詩歌集第三集 《夢幻》
第二部 <U> (平成十二年十月 編) 日高よし子 著
P62 『 父 』
「 瓦 解 」
★
『柏 手』
(平成十年十二月二七日)
“ 神棚に 柏手 この手 亡き父が ”
「パン パン! パン パン!」
朝一番、洗面を終えた後、三宝荒神、弁天様、仏壇と、順番に礼拝が日課だった亡父。家中、響き渡るその柏手の、聖なる音を聴くと、「眠気」が吃驚して、逃げて行く様でした。
その事を、最近、私が神棚に柏手を打っていて、思い出しました。
それ以後、此の手は、「父さん」ではないかと、思えてきました。
「重圧感」というだけの「存在」だった、亡父。
身体の上に「家」が乗っかっている様で、重くて重くて、私は潰れそうでした。
「会話」なるものを、もった事も無い。
だから、三十三年前(平成十年時から)、亡父の臨終の時の、
私の「おもい」と「ビー玉の眼」───────
◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇
P62 『おもい』
(平成九年二月二七日)
早春の午後
取り止めのない 時間の波に 漂っていると
彼方から 一ヶ所 跳躍して 還って来る 浪がある
私の 皮膚の下の 血流が 引き寄せた ものか
────生前の 威厳を通り越した 父の顔────
そして、死に際「ビー玉の め」で 私を見た
あの 父の顔
時折 その顔が 死なずに 私の 眼を 見詰める
私が 父の 死に際に 感じた 開放感
と、その刻に 閉じていた「眼」を 見開いて 私の方を見た
あの 「ビー玉の眼(まなこ)」
─────そして、臨終─────。
その度に 想う……………
「人は 死ぬ時に」 遺してゆく人(もの)に
「何を、求め得るか?」と────
「想い」としての 「何を、遺し得るか?」と────
例え、その「おもい」が
「時間」と言う キャンバスに描かれた
「遠近法の絵画」の様な 道で あるにせよ。
(「夢現」より)
(父は昭和四十年七月死亡)
◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇
この「おもい」の内の、どちらが可哀相ですか?
現在なら「父さん」の事、そう、想えます。──────
現在の此の家には、大きすぎる、形見と言える此の仏壇、そして、がっしりした、
桜材の和箪笥。私は、意識的に 亡父を「意識外」に置いて来たけれど、こうして、
あの家から、幾度かの引っ越しと共に、ずっと、ずっと、私達と一緒だったんだと、
「パン パン!」柏手の音に、「手」に、その「存在」を、噛み沁めるのです。
────────・・・・・──────・・・・・─────
P62 『暗 景』
現在から、四十年以上も前の、小学生低学年の頃の、「その位置」の認識 ───── 忘れられない、光景……………
その夜も、父の、母への横暴さに(食事中、今で言う、食卓テーブルの 茶卓を、引っ繰り返す、等)恐くて、逃げ出した先の、近所の子の家で見た、その子が、その子の父親に、べったりと、その体に甘えている、その子にとってはの「光景」───
「その時」に、「明」と「暗」が、不思議なものの様に、存在する事を、悟った。
何が、当たり前で、当たり前で無いか と言う、判断基準を、頂度 顔の中の、二つの目の間の、「鼻」の様に、据えた。
それは、その時に、自分の家庭の「暗景」を、持った事に、他ならなかった。……
“ 人生は 「光」を見て 「暗」を 識り ”
(「夢弦」より)
────────・・・・・──────・・・・・─────
P63 『不 動』
「その時で」、生まれる事が、無かったかも知れない、私、そして、
弟、妹達。
その時に、あなたの「覚悟」が「不動」だったら──────
徴用先(軍需工場)から、帰阪する母と一緒に帰らず、空襲警報が鳴っても、防空壕に逃げ出さず、爆弾の雨降る日本の前途に、多分敗戦と言う絶望しか、見えなかったであろう、その時に、
その、あなたの側に、本当に爆弾が落ちて、─────
それは、精神の及ばぬ、体の反射神経が、条件反射の様にあなたをその場から、逃げ出させたのでしょう。
「その時に」不動だったら……………
そして、敗戦の翌年に、私が生まれて ────以後、弟妹、私を含めて
全部で六人中、四人も没し、あなたが亡くなって、今年七月で丸三十三年(平成十年時)。 その時の、偶然の「生」の、意味を知り度いものです。
(「夢弦」より) 戻る
P63 『天国の父親へ』 (日本一短い手紙投稿分)
怖かった 父さん 甘えたかった 膝の上
逝って 三十四年 私 ずっと 独身です
メソメソしたり ウジウジしたり する
女の弱さが 大嫌い!
私は 女の 弱さを 持ちたくないと 思った
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P63 『十二年の差』
“「寅」の絵の 型抜き なりし 亡き父は
余白を くれし 風穴 埋めん ”
きょうだい
六人弟妹の内、真ん中四人が亡くなり、残った私と、一番下の妹(嫁いでいる)。
父が、亡くなったのは、今から、三十四年前(平成十一年時)の、私が十九才に成る年。妹は、七才。その差の、十二年を、そして、もっと先を遡れば、確かに、私には両親は在た、両手は在った。
けれど、「両手を感じた事」が、無かった。
王様と、小人みたいに、右手は余りにも、威圧的で、大き過ぎた。
だから、両手を持っていても、両手で見る事が出来たのは、
重い絶望だけ だった。
「在っても 無いものが ある
無くて 在るものが ある」
これが、十二年の差。
(平成十一年十一月二九日) 戻る
──────────・・・・─────────
P63 『自由への希求』 (平成十一年七月六日)
“重圧感 「大暑」の 如く 亡き父は“
(平成十一年七月五日)放送の、NHK教育TV「人間講座」 ────
「歌謡曲とはなんだろう?」を、観ていて、現在の時代は、生きている人間を、はっきり、線引出来るだろうと、思った。
それは、戦争を「知っている世代」と、「知らない世代」とに─────
同番組中、作詞家の阿久悠氏の、戦争下の、少年時代の話に、それを、
「知っている世代」の、皮膚感覚の閉塞感と、「知らない世代」の映像だけに依る、
観念的な認識───その差は、歴然としている。
しかし、あの当時を語る、氏の情況が、戦後生まれの私に、ピッタリ重なる「胸苦しさ」を、思い出させた。
笑いの無い、自由に歌も唄えない、居ない時に、陰でこっそりかけた、
レコード。……………
私の肉体そのものに、占める存在よりも、もっと、大きな部分を占める
「存在」だった、父。
戦争を知らなくても、「あの感覚」は、理解出来そうな、そんな気がする。それは、真さに、「自身の圧殺」────「自由への希求」。
──────────・・・・─────────
P63 『自 由』 (平成十一年四月五日)
『「自由」と、いう言葉、その欲求は、普遍的なものなれど、
それは、普遍的では無い。』
自分勝手な事が、自由なのでは無い。
皮膚感覚からの、窒息感からの、開放(概して、家庭的要因がある)志向。
人に依っては、空間的情況からの、それが、あるだろう。
そういうものにしか、「自由」は、感じられない筈。
何をしても自由なのが、自由なのでは無い。
私は、成人迄ずっと、「自由」を求めていた。
私の、それからの開放は、 「父親の死」であった。
と、思っていたが、生涯、その枠組と言う「既型的なもの」への抵抗を、
拭い切れなかった。……………
“群れて飛ぶ 位置より とり 我 一羽鳥 ”
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P64 『桃色の 夢 』 (平成十一年一月二六日)
“ お雛様 夢の芽 手折り 桃の花 ”
人は、いつ迄も、其処から抜けられないのだろうか?
少し前、TVで再映された、故黒沢明監督の「夢」という映画。
あの映画の中で、「お雛様」が、動き出して、舞うシーンがあった。
綺麗かった……… ああいう、夢を、見たかったと、想う。
若し父が現在生存なら、私が少女の頃、そして、それ以降も、ましてや大きな家だったのに、なぜ、お雛様が無かったのか?聞いて見たい。…………
家を、建築中の時、楽しみで、自転車で、よく、工事現場に見に行った。 「子供部屋があって、私の部屋があって……………」と、勝手に心の中で、設計していた。
が、出来上って、がっかり、した。─────
大きな家だった。が、「父の家」だった。将来の「商品」として、建築したかどうか(父は、不動産業も営んでいた。)知らないが、二階建の全部で九部屋中、床の間のある部屋が三つ、子供部屋の無い、全く夢と裏返しの家だった。
父母と、私が一番上で中学二年生、下に五人いて、一番下が二才。
この家族構成の住む、此れが、その「家」だった。
種子があっても、土壌が無ければ、芽も出ようがない。
これを機に、私は、此の種の種子を、決定的に葬り去った。
ただ、現在は、「小さな器」しか持っていない人は、いつ迄も、「大きな器」を持ちたいとと思う様に、「その器の家」に住んだ事は、その「思い」を
持たずに済んだ、とは思える。(それは、ただ広いだけで、広い故に、どんなに空っ風が、吹き抜けていただけかと言う事も)
又、「第一部」にも記した、私自身の仕事上の、「物質的頂点」の虚しさ。
でも、それを「持った」からこそ、それが「解った」。
そして、現在がある。─────正反対の「たゆやかな刻」────
でも、時折、ふーっと、溜め息の奥の奥から、それは結局、
大、小の器関係無く「その頃の永遠の渇望」が、め を出し、
見たかった、持ちたかった、
「桃色の夢の花」を、開(さ)かせるのです。
♪♪♪ ♪♪♪♪ ♪♪♪♪♪
P64 『小さい頃』 (巻末に曲)
(平成十一年四月二三日)
♪むすんで ひらいて てをうって むすんで ……………
あれは 三つか四つの 女の子 その歌 唄って むすんで ひらく
吸い寄せられて その手に中に 蝶が 結んで 包まれる
その手を開いて お花の上に
♪ちょうちょ ちょうちょ なのはに とまれ ……………
あれは 四つか五つの 女の子 結んで 開けば メダカの子供
迷い 迷って その手の中の 身体の 川を ひと泳ぎ
その手を開いて 小川の流れ
♪めだかの がっこうは かわのなか ……………
あれは 六つか七つの 女の子 結んで 掴んで 開いて 放して
ブルーの 風船 その手を離れ さよなら 言って 幼なじみ
その手を振って 坂道 消えた…………
♪むすんで ひらいて てをふって むすんで また ひらいて
てをうって そのてを うえに 「さよなら」……………
♪♪♪♪♪♪ ♪♪♪♪♪♪♪
P64 『むすんで ひらいて』
その場所に、目を遣ると、いつも、輪になって、小さな女の子が、その弟や、妹や、友達と、♪むすんで ひらいて♪ をして、遊んでいます。
お盆の月の様に、その輪は、ゆっくり歌と一緒に回っています。
「あの女の子」が、此処へ来てから、それは、初まりました。
何時から、彼処に座っているのかしら?
お正月や、お祭りの時、野田の恵比寿神社迄の側道の縁日の店々 ─────
みかん飴、綿菓子、イカ焼き、お好み焼き、タコ焼き、etc……………
みんな、美味しそうで、みんな、欲しかった……………
私が小さい頃、弟や妹、近所の子達と、小さな手と瞳を大きく開けて、たまには、大きく口を開けて、それ等を頬張ったりしながら、その道を歩いている……………。お正月やお彼岸に行く、お墓のある京都の興正寺近くの、清水寺の参拝道の店々。何年か前、その店で千円で買った「福袋」。
あの袋の中に、「あの小さい頃の私達」が忍び込んで、そして、この家にやって来ました。
♪むすんで ひらいて♪を、していない間は、チャンバラごっこや、おはじき、べったん、ホッピング、自転車で走ったりしている様です。
Vサインの「チー」が好きで、一杯のおはじきを「グーッ」と掴むのが好きで、ただそれだけの「パー」っと、開けっ広げな「少女」が、今も私の真ん前に座っています。
「リビングボードの、小さい人形」
♪♪♪♪♪♪ ♪♪♪♪♪♪♪ 戻る
★
P65 『 傘 』 (平成十一年七月十九日)
私は、幼稚園の頃の「私」を、時々抱き締める。
雨が降りそうになった、あの日─────
西野田幼稚園の、靴脱ぎと、下駄箱のある、玄関前、
“「要らん」と私 傘を手に 来る 帰る 母 心カーネーション 口 折れし 骨”
持って来た傘を、その侭、持って帰った母。
本当は、嬉しかったのに、嬉し過ぎて、出た言葉。 「要らん」
本当は、後を追って、従いて帰りたかった……………
──────母さん。
今から、四十七年も前でも、人生の、雨にも流れてしまわない、消えない
ワンカットとして、胸裏に焼き付いている。
☆★
P65 『 お 金 』 (平成十一年七月二四日)
未だテレビが無く、「紙芝居」の栄えた時代。
───駅前の公園では、猿回しの人に、紐で繋がれた侭、猿が曲芸をしていました。終わると、円形の客の前を、容れ物を持って回って行きます。
チリン、カリン、何人かの客の入れたお金が、拍手の音の様に、響きます。
猿は集めたそのお金を「親方」の処に持って行き、頭を撫でて貰っていました。
或る日、少女は、その公園でお金を拾いました。「拾った物は、交番に届けなあかんで」、誰かに言われたのかも知れないけれど、少女は、交番に届けました。「何処で?」「お名前は?」柔和な笑顔で、そのお巡りさんは、訊き、そして、最後に「良い子やね」と、言ったかどうか分からないけど、頭を撫でて呉れました。 少女は、得意満面でした。
暫く経って、家の周辺で、叉、お金を拾い、前回と同じ様に、交番へ届けました。
同じお巡りさんに、叉、物凄く褒めて貰いました。
もう、病み付きになりました。あんなに、少女の全部を、受け入れ、褒められる事に。────
少女は、自分の小遣いを持って、交番に届けました。
どんな答え方を、したのでしょう? 「何処で?」……………
敏感に、お巡りさんの表情を、感じ取りました。
少女は、それっ切り、その交番に行く事は、ありませんでした。
☆
或る日、母のお使いで、五百円札を、自転車の把手に載せ、手で押さえて、お米を買いに行きました。
自転車から降りようとしたら、お金が、ありません。
母に、すごく叱られて、泣きながらその道を捜していると、近所の男の子が拾って呉れていて、母は、その子をすごく褒めて、お菓子を買って上げていました。……………
──────── * ────────
P65 『 冷 火 』 (平成十年十一月十八日)
晩秋の、今日は冷たいなァ、と思った朝、
白いテーブルの、其処だけが、燃えている。
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平成十年十一月十八日付 白浜ホテル火災 の 写真
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「一面の 新聞紙」が、目に熱い。
──小学四年生(十才)の時に、居るみたいに────
冬の夜中、あんな風に燃えている我が家を、真向いから眺めていた。
他人事の、映画のシーンでも、見る様に、火事って言うのは、こういうのかと、
何か、そんな風に思いながらいたように、思う。
────その火は、アメーバーの様に風を抱き込んで、その鉄火で、家々を
、あっという間に飲み込んで行きました。
悲しい事は、なかった……………その「事が」、不思議だった。
それよりも、登校した時に、クラスメイトの篤志の学用品が、
教壇の机に、盛られてあったのが「嬉しかった」。
五十二年(平成十年当時)生きて来て、「現在」思い入れる少女の頃の象徴のその家と、僅か十年間その家で生きただけの少女の「その時」の、思い入れには雲泥の差があります。焼いてしまい度くない思い出も無かった、と結局そういう言う事でしょうか。 私の、直ぐ下(二才下)の弟が、真っ先に公園迄逃げたのを知らない母が火の中へ入ろうとしたのを、父が引き止めたと、後から聞きました。
今朝、その話をすると、母は憶えていない様でした。
四才下の、妹が生きていれば、……………でも、小さ過ぎて、憶えていなかったかも、と思ったりもするけれど──── 生きて在る時に、もっと、もっと
「話をして」おけば、良かった……………
「あの頃」も、そして、あれから父(昭和四十年死亡)も、「その弟」( 昭和五十六年死亡)も、妹も(平成五年死亡)も、皆んな、皆んな「燃えて」なくなって終いました。
──────── * ─────── 戻る
P66
『両 極』───「父 と 母」
天井を見上げて、物想いに耽っていた、少女の頃から、私は、ずーっと魔法にかけられていた。「泥の魔法」────父は「善」、母は「悪」と云う。
────両親は、仕事で昼間、在ない。その間は「自由」放任。
─────仕事から、帰って来ると──────
父───家の前で遊んでいて、姿が見えると、逃げました。叱られそうで。
母───立ち上る鍋の湯気が、家中に拡がりました。
─────────────────┴─────────────
今、想うに、それは、私が父に虐待されたと、云う事ではなく、母が、虐待されているのを、見て来たから───その、条件反射的行為だろう。
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父に、愛人が居たそうです。以後、ずっと、父が、亡くなる迄。
母が、弁天様や、後には、朝起会に執心する様になりました。母も、ずーっと。
──────────┴─────────
福島区の新築の家に、住んでいる頃。
────────────────────
(母の話)父は、旅先の旅館の、スリッパや、灰皿を、持って帰った、そうです。
母は、買物から帰って、買った以外の品物が入っていると、返しに行っていました。
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▼父母の会話で聞こえた事。▼
──────┬───────
母───私が、車の免許を取った頃、雨に濡れている、見知らぬ人に「乗って行き」と、声掛けする人です。今も、TVの「新婚さんいら
っしゃい」の、出演者が、最後の景品を沢山取ると、「良かったなァ」と、自分の事の様に、喜べる人です。
父───青果物商業組合の理事をしていて、その組合に入らない人に、商品を卸さなかった、そうです。以後、その人は、どうしたのでしょう?
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P66 『 対 極 の 両親 』
父は、社会的に認められた、立派な人でした。
母は、駄目な、人でした。
ずっと、囲りから、そう教えられて来た。
“ 泥に在れば 泥しか知らず 川に 出づれば 洗われし いし 清しさ 知り初めぬ”(夢現収)
真清水に、映えて、何が「善」であるか、「悪」であるか、
川底の石、一つ、一つが、はっきり、見えます。
現在、自然美、クラッシック音楽の感動感から、
“ 天上絵 うつす 地上え 我が魂 ”
と、私が感じる天上感は、父の生前の、生業の「悪」を、母の、無償の行い(根底にある「善」の心)が、浄化して行なった結果として、その、父母の子である「私」に、もたらされた様な、そんな気が、しています。
(平成十一年五月二四日)
──────── * ───────
P66 『塵の海』
(平成九年十二月八日)
(平成九年十二月八日)付、新聞の「朝の詩」に─────
“私の、「地球」の塵の海 小石が落ちて 泡を噴く
思考の波は 一本の 道を ひたすら返り 着く
「覚めない悪夢」の その「翳」に”
アインシュタインが、言った様に、一つの事象が織り成す波紋────
寄せては返す、海の息、押し上げられて、戻って行く舟。
生きた年数程に、海は、その枝々の様な川 全てをたぐり寄せ、海に還流して浄化させた筈であった。
が、「それ」自体がまさしく、「永遠」である。
小石は、小石の侭、影の侭、動きもしないで「存在」を、突き付ける。
二十年以上も前の、鳥取砂丘の、小さな「小石」。
それは、プルーストが手にした、ティカップのココアの味から、煌めく幼年時代に還って行くのと、正反対に、その朝、手にして見た新聞の「朝の詩」は、後味の悪い苦いコーヒの味を思い出させ、何とその日一日が憂欝だった事か。今も、未だあるのだろうか?あの喫茶店、其処で伝票が来ていない事をいい事に、たかが千円程の代金を支払わずに出た。罪悪感すら、感じなかった。
私の、人生に於て、たかがの物に対しては、箍が緩んでいたと、思う。 その「朝の詩」の、今はちょっと内容を思い出せないが、「六十五年前のその悔恨の人」の詩の塊が、私の海の心底の小石に命中し、それがムクムクと起き上がり、「私」と目が合った。
以後の人生で、どんな無償の生活とか、募金をしようが、その小石は決して溶ける事が無い。それを、思い知らされた、その日。
記憶の海には、幾重にも覆われた、潜石がある。
☆★ 戻る
P67 『ほど ほど』 (平成十一年十二月四日)
〔T〕
オーム真理教から以降、顕発する贋宗教───或る情況下に措かれたもの達に、
取り込む邪教。
──由んば、身内に死にそうな者が居て、その家族に、金銭云々で助かる
と云う宗教の類い自体、「商い」である。
本当の宗教の真意とは、「祈り」へ、導くものである筈。
其処の処を見分ければ、こんな宗教も、はびこらないと、思うのだが。
─────「神仏」に、すがる気持ちは、解る。
私も、母が、一回目、脳梗塞で倒れた時、叉、叔父が入院した時と、弁天様に御祈祷しに行った事がある。「ただ、祈るしかない」本当に────
母は、朝起会(毎朝、朝五時に集う精神修養団体)に行く様になる迄は、
弁天様を信心していた。たまに、私も一緒に行ったが、未だ、一番下の妹が、赤ん坊で、母が拝んでいる間、お守りをしていた。
叉、私が寝起きしていた部屋に、弁天様の神棚があり、母の読経(弁天宗)を夢枕で、憶えてしまっていた。(今も多少憶えている)そういう愛着?が、その時にも其処へ、足を向かわせた。
母が、朝起会に鞍替えしたのは、父に、その茨木迄の交通費の事を、云われた為らしかった。母の、動機を理解出来れば、そんな事、云える筈もないのに。
去年(平成十年十二月)二回目の入院をして以後、行かなくなる迄四十年間、母は毎朝三時に家を出て、いつも「一番乗り」を、「処世標」にそれ一筋だった。
盲信───昭和四十年に父が死んだ後、母は、朝起会に百万円の寄付をした。
その時に、「位」が上がった様だ。少しして、叉、元に戻った様だった。
此の、お金で「位」が、アップダウンと云う事で、その「会」が、見えてしまった。
精神修養を目的としているなら、お金で「左右」しては、「値打ち」が無い。
会費にも、ランクがある。私達子供も、勿論、会員になっている。(本人の意思とは関係なしに)
昔、父の遺産がある時に、そこの先生に云われた「会費の額」を死守して、行かなくなった今でも、払い続けている母───この部分は、「会」と云うより、個人の母自身の問題点だが……………
もう七十八才も過ぎたんやから、払うんではなく、朝起会から年金でも貰ろたらわ、と冗談を言ってるのであるが……………
盲信は、家族をも「道連れ」にする。
何事も、「ほど ほど」 ────ほど ほどに───。
☆
P67 「ほどほど」 〔U〕
(平成十一年三月二二日)
“ ほど ほどの ほどよき 人生 平 平凡 ”
ほどほど と、言う事程 難しい事は 無い。
何故なら どの辺りが程々かと言う事が 測れないから。
強いて考えるに 「腹八分目」の 満足感で退ける人にある
「ほど良き人生」
天才を 羨む事は無い。
腹八分目では 済まされぬ 業火を背負った────彗星
詩人を 羨む事は無い
心の鏡を 手放す事が 出来無い 生きもの ────
自身の 心の中で開く花は 何であるか?
人に依っては 「食べる物」「装飾品」「ブランド物」等々、あるだろうけれど それ等に 「蝶」を見る事の出来ないのが 「詩人」であろう
直感的な 感性の弦に 触れてゆくもの そんな蝶にこそ 花弁は 蜜となる さりとて 羨む事は無い 各自の「物」が 違う様に それしか
その様にしか 生きられないのだ
明日も 開くとは限らぬ 花
「生」と言う 「問」を掲げて、「死」と言う「答」に 至る迄
どれが、最良の「正解」だったか?
千差万別────自分にだけ、ある「答」。
自分にしか、ない「答」。──────
戻る
* * * * *
P68 『今日のように………』
(平成十一年四月三十日)
“ 人間は お金と、権力を 持った時、
その「本性」を 見せると思うが────
私は、お金が、あっても、なくても
今日のように 今迄も
若し、「明日死ぬ」と、分かっても
今迄の様に、「今日のように」しか、
生きられません。 ”
* * * * *
P68 『時代遅れの窓』
(平成十一年八月六日)
──────────────────────────
・ 「窓の中」───「窓」が次々 変わる ・
リモコンをタッチ ポンポン テレビの画面が 飛んでゆく
新聞をめくる パラパラ
紙面が 振り子する
──────────────────────
・・ 五十四回目広島原爆忌 ・ 遺伝子食品 ・
・ 「戦略」会議 ・ 呪縛───── ・
────「坂の上の雲」───── ・
────────────────────── ・
・ 「窓の外」──── ・
・ お日さま テカテカ 鳥は ピーピー ・・
花は スクスク 蝶は ヒラヒラ ・
──────────────────────
・ 「世の中、綺麗事やない」と言うけれど、私は、 ・
「時代遅れ」の、人間ですから、「時代遅れ」の侭
・ 「綺麗ごと」で、生きていきたいです。 ・
─────────────────────────────
P68 【 存 在 】 (平成十一年四月十三日)
『「影」と「夜」』
「影」───『「少女の頃・影踏み・あの月」
影に影は 出来ない────「夜」「大きなものの」
────朝 昼 晩──── 一日中 夜の頃』
『私の前を、通り過ぎる 「影」
私も、通り過ぎてゆく』
『空想的な「影」───「夢想」』
『潜在的な「影」───「夢」』
『人の瞳の中に映る「私」────小さく───少女の頃』
『光の角度で 伸びる「影」・縮む「影」───虚像』
『他人の中の「影」───軽いピンポン玉───足蹴のボール・
手に弄ばれる』
───他人の中を 泳ぐ「影」───「私」に「影」は ない
『侵入者の「影」───或る 一刻の───
十分の九の 他者────残りの 十分の一に
「私」の存在を 見付ける。』
☆★
P68 『朝と 夜』
“ 全体の 一刻 視感 ただ 側面 ”
地球の、朝と夜────私は、他人の「夜」を、見た事はあるが、
未だかって、私自身の「夜」を、見た事が無い。
きっと、誰も。
────百八十度の前方 百八十度の後方─────
背中は、いつも「夜」。
一刻に、全体を────朝と夜を 胸と背中を─────
見る事は ない
☆★
P69 『影』
(平成十一年七月十日)
他人、他物は、はっきり、見える。
「私」は、鏡を通して見る時でも、他物を通してしか、確かめられない。
唯一の「私」は、太陽が在る時の「影」。
他者とも区別がつかない「影」にだけ ある。
「私」と言う、自我はこんなに強いのに、私は、何処にあるのだろう?
「他」を、見て、聴いて、感じて、私は こんなに「存在」しているのに、
私は、「私」を知らない。 私は、何だろう?
しかし、他者は、よく見える。
私は、他者を見る為に「在る」のだろうか?
してみるに、肉体は、幻想だろうか?
☆★
P69 『比 較』
(平成十一年六月九日)
鏡がある 私?が 映っている
私は 高い? 低い? 中位?
私は 大きい? 小さい? 中位?
───統計上の数字の位置、会った事もない人達との数上の───
もっと 身近の 通りすがりの他者との 比較感───
私の「目線の定規」だけで、測る。
私より 高いか どうか?
「鏡」の前で 並んでくれません?
☆★
P69 『存 在』
(平成十一年七月十三日)
私は 書く 書く 私は 創る 創る 私は 詠う 詠う
一杯 私を────ペンを 走らせる 手が 見える
朝起きる 「おはよう」「おはよう」「おはよう」
甥子 甥子 私の母───眼が 言葉が 返る
私と 皆の牛乳 コーヒーを 入れている 手元が 見える
パン ヨーグルトを テーブルに 運んでいる 足元が 見える
でも 見えない部分が ある────私は 透明な人間の様だ
頭から 爪先迄 姿の鮮明な 皆んなと 朝食を食べる
私は コーヒーを 飲む
いや 正確に言うと 飲んでいるようだ
「ちょっと、苦過ぎたかナ」───それだけが 自身の 実在感
一番「存在」している筈の 私が 一番「不在」
「私」と言う「手触り」の為
私は 書く 創る 詠う────一杯 私を────── 戻る
───────────── * ─────────────
P69 『物の値打ち』
(平成十一年八月十七日)
戦後の、私達の子供の頃、バナナは希少で高価であった。
現在は、溢れ、安価である。 物の「価格」とは、そういうもの。
最近、テレビの番組に、芸能人の格付け?をするものがあり、一例として、千円のワインと、十万円のワインの飲み比べをして、どちらが高価な方かを、判別するのだが、口の肥えていると思われる芸能人の、その結果は惨々なものだった。他にも、食物、犬(血統種か雑種)等、その日の、当外の数に依って、一流芸能人〜三流芸能人にランク付けるのだが、総合的に「当てる人」の方が、少い。甥子達の観ている番組でも、珠には良い番組もあるものだと、一緒に笑い転げる時がある。
絵画、骨董、宝石の類い、真贋を測る「鑑定家」には、値打ちのあるものだろう。その 分野毎に、それなりの学識があり、「本物」の判る人達だろうから─────
─「鑑定証」でしか満足出来ない人達には、高価な対価を支払ったと言う、「値打ち」しかない。だが、若し、鑑定家にミスがあったら……… 要は、高価だから、良い物なのではなく、本物であれ、偽物であれ、自分が「良い」と思ったもの、それが「値打ちのあるもの」である、と言う事。
──────自然美は、いつも「タダ」で、鑑賞出来ます。
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P69 【虚栄心と自尊心】
(平成十一年一月二六日)
以前、新聞紙上の投書欄に、学校へ持参する雑巾の件で、 手縫いしたのを持たせる人の事を「虚栄心云々………」と、書いている人がいたが、此の人は、「虚栄心」なる言葉の意味が、解っているのだろうか?
「虚栄心────自分自身に、自信が無い、故に、(だから、それが出来
ない)その分の穴を埋めるべく、表面を取り繕い、より以上に自信を飾る心。 例えば、ブランド志向、私も、少しは持っていない事はないが、それは、 仕事していた時の、仕事上の必要経費的類いの物。
一般的に人間は、そういう表面で、人を判断すると言う事が分かっているから、仕事上に依っては、そういうパッケージも必要である(鎧の様なもの)
あくまで、人に見せる為の物。─────私自身は、それが、偽物であっても
、そう見えれば、それで良い(安ければ)、本物を持っていた処で、自己満足さえしなかった。
昔、若い頃、外車を運転させて貰った。
恰好良いと観えても、狭い街中を走った処で、又、運転していても、それが、その車と「自分では観れないから」恰好良いとは、感じられなかった。
他車の人々は、此方を見ていたが………
以前、海外旅行をした時、仕事上の客に上げる為、ブランドの化粧品を買い、私も使ってみたが、普段、使っている五百円程のとの違いは、香料のある、なしの、それだけだと思った。で、家と、外の携持用と使い分けをした。
ただ、人に見せる為の行為とは、何と虚しいことだろう。………
仕事から帰って、スーツを脱ぐと、ホッとした。
“要因(陽陰)は 社会の内外 仮面つけ 心の素顔 鏡に見つけ”
“肩パット 胸張り 闊歩 大股で 世(よ)脱ぎて鎧 息を畳むや”
自尊心とは────確固たる自己を持っている。 故に、自信がある。
故に、唯一無比の、誇りを持っている。その、自負心である。
確固たる自己とは、自分の目で、耳で、見る、聴く、と言う、他人に左右されない「見方」、「聞き方」の出来る「眼」を、持っていること。(聡明さの伴った)そこから峻別された、信念を持っている。 ─────
────多角度からの、自由な視点と、自身の矜持─────
で、先の「雑巾」の件だが、私は、手縫いを持たせるのも良いと思うし、 買ったのを持たせるのも、それが、手縫いの生地と価格が同一か、安ければ、 それは、その方が、良いと思う。 「虚栄心」云々とは、全然関係ない。 私は、その、どちらも、用いている。
“囚われず 囚わらず だが こだわって───唯れ 身上なり”
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P69 『保 険』
(平成十一年十二月七日)
二千年迄、一ヵ月も切ったこの1900年代は、「世界的な」領土拡充と言う、植民地台頭主義から、先の、第二次世界大戦を境に、日本は、アメリカの庇護の下、自由民主主義と言う、資本主義社会を構築して行った。
此れは、「幸運な選択肢」であったと言えるだろう。何故なら、ソ連庇護の下だった国、及び、その元ソ連の崩壊を見れば、一目瞭然だ。
効率的な、物質的豊かさの追求と言う点で、資本主義社会は、社会主義社会を、席捲した。
しかし、行き過ぎては、いないだろうか?
マスコミを賑わした「カレー事件」から発覚した、例の、保険金搾取の実状─
保険金にまつわる此の類いの事件の頻度に、保険制度のそれ事体、問題あるのではないだろうか?
明らかに保険金殺人と思える法外な掛金、其処の処のチェック方法を規定する等しないと、保険会社、又、政府も「殺人」に加担していると言えるのではないか?
此の種の世論の盛り上がらないのも、不思議な事だ。
大体、一家の大黒柱である、世帯主以外の死亡保険金など、不要ではないか?
「生命」を商品にすること事体、「当たり前」でないと思える。国の認可から見直すへきだ。そうすれば、此の種の犯罪は皆無になるだろう。
私は、以前は兎も角、現在、これからも、掛金に関係なく、一切保険に入らないし、入っていない。(平成19年10月現在も勿論) 戻る
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P70 『大食漢』
(平成十一年二月十八日)
蟻は その粒分の 蜜を 犬も その胃袋分の ものを
牛も その 身体分を 草食
ライオンも 然り その 身体分の 虎を 食す
人間は 動植物は 勿論 その胃袋以上の
「全ゆるもの」を 食します。
鉄を 石を 樹………etc を。
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P70 『人間の 無』
(平成十一年二月十一日)
「私」は「無」を つくる
「人」は 一杯 無を 積み重ねた
そして 「有」になった
空 の 星
無 というのは 存在 するだろうか?
円 ではない 四角い 「窓」から見た 煙
目の前の テーブルの リンゴを 食する
リンゴの「死」────だが 人の 身体に有る
コーヒーカップを 片付ける
目の前に 「無」い が 台所に 「有」る
例えば それが 割れて 壊れても その物質は 有る
「0」という 生命の前 それも「有」
「無」等 存在 しない
人間の 概念の 「無」
「有」という 存在が 「思考」(おもう)事。
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P71 『生と死』 (平成十一年四月二八日
大地に 立っている
目線の侭の 眼は 地球の 空間
空と 地の 「空」間 を 見ている
仰向けに 横臥わる
眼は 空を 宇宙空間を 視ている
☆★
P71 『美の極界』
<TV「世界遺産」を観て> (平成十一年四月二八日)
静止────「生」の前 或いは「死」の後────美 の 極界
仏面の笑み 山 樹 湖面
目瞬きしない 景色。
活動────ドスン と 山の頂から 運命に 墜とされた 水
その 静かさの 宿に 辿り着くまで
ただ 走るしかない───群流の滝 龍の放遂。
地球の 「静」 と 「動」
“ 花の春 増す毎(たび) 富に 美わしき ”
戻る
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P71 『自 死 に』
“生きる 権利が あるならば 死ぬる権利も あっていい筈 ”
[桂 枝雀さん] (平成十一年四月二一日)
自死を決行して、入院中だった落語家が、死んだそうな。
「それは、お目出度う!」と、喜んでやらねば………
決意して、決行した、その時の勇気を、踏みにじっては、いけません。
無責任な、群衆よ。若し、「生還」しても、その人間の、人生を背負える筈が、
そんな事、───出来る筈も、なかったのに──────
[江藤 淳さん]
──「文芸春秋」投稿──再掲『妻と私』を読んで────
(平成十一年八月十二日)
───江藤淳氏、自死───近頃のニュースで、此れ程吃驚したものはない。
産経新聞「月に一度」の、同氏の論評は「日本人の精神性」を、呼び戻し、引き上げようとする熱意に溢れており、私の背筋迄が、ピンと伸びる様な、快直感を覚えていた。 あの、江藤氏の「精神性」を以ってして………と。
「妻と私」は、余りに仲の良いご夫婦に、神様が嫉妬して、お二人を引き離したのではと、思わせる程「愛」に、充ちている。
一卵性双生児と言われたお二人の様だが、人間が生きている線上で、究極の処、「探しているもの」が、「自分に出会う事」であるとするなら、此のお二人程、「直感」の冴えた人はいなかったと思われる。
「あの雨さえなかったら……………… 」
石原慎太郎氏の、「さらば友よ 江藤よ!」に、慶子さん死後、江藤氏の 不自由さを思い遣り、氏が、住み込みの家政婦さんを紹介する件りがあるが、江藤氏が自死した日は、その日から、その家政婦さんが住み込む日であったと言う。東京に降ったと言う、当日のその轟雨は、氏の、その行動の引き金の
一端に推し測られるけれど、私は「慶子さんが降らせた雨」の様な気がする。同じ想いが、江藤さんに………と。
二篇読後、そんな感想を持った………。
「この国」と云おうと、「我が国」と云おうと、平成八年には、司馬遼太郎氏、今、又、江藤淳氏と、「無私」の心で、芯から「国」を想い、行く末を 「憂える」日本の屋台骨の様な人を、失った。
「滅びる……… 」漱石、司馬氏、江藤氏の、「聲」が聴こえてきそうだ………。
人間、一人一人の命は、変わらず「重い」けれど、「重さ」も、「大きさ」も、違うと、
思わざるを得ない。
だが、江藤氏が「自死」だからと言って、いささかも、その「精神」は、
減じていない。 『メリーさんの羊は、真っ「白」よ』………
日本国の、大きな損失である。
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P71 『誰にも……』 (夢現より)
うな垂れて 朽ち果てそうな バラの花の 首の処を切って
花瓶から 小さな ガラスのコップに 活かされ
それで、
適材適所 綺麗と 言われたって
誰にも 解りゃしない………
バラの 心 なんて
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P72 『桜・花道』
“桜 舞い 散るも 花 ゆき 花道や ”
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散らばや 散らん
或る時代の 日本人が 持っていた 美意識
そのものの 桜 花
淡き桜色に 淡き生命を 淡き春の 象徴の 優美の極みを
桜木の 舞台の 隅々に
蓄積した 幕間一年分の 養分を
花弁 一枚一枚に迄 結実させ
歓喜の侭 美しき侭 雪の様に 花道を 舞い下りてゆく
───────夢の「花道」───────
(夢弦より) 戻る
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◆
P72 『軌 跡』
(TV「蕪村の風景」のイメージ)
眼前に 涯しなく 拡がる海
やがて 太陽も 堕ちて 行くだろう
と 或る 一隻の 舟が 海の 中央辺りを
ゆっくり 横切って 行く………
一筋の 命の 跡が
見る間に 海に 収まり
何も 無かったかのような
穏やかな 海面──────
日は 未だ 真西に 沈んでいない
何か 人生の 終末の 「一つのパターン」を 視た様な
そんな 一瞬 だった (「夢現」より)
◇
P72 『り ん ご 』
(「夢現」より)
“ どの辺り りんごの 大 小 寿命 喰う ”
山頂から 一本の 道が見える
────始点から 終点 地点までの────
徒歩か 車かで 進んで 行く人
過去という 「昨日」が 伸びる程
狭ばまる 「明日」という 未来
人間の 一生の 「寿命」
りんご 一個の 大小
今は どの辺を 食べているのだろう
もう少しで 全部 食べてしまいそう?
最後の 芯(ほね)は 又
土に 還って─────
“CDの 音秒は すぐ かけ 時計 積みゆく脈数 生命をひいて”
◆◇
P72 『月が二つ』
(「夢現」より)
静かに 横臥わる 海
夜の 帳の中 全ての 「死」の様に────
微かな 潮騒の 「存在感」
それだけが 「生」の証────
海面に 私の 吐息………
───月が 二つの 夜────
やがて あちら こちらで 目覚めて
欠伸する 伸びをする いきり奮つ 波 達
やっと 足並みを 揃える ように
(たまに はみ出すものも あるが)
一、二(いちに) 一、二 と
息を 吐いて 吸う
いつもの 海の 姿になる
「地球が 動き出す?」
そして
空に 樹に 全てのものに
スポットライトを 照らして始めて
やがて 太陽が その実体を
白日に 晒す
地球の 「一部の朝」
「死」の始まりの 「時」
(チク タク チク タク)も
刻まない 「刻とき」───── 戻る
◆◇
P73 『死なない花』 (「夢現」より)
“造花園 死なない花達 いきもせず”
それは 何時からか───ずっと 昔から 「生花」より
「死なない花」が 好きだった 頃がある
─────美しさが 幻影である事の 象徴─────
花の 枯れた後の 無残な姿を 見たくないから
そして いつからか 心の中にも
「永遠に死なない花」が 根を 据ろして しまった………
すっかり 忘れていた 三十年も前に 心に 引っ懸かった詩が
現在 耳にして ずっしり 重く 心を覆う
“ 吹き来る 風が 私に言う………
今迄 お前は 何をして 来たのだと………”中原中也
それは何故か?
子供の頃から 嘘が嫌いだった
自分自身に 嘘を 付かない 付けないと 言う事
そして それは 今迄の 自分を 貫き通して 通して 来たもの
滅びてゆく花 移ろう心
変わらない 死なないものなど 何も無い
滅びないもの 「真実」「事実」
その時の 自分自身の 心としての 「存在」
────それしかない──────
その想いが 「死なない花」に 投影させたのだ と。
───────────*────────────
P73 『知の時代』
(「夢現」より)
口を 塞げば 窒息するのに 「知」の時代と 言うけれど
次から 次へ 空間を 埋めて
他者ばかりが 入り込んで 「主体は 何処にある?」
鈍行列車の 窓から 見た 「ミレーの絵」の情景は
未だ 何処かに 在るのだろうか?
「時」は 新幹線の 景色のように
今 手にしている物さえ 吹き 飛ばして 行く!
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P73 こだま
『木 魂のこと』 (「夢現」より)
“人生の 生涯の 幸は 出会いなり
絶品たえなる 大自然 本しょ 音楽と”
一度見て 忘れられない 瞳のフイルムに 焼き付く 自然がある
大きな 感動の高浪が 揺り起こす 潜底の 「真珠の小箱」
太陽が 一番 青春の 真っ只中である 夏に 一杯 翼を拡げて
情熱を 撒き散らす時────海と 空は その熱を媒介として 中和し
境目のない 涼やかな 水色の ハーモニーに 溶け合っている。
晩秋の 夕間暮の ほんの 一瞬の 藍色の空────
思い出した様な 青春の日の 紅潮した 頬の様な 夕陽と
秋の青空に 忍び寄る 冬の沈黙の 黒が 混ざり合った
そんな 哀愁の色。
太陽が その翼を 半閉し始める 冬になると
生き物達も 生存の為 知らぬ間に 土の何処かに 潜り込んで
静死期の 通過を 待つ
そして 寒空に 全てを 葬り去られた 人間の様に
一本一本 違う形をした 冬木立はその 神経模様の枝を
凍風に 晒し乍ら 暗いトンネルを くぐって くぐって
いつか 「五月」に辿り着くべく………
“凛然と 魂の姿 冬木立 見下ろす 俗世 春には 再び”
太陽が その翼を 開き始めると 土が 匂い立ち
風が その春の 賑わいの声を 風車に乗せて 運んで来る
やがて 太陽と 風の 暖かい 眼差しの中
新しい 生命の 芽生え
古木が あんなに 初々しい 若草色の葉を 産む事の
生命の 不思議に 充ち溢れる────五月───
“若葉には 五月は 眩しき 「新世界」”
“交差 点 風と 光と 揚羽蝶”
瞑想すれば 見える 光景
瞑想すれば 聴こえる 音楽
感動の 頂上から 見たものは
自分自身の 断層────
◎■
地球と言う 奇跡の様な「生命体」の星は 数え切れぬ程の 生き物を
その四季に 産み落としている
それは 地球の「無意識の愛」─────
四季に見出だす 「人間の一生」
その 折々の「生」を 茂らせ────完結してゆく────
☆★
平成九年八月二十八日に行った「ファーブル昆虫博」での、蝶の標本の
あの多彩な色彩を見れば、蝶が、素は花だったのではと、思わずにはいられない。
そして「秋が産んだ虫」の鈴虫の音色──── 樹から産まれた虫が、
到来する冬に、哭く事も出来ぬ木立の吐息を、地下水で練り上げた様な、
濁音の無い「鈴虫」の透明な「哀」だけの音色────その音色が、何故か
前橋汀子さんのバイオリンの音色に重なった様な気がした。
☆★ 戻る
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