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楚辭                    
漁父
            

            
        



屈原既放,
游於江潭,行吟澤畔,顏色憔悴,形容枯槁。

漁父見而問之曰:
「子非三閭大夫與
何故至於斯」屈原曰:「舉世皆濁我獨淸,衆人皆醉我獨醒,是以見放。」

漁父曰:
「聖人不凝滯於物,而能與世推移。世人皆濁,何不淈其泥而揚其波

衆人皆醉,何不餔其糟而歠其釃
何故深思高舉,自令放爲

屈原曰:
「吾聞之:新沐者必彈冠,新浴者必振衣。
安能以身之察察,受物之汶汶者乎
寧赴湘流,葬於江魚之腹中,
安能以皓皓之白,而蒙世俗之塵埃乎


漁父莞爾而笑,鼓枻而去。
乃歌曰:
滄浪之水淸兮,可以濯我纓,滄浪之水濁兮,可以濯我足。」
遂去,不復與言。



    **********************

          漁父(ぎょほ)
          

屈原 既に放たれて,
江潭に游び,行
(ゆくゆ)く 澤畔に吟ず, 顏色 憔悴して,形容 枯槁せり。

漁父
(ぎょほ) 見て 之(これ)に 問ひて曰(いは)く:
「子は三閭大夫に非ずや? 何の故に 斯
(ここ)に至れると?」   屈原 曰く: 「世を舉げて  皆 濁り  我れ 獨り 淸(す)めり, 衆人 皆 醉ひて  我れ 獨り 醒(さ)めたり,是(ここ)を以って 放たれりと。」

漁父 曰く:
「聖人は 物に凝滯せず, 而して 能く世と 推移す。世人 皆 濁らば, 何ぞ 其の泥を淈
(にご)して 而て 其の波を揚げざる?
衆人 皆 醉はば, 何ぞ 其の糟
(かす)を餔(くら)ひて  其の釃(しる)を歠(すす)らざる?  何の故に 深思 高舉して,自(みづか)ら放たれしむか と?」

屈原 曰く:
「吾 之
(これ)を聞く: 新たに沐する者は 必ず冠を彈(はじ)き,新たに浴する者は 必ず衣を振ふ。
(いづくん)ぞ能(よ)く 身の察察たるを以て,物の汶汶たる者を受けんや? 寧(むし)ろ 湘流に赴き,江魚の腹中に 葬らるとも,
(いづくん)ぞ能く 皓皓の白きを以って,世俗の塵埃を 蒙らんや?」

漁父 莞爾として笑って,枻
(えい)を鼓して 去る。
(すなは)ち 歌ひて曰く:
「滄浪の水 淸
(す)まば,以って 我が纓(えい)を 濯(あら)ふ可(べ)く,滄浪の水 濁らば,以って 我が足を 濯(あら)ふ可(べ)し。」
(つひ)に去り,復(ま)た 與(とも)には言はず。

             ******************


◎ 私感訳註:

楚辭:戦国時代、南方の楚に興った詩の一形式である『辞』の集成されたもの。『楚辭』とは「楚」の「辞」。=「楚國」の「辞集」の意で、以降は詩集名となった。漢代に盛んになる『賦』とともに併称され「辞賦」といわれるものの代表である。

※離騷:『楚辭』中の第一の作品。屈原の作。題意は六十六種あるという。「離(わか)れの哀しみ」「別離の思い」「憂(うれ)えに罹(あ)う」等々。『離騒經』ともいう。本文は厖大な量なので、頭のみを掲げ、その雰囲気を味わうだけとする。

屈原:戦国時代の楚国の王族・屈姓の出身。嘗て楚の懐王に三閭大夫に任じられるが、やがて疎んじられ、頃襄王のとき、讒言のため、職を解かれた上、都を逐出されて各地を流浪した。その放浪の折り、多くの慷慨の詩篇辞賦を残した。 やがて、秦が楚の都郢を攻めた時、屈原は汨羅(現・湖南長沙の南方)に身を投げて自殺した。時に、前278年の五月五日で、端午の節句の供え物(粽)は、屈原を悼んでのものともいう…。『史記・巻八十四・屈原賈生列傳 第二十四』では「於是懷石遂自汨羅以死。」と記されている。

※漁父:漁師の意。 この作品は屈原と漁父の問答で構成され、二者の人生観、社会観の相違のおもしろさがよく伝わってくる。これは現代にも通じる課題で、極めて興
味深い詩篇である。作者のことを『楚辭章句』で王逸が「『漁父』者,屈原之所作也。屈原放逐,在江、湘之閒,憂愁歎吟,儀容變易。而漁父避世隱身,釣魚江濱,欣然自樂。時遇屈原川澤之域,怪而問之,遂相應答。楚人思念屈原,因敘其辭以相傳焉。」と述べて、屈原の原作としている。王逸は後漢の人物で、『楚辭章句』は現存では一番古いものになるため、これに信を置くしかない。しかし、内容を見れば、屈原と漁父それぞれを客観的に描写しており、些か屈原に対して批判的でもある。屈原が自嘲的に作ったとするには苦しく、彼自身の(原)作とするには、やはり疑問が残る。(後日記:)この件について、次のようなメールをいただいた。このページの右上に作者として「屈原」と記していたからである。「《漁父》一篇一般認爲並非屈原本人所做,從文中的語氣就可以看出來。不過要説是屈原所做,也不會非常不妥。」というご指摘を頂いた。
  なお『史記・巻八十四 屈原賈生列傳 第二十四』にも「漁父」は採録されているが、やや異なる。その注記に「『楚詞』では……」と『楚辭』との差異を示しているが、それも現在の、『楚辭』流布本とは異なっている。おもしろい。『史記』本文のものは、次の通り:(赤い字は、『楚辭』と異なるところ)
屈原
於江被發行吟澤畔。顏色憔悴,形容枯槁。漁父見而問之曰:「子非三閭大夫?何故?」屈原曰:「舉世混濁我獨淸,衆人皆醉我獨醒,是以見放。」漁父曰:「聖人,不凝滯於物而能與世推移。舉世混濁,何不。而揚其波?衆人皆醉,何不餔其糟而啜其?何故懷瑾握瑜自令放爲?」屈原曰:「吾聞之,新沐者必彈冠,新浴者必振衣,人又誰能以身之察察,受物之者乎!寧赴流而葬江魚腹中安能以皓皓之白而蒙世俗之温蠖乎!」
また、後半の部分は『孟子・離婁上』に出ており、それについて孔子と問答をしている。『孟子』の内容は次の通り:
「孟子曰:…有孺子歌曰:『滄浪之水淸兮,可以濯我纓。滄浪之水濁兮,可以濯我足。』孔子曰:『小子聽之。淸斯濯纓,濁斯濯足矣,自取之也。』…。」
このことからも分かるとおり、漁父の「滄浪之水淸兮…」の部分は『孟子』成立時には既に歌われていたことが分かる。この『楚辭』・漁父の辞賦は古歌に基づいて編輯されているのだろう。

※屈原既放:屈原は懐王より三閭大夫に任じられていたが、その子・頃襄王に政策が受け入れられてもらえず、讒言に遭い、職を解かれた上、都を逐出されたことを指す。

※游於江潭:川の淵をさすらう。 ・江潭:川の淵。川の水の深いふち。ここでは、長江の南、湖南省湘陰県境のふちで、(彼が身を投じた)汨羅附近を指す。 ・游=遊。

※行吟沼沢:沢のほとりを旅をしながら歌を作る。 ・行吟:旅をしながら歌を作る。 ・澤畔:沼沢のほとり。

※顏色憔悴:顔色や顔つきがやつれはて。 ・憔悴:〔せうすゐ;qiao2cui4○●〕やせおとろえる。やつれはてる。

※形容枯槁:身なりや容儀が痩せて色つやが無くなって。 ・形容:身なりや容儀。 ・枯槁:〔こかう;ku1gao3○●〕かれる。水気が無くなる。ひからびる。痩せて色つやが無くなる。痩せ衰える。

而問之曰:漁師は、彼(屈原)に出逢って、問いかけて言うには。 ・漁父:〔ぎょほ;yu2fu4○●〕漁師。老漁師。古くから、自主的にに入った→「仙」だけに限らず、樵、漁師などは、俗世間から離れているということで隠者に近い人々という風に見立てられて、尊重され、「-翁」、「-父」と尊敬を表す語尾が附くことがある。 ・見而問之曰:「見而問」見かけて…に訊く。「…問之曰:…」これ(彼)に訊くところでは、(以下……の如くである)、になる。

※子非三閭大夫與:あなたは高官の三閭大夫ではないのか。 ・子:あなた。 ・三閭大夫:〔さんりょたいふ;san3lu2(lu4)dai4fu1(0)○○●○〕楚の王族である屈、景、昭の三姓の王族を取り締まる官。 ・與:=歟。疑問、推測、反語を表す終助詞。語気の緩やかな場合に用いる。いぶかる気持ちを表す。…か。…や。

※何故至於斯:どうしてここにまで来たのか。 ・何故:どのような理由で。 ・至:いたる。 ・於斯:ここに。ここまでに。

※舉世皆濁我獨淸:世の中の人は、皆こぞって濁ってしまって、わたし一人が清らかであり。 ・舉世:世をあげて、世の中こぞって。世の中の人は皆。 ・濁:社会現象としての「濁世」。強きに媚びへつらうような情況が普通の姿である戦国の世の中。また屈原がそう感じられる情況をいう。・淸:屈原は世俗の流れに染まることが嫌で、筋を通したかったことをいう。 ・獨:ひとりで。…だけ。副詞になる。「一人」とは意味が似ている点も多いが、後者は人数を表す名詞。

※衆人皆醉我獨醒:多くの人々が皆酔ってしまったが、わたし一人だけさめている。

※是以見放:それだから、追放されたのだ。 ・是以:ここをもって。それで。そこで。蛇足だが、「以是」は「これをもって」で、意味がことなる。 ・見:…れる、…られる。…らる…せらる。受け身を表す。受動表現は、「見」の外には、よく「被」が使われる。「見」は、〔…という目で見られる→…の目に遭う。→受動〕。「被」は〔かぶる→こうむる→受動〕になる。「被…所」の「被」、「爲…所」等に近い。

※聖人不凝滯於物:立派な人物は、物事にこだわることなく。 ・凝滯:こだわる。とどこおる。ここは前者の意。

※而能與世推移:世の中の動きに合わせることができるものなのだ。 ・與世推移:世の中の動きに合わせる。

※世人皆濁,何不淈其泥而揚其波:世の中の人が皆、濁っているのならば、どうして(いっしょになって)泥を掻き混ぜて波をあげようとしないのか。世の中の人が皆、濁っているのならば、どうしていっしょになって調子を合わせてないのか。・「何不」どうして…しないのか。反語。 ・「何不淈其泥而揚其波?」「何不」(どうしてしないのか)は、「其泥而揚其波」(泥をかき回してその波をあげる)ことに係る。 ・:かきまぜる。にごらせる。にごす。後、この句から「淈泥揚波」の語が出来た。

※衆人皆醉,何不餔其糟而歠其釃:みんなが皆、酔っぱらっているのならば、どうしてその酒の粕を食べて、その粕を絞った酒の汁をすすろうとしないのか。みんなが皆、酔っぱらっているのならば、どうしていっしょになって調子を合わせて酔わないのか。 ・餔:喰う。食らう。 ・糟:酒の粕。 ・歠:すする。啜る。 ・釃:粕を絞った酒の汁。薄い酒。

※何故深思高舉,自令放爲:お高くとまって、自分から追放されるようなことをするのか。 ・深思高舉:深く考え、高くおこなう。立派な思考と立派な行為。ご立派で、お高くとまること。『史記』ではここの部分を「懷瑾握瑜」としている。「懷瑾握瑜」とは、瑾や瑜といった宝玉を抱くことで、美質をいだくことの喩え。 ・自令放爲:自分から追放されるようなことをするのか。 ・令:使役を表す。…しむ。 ・爲:疑問を表す助辞。…か。

※吾聞之:わたしは次のように聞いている。

※新沐者必彈冠:新たに頭を洗う者は、必ず冠(のチリ)をはじいて(払う)。 ・沐:頭髪を洗うこと。 ・彈:はじく。

※新浴者必振衣:新たに体を洗う者は、必ず衣服(のチリ)を振るって(払い落とす)。 ・浴:体を洗う。

※安能以身之察察:どうして潔白な身でもって。 ・安:いづくんぞ。なんぞ。反語 ・察察:明らかで清いさま。潔白。

※受物之者乎:穢れた者を受け入れられようか。  ・汶汶:〔もんもん;men2men2○○〕けがれ。よごれ。くらい。 ・乎:強い疑問、反語を表す終助詞。…か!

※寧赴湘流,葬於江魚之腹中。いっそのこと湘水の流れに身を投じて、川の魚(に喰われて)の腹の中に葬られるほうがよい。 ・寧:〔ねい;ning4●〕むしろ。…たほうがよい。蛇足になるが、「やすらか、おだやか、ねんごろである」の意は〔ねい;ning2○〕。ここは、前者の意。

※安能以皓皓之白,而蒙世俗之塵埃乎:どうして輝くばかりの純潔、純白(の身)をもって、世間のチリにけがされるようなことができようか。できない!

※漁父莞爾而笑:漁師はにっこりと笑って。 ・莞爾:ほほえむさま。

※鼓枻而去:(「滄浪」の歌に合わせて)かいをたたきながら去っていった。 ・鼓:拍子を取ってたたく。 ・枻:〔えい;yi4●〕かい。かじ。

※乃:すなわち。やがて。暫く時間がたってから、という感じを表す「すなわち」。「すなわち」には、「乃」、「即」や「則」「輒」「便」などあるが、それぞれ意味が異なる。

※滄浪之水淸兮,可以濯我纓,滄浪之水濁兮,可以濯我足:『孟子』にもある古歌。『孺子歌』とも謂われる。『孟子』に 「孟子曰:…有孺子歌曰」と述べた後、「滄浪之水淸兮,可以濯我纓。…」とあるのに因る。 ・滄浪:川の名。湖北省にある漢水の部分名称。なお、「滄浪」という固有名詞の場合の「浪」は
となるが、「なみ」という普通名詞の意味の場合にはになる。現代語では、前者固有名詞の場合でも去声になる。 ・可以:…もって…すべし。…したらいい。…することができる。息の長い語で、現代語でも可能を表す語として、動詞の前に附く。 ・濯:あらう。洗濯をする。 ・纓:冠のひも。ここでは、大切な物、の意で使われている。或いは、出仕の準備の表現ともとれる。 ・足:汚れたもの、汚れても構わないものの意、で使われている。或いは、塵世からの退隠ともとれる。

※遂去:ついに去っていった。

※不復與言:もう二度と話を交わすことは、なかった。 ・不復:二度とはない。一度きり。 ・與言:言葉を交わす。「與」は動詞、「言」は名詞或いは動詞で、前記の読み下し正文の「復(ま)た 與(とも)には言はず」では、「與」を介詞風の読みにしたので、必ずしも正確とはいい難い。





◎ 構成について

  『楚辭』のこの篇は、散文詩といえる。押韻はよく分からないが、大いなる推測で色分けをしておく。次の平仄はこの作品のもの。
は本来両韻で、ここの用法での所属不明のもの。

   ●○●●,
   ○○○○,○○●●
   ○●○●,○○○●。

   ○●●○●○●:
   “●○○○●○●?

   ○●●○●?”

   ●○●:
   ●●○●●●○,●○○●●●
   ●●●●。”

   ○●●:
   “●○●○●○●,○○●●○○。
   ●○○●,○●●○○○○○○?”
   ●○○●,○●○○○●○○?
   ○●○○○●,●●●●?”

   ●○●:
  “○○○:
   ○●●●○○,○●●●●○。
   ○○●○○●●,●●○○?
   ○●○○,●○○○○●○。
   ○○●●●○●,○●●●○○●○?”

   ○●○●●,●●○●。
   ●○●:
  “○○○●○○,●●●○○;
   ○○○●●○,●●●○●。”
   ●●,●●○。


屈原既放,
游於江

行吟澤

顏色憔悴,
形容枯槁。

漁父見而問之曰:
「子非三閭大夫與

何故至於斯

屈原曰:
「舉世皆濁我獨

衆人皆醉我獨

是以見
。」

漁父曰:
「聖人不凝滯於

而能與世推

世人皆

何不其泥而揚其

衆人皆醉,
何不餔其糟而

何故深思高舉,
自令放


屈原曰:
「吾聞

新沐者必彈冠,
新浴者必振

安能以身之察

受物之者乎

寧赴 湘流,
葬於江魚之腹中,

安能以皓皓之

而蒙世俗之塵埃乎


漁父莞爾而笑,
鼓枻而去。
乃歌曰:
「滄浪之水
兮,
可以濯我

滄浪之水
兮,
可以濯我
。」
遂去,
不復與言。

2003.2. 2
     2. 3
     2. 4
     2. 5
     2. 6完
     2. 8補
     3.29
    10.22
2007.7. 6
2013.7.10

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