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   漱 石 は 見 た か
 

        ―熊本時代の漱石とハンセン病― (増補版)

杉山 武子  

 


文芸誌「火の鳥」 第23号所収(2013年12月28日発行)

1 二人の女性宣教師

二〇〇一年五月十一日、熊本地裁でハンセン病訴訟判決があった。強制隔離規定に違憲性があるとして、国に十八億円の賠償を命じた判決に対し、 五月二十三日、国は控訴を断念した。当時このニュースを聞いて、十九世紀末から半世紀にわたり、日本のハンセン病患者の救済にその一生を捧 げた二人の英国人女性を思わずにはいられなかった。その二人とは伯母と姪の関係にあるハンナ・リデルとエダ・ライトで、ともに生涯独身を貫いた。

ハンナ・リデルは英国国教会に属する聖公会の新任女性宣教師として、明治二十二(一八八九)年十二月、キリスト教布教のために来日。他の四 人の宣教師と共に神戸港へ降り立った。三十五歳の若さだった。

翌年三月、熊本に赴任を命じられ着任したリデルは、さっそく第五高等中学校の教授や生徒たちにキリスト教の伝道をはじめる。第五高等中学校 には英語の堪能な教師もいた。リデルは親しくなった五高の教授らに誘われて、本妙寺へお花見に行った。明治二十三年四月三日のことで、リデ ルはそこで一生を決する出来事に遭遇する。

本妙寺は加藤清正公の菩提寺として知られるばかりでなく、日蓮宗の名刹としても有名である。晴天のその日、参道にずらりと続く満開の桜並木 の美しさとは対照的に、道の両側や石段の一つ一つにボロをまとってうずくまり、哀れみを乞い、あるいは物乞いし、拝殿では熱心に祈る何十人 という数のハンセン病者たちの痛ましい姿があった。桜の美しさよりも、リデルにはこの悲惨な光景を見た衝撃のほうが大きかった。初めてみる ハンセン病者だった。

この日、リデルは携えていた『日々の光』四月三日の余白に「Honnyoji――first saw Lepra」(本妙寺――初めてレプラを見た)と鉛筆で書き 記す。のちにその日のことを大日本婦人衛生会の講演で次のように語っている。

 「私が初めて此の寺に参りましたのは、唯今より十年ほど前の春でございました」
 「空天(そら)は誠に麗(うらら)かに晴れ亙り、道路の両側には三四町も続いて桜の
  花が今を盛りと咲いて居る。其の青き空、其の麗しき花の下には何物があるかと
  見ますれば、それは此上もない悲惨の光景(ありさま)で、男、女、子供の癩病人
  が幾十人となく道路の両側に蹲(うずく)まって居まして」

    「自分の痛ましき病気の有様を態(わざ)々(わざ)と、其の寺に参詣いたす人々見に
  せて恤(あわれ)みを乞うて居ました」(内田守編『ユーカリの実るを待ちて』より)

リデルはこれらの病者が社会から忌み嫌われ、何の治療も援助も受けられずに放置されている実情を知ると、彼らの救済こそが自分の使命と考え るようになり、すぐに行動を開始する。

リデルはまず本妙寺近くに臨時の救護所を設け、医師と看護人を派遣した。さらに病者を救うための病院設立を決意すると、その計画を英国の 親戚知人に知らせて援助を訴え、熊本市北部の立田山麓に四千坪の土地を購入。明治二十八(一八九五)年十一月、ついに第五高等学校に近い 小高いその地に、ハンセン病者のための専門病院を開設した。本妙寺の花見で衝撃を受けた日から五年半後のことである。その病院は、ハンセ ン病者たちの暗黒の人生に再び「希望の春をめぐり来させる」祈りの意味を込め、「回春病院」と名付けられた。

リデルは体格のよい、当時でいえば六尺(約一八〇センチメートル)もある長身の女性で、常に黒色の裾の長い服をまとい、黒のボンネットを かぶっていたという。肖像写真を見ても、その堂々たる風貌には威厳すら感じられる。またリデルは非常に強い意志と並外れた行動力の持ち主 で、病院建設とハンセン病患者救済という事業を成就させるために臆することなく時の政府高官や実業家たちに訴え、支持を取り付け、募金集 めに奔走した。

リデルはハンセン病患者の救済事業に専念する決意を固めると、明治三十年に英国へ一時帰国し、資金を提供した親類知人たちに事業報告をし て宣教師の職を辞め、翌年熊本に戻った。

回春病院の事業が軌道に乗ってくると研究室など施設の充実が必要となり、リデルは第二期計画を考えたが敷地が狭いという難題にぶつかった。 そんなリデルの苦慮を知った地元有志の尽力で、細川侯爵家から病院に隣接する約三千坪の土地を無償で提供してもらうことになった。これで 合計約七千坪の敷地となり、病院内には研究所のほかに並木道が作られ、桜と楓の植樹も行われて患者たちの憩いの場が整えられたのである。

リデルの継続的な活動は各地に国立療養所が生まれる礎ともなったが、彼女の精力的な活動の一端を知る有名なエピソードがある。リデルの活 動を資金面で援助していたのは母国の英国の人々であったが、日本が日露戦争に勝利すると、もはや強国日本に応援の必要はないと送金が中止 された。

リデルは非常に困って、当時の総理大臣大隈重信に援助を求めた。大隈総理はさらに実業家渋沢栄一に相談して、日本橋の銀行会館でハンセン 病救援講演会を開くことになった。明治三十八(一九〇五)年のことである。画期的な講演会となったその日、会場には内務省の窪田衛生局長 など政府高官をはじめ、大隈伯爵、渋沢男爵、三井、古川、岩崎等の大富豪も顔をそろえた。

彼らを前にリデルは堂々と「日本が駆逐艦一隻の費用を転用すれば、この国のライ問題は解決する」と提言したという。この演説は国をも動か すきっかけとなり、明治四十年の「らい予防法」の発布へとつながってゆく。

この法律の制定に先立つ明治三十年、ベルリンで第一回国際ライ会議が開催され、この病気が伝染性疾患であると確認されたことから患者の隔 離が予防対策として提唱されたのである。それ以降、国により療養所が設置され隔離医療政策がスタートしたが、それは皮肉にもハンセン病患 者の強制収容という形となって新たな差別を生み出し、平成八(一九九六)年の「らい予防法」廃止まで約九十年間も続くことになった。

もう一人の英国人女性宣教師エダ・ライトは、明治二十九(一八九六)年、二十六歳の若さで伯母リデルを慕って来日した。大柄のリデルとは 対照的に華奢な体つきで背も高くなく、言葉も優しく温和な性格で、人前で意見を述べることなどなかったという。来日当初は日本語の習得と 日本の国情を知るために、鹿児島をはじめ、前橋、熊谷、水戸、浦和等で英語教育と伝道を続けた。

大正十二年、ライトは五十三歳のとき再び熊本の土を踏む。病身で高齢のリデルを助けるためである。昭和七年にリデルが亡くなると回春病院 の経営を引き継ぎ、ライトもまたハンセン病患者救済活動に生涯を捧げる道を歩み始めたのである。

伯母の事業を継承したライトだったが、日本に戦争の影が忍び寄る頃から次々と苦難が襲いかかる。資金難のため病院経営に日夜頭を痛め、第 二次世界大戦開始と同時に頼みとしていた外国からの送金が途絶えたため、経営難に陥った。さらにライトは敵国の英国人であるという理由で、 常時特高刑事二名に監視され、持っていた高級ラジオが秘密通信機だとして、スパイ容疑までかけられる。ライトは水戸師範などで長く教職に あり、日本語も流暢だった。監視の刑事はライトと論争になって負けると、七十歳のひ弱いライトの背を棒でしたたかに打ったという。

昭和十五年になると銀行関係の書類は押収され、外国からの送金もないことから年末の支払いもできなくなり、病院経営は行き詰まった。伯母 リデルによる開院から四十七年目の昭和十六年二月三日、回春病院はついに閉鎖に追い込まれたのである。ライトは英国大使館から退去命令が 下ったが、英国にはもう帰る家も知人もいないためオーストラリアの友人宅へ身を寄せることになった。

病院閉鎖の日、患者を乗せた輸送用のトラックが動き出した時、ライトは荷台に取りすがって「ごめんなさい、ごめんなさい」と、泣きながら 何度も何度も患者たちに詫びたという。トラックが門を離れるその時、車の中の患者たちは賛美歌を歌い出し、それがライトとの別れになった。

三台のトラックに乗せられた五十八人の患者たちは国立九州療養所(現在の菊池恵楓園)に移送された。この日のライトの日記には「政府は、 私から愛する患者たちを奪った。病院は、空っぽになった」と記されている。

回春病院のすぐそばには、伯母リデルの構想により実現した白亜のハンセン病菌研究所が建っている。ライトは昭和十年秋以降、この研究所に 増改築した二階部分を住居としていたが、ライト退去後は軍部が使用した。閉鎖された回春病院は解体され、昭和十六年十二月にその敷地と付 属の研究所、礼拝堂、納骨堂は清算人によってらい予防協会に寄贈された。

一方、七十一歳の高齢で国外追放となったライトは患者たちのもとへ帰りたいとの一念を貫き、終戦後オーストラリア当局に対し何度却下され ても繰り返し日本への出国許可を求めた。そしてついに許可を得て、昭和二十三年六月十一日、七十八歳の高齢、しかも身よりもない単身の身 で七年ぶりに帰国し、熊本市民の熱烈な歓迎を受けたのである。

ライトが帰国した時、以前の住まいであった研究所二階の室内は荒らされ、家具調度品は持ち去られたり破壊されていたという。しかしライト は再びそこを住居とし、回春病院跡地に開設されていた未感染児童保育所「龍田寮」の子どもたちに囲まれて穏やかな日々を過ごしたという。 晩年は病床に伏し、昭和二十五年二月二十六日、八十歳で亡くなった。

ライトの死より二十七年も前の大正十二(一九二三)年に、伯母リデルは回春病院の敷地内に納骨堂を建てていた。これはハンセン病患者の 「死んでも実家の墓には入れない」という嘆きを聞いて、患者たちのために永遠の安らぎの場所として納骨堂を建てたもので、リデルもそこ に納まった。ライトの遺骨もまた、願いどおりリデルと患者たちの遺骨と共にそこに納められた。

大原富枝の小説に『忍びてゆかな 小説津田治子』がある。実在のハンセン病患者で歌人であった津田治子の生涯を描いた小説である。治子 は若い日、ライトが健在な頃に回春病院に入所しており、小説の中には数箇所、リデルやライトの姿に触れた部分がある。ライトと特高刑事 とのやり取りの場面は、こう描かれている。

  先生が傷つけられたのは、そのとき刑事の吐いた暴言だった。ぬしたちゃ日本の
  一番穢(きたなら)しか病人ば集めてきて金もうけばしよる。
  ライト先生はあまりのことに一瞬耳を疑うように刑事の顔を見つめ、おお何とい
  うことを。神様がご存知です。そう言われて十字をおきりになったそうである。

またオーストラリアに追放された「ライト先生からの便り」として、次のように書かれている。

  わたし、日本にかへりたいです。かならずくまもとに、かへります。おーすと
  らりあの花のたね、たくさん持ってかへります。まってゐてください。

そしてライトが戦後再び熊本の地を踏んだ場面。

  ライト先生が帰って見えたのは翌年、二十三年の初夏であった。私たちは駅まで
  出迎えに行った。ホームに降りた先生はグレーのツーピースに紐飾りのある小さ
  い帽子を被って、お別れしたときより、一廻りも二廻りも小さくなられ、ほっそ
  りしていらしたが、お元気でうれしそうに誰かれに次々と抱きついて涙をこぼさ
  れた。
         竜田山南ふもとの暖かく 未感染児童とライトさんと住む

ハンセン病患者救済という初志を貫き、異国日本に病院を建設し、政財界に人脈を作り、演説がうまく実業家的な素質もあったハンナ・リデル。 それとは対照的に控えめで優しく、伯母リデルの心を受け継ぎ、その事業を継承することにひたすら尽くした姪のエダ・ライト。宣教師として いかに宗教的な使命感があったとはいえ、この二人の英国人女性の日本での半世紀に及ぶ足跡を知ったとき、驚きと同時にかつてないほど心を 打たれた。さらに戦時中スパイ容疑までかけてライトを国外へ追放した日本人の仕打ちを知ったとき、恥ずかしさとともに彼女たちについて何 か書くことがあるのではないかと思い至り、この稿を起こすきっかけになったのである。

2 リデル・ライト両女史記念館

二人の英国人女性の存在を知ってまもなく、回春病院に隣接して建てられていた研究所跡が「リデル・ライト両女史記念館」となっていること がわかり、平成六年夏、ようやく熊本市へ行く機会を得た。JR熊本駅で下車、交通センターからバスに乗り、熊本大学前を過ぎ、次の立田山 自然公園入口で降りる。左手に続く熊本大学黒髪キャンパスを横目に、細い坂道を立田山のほうへ向かって歩くこと約六分。分かれ道のところ に来ると案内の標識が立っていた。右手のこぎれいな建物へ向かって少し下ると、「リデル・ライト記念老人ホーム」があった。その建物のあ る場所こそが回春病院跡地なのである。その建物の裏手に回ると小高い地に、白亜の「リデル・ライト両女史記念館」が佇んでいた。

緑の木立に囲まれた中に不意に姿を現す白亜の洋館。この建物はリデルが当時の大阪府知事大久保利武に協力を求め、リデルの講演を聴いた 社会事業家などの寄付で建築されたハンセン病菌研究所である。大正七(一九一八)年に完成したが、設計者は当時第一級の建築家であった 中條精一郎。作家宮本百合子の父である。中條精一郎は北里研究所の宮崎幹之助博士と協力して設計図を完成させたという。

その建物を目の前にして、約百年も前に研究所を構想し実現させたリデルの手腕と人脈の広さを思わずにはいられなかった。当初は一階のみの 建物で、白亜の瀟洒な外観は当時としてもひときわ目を引いたと思われる。

この建物は研究所として約十年使われたが、のちにライトの住居として二階部分が増改築され、ライトの国外退去後は軍部が使用したことは先 に述べた。

現在「リデル・ライト両女史記念館」として利用されている館内には、二人の遺品や写真、大隈重信からの手紙などが数多く展示され、二人の 日本での活動に接することができる。また日本のハンセン病患者救済に尽くされた多くの人物の資料も展示されている。

建物を出るとすぐそばに南向きの丘があった。その木立の中に二人をたたえる肖像入りの石碑が建ち、その近くには花に彩られた納骨堂が静か に佇んでいた。二〇〇一年、熊本地裁のハンセン病訴訟判決で患者たちの人権の回復する日が来たのは、リデルが本妙寺で初めてレプラ病者を 見た劇的な日から何と百十一年目のことだった。納骨堂に眠るリデルとライト、そして多くの患者たちにもその朗報は届いたのだろうか。

私がなぜ、ながながとハンナ・リデルとエダ・ライトの生涯を書いたのか。それはハンナ・リデルが英国の親戚や知人から資金援助を受け、さ らに支援者や資金集めに奔走して回春病院を開院したのが明治二十八年十一月。それは夏目金之助(漱石)が四国松山から熊本の第五高等学校 へ赴任する、わずか五ヶ月前であったことに注目したからである。もう一つは、回春病院の建つ場所と夏目金之助の勤務地「五高」との距離が、 歩いてわずか数分の近さだったことによる。

同じ時期に目と鼻の先にいたわけであり、しかも夏目金之助は英語の教師である。夏目金之助とリデルの間にも、何がしかの交流があったのでは ないだろうか。交流があったとすれば、のちの文豪夏目漱石は作品のどこかに何か手がかりになるものを書き残しているかもしれない。そんな期 待が膨らんだ。漱石の作品をどんどん読んでいけば、いつかはリデルやハンセン病や回春病院についての文章が現れるのではないかと……。

しかしいくら読んでいっても、ハンセン病に関する直接的な記述は見当たらないのである。漱石が熊本時代のことに触れているものとしては、 たとえば『三四郎』の書き出しの中に次のような部分がある。

小説の主人公小川三四郎は熊本の高等学校を卒業して、東京の大学へ入学するために汽車で数日かけて上京する。その途中の浜松で西洋人を見か ける場面はこうである。

 三四郎は生まれてから今日に至るまで西洋人と云うものを五六人しか見た事がない。
 そのうちの二人は熊本の高等学校の教師で、(中略)女では宣教師を一人知ってい
 る。随分尖がった顔で、鱚(きす)又はカマス(原文は漢字)に類していた。」
                           (『三四郎』より)

最初、ここに登場する女宣教師とはハンナ・リデルをイメージしたのかもしれないと思ったが、調べるうちに疑問に思えてきた。なぜなら夏目 金之助が五高に赴任する三年も前に、リデルはもう一人の女性宣教師グレイス・キャサリン・ニール・ノットと同時に熊本に赴任していたから である。リデルとノットは同じ家に住んで布教活動を行い、回春病院の建設にも協力し合った同志である。その後ノットは英国に帰国したが、 漱石が二人のどちらか一人だけを知っていて、一緒に活動していたもう一人を知らないというのは考えにくい。つまり漱石は二人の女性宣教師 を知っていた、と考えるのが普通であろう。

小説とはいえ、漱石が西洋人の女性を「一人知っている」と書いているところに逆に引っ掛かるものを感じる。たとえ一人であったにしても、 その宣教師が五高近くに建設したばかりの回春病院に関わっていることは漱石も知っていたはずと思うのである。ちなみに金之助(漱石)の五 高赴任当時の三人の年齢は、リデル四十一歳、ノット三十三歳、金之助二十九歳であった。

小説は事実をそのまま書くわけではないから、『三四郎』に登場する女性宣教師のモデルは誰とは断定しにくい。そのうえ漱石は女性宣教師の 顔のことを、とんがったとか、魚のキスやカマスに似ているなどと意地悪く書いているが、これはその女性に興味を持っていることの裏返しで あり、漱石流の照れ隠しではないかとも思いたくなる。

「リデル・ライト両女史記念館」でリデルとノットの肖像写真を見比べると、大柄な女丈夫の風貌をしたリデルに対し、ノットは面長で華奢な 感じの容姿である。「背のすらっとした細面の美しい」女性というのは、漱石の作品に登場する密かな理想の女性像ともいえよう。漱石が自分 好みではない女性に関心を持たないとしたら、それはひと回り年長で大柄のリデルのほうではないか、と一度は考えた。

ただ前述したように、リデルは明治三十年から翌年にかけて英国に一時帰国しており、また多忙な人だったから熊本で漱石と会う機会はかなり 少なかったと思われる。だとすればリデルとは単に顔見知り程度であって、知人と呼べるほど親しくはなかったということだろうか、などと勝 手に想像を逞しくするのである。

百十五年以上前の熊本で、半径一キロメートルにも満たない範囲で生活していたであろうリデルと夏目金之助と彼らを取り巻く人々のことをも っと知りたいと思い、平成十三(二〇〇一)年秋、再び熊本行きを思い立った。もう一度自分の目と足で確認したいことがいくつもあったから である。

七年ぶりに訪れた熊本市は晩秋のころだった。真っ先に熊本大学に足を運んだ。黒髪地区にある熊本大学のキャンパスは、正門から入るとその 緑の多さに圧倒される。たいていの場合、大学の正門を入ると植え込みのあるロータリーなどがあり、その先に大学本部や校舎など大きな建物 が無造作に見えることが多いものだ。また道路も広くとってある。

熊本大学の場合は正門を入ったすぐの所から、低木や高木などさまざまな樹木が生い茂りとにかく緑が多い。その間を曲がりくねるように歩道 が続き、建物は時折見え隠れする程度である。たわわな緑の中の小道を案内板に従って奥のほうへ進むと、二階建てで左右に長く伸びる赤煉瓦 の建物が姿を現す。モダンな外観には風格が感じられ、前庭も周囲も見事に緑に彩られている。この赤煉瓦造りこそ明治二十二年に第五高等中 学校本館として竣工した建物で、翌明治二十三(一八九〇)年十月十日に開講記念式典が行われた。

この新設校は九州の最高学府として設立されたものであり、明治二十七年に第五高等学校へ名称変更。さらに戦後の昭和二十四(一九四九)年、 熊本医大、熊本薬専、熊本工専等を統合して現在の熊本大学へと発展している。現存する赤煉瓦の本館、化実験場、正門(赤門)は昭和四十四 年に国の重要文化財に指定され、本館は平成五年から「熊本大学五高記念館」として一般公開されている。

3 熊本第五高等学校

熊本の第五高等中学校の第三代校長を務めたのは嘉納治五郎で、在任期間は明治二十四(一八九一)年八月から二十六年一月となっている。嘉 納治五郎の柔道の愛弟子であった本田増次郎が嘉納に呼ばれて第五高等中学校へ赴任したのは明治二十四年九月であったから、嘉納は校長にな るとすぐに益次郎を熊本へ呼び寄せたことになる。益次郎に遅れること二カ月後の十一月、嘉納はさらに松江からラフカディオ・ハーンを招聘 (しょうへい)している。ハーンの在任は明治二十七年十月までとなっているから、ハーンは丸三年間熊本にいたことになる。

つまりここに登場する本田益次郎とラフカディオ・ハーンが第五高等中学校に在任したほぼ同じ時期に、英国国教会に属する聖公会の女性宣教 師ハンナ・リデルも熊本に赴任したのである。リデルの熊本赴任の目的は、宣教師として五高の教授や学生らに伝道を開始するためであった。 リデルは毎月一回、英語で談話する茶話会を開いていたといい、ここには五高の教師はじめ、五高生、中学生、県庁の役人など二十名ほどが集 まっていたという。

先に、熊本に赴任したリデルが五高の教授たちに誘われて本妙寺にお花見に行ったと書いたが、誘った教授の一人が本田益次郎だった。益次郎 は冗談も言えるほどの英会話力があり、クリスチャンでもあったというからリデルと知り合うのも早かったと思われる。お花見のあと、リデル がハンセン病患者救済を決意して病院建設に乗り出したときも、益次郎はリデルのよき相談相手になった。益次郎はリデルを花見に誘った九日 後に大阪へ赴任し、その後は外交官の仕事に携わり活躍している。

リデルは病院完成後、その名称を何にしようかと悩んでいたところ、益次郎の助言で「回春病院」という名称に決めたというエピソードも残っ ている。益次郎は熊本を離れても、回春病院評議員として長くリデルを助けている。益次郎は作家山本有三の岳父でもある。

本田益次郎と五高での在任期間をほぼ同じくするのがラフカディオ・ハーン、のちの小泉八雲である。五高には英語の堪能な教員が数名いたが、 ハーンは授業の合間にたまに英語のできる教員と集まって雑談をする程度で、同僚とはあまり付き合いの良いほうではなかったようである。

ではリデルとハーンとの関係はどうだったのだろうか。ハーンはキリスト教嫌いとして有名で、宣教師の活動を「西洋社会の侵略の尖兵」とみ なしていた。着任早々のリデルが五高教授や学生たちを相手にキリスト教の伝道を始めたのを、ハーンは苦々しい思いで見ていたことだろう。 当然リデルとハーンは英語で存分に会話のできる希少な相手だったはずである。しかしハーンはリデルを避けていたのかもしれない、などと想 像してしまうが、もちろんそれを示す証拠は手元には何もない。

リデルが病院建設に奔走していた明治二十七年十月、ハーンは五高を去り、翌月、日刊英字新聞の「神戸クロニクル」に入社して筆をふるった。 最初の勤務地松江で日本の伝統文化に深く共感する所から出発したハーンにとって、近代化を急ぐ熊本は必ずしも居心地のよい場所ではなかっ たようである。後年の記述によれば、ハーンの目には熊本は風流心のない土地、神戸は西洋化した俗悪の街、と映ったようである。

ハーンが去って一年半後の明治二十九年四月十三日、夏目金之助は前任地の松山から熊本へと転任する。したがってハーンと金之助の五高での 在任期間は重ならないし、金之助はハーンの後任として赴任して来たわけでもない。

しかし夏目漱石とラフカディオ・ハーンの二人の作家はなにかしら縁があったようで、明治三十六年四月、英国留学から帰国した漱石が就いた 東京帝大文科大学講師の職は、前任のハーンが辞めさせられた直後の着任であった。ちなみにハーンは熊本を去った後に帰化し、妻の小泉家に 入籍して小泉八雲と名乗るようになった。

ところで熊本にはハンナ・リデルの赴任より前に、ケンブリッジ出身の司祭ジョン・バップス・ブラントラムがすでに着任していた。ブラント ラム司祭は、熊本に赴任したハンナ・リデルとグレイス・キャサリン・ニール・ノットの二人を出迎えている。ブラントラムはキリスト教布教 に燃えていたが、まもなくリデルが病院建設の計画に乗り出すと激しくこれに反対したという。伝道という宣教師本来の仕事を重視するブラン トラムと、ハンセン病患者救済という自己の信念に従い病院の建設に奔走するリデルとの間に深刻な衝突が生じ、それは聖公会内での激しい論 争にまで発展したという。そういう対立もあってか、リデルは回春病院開設の二年後に英国に帰国した際、病院運営に専念するため伝道師の職 を辞めたことは前述した。

リデルと一緒に赴任したグレイス・キャサリン・ニール・ノットは、リデルよりも八歳年下で、三十歳のときに熊本の土を踏んだ人である。ノ ットの家系は聖職者が多く、先祖には清教徒革命の指導者として名高いクロムウェルがいるという。リデルと一緒に生活し共に病院建設にかか わったが、リデルが病院の土地の購入費用に困ってノットに相談すると、ノットは英国の親元へすぐさま打電し、必要な費用を準備したといわ れる。

「リデル・ライト両女史記念館」には回春病院の開設や運営に協力した人々も紹介されているが、それによればノットは「夏目漱石とも書簡の やり取りをする間柄であった」と書かれている。その一文を見たとき『三四郎』に出てくる「女の宣教師」とは、やはりノットかもしれないと 閃いた。同時にやっと出てきた漱石の名前に、心なしか安堵したものである。

4 夏目金之助の赴任

夏目金之助とは夏目漱石の本名で、明治二十九(一八九六)年春、愛媛県尋常中学校(松山中学校)を退職し、親友菅虎雄の紹介で第五高等学 校講師として熊本へ転任することになった。四月十日に松山を立ち、宇品、広島を経て汽船で門司まで行き、九州鉄道で熊本入りした。目的地 の池田駅(現在の上熊本駅)に降り立ったのは四月十三日昼過ぎだったという。

熊本での生活が終わったのは明治三十三年七月十八(一説には十九)日であったから、金之助が熊本で暮らした期間は四年三ヶ月ということに なる。熊本を離れることになったのは、英語研究のため文部省から第一回給費留学生として二年間のイギリス留学を命ぜられたからである。

熊本での金之助の生活は、着任早々貴族院書記官長中根重一の長女鏡子との結婚、教授への昇格、妻の流産と病気(ヒステリー)と自殺未遂、 長女筆子の誕生と続き、その間には九州各地への旅行や六度の引越しと、何かと変化に富んだ数年間であった。

妻のヒステリー症状はかなり深刻だったらしいが、当時の中学教師の給料が二十五円、巡査十六円という時代に、金之助の給料は破格の月給百 円。松山時代と比べても二十円のアップだった。波乱含みであったにせよ新婚時代を送った地であり、英語教師として精力的に活動し校長の信 頼も厚かったというから、教師としての夏目金之助は熊本では比較的幸福な時代を過ごしたといえるのではないだろうか。

熊本を去って七年後の明治四十一年、すでに作家としての地位を確実なものにしていた夏目漱石は、九州日日新聞の記者のインタビューに答え て熊本時代の印象をいろいろ語っている。その明治四十一年二月九日付『九州日日新聞』の記事から、いくつか引用したい。

  汽車で上熊本の停車場に着て下りて見ると、先づ第一に驚いたのは停車場前の
  道巾の広い事でした。然して彼の広い坂を腕車で登り尽して京町を突抜けて坪
  井に下りやうといふ新坂にさしかかると、豁然として眼下に展開する一面の市
  街を見下して又驚いた(中略)

     市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした
  田圃を不規則に貫いて、遥か向ふの蒼暗き中に封じ込まれて居る、それに薄紫
  色の山が遠くから見えて、其山々を阿蘇の煙が遠慮なく這ひ廻って居るといふ
  絶景、実に美観だとおもった。

漱石が熊本を「森の都だな」と言ったという伝説は、このあたりから出たものであろうか。また学生の印象についてこう語っている。

  松山の中学に初めて教員となって赴任した当時は、学生は教師に対して少しも
  敬意を払っていなかったから、教員というものは恁ういふものかと思っていた、
  が熊本に行って熊本の学生の敬礼に先づ感じた。あんな敬礼をされた事は未だ曾
  てない。余程礼儀が厚い、これは一般に武士道の精神が家庭に残って居るからだ
  らう。服従といふか、長幼序あるといふか、着実で質素で、東京あたりの書生の
  やうに軽薄で高慢痴気な所がなく、寔に良い気風である。

若きエリート教師、夏目金之助の姿を髣髴とさせられる談話である。ところが熊本人の印象を聞かれた漱石は、とたんに歯切れが悪くなる。

  一概に熊本人の評をですか、サアそう聞かれると一寸困る。それも何処が長所で
  ある、何処が短所であると一々特殊な点を挙げて、明瞭に御談するには責任を負
  はねばならぬ。考へを纏めてかからなければならぬ、纏まりさうもない考へをお
  談しては済まぬ訳になる。又、熊本には長く居ても熊本人士との交際はあまり為
  なかった。

これらの記事を目にして、どうしても最後の一行に引っかかった。熊本には長くいたと漱石も言っているとおり、前任地の松山がちょうど一年の 滞在であったのに比べると、熊本の四年三ヶ月は確かに長い。しかしその割には「熊本人士との交際はあまり為なかった」と語っている部分が気 になってしかたがないのである。

実際、漱石の熊本時代の年譜をたどって出てくる名前といえば、大学の先輩で親友の第五高等学校教授菅虎雄、第一高等中学校時代から親しかった 畏友正岡子規、何度か小旅行を共にした同僚の山川信二郎、他に長谷川貞一郎、狩野亨吉、奥太一郎、木村邦彦の面々。新婚の夏目教授宅に書生と して住み込んだ五高生の俣野義郎、土屋忠治、共に俳句結社を結成した五高生寺田寅彦、第五高等学校舎監浅井栄熙、一時夏目家に寄宿した行徳二 郎、などである。そのほとんどが五高関係者と学生、それに俳句仲間である。

夏目教授は熊本滞在中何度も転居して、自宅と五高とを往復して教職に専念したほかは、俳句作りに熱中し、妻の病気や出産の合間に、暇さえあれ ば熊本近郊や九州各地への小旅行を繰り返した。特に親友菅虎雄の出身地福岡県久留米市には五回も訪れている。これらを考え合わせると、熊本人士 との交際があまりなかったという漱石の回想もあながち誇張ではないと思われる。

五高教授夏目金之助の目はどうやら熊本の市中より外のほうを向いていたようであり、人間関係では五高という狭い世界以外にはあまり関心がなかっ たように思われる。東京から松山へ、さらに熊本へと都落ちした金之助にとって、近郊をめぐる旅は一番の慰謝の場であり、自然の中に身を置き、 じっと己を見つめることのできる別世界だったのだろう。

十年ののち、熊本時代の数々の小旅行から得た体験が『草枕』『二百十日』へと結実していき、教師夏目金之助から、作家夏目漱石へと突き進む土 台となっているのである。そのことを考えると、東京を離れ松山時代から続く熊本での生活、さらには神経衰弱に陥ったロンドン留学とその後を含 めた十年近くは、作家夏目漱石誕生のための助走期間だったのかもしれない。

熊本時代の漱石は、まだ小説は書いていない。もっぱら俳句に熱中していて、五高在任中、千に近い俳句を残しているという。俳句の師匠はもちろ ん正岡子規で、句稿を子規に送って添削してもらうという方法をとっていた。二人はともに慶應三(一八六七)年生まれで、東京の第一高等学校以 来の親友である。

明治二十九(一八九六)年九月、新婚まもない漱石は妻鏡子を伴って約一週間、福岡を中心に各地を旅行した。行先は、博多、箱崎八幡宮、香椎宮、 天拝山、太宰府天満宮、観世音寺、二日市温泉、梅林寺、久留米、船小屋温泉、日奈久温泉などである。行った先々で、漱石は俳句をこしらえている。

  初秋の千本の松動きけり(博多公園)

     しおはゆき露にぬれたる鳥居哉(箱崎八幡宮)

     秋立つや千早古る世の杉ありて(香椎宮)

     見上げたる尾の上に秋の松高し(天拝山)

     反橋の小さく見ゆる芙蓉哉(太宰府天神)

     古りけりな道風の額秋の風(観世音寺)

     鴨立つや礎残る事五十(都府楼)

     温泉の町や踊ると見えてさんざめく(二日市温泉)

     碧巌を提唱す山内の夜ぞ長き(梅林寺)

     ひやひやと雲が来る之温泉の二階(船後(ママ)屋温泉)

日々の生活の中でも漱石は句作に励んでいる。漱石の日常がそのまま顔を出しているとは言い過ぎにしても、熊本での生活が身近に感じられる句が多い。

明治二十九年作

  衣更へて京より嫁を貰ひけり

  名月や十三円の家に住む

  ゑいやっと蝿叩きけり書生部屋

明治三十年作

  木瓜咲くや漱石拙を守るべく

  若葉して手のひらほどの山の寺

  月に行く漱石妻を忘れたり

明治三十一年作

  温泉や水滑かに去年の垢(小天温泉)

  春の夜のしば笛を吹く書生哉(明午橋)

  永き日を太鼓打つ手のゆるむ也(本妙寺)

  病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋

明治三十二年作

  草山に馬放ちけり秋の空(戸下温泉)

  行けど萩行けど薄の原広し(阿蘇)

  安々と海鼠のごとき子を生めり

明治三十三年作

  菜の花の隣もありて竹の垣

「病妻」などの字句に痛ましさが感じられはするが、俳句からは総じてごく普通の平穏な生活ぶりが浮かび上がってくる。漱石は熊本市内の名所 もあちこち見て廻って俳句に詠んでいる。私がどうしても目をひきつけられたのは本妙寺で詠まれた句である。「永き日を太鼓打つ手のゆるむ也」 と。そう、確かに漱石は本妙寺へ行ったのである。

5 漱石は見たか

本妙寺は熊本市内の北の方角に位置する。漱石が五高の同僚たちと何度か足を運び、後に『草枕』の舞台ともなった峠の茶屋は、小天温泉に至る 道筋の峠にある。峠の茶屋へ行くには本妙寺への参道を中ほどまで進んで、そこから左へそれて山道を進まなければならない。とすると、漱石は 少なくとも一度は本妙寺を訪れて句を詠み、そして何度かは峠の茶屋へ行く道すがら本妙寺の参道を途中まで歩いたことになろう。その時、拝殿 に至る参道に痛ましいハンセン病者たちの姿を見なかったのであろうか。

いや、漱石も見たと思う。その時漱石がどう感じ、どう思ったのか。宣教師ハンナ・リデルのように生涯を決するとまではいかなくとも、何か 漱石の心に投げかけられたものがありはしなかったか。あったとしても俳句や文章にする以前に、他のささいな出来事と同様それらの記憶は淘 汰されてしまったのであろうか。それとも本妙寺で見たものは漱石の美意識とは相容れず、心の奥深くたたみ込まれてしまったのだろうか。そ れを知る手掛かりが欲しいと思った。

リデルの年譜や当時の熊本での出来事を調べてみると、回春病院の開院が明治二十八年十一月で、夏目金之助はその半年後の二十九年四月に熊本 に来ている。病院の開院から半年遅れでの熊本入りなので、もしかしたら本妙寺にいた大勢のハンセン病者たちは病院のほうに移って、その姿は 以前ほど見かけられなかったのかもしれない。そうであれば漱石は病者たちを見たとはいえないだろう、そうも考えてみた。

ところが当時、熊本にはジョン・メリー・コールという神父がいて、本妙寺に集まっているハンセン病者に同情を寄せてローマ法王に手紙を送り、 病者たちの治療と看護のために修道女の派遣を求めたのである。その結果、フランシスコ会から五名の修道女を派遣してきたので、明治三十一年 に花園町に病舎を建て、さらに欧米からの寄付金で島崎町に病舎を建てたという。つまりリデルの回春病院のみでは追いつかないほど病者の数 が多かったことになるから、本妙寺周辺を往来していた漱石は見なかったのではなく、やはり見たと思うのである。

ハンナ・リデルと共に熊本に赴任したもう一人の宣教師、グレイス・キャサリン・ニール・ノットは漱石とも書簡のやり取りをする間柄であった と先に紹介した。その手紙がどのようなものであったのか、今のところ知る手がかりはない。ただ漱石が熊本を去って以降の消息の中で、ニール ・ノットとの接点がいくつか分かった。

漱石は明治三十三(一九〇〇)年九月八日、横浜港からドイツ客船プロイセン号に乗り込み、留学先のイギリスへ出発した。ところがこの船に思 わぬ人が乗っていた。ニール・ノットの母親、ノット夫人である。ノット夫人の日本での動向は不明だが、漱石はノット夫人の熊本滞在中に一度 会っていて面識があり、船上での再会であったという。

無事にロンドンに着いた漱石が最初に訪問したのはケンブリッジ大学であったが、大学への紹介の労を取ったのはノット夫人であるという。結局 費用の面などでケンブリッジ大学への留学は断念して、漱石はロンドン滞在を決めた。ノット夫人の娘ニール・ノットは熊本に赴任中はリデルと 共に病院建設に尽くしたが、数年後に帰国して、イギリス留学中の漱石とロンドンで再会したという。漱石とノットの間で文通があったとすれば、 この前後の時期のことかもしれない。

二年数ヶ月間のロンドン留学を終えた漱石は日本郵船の博多丸で帰国の途につき、明治三十六年一月に神戸港に入港。ひとまず妻の実家である中 根重一宅(現在の新宿区矢来町)に落ち着いた。まもなく本郷区駒込千駄木町(現在の文京区向丘)に転居し、四月に小泉八雲の後任として東京 帝大文科大学講師に任命されたことは先に述べた。

帰国時の漱石にはまだ熊本第五高等学校教授の籍があったが、次女も生まれていた漱石一家はもう熊本に戻る気はなく、そのまま東京に落ち着い たのである。江戸牛込馬場下横丁(現在の新宿区喜久井町)という都会に生まれ育った漱石は、より大都会のロンドンでは神経衰弱に苦しめられ たが、帰国後の東京ではたびたび胃潰瘍に苦しめられることになった。

これまで熊本時代の漱石とハンセン病というテーマで探ってきたが、結局のところ、漱石が一人の女性宣教師と知人であったこと以外、何もその 明確な接点を見つけることができなかった。

漱石は熊本を去って十年後に『草枕』『二百十日』を書いたが、後に「余が『草枕』」と題する談話の中で「唯(ただ)一種の感じ――美しい感じ が読者の頭に残りさえすればよい」と注目すべきことを語っている。それを読んだ時、漱石がハンセン病について何も書き残さなかったことの理 由のように思えた。漱石の気質、そして美意識を何より物語っている言葉ではないかと。

ロンドンから帰国して四年後、苦渋のうちに書き上げたといわれる『文学論』の序で、漱石は「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年 なり」「帰朝後の三年有半も不愉快の三年半なり」と書いている。しかしこの不愉快な五年半も、作家夏目漱石の誕生には必要不可欠の期間で あったろうと改めて思う。ロンドン時代に患った神経衰弱は、その後も長く漱石を苦しめたが、それは漱石の感覚が鋭すぎることの裏返しなの かもしれない。それを自覚していた漱石は創作について、先の『文学論』の中でこうも書いている。

 たゞ神経衰弱にして狂人なるが為め、「猫」を草し「漾虚(ようきょ)集」を出し、
 又「鶉籠(うずらかご)」を公けにするを得たりと思へば、余は此神経衰弱と狂気
 とに対して深く感謝の意を表するの至當なるを信ず。(中略)
 たゞ此神経衰弱と狂気とは否應なく余を驅して創作の方面に向はしむる。
漱石は『我輩は猫である』『坊っちゃん』のように、明るくユーモアに満ちた作品を書いた一方で、『漾虚集』『夢十夜』のように暗い話を集 めた作品もある。八人姉兄の末っ子として生まれ、すぐに里子に出され、取り戻されてまた別の家に養子に出され、九歳で再び生家に引き取ら れたという生い立ちが漱石の性格の暗い部分を形作ったであろうことは想像できる。一方では江戸っ子らしく、小学生時代から寄席通いが大好 きだったという一面もあわせ持っている。漱石はその二つの両極端な性格を正しく作品に反映させることで、精神上のバランスを保っていたの かもしれない。

『文学論』を書き上げた後の明治四十(一九〇七)年三月、漱石は東京帝大教授就任への打診を蹴って、東京朝日新聞社へ入社を決意した。「文学 研究」と決別して「創作」に専念するための選択だった。以後漱石は『虞美人草』『三四郎』『それから』『彼岸過迄』『行人』『心』『硝子戸 の中』『道草』などの小説を、次々と新聞に連載する。作家夏目漱石として約十年間という短い間に精力的な創作活動を続けたのである。

しかしその間に漱石は五度の胃潰瘍、二度の痔の手術、晩年の糖尿病など体調不良が続いた。大正五(一九一六)年病身をおして「明暗」の連載 を開始したが、百八十八回を書き終えたその年の十二月九日、病状の悪化により永眠。まだ四十九歳。晩年の写真の老いた風貌とは裏腹の、若す ぎる死であった。

6.ライトと鹿児島

この稿の原型となったものは、二〇〇三年十月に文芸誌「海」(福岡市)に発表した。そのころはまだ夏目漱石の作品をたくさん読んだとはいえ ず、この稿のテーマ「漱石は本妙寺でハンセン病者を見たのか」についての手がかりを見つけ出せないままだった。そのため最後の部分を、「新 たに書き加えられる何かが発見でき、十年後に再びこの稿を書き直せることを願っている」と結んでいた。あれから十年が経って二〇一三年と なり、前回の内容を見直し、さらに新しい情報を加えたものがこの稿である。

ハンナ・リデルとエダ・ライトの二人の女性を知ったのは二十年も前のことで、当時は福岡市に住んでいた。夏目漱石の旅先に関するものが福岡 に重点を置いているのはそのためである。その後鹿児島市に転居したため、何か鹿児島に関する新しい情報はないものかと資料類を読み返してみ た。するとライトの行動の中に三つほど鹿児島との関連が見出された。

内田守編『ユーカリの実るを待ちて』の年譜に、ライトは来日後すぐに伯母リデルの回春病院の事業を手伝い、その後、鹿児島に一年ほど滞在し たとある。また同書の中に杉村春三の書いた「リデル・ライト記念老人ホーム」という回想録がある。それによればライトが憲兵から迫害され た日、マン監督という長身の先生に付き添われて鹿児島へ旅立ったことがあった。そのとき二人は四人の憲兵に囲まれていて、夜はライトの寝 室の床下にむしろを敷いて憲兵たちが寝ていたという。

戦後、ライトの遺した日記の中には以下のような鹿児島訪問の記述がある。

昭和二十四年四月

八日 坪井郵便局へ行き、塩沼医師(鹿児島の敬愛園長)に豊福氏と私が二十日に行くむねの電報を打った。(以下略)

二十日 豊福夫妻と六時三十分に家を出た。
青木さんが私のスーツケースを運んでくれた。
豊福さんは私達と一緒に熊本駅まで来た。
午前八時過ぎに鹿児島に向け出発した。

鹿児島は雨が降っていて、私達は少しぬれた。一時間蒸気船に乗りそれから、敬愛園まで自動車で長い道のりだった。
十四人の患者が洗礼をうけた。あとで聖餐式。いろいろな写真がうつされた。
職員の人たちと昼食。全部の患者さん(約九百人)から歓迎をうける。子供達の家も見た。
塩沼博士夫妻とお茶、二人の子供達から二つの美しい花束をプレゼントされた。
二十二日 午前八時に敬愛園を発った。

蒸気船や自動車でかれこれ二時間以上かかった。
十一時ちょっとすぎの汽車に乗った。
午後八時に熊本に到着。宮崎園長が小さな車で私達を迎えにきて下さった。

以上が鹿児島関連の日記の記述で、敬愛園というのは鹿屋市にある国立療養所星塚敬愛園のことである。

また明治二十九年に来日したライトが鹿児島に一年ほどいたという場所を探そうと試みたが、まだ掴めていない。星塚敬愛園の開園は昭和十年なの でそれには該当しない。 またライトは水戸師範などで教鞭をとっていたことから考えて、鹿児島でもキリスト教関係の女学校などで英語を教えてい たのかもしれない。あるいは宣教師ということを考えれば、どこかの教会にいたのかもしれないがこれも調査不足で不明である。

ライトの伯母リデルと鹿児島の関連を付け加えると、沖縄や鹿児島の離島を視察して、大正四(一九一五)年から救援事業を開始していたことが分 かった。

最初の稿から十年もの時間があったのに、以上のようにさしたる成果も無いまま稿を改めることになってしまった。悔いても仕方が無いが、それよ りも英国人宣教師ハンナ・リデルと同時期に熊本にいたばかりに、ハンセン病との接点で引き合いに出された夏目漱石こそ大迷惑だったに違いない。

二〇一一年六月、みたび「リデル・ライト両女史記念館」を訪れたが、展示資料を丁寧に見ていくとまた新しい発見があった。ひと回りして白亜の 建物を正面にしたとき、自分の中から何か決意のようなものが引き出されていく力を感じた。「記念館」は何度行っても、また行きたくなる懐かし い場所になってしまっている。

付記 本文では触れなかったが、ハンナ・リデル、エダ・ライトの両人には回春病院の運営に対し、皇室からたびたび御下賜金やその他の下賜、励ましな どの思し召しがあったという。
           (「火の鳥」第23号より) ※ 主要参考文献  『リデルとライトの生涯 ユーカリの実るを待ちて』
       志賀一親著 内田守編 一九九〇年五月一日復刊 
  発行所 リデル・ライト記念老人ホーム

   『忍びてゆかな 小説津田治子』大原富枝著 一九八二年刊 講談社

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