汨羅遇風 | |
柳宗元 |
南來不作楚臣悲,
重入修門自有期。
爲報春風汨羅道,
莫將波浪枉明時。
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汨羅 風に遇ふ
南來は 楚臣の悲を 作すにあらず,
重ねて 修門に入る 自ら 期 有り。
爲に報ず 春風 汨羅の道,
波浪を將て 明時を枉げしむる 莫かれ。
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◎ 私感註釈
※柳宗元:中唐の詩人。773年(大暦八年)〜819年(元和十四年)。字は子厚。任地に因んで、柳河東、柳柳州とも呼ばれる。河東(現・山西省)の人。韓愈と並んで古文運動を提倡、その勃興に寄与した。政争に巻き込まれ、永州司馬、柳州司馬に左遷された。『江雪』「千山鳥飛絶,萬徑人蹤滅。孤舟簑笠翁,獨釣寒江雪。」は、特に有名。
※汨羅遇風:屈原が自殺した汨羅で(時世の)風にであって(、ときめいた)。 *作者・柳宗元は、中央政界を離れて十年に亘る永州での左遷生活を終えて、上京の途上にあり、汨羅の傍を通った。今度のこの上京こそ、中央への復帰の機会になるのだと、心ときめかしていた。そのような意の題。 ・汨羅:〔べきら;mi4luo2●○〕戦国時代の楚国の王族・屈原(屈平)が投身自殺した川の流れ。現・江西省修水県の西南を源として、湖南省東北部を西流して湘水に入る流れ。屈原は嘗て三閭大夫に任じられるが、楚の懐王のとき、尚の讒言のため、職を解かれた上、都を逐出されて各地を流浪した。その放浪の折り、多くの慷慨の詩篇辞賦を残した。やがて、秦が楚の都郢を攻めた時、屈原は汨羅(現・湖南長沙の南方)に身を投げて自殺した。時に、前278年の五月五日で、端午の節句の供え物(粽)は、屈原を悼んでのものともいう…。『史記・巻八十四・屈原賈生列傳 第二十四』では「於是懷石遂自汨羅以死。」と記されている。屈原を歌った『楚辭』漁父「屈原既放,游於江潭,行吟澤畔,顏色憔悴,形容枯槁。漁父見而問之曰:『子非三閭大夫與?何故至於斯?』屈原曰:『舉世皆濁我獨C,衆人皆醉我獨醒,是以見放。』」とある。後世、唐・李コ裕の『汨羅』に「遠謫南荒一病身,停舟暫弔汨羅人。キ縁靳尚圖專國,豈是懷王厭直臣。萬里碧潭秋景靜,四時愁色野花新。不勞漁父重相問,自有招魂拭涙巾。」がある。 ・遇風:時世の順風にめぐりあう。時世に合ってときめく感じを(も)謂う。
※南來不作楚臣悲:(都から離れて)南来(なんらい)したのは、楚の屈原の悲憤慷慨を真似するためだったのではなく。 ・南來:南の方へやって来る。作者・柳宗元は、政争で、現・湖南省永州の司馬に左遷されたことを謂う。 ・楚臣:ここでは前出・屈原のことを指す。戦国時代の楚の名門政治家であったが、時世を憂えて、汨羅に身を投じた。
※重入修門自有期:(今回、十年ぶりに)都門に再び入る(都に戻って仕える)ことになったが、まあまあそれなりの時期にあったのだろう。 ・重入:またもう一度入る。若いときに、河東(現・山西省)から官吏となるために首都・長安に入り、今回、永州に左遷された後、十年ぶりに、首都・長安にもどって来たことを謂う。 ・修門:都の城門を指す。本来は、春秋時代の楚の都である郢(えい;ying3)の城門のことで、ここでは『楚辭・招魂』「魂兮歸來,入修門些(さ;suo4『楚辭』などで、文末にあって余情を添えることば)。」及び、王逸の注に「修門,郢城門也。」に因り、ここでは唐の都・長安の城門を謂う。 ・自:自然と。おのずと。 ・有期:期限がある。
※爲報春風汨羅道:屈原が身を投げた汨羅(べきら)江の畔(ほとり)の道で、春風に言っておきたいが。 ・爲報:言っておく。
※莫將波浪枉明時:(濫に風を吹かせて、)汨羅江(べきらこう)の波浪を起こさせて、明徳の治世(の中のわたしの前途)を乱さないでほしいものだ。 ・莫將:…に…をさせるな。「〔莫將〕+名詞」で、後出の「波浪」は名詞。 ・波浪:なみ。なみかぜ。 ・枉:〔わう;wang3●〕まげる。ゆがめる。 ・明時:平和に治まっている世の中。明徳の治世。昭代。清時。
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◎ 構成について
韻式は、「AAA」で、韻脚は「悲期時」で、平水韻上平四支。この作品の平仄は、次の通り。
○○●●●○●,(韻)
○●○○●●○。(韻)
●●○○●○●,
●○○●●○○。(韻)
2008.11. 7 11. 8 11. 9 |
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