、石段にうずくまって哀れみを乞い、あるいは物乞いし、拝殿では熱心に祈る何十人という数のハンセン病者 たちの痛ましい姿があった。桜の美しさより、リデルにはこの悲惨な光景の衝撃のほうが大きかった。初めてみるハンセン病者だった。

 「私が初めて此の寺に参りましたのは、唯今より十年ほど前の春でございました。」「空天は誠に麗かに晴れ亙り、道路の両側には三四町も続いて桜の 花が今を盛りと咲いて居る。其の青き空、其の麗しき花の下には何物があるかと見ますれば、それは此上もない悲惨の光景で、男、女、子供の癩病人が 幾十人となく道路の両側に蹲(うずく)まって居まして」「自分の痛ましき病気の有様を態々(わざ)と、其の寺に参詣いたす人々に見せて恤(あわれ)みを乞うて 居ました」(内田守編『ユーカリの実るを待ちて』より)

リデルはその衝撃的な日のことを、後にこのように大日本婦人衛生会の講演で語っている。リデルはこれらの病者が社会から忌み嫌われ、何の治療も 援助も受けられず放置されている実情を知ると、彼らへの献身と病者の救済こそが自分の使命と考えるようになった。病者を救うための病院創設を決意すると、 リデルはすぐに行動を開始した。私財を投じ、英国の親戚知人にも援助を訴え、明治二十八年(一八九五)ついに第五高等学校に隣接する地に、ハンセン 病者のための専門病院を開設した。本妙寺の花見で衝撃を受けた日から、わずか二年半後のことである。

その病院は、ハンセン病者たちの暗黒の人生に再び「希望の春をめぐり来させる」祈りの意味を込め、「回春病院」と名付けられた。

リデルは大柄の女性であったらしく、肖像写真を見ても、その堂々たる風貌には威厳すら感じられる。またリデルは非常に強い意志と行動力の持ち主で、 病院建設とハンセン病患者救済という事業を成就させるために、臆することなく時の政府高官や実業家たちに訴え、支持を取り付け、募金を募った。 細川侯爵家からは、廟所のある山つづきの土地六千坪の提供を受けた。

リデルの継続的な活動は、各地に国立療養所が生まれる礎ともなったといわれるが、彼女の精力的な活動の一端を知る有名なエピソードがある。リデルの 活動を資金面で援助していたのは母国の英国の人々であったが、明治三十八年、日本が日露戦争に勝利すると、もはや強国日本に応援の必要はないと、 送金が中止されたという。

リデルは非常に困って、当時の総理大臣大隈重信に援助を求めた。大隈総理大臣はさらに実業家渋沢栄一に相談して、日本橋の銀行会館でハンセン病 救援講演会を開くことになった。画期的な講演会となったその日、会場には内務省の衛生局長など政府高官をはじめ、大隈伯爵、渋沢男爵、三井、古川、 岩崎等の大富豪も顔をそろえたという。

彼らを前に、リデルは堂々と「日本が駆逐艦一隻の費用を転用すれば、この国のハンセン病問題は解決する」と提言 したという。この演説は国をも動かすきっかけとなり、明治四十年のらい予防法の発布へとつながった。それ以降、国により療養所が設置され隔離医療政策が スタートしたが、それは皮肉にもハンセン病患者の強制収容という形となって新たな差別を生み出し、約百年後の今日まで続くことになったのである。

もう一人の英国人女性宣教師、リデルの姪エダ・ライトは、明治二十九年(一八九六)、二十六歳の若さで来日。各地でキリスト教の伝道と英語指導ののち、 病身で高齢の伯母リデルの事業を助けるために、大正十二年熊本へ移り住んだ。昭和七年にリデルが亡くなると、ライトは回春病院の経営を引き継ぎ、 ハンセン病患者救済活動に生涯を捧げた。

伯母の事業を継承したライトは、日本に戦争の影が忍び寄る頃から苦難の道を歩むことになる。資金難のため病院経営に日夜頭を痛め、第二次世界大戦 開始と同時に頼みとしていた外国からの送金も途絶え、経営難に陥る。さらにライトは敵国の英国人であるという理由で、常時特高刑事二名に監視され、 持っていたラジオが秘密通信機だとして、スパイ容疑までかけられた。

ライトは水戸師範などで長く教職にあり、日本語も流暢だったという。監視の刑事はライトと論争になって負けると、七十歳のひ弱いライトの背を棒でしたたかに 打ちのめしたこともあったという。昭和十五年になると銀行関係の書類は押収され、外国からの送金もないことから年末の支払いもできなくなり、病院経営は行 き詰まった。伯母リデルによる開設から四十五年間続いた回春病院は、昭和十六年二月三日、ついに閉鎖に追い込まれた。ライトは英国大使館の退去命令 により、追放同然にオーストラリアへ退去した。

病院閉鎖の日、患者を乗せた輸送用のトラックが動き出した時、ライトは荷台に取りすがって「ごめんなさい、ごめんなさい」と、泣きながら何度も患者たちに 詫びたという。トラックが門を離れるその時、車の中の患者たちは賛美歌を歌い出し、それがライトとの別れになったという。この日のライトの日記には「政府は、 私から愛する患者たちを奪った。病院は、空っぽになった。」と記されているという。五十八人の患者は九州療養所に移送された。回春病院のすぐそばには、 伯母リデルの構想により実現した白亜のハンセン病菌研究所も建っている。ライトは昭和十年秋以降、この研究所に増築した二階部分を住居としていたが、 ライト退去後は軍部が使用したという。

七十一歳の高齢で国外追放となったライトは、患者たちのもとへ帰りたいとの一念を貫き、終戦後オーストラリア当局に対し、何度却下されても繰り返し 日本への出国許可を求め、ついに許可を得たという。昭和二十三年六月十一日、七十八歳の高齢、しかも身よりもない単身の身で再び来日。熊本市民の 熱烈な歓迎を受けた。ライトが帰国した時、以前の住まいであった研究所二階の室内は荒らされ、家具調度品は持ち去られたり破壊されていたという。 しかしライトは再びそこを住居とし、昭和二十五年(一九五〇)に八十歳で亡くなるまで、療養所に住む患者と未感染児童施設「龍田寮」の子どもたちに囲まれて、 穏やかな毎日を過ごしたという。

ハンセン病患者の「死んでも実家の墓には入れない」という嘆きを聞いたリデルは、生前回春病院の敷地内に、患者たちのために永遠の安らぎの場所 として納骨堂を建設し、自らもそこに納まった。ライトの遺骨もまた、願いどおり伯母リデルと患者たちの遺骨と共に、そこに納められているという。

大原富枝の小説に『忍びてゆかな 小説津田治子』がある。実在のハンセン病患者で歌人であった津田治子の生涯を描いた小説だ。治子は若い日、 ライトが健在な頃に回春病院に入所している。小説の中には数箇所、リデルやライトの姿に触れた部分がある。ライトと特高刑事とのやり取りの場面は、 こう描かれている。

  「先生が傷つけられたのは、そのとき刑事の吐いた暴言だった。ぬしたちゃ日本の一番穢(きたなら)しか病人ば集めてきて金もうけばしよる。ライト先生 はあまりのことに一瞬耳を疑うように刑事の顔を見つめ、おお何ということを。神様がご存知です。そう言われて十字をおきりになったそうである。」

またオーストラリアに追放された「ライト先生からの便り」として、次のように書かれている。

 「わたし、日本にかへりたいです。かならずくまもとに、かへります。おーすとらりあの花のたね、たくさん持ってかへります。まってゐてください。」

そしてライトが再び熊本の地を踏んだ場面。

 「ライト先生が帰って見えたのは翌年、二十三年の初夏であった。私たちは駅まで出迎えに行った。ホームに降りた先生はグレーのツーピースに 紐飾りのある小さい帽子を被って、お別れしたときより、一廻りも二廻りも小さくなられ、ほっそりしていらしたが、お元気でうれしそうに誰かれに次々と 抱きついて涙をこぼされた。

  竜田山南ふもとの暖かく 未感染児童とライトさんと住む」

ハンセン病患者救済という初志を貫き、異国日本に病院を建設し、政財界に人脈を作り、派手で実業家的な素質もあったハンナ・リデル。それとは対照的 に控えめで優しく、伯母リデルの心を受け継ぎ、その事業を継承することにひたすら尽くした姪のエダ・ライト。宣教師としていかに宗教的な使命感があった とはいえ、この二人の英国人女性の、異国日本での半世紀に及ぶ足跡を知ったとき、そして戦時中スパイ容疑までかけて国外へ追放した日本人の仕打ち を知ったとき、私は無知というものの恐ろしさと恥ずかしさで、顔の赤らむ思いだった。

2 リデル・ライト両女史記念館

この二人の存在を知って間もなくの平成七年夏、私は熊本市へ行った。回春病院に隣接する研究所跡地が「リデル・ライト両女史記念館」となっていること を知ったからだ。JR熊本駅前の交通センターからバスに乗り、熊本大学前を過ぎ、次の立田山自然公園入口で下車。熊本大学黒髪キャンパスを横目に、 細い坂道を立田山のほうへ向かって歩くこと約六分。分かれ道のところに来ると、案内の標識が立っていた。右手のこぎれいな建物へ向かって少し下ると、 そこが回春病院跡地に建つ「リデル・ライト記念老人ホーム」である。その裏手に回ると小高い地に白亜の「リデル・ライト両女史記念館」が佇んでいた。

緑の木立に囲まれた中に、思いがけず現われる白亜の館。この建物は、大正七年(一九一八)に建設されたハンセン病菌研究所で、設計者は当時第一級の 建築家であった中條精一郎。作家宮本百合子の父でもある。こんな一地方の研究所にしては、不似合いなほどの設計者であることから、リデルの人脈の広さ と手腕を改めて感じさせられる。当初は一階のみの建物で、白亜の瀟洒な外観は、当時としてもひときわ目を引いたと思われる。その後ライトの住居として 二階部分が増改築され、第二次大戦中は軍部が使用したことは先に述べたとおりである。

現在館内には二人の遺品や写真、大隈重信からの手紙などが数多く展示され、二人の生涯に改めて接することができるようになっている。また日本のハンセン 病患者救済に尽くされた人物の資料も多数展示され、私の知らなかった世界を垣間見ることもできた。すぐそばにはこんもりした南向きの丘があり、その木立の 中には二人をたたえる肖像入りの石碑と、花に彩られた納骨堂が静かに佇んでいる。

リデルが本妙寺に花見に行った日、携えていた『日々光り』の四月三日の欄外に「First sow lepres」と、初めてレプラ(らい)病者を見たことを記した劇的な 日から、何と百八年目の二〇〇一年、やっとハンセン病患者さんたちの人権の回復する日が来たのだ。納骨堂に眠る伯母と姪、リデルとライトの二人にも、 その朗報は届いたのだろうか。

私がなぜ、ながながとハンナ・リデルとエダ・ライトの生涯を書いたのか。それはハンナ・リデルが細川家から土地の提供を受け、支援者や資金集めに奔走して 回春病院を建設したのが、明治二十八年十一月。それは夏目金之助、のちの夏目漱石がが四国松山から熊本の第五高等学校へ赴任する、わずか五ヶ月前 であったことがひとつ。もう一つは、回春病院の建つ場所と夏目金之助の勤務地「五高」との距離が、歩いてわずか数分の位置にあったことに注目したからである。

同じ時期に目と鼻の先にいたわけだから、五高教授夏目金之助とリデルの間にも、何がしかの交流があったのではないだろうか。夏目金之助は英語の教授である。 交流があったとすれば、後の文豪夏目漱石は、きっとどこかに、何か手がかりになるものを書き残しているかもしれない。そんな期待を私は持った。そして胸が 高まった。漱石の作品をどんどん読んでいけば、いつかはリデルやハンセン病や回春病院についての文章が現れるのではないかと。

しかしこの目論見は、意外にも早く暗礁に乗り上げた感があった。なぜなら、漱石関連の本をいろいろ読み漁るうち、漱石の書いた作品を全部調べたという人が、 漱石がハンセン病に関して書いたものは一つもない、という結論を書いているのを目にしたからだ。私自身はまだ漱石の書いた作品を全部読んではいないし、 もちろん全部の作品や書き物を漏らさず読み通せる自信も今のところない。全て調べて、結論を出したという人の言葉を疑うわけではないが、まだ読みの途上に ある私にとっては、かなり面食らう出来事だった。

仮に、ある人が結論づけたように、夏目漱石の作品にハンセン病に関する記述が皆無であるとしても、それをもって漱石が非難されるわけではないし、評価が 左右されるわけでもないと思う。いかにもの書きとはいえ、見たもの聞いたもの調べたものを全部書くわけではない。むしろ作家というものは、饒舌を戒め、無駄 なものを削ぎ落とす結果、書かれないことのほうが多いものだ。

熊本時代のことを書いたものは、一体どれくらいあるのか読んで見なければわからないが、現在手に入るものでも相当な分量になるだろう。まだその一部分 しか手にしていないが、ハンナ・リデルとの接点を思わせる記述はないわけではない。たとえば『三四郎』の書き出しの中に、次のような部分がある。小説の主人 公小川三四郎は、熊本の高等学校を卒業して東京の大学へ入学するために、汽車で数日かけて上京する。その途中の浜松で西洋人を見かける場面。

  「三四郎は生まれてから今日に至るまで西洋人と云うものを五六人しか見た事がない。そのうちの二人は熊本の高等学校の教師で、その二人のうちの 一人は運悪く脊虫であった。女では宣教師を一人知っている。随分尖がった顔で、鱚(きす)又はカマス(原文は漢字)に類していた。」(『三四郎』より)

最初、ここに登場する女宣教師とはハンナ・リデルをイメージしたのかもしれないと私は思ったが、調べるうちに疑問に思えてきた。なぜなら夏目金之助が五高 に赴任した明治二十九年の三年前にリデルはすでに熊本に来ていたが、もう一人の女性宣教師グレイス・キャサリン・ニール・ノットと一緒に赴任しているから である。リデルとノットは熊本で同じ家に生活し、布教活動を行い、回春病院の建設にも協力し合った同志である。その後ノットは英国に帰国したが、漱石が二人 のどちらか一人だけを知っていて、一緒に活動していたもう一人を知らないというのは考えにくい。つまり漱石は二人の女の宣教師を知っていた、と考えるのが 普通であろう。

だから小説とはいえ、漱石が西洋人の女性を「一人知っている」と書いているところに、私は逆に引っ掛かるものを感じるのである。たとえ一人であったにしても、 その宣教師が五高近くに建設したばかりの回春病院に関わっていることは、漱石も知っていたはずと思うのである。ちなみに金之助の五高赴任当時の三人の 年齢は、リデル四十一歳、ノット三十三歳、金之助二十九歳であった。

小説は事実をそのままを書くわけではないから、登場する女性宣教師のモデルは誰とは断定しにくい。そのうえ漱石は女性宣教師の顔のことを、とんがった、 とか魚のキスやカマスに似ているなどと意地悪く書いているが、これはその女性に興味を持っていることの裏返しであり、漱石流の照れ隠しではないかとも思 いたくなる。

リデルとノットの肖像を見ると、大柄で気の強い女丈夫の風貌をしたリデルに対し、ノットは面長で華奢な感じの容姿である。「背のすらっとした細面 の美しい」女性というのは、漱石の作品にも登場する密かな理想の女性像として知られている。漱石が自分好みではない女性を無視するとしたら、それはひと 回り年上で大柄のリデルのほうだろう。しかも無視したのは作品の中ばかりでなく、現実にもそうだったのかもしれないと、私は勝手に想像を逞しくするのである。

しかし想像してばかりいても先へは進めない。約百年前の熊本で、半径一キロメートルにも満たない範囲で生活していたであろうリデルや患者たちと、五高教授 夏目金之助のことを私はもっと知りたいと思った。彼らを取り巻く人々も含めて、その接点を私なりに探ろうと考え、平成十三年秋、私は再び熊本行きを思い立った。 もう一度自分の目と足で確認したいことが、いくつもあったからだ。

六年ぶりに訪れた熊本市は、晩秋のころだった。真っ先に足を運んだのは熊本大学、そしてリデル・ライト両女史記念館だ。黒髪地区にある熊本大学の キャンパスは、正門から入ると、その緑の多さに圧倒される。たいていの場合、大学の正門を入ると植え込みのあるロータリーなどがあり、その先に大学本部 や校舎など大きな建物が無造作に見えることが多いものだ。また道路も広くとってある。

熊本大学の場合は、正門を入ったすぐの所から低木や高木などさまざまな樹木が生い茂り、とにかく緑が多い。その間を曲がりくねるように歩道が続き、建物 は時折見える程度だ。たわわな緑の中の小道を、案内板に従ってずっと奥のほうへ進むと、二階建ての古い赤煉瓦の建物が姿を現す。前庭も周囲も見事に 緑に彩られて、落ち着いた風格がある。この赤煉瓦石造りの建物こそ、明治二十二年に第五高等中学校本館として完成した建物で、翌年の明治二十三年 (一八九〇)十月十日には開講記念式典が行われている。

この新設校は九州の最高学府として設立されたものであり、明治二十七年には第五高等学校へ名称変更。さらに戦後の昭和二十四年(一九四九)、熊本医大、 熊本薬専、熊本工専等を統合して、現在の熊本大学へと発展している。現存する赤煉瓦の校舎は「熊本大学五高記念館」として、国の重要文化財に指定されている。

話を百十年前に戻そう。

3 熊本第五高等中学校

熊本の第五高等中学校の第三代校長を務めたのは嘉納治五郎で、在任期間は明治二十四年(一八九一)八月から二十六年一月となっている。嘉納治五郎 の柔道の愛弟子であった本田増次郎が、嘉納に呼ばれて第五高等中学校へ赴任したのは明治二十四年九月であったから、嘉納は校長になったとたん、 益次郎を熊本へ呼び寄せたことになる。益次郎に遅れること二ヶ月後の十一月、嘉納はさらに松江からラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を招聘している。ハーン の在任は明治二十七年十月までとなっているから、ちょうど三年間、熊本にいたことになる。

つまりここに登場する本田益次郎とララフカディオ・ハーンが第五高等中学校に在任した同じ時期に、英国国教会に属する聖公会の女性宣教師ハンナ・リデルも 熊本に赴任し、宣教師として活動していたことになる。

私は先に、熊本に赴任したリデルが、五高の教授たちに誘われて本妙寺にお花見に行ったと書いたが、誘った教授のうちの一人が本田益次郎だった。益次郎 は冗談も言えるほどの英語力があり、クリスチャンでもあったから、リデルと知り合うのも早かったと思われる。お花見のあと、リデルがハンセン病患者救済を 決意して病院建設に乗り出したときも、益次郎はリデルのよき相談相手になったという。

本田益次郎は、リデルを誘った花見の九日後、大阪へ赴任し、その後外交官の仕事に携わり活躍している。リデルは病院完成後、その名称をつけるにあたり 悩んでいたというが、益次郎の助言で「回春病院」という名称に決めたというエピソードも残っている。益次郎は熊本を離れても、回春病院評議員として長くリデル を助けている。益次郎は作家山本有三の岳父でもある。

本田益次郎と五高での在任期間をほぼ同じくするのが、ラフカディオ・ハーン、のちの小泉八雲である。五高には英語の堪能な教員が二、三人いたらしいが、 益次郎もそのうちの一人だったと思われる。ハーンはこの当時のことをのちに、時々授業の合間に英語のできる教員と集まって雑談をしたが、誰とも話さない ことも多かった、と書いているらしく、同僚とはあまり付き合いの良いほうではなかったと思われる。

では、リデルとハーンとの関係はどうだったのだろうか。ハーンはキリスト教嫌いとして有名で、宣教師の活動を「西洋社会の侵略の尖兵」とみなして、嫌って いたという。着任早々のリデルが、五高教授や学生たちを相手にキリスト教の伝道を始めたのを、ハーンは苦々しい思いで見ていたのかもしれない。当然リデル とハーンは英語で会話のできる希少な相手として、互いに言葉を交わしたことも考えられるが、ハーンはリデルを避けていたのかもしれない。などと私は想像 してしまうが、もちろんそれを示す証拠は、私の手元には何もない。

リデルが病院建設に奔走していた頃の明治二十七年十月、ハーンは五高を去り、翌月神戸「クロニクル」紙に入社している。最初の勤務地松江で、日本の 伝統文化に深く共感する所から出発したハーンにとって、近代化を急ぐ熊本は必ずしも居心地のいい場所ではなかったようだ。後年の記述によれば、八雲の目 には、熊本は風流心のない土地、神戸は西洋化した俗悪の街、と映ったようである。

ハーンが去って一年半後の明治二十九年四月十三日、夏目金之助は前任の松山から熊本へと転任する。従ってハーンと金之助の五高での在任期間は 重ならないし、金之助はハーンの後任として赴任して来たわけでもない。しかし夏目漱石とハーン(小泉八雲)の二人の作家はなにかしら縁があったようで、 明治三十六年四月、英国留学から帰国した漱石が就いた東京帝大文科大学講師の職は、前任の小泉八雲が辞めさせられた直後の着任であった。ちなみに ハーンは熊本を去った後に帰化し、妻の小泉家に入籍し、小泉八雲となった。

話は戻るが、ハンナ・リデルの赴任より先に、熊本にはケンブリッジ出身の司祭ジョン・バップス・ブラントラムがすでに着任して住んでいた。新婚のブラントラム 司祭は、熊本に着いたハンナ・リデルと、一緒に赴任した若い女性グレイス・キャサリン・ニール・ノットの二人を出迎えている。若き司祭ブラントラムはキリスト教 布教に燃えていたが、まもなくリデルが病院建設の計画に乗り出すと、激しくこれに反対したという。伝道という宣教師本来の仕事を重視するブラントラムと、 ハンセン病患者救済という自己の信念に従い病院の建設に奔走するリデルとの間に、深刻な衝突が生じたという。その衝突は聖公会内での激しい論争にも 発展したという。

リデルと一緒に赴任したグレイス・キャサリン・ニール・ノットは、リデルより八歳年下の三十歳のとき熊本の土を踏んだ人である。ノットの家系は聖職者が多く、 先祖には清教徒革命のクロムウェルがいるという。リデルと一緒に生活し、共に病院建設にかかわったが、リデルが病院の土地の購入費用に困ってノットに 相談すると、ノットは英国の親元へすぐさま打電し、必要な費用を準備したといわれる。「リデル・ライト両女史記念館」による関連人物紹介によれば、ノットは 「夏目漱石とも書簡のやり取りをする間柄であった」と書かれている。その一文を見たとき私は、『三四郎』に出てくる女の宣教師とは、やはりノットかもしれないと 閃いた。同時に私はやっと出てきた漱石の名前に、心なしか安堵したものである。

ここで、熊本時代の漱石こと夏目金之助の出番である。

4 夏目金之助の赴任

夏目金之助とは夏目漱石の本名で、明治二十九年(一八九六)春、愛媛県尋常中学校(松山中学校)を退職し、親友菅虎雄の紹介で第五高等学校講師として、 熊本へ転任することになった。四月十日に松山を立ち、宇品、広島を経て汽船で門司まで行き、九州鉄道で熊本入りした。目的地の池田駅(現在の上熊本駅) に降り立ったのは、四月十三日昼過ぎだったという。

熊本での生活が終わったのは、明治三十三年七月十八(一説には十九)日であったから、金之助が熊本で暮らした期間は約四年三ヶ月ということになる。 熊本を離れることになったのは、英語研究のため、文部省から第一回給費留学生として、二年間のイギリス留学を命ぜられたためである。

この九州熊本での金之助の生活は、着任早々貴族院書記官長、中根重一の長女鏡子との結婚、教授への昇格、妻の流産と病気(ヒステリー)と自殺未遂、 長女筆子の誕生。その間に九州各地への旅行や六度の引越しと、何かと変化に富んだ数年間であった。

妻のヒステリー症状はかなり深刻だったらしいが、当時の中学教師の給料が二十五円、巡査十六円という時代に、金之助の給料は破格の月給百円。松山時代 と比べても二十円のアップだった。波乱含みであったにせよ、新婚時代を送った地でもあり、英語教師として精力的に活動し、校長の信頼も厚かったというから、 教師としての夏目金之助は、熊本では比較的幸福な時代を過ごしたといえるだろう。

熊本を去って七年後の明治四十一年、すでに作家としの地位を確実なものにしていた夏目漱石は、九州日日新聞の記者のインタビューに答えて、熊本時代の 印象をいろいろ語っている。その明治四十一年二月九日付『九州日日新聞』の記事から、いくつか以下に引用したい。

  「汽車で上熊本の停車場に着て下りて見ると、先づ第一に驚いたのは停車場前の道巾の広い事でした。然して彼の広い坂を腕車で登り尽して京町を 突抜けて坪井に下りやうといふ新坂にさしかかると、豁然として眼下に展開する一面の市街を見下して又驚いた。」

  「市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向ふの蒼暗き中に封じ込まれて居る、 それに薄紫色の山が遠くから見えて、其山々を阿蘇の煙が遠慮なく這ひ廻って居るといふ絶景、実に美観だとおもった。」

漱石が熊本を「森の都だな」と言ったという伝説は、このあたりから出たものであろうか。しかし真相は定かではない。また学生の印象について、こう語っている。

  「松山の中学に初めて教員となって赴任した当時は、学生は教師に対して少しも敬意を払っていなかったから、教員というものは恁ういふものかと思って いた、が熊本に行って熊本の学生の敬礼に先づ感じた。あんな敬礼をされた事は未だ曾てない。余程礼儀が厚い、これは一般に武士道の精神が家庭に 残って居るからだらう。服従といふか、長幼序あるといふか、着実で質素で、東京あたりの書生のやうに軽薄で高慢痴気な所がなく、寔に良い気風である。」

若きエリート教師、夏目金太郎の姿が髣髴とさせられる談話だ。ところが熊本人の評を聞かれた漱石は、とたんに歯切れが悪くなる。

  「一概に熊本人の評をですか、サアそう聞かれると一寸困る。それも何処が長所である、何処が短所であると一々特殊な点を挙げて、明瞭に御談するに は責任を負はねばならぬ。考へを纏めてかからなければならぬ、纏まりさうもない考へをお談しては済まぬ訳になる。又、熊本には長く居ても熊本人士との 交際はあまり為なかった。」

これらの記事を目にして、私はどうしても最後の一行が気になった。熊本には長くいたと漱石も言っているとおり、前任地の松山がちょうど一年の滞在であったの に比べると、熊本の四年三ヶ月は確かに長い。しかしその割には「熊本人士との交際はあまり為なかった」と、語っている部分が気になるのだ。

実際、漱石の熊本時代の年譜をたどって出てくる名前といえば、大学の先輩で親友の第五高等学校教授菅虎雄、第一高等中学校時代から親しかった畏友 正岡子規、何度か小旅行を共にした同僚の山川信二郎、他に長谷川貞一郎、狩野亨吉、奥太一郎、木村邦彦の面々。新婚の夏目教授宅に書生として住み 込んだ五高生の俣野義郎、土屋忠治、共に俳句結社を結成した五高生寺田寅彦、第五高等学校舎監浅井栄熙、一時夏目家に寄宿した行徳二郎、などである。 そのほとんどが五高関係者と学生、それに俳句仲間である。

夏目教授は熊本滞在中何度も転居して、自宅と五高とを往復して教職に専念したほかは、俳句作りに熱中し、妻の病気や出産の合間に、暇さえあれば熊本 近郊や九州各地への小旅行を繰り返している。これらを考え合わせると、熊本人士との交際があまりなかったという漱石の感想も、あながち誇張ではないと思われる。

五高教授夏目金之助の目は、どうやら熊本の市中より外のほうを向いていたようであり、人間関係では五高という狭い世界以外にはあまり関心がなかったように 思われる。東京から松山へ、さらに熊本へと都落ちした金之助にとって、旅は一番の慰謝の場だったらしい。若さが求める旅は、自然の中に意識を解き放ち、じっと 己を見つめることのできる別世界だったのだろう。十年ののち、熊本時代の数々の小旅行から得た体験が『草枕』『二百十日』へと結実していき、教師夏目金之助 から、作家夏目漱石へ突き進む土台となっているのである。

そのことを考えると、東京を離れ松山時代から続く熊本での生活、さらには神経衰弱に陥ったロンドン留学とその後を含めた十年近くは、金之助自身の中に 作家夏目漱石を孕み、つわりに苦しみ、臨月にいたるまでの期間でもあったといえよう。その長い産みの苦しみの後に、作家漱石は誕生したのである。

熊本時代の漱石は、まだ小説は書いていない。もっぱら俳句に熱中する俳人で、五高在任中、千に近い俳句を残しているという。俳句の師匠はもちろん 正岡子規。句稿を子規に送って、添削してもらうという方式をとっていた。二人はともに慶應三年(一八六七)生まれで、東京の第一高等学校以来の親友である。

明治二十九年(一八九六)九月、新婚間もない漱石は妻鏡子を伴って、約一週間、福岡を中心に各地を旅行した。行った先は、博多、箱崎八幡宮、香椎宮、 天拝山、太宰府天満宮、観世音寺、二日市温泉、梅林寺、久留米、船小屋温泉、日奈久温泉などである。行った先々で、漱石は俳句をこしらえている。

  初秋の千本の松動きけり(博多公園)
  しおはゆき露にぬれたる鳥居哉(箱崎八幡宮)
  秋立つや千早古る世の杉ありて(香椎宮)
  見上げたる尾の上に秋の松高し(天拝山)
  反橋の小さく見ゆる芙蓉哉(太宰府天神)
  古りけりな道風の額秋の風(観世音寺)
  鴨立つや礎残る事五十(都府楼)
  温泉の町や踊ると見えてさんざめく(二日市温泉)
  碧巌を提唱す山内の夜ぞ長き(梅林寺)
  ひやひやと雲が来る之温泉の二階(船後屋[ママ]温泉)

旅の空以上に、熊本での日々の生活でも漱石は句作に励んでいる。漱石の日常がそのまま顔を出しているとは言い過ぎにしても、熊本での生活が身近に 感じられる句が多い。

明治二十九年作
 衣更へて京より嫁を貰ひけり
 名月や十三円の家に住む
 ゑいやっと蝿叩きけり書生部屋

明治三十年作
 木瓜咲くや漱石拙を守るべく
 若葉して手のひらほどの山の寺
 月に行く漱石妻を忘れたり

明治三十一年作
 温泉や水滑かに去年の垢(小天温泉)
 春の夜のしば笛を吹く書生哉(明午橋)
 永き日を太鼓打つ手のゆるむ也(本妙寺)
 病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋

明治三十二年作
 草山に馬放ちけり秋の空(戸下温泉)
 行けど萩行けど薄の原広し(阿蘇)
 安々と海鼠のごとき子を生めり

明治三十三年作
 菜の花の隣もありて竹の垣

「病妻」などの字句に痛ましさが感じられはするが、俳句からは、総じてごく普通の平穏な生活ぶりが浮かび上がってくる。漱石は熊本市内の名所も、 あちこち見て廻って俳句に詠んでいる。私がどうしても目をひきつけられたのは、本妙寺で詠まれた句だ。「永き日を太鼓打つ手のゆるむ也」と。そう、 確かに漱石も本妙寺へ行っているのだ。

5 漱石は見たか

本妙寺は、熊本市内の北の方角に位置する。漱石が五高の同僚たちと何度か足を運び、後に『草枕』の舞台ともなった峠の茶屋は、小天温泉に至る道筋の峠 にある。峠の茶屋へ行くには、本妙寺への参道を中ほどまで進んで、そこから左へそれて山道を進まなければならない。とすると、漱石は少なくとも一度は 本妙寺を訪れて句を詠み、そして何度かは峠の茶屋へ行く道すがら、本妙寺の参道を途中まで歩いたことになろう。その時、拝殿に至る参道に、痛ましい ハンセン病者たちの姿を見なかったのであろうか。

いや、漱石も見ていると思う。その時漱石がどう感じ、どう思ったのか。宣教師ハンナ・リデルのように生涯を決するとまではいかなくとも、何か漱石の心に投げ かけられたものがなかったのだろうか。あったとしても、俳句や文章にする以前に、他のささいな出来事と同様、それらの記憶は淘汰されてしまったのであろうか。 それとも本妙寺で見たものは漱石の美意識とは相容れず、心の奥深くたたみ込まれてしまったか、根こそぎ打ち捨てられたのだろうか。行動派の女性宣教師 ハンナ・リデルを無視したように、本妙寺で見たものは無視されたのであろうか。私はそれを、どうしても知りたいと思った。

こだわるついでに、ハンナ・リデルと共に熊本に赴任したもう一人の宣教師、グレイス・キャサリン・ニール・ノットを思い出してみよう。ノットは、漱石とも書簡の やり取りをする間柄であったと先に紹介した。その手紙がどのようなものであったのか、現時点の私には知る手がかりはない。ただ熊本を去って以降、漱石の 消息の中で、ニール・ノットとの接点がいくつかわかっている。

漱石は明治三十三年(一九〇〇)九月八日、横浜港からドイツ客船プロイセン号に乗り込み、イギリスへ出発した。ところがこの船に思わぬ人が乗っていた。 ニール・ノットの母親、ノット夫人である。ノット夫人の日本での動向は不明だが、漱石はノット夫人が熊本滞在中に一度会っていて、面識があり、船上での再会 であったという。

無事にロンドンに着いた漱石が、最初に訪問したのはケンブリッジ大学だったが、大学への紹介の労を取ったのはノット夫人であるという。結局費用の面などで ケンブリッジ大学への留学は断念して、漱石はロンドン滞在を決めている。ノット夫人の娘ニール・ノットは、熊本滞在中リデルと共に病院建設に尽くしたが、漱石 のイギリス留学中に帰国。ロンドンで漱石と再会したといわれる。漱石とノットの文通があったとすれば、このあたりのことかもしれない。

二年数ヶ月のロンドン留学を終えた漱石は、日本郵船の博多丸で帰国の途につき、明治三十六年一月に神戸港に入港。ひとまず妻の実家中根重一宅(現在の 新宿区矢来町)に落ち着いた。まもなく文京区向丘の借家に転居し、四月に小泉八雲の後任として東京帝大文科大学講師に任命されたことは先に述べた。

帰国時の漱石にはまだ熊本第五高等学校教授の籍があったが、次女も生まれていた漱石一家はもう熊本に戻る気はなく、そのまま東京に落ち着いたのである。 江戸牛込馬場下横丁(現在の新宿区喜久井町)という都会に生まれ育った漱石は、より大都会のロンドンでは神経衰弱に苦しめられたが、以後、田舎の暮らしに 戻ることはなかった。

これまで、熊本時代の漱石をハンセン病という切り口で探ってきたが、結局のところ今の私には、ひとりもしくは二人の女性宣教師と面識があること以外、 何もその明確な接点を見つけることができなかった。

漱石は熊本を去って十年後に『草枕』『二百十日』を書いたが、後に「余が『草枕』」と題する談話の中で「唯(ただ)一種の感じ――美しい感じが読者の頭に残り さえすればよい」と注目すべきことを語っている。それを読んだ時、私は漱石とハンセン病と創作の関係について、最後通告を受けたような気持になったものだ。 漱石の気質、そして美意識を何より物語っている言葉ではないかと。

ロンドンから帰国して四年後、苦渋のうちに書き上げたといわれる『文学論』の序で、漱石は「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。」「帰朝後の 三年有半も不愉快の三年半なり。」と書いている。しかしこの不愉快な五年半も、作家夏目漱石の誕生には必要不可欠の期間であったと、私は改めて思う。 ロンドン時代に患った神経衰弱は、その後も長く漱石を苦しめたが、それは漱石の感覚が鋭すぎることの裏返しなのかもしれない。それを自覚していた漱石は、 先の『文学論』の中でこうも書いている。

  「たゞ神経衰弱にして狂人なるが為め、「猫」を草し「漾虚集」を出し、又「鶉籠」を公けにするを得たりと思へば、余は此神経衰弱と狂気とに対して深く感謝の 意を表するの至當なるを信ず。」

さらにこう続けている。

  「たゞ此神経衰弱と狂気とは否應なく余を驅して創作の方面に向はしむる。」

確かに漱石は『我輩は猫である』『坊っちゃん』のように、明るくユーモアに満ちた作品を書いた一方で、『漾虚集』『夢十夜』のように、どうしようもなく暗い話を 集めた作品もある。八人姉兄の末っ子として生まれ、すぐに里子に出され、取り戻されてまた別の家に養子に出され、八歳で再び生家に引き取られたという 生い立ちが、漱石の性格の暗い部分を形作ったであろうことは否定できない。一方では江戸っ子らしく、小学生時代から寄席通いが大好きだったという一面も あわせ持っている。漱石はその二つの両極端な性格を正しく作品に反映させることで、精神上のバランスを保っていたとも考えられる。

『文学論』を書き上げた後の明治四十年(一九〇七)三月、漱石は東京帝大教授就任への打診を蹴って、東京朝日新聞社へ入社を決意した。「文学研究」と 決別して、「創作」に専念するための選択だった。以後漱石は『虞美人草』『三四郎』『それから』『彼岸過迄』『行人』『心』『硝子戸の中』『道草』など、次々に新聞 に連載小説を書き、作家夏目漱石として十年近く精力的な創作活動を続けた。

しかしその間、漱石は五度の胃潰瘍、二度の痔の手術、晩年の糖尿病など体調 不良が続いた。大正五年(一九一六)病身をおして「明暗」の連載を開始したが、百八十八回を書き終えたその年の十二月九日、病状の悪化により永眠。 まだ四十九歳。晩年の写真で見る老いた風貌とはうらはらの、若すぎる死であった。

たった十年間の作家活動だったとはいえ、漱石の書いたものは多い。私はこれからも折りに触れて、漱石とハンセン病という接点を頭に置きながら作品を読み 続け、私なりの漱石像に迫っていきたい。そして新たに書き加えられる何かが発見でき、十年後に再びこの稿を書き直せることを願っている。(完)
                


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