金烏臨西舎, 鼓聲催短命。 泉路無賓主, 此夕離家向。 |
******
臨終
金烏 西舎に 臨み,
鼓聲 短命を 催す。
泉路 賓主 無く,
此の夕 家を 離れて 向ふ。
◎ 私感註釈 *****************
※懷風藻:現存する我が国日本の最古の漢詩集。天智朝から奈良朝のものを収める。なお、本サイトでは、漢語語法に則った通常の漢文の読み下しをし、上古日本語に拘っていない。
※臨終:臨終詩は、謝靈運、茲將、陶潛など漢魏六朝に多く、本サイトでは陶潛の『挽歌詩 其一』「有生必有死,早終非命促。昨暮同爲人,今旦在鬼録。魂氣散何之,枯形寄空木。嬌兒索父啼,良友撫我哭。得失不復知,是非安能覺。千秋萬歳後,誰知榮與辱。但恨在世時,飮酒不得足。」や漢魏の繆襲の『挽歌詩』「生時遊國都,死沒棄中野。朝發高堂上,暮宿黄泉下。白日入虞淵,懸車息駟馬。造化雖神明,安能復存我。形容稍歇滅,齒髮行當墮。自古皆有然,誰能離此者。」などがあり、比較的よく見受けられるものである。しかしながら、禹域の先人たちの場合は、前もって充分な時間があって推敲し尽くされたものであるのに対し、大津皇子の場合は、その時間さえなかったことがよく分かる。彼の無念さがひしひしと伝わってくる千古の絶唱である。大津皇子の名誉のために書いておくが、『懷風藻』に遺されている彼の作品群は、この『臨終』の作を除いて、どれも正確な押韻をしている。五言律詩二首も正格のものである。なお、『萬葉集・卷三・挽歌』にも:
大津皇子 被死之時磐余池般流涕御作歌一首(大津皇子の死を被はりし時、磐余の池の般にして涕を流して作らす御歌一首)
百傳 磐余池爾 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隱去牟(百傳ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隱りなむ)
がある。
大和國 二上山山麓にて
『萬葉集』卷二 移葬大津皇子屍
於葛城二上山之時大來皇女哀傷御作歌正面の山の北(右)側が二上山の雄岳。
※大津皇子:天武天皇の第三皇子として生まれ、文武に秀で、政治的にも大きな力があった。やがて、皇位継承の争い(天智帝⇒弘文帝(大友)⇒天武帝⇒???⇒持統帝⇒草壁の子(文武帝)⇒……)に巻き込まれた。やがて、(持統帝の時に)謀叛の疑いのため天武十五年(686年)、死を賜った。そのことを『懷風藻』では「皇子者,淨御原帝之長子也。…時有新羅僧行心,…因進逆謀,迷此誤,遂圖不軌。…近此奸竪,卒以戮辱自終。」というふうに記録されている。実際に謀叛を企てたのだと…。
※金烏臨西舎:太陽が西側の建物に射しかかり。 ・金烏:太陽。 ・臨:のぞむ。ここでは日が射しかかってくること。 ・西舎:西側にあるたてもの。西側にある建物に日が射しかかってくるということは、太陽が西に傾いている夕陽であることをいう。「西」はその義と音の響きから、単に方角を表す外に、夕日が西へ沈むが如くその頽勢を表し、西方浄土をも暗示する。
※鼓聲催短命:鼓の音は、命を縮めるのを急かせている(かのようだ)。 ・鼓聲:夕刻の一定の時刻を示す時報としての太鼓の音。 ・催:せかす。促す。催促する。漢樂府に『蒿里曲』「蒿里誰家地,聚斂魂魄無賢愚。鬼伯一何相催促,人命不得少踟。」があり、それに基づいていよう。また、前出陶淵明の『挽歌詩 其一』でも、「有生必有死,早終非命促。」とある。 ・短命:命を縮める。ここでは、自殺を急かされる。
※泉路無賓主:黄泉の路では客と主人の別が無い。黄泉路では、誰もが同じである。 ・泉路:死後の魂の辿る道すじ。黄泉路(よみぢ)。前出、漢樂府の『蒿里曲』「蒿里誰家地,聚斂魂魄無賢愚。」のことがあり、それを蹈まえていていよう。 ・無:…が ない。 ・賓主:客と主人。主客。
※此夕離家向:この今日の夕べに住み慣れたこの世の家を離れて、(西方浄土へ)向かおう。 *「此夕離家向」を「此夕誰家向」ともする。その場合は、「この夕べ、どこへ向かおうか、になる。 ・此夕:この夕べ。ここでは、今。 ・離:別れる。はなれる。 ・家:この世でのいえ。 ・向:むかう。一般に動詞としての「向」は、目的語をとることが多い。ここでは何だか途絶した不完全な感じがある。また「向」は本来韻脚になるべきところだが、押韻ができていない。蒼惶として死を賜ったことがよく分かる貴重な資料になる。
***********
◎ 構成について
押韻をいうには些か苦しい。韻式は「aa」のつもりで作ったものと思われる。韻脚は「命向」が該当する位置にある。どちらも去声だが、前者は二十四敬、後者は二十三漾になる。通用しない。死を賜って蒼惶として作ったことがよく分かる。次の平仄は、この作品のもの。
○○○○●,
●○○●●。(韻)
○●○○●,
●●○○●。(韻)
平成16.2.28 2.29完 3. 1補 3.13 10.11 平成19.5.14 |
メール |
トップ |