癒着業 ー力関係で決まる取材先との関係ー
 入社後の研修では、「いかなる取材先からも利便供与を受けてはならない」と当たり前のことを教えられる。しかし、これがいかに言行不一致であるかは、記者の入社後の仕事場となる記者クラブを見ればわかる。何と、会社ぐるみ・業界ぐるみで利便供与(オフィスや事務員をタダで利用)を受けている。これは全く言い訳の仕様がない事実で、唖然とするしかない。もちろんそれだけに留まらない。記者クラブが主に行政や警察、巨大企業からの利便供与・癒着の温床だとすれば、それ以下の企業との個別の関係がどうなっているかと言えば、もっとえげつないのである。
 ある店頭公開企業の社長と会食した時のことだ。出席者は私と部長、相手方は社長ともう一人で、高級料理屋の個室だった。その会社は業績が急激に悪化していたので、日経にヘイコラして自社のPR記事を書いて貰いたいから、「是非一度」と言ってきたのである。その社長は会食中、部長に対して「局長、局長!」とあからさまなおべっかを使い、接待に徹していた。もちろん費用は、その会社の全額負担である。

 私はいつものように「少しは払うのがスジだと思うんですが」と部長に言ってはみたが、「それはいいんだ」と。なぜかと聞けば「この次の機会があったら、こっちが払えばいいんだ」。「この次」があるなどとは、出席者の誰一人として思っていない。これが都合の良い言い訳に過ぎないことは明らかだった。

 確かに「何でも折半」では、円滑な人間関係を築く上では好ましくないのは良くわかる。特に、社長と若手記者では、親と子供くらいの年齢差があり、こちらが払うなどと言ったら失礼かとさえ感じてしまう。しかし部長ともなれば、「かなりの額の交際費」(デスク談)が会社から支給されている。勿論、こうした機会で使うのが本来の目的で、ここで使わなかったら一体、どこで使うのか?と言いたくなるような場面だ。それなのに、払う素振りも見せない。その場がダメなら、後で書留で送ればいいだけのことだ。

 こうした接待は日常的で、記者個人が呼ばれることも多く、年末などは特に忙しい。私は上記のような実例を外部の知人等に伝えることは避け、上司との議論に徹していた。裁判との関係で言えば、一度だけ、公的企業との癒着について止むに止まれず書いたが、これは社内規定には反しない。権力との癒着=取材上の秘密、という定義は成立し得ないからだ。

 問題は、こういった明らかな取材先からの利便供与に対する日経の姿勢である。完全に力関係に流されているのである。こうした小・中規模企業からはさんざん接待を受けておきながら、力関係で上位に位置するキャリア官僚や大物政治家、巨大企業には、自ら進んで接待をする。本来は、力関係にかかわらず取材先と付かず離れずの関係を保ち、中立報道の担保とするのが当然なのだが、こうした実態を知ると、報道の中立性など、どこにも存在しないことがよくわかる。すべては力関係なのだ。権力に対峙するとか、中立な立場で報道するといった姿勢はなく、単なる民間の利益追及企業の一つに成り下がっているのである。


本当の“悪”

 こうした、世間的に通用しない倫理観に疑問を呈する私に対して、上司の反応は、いつも絶望的だった。「おまえの言っていることはわかるが、実際の取材というのは、なかなかスジ論が通用しないもので…」と言われるのなら、わかる。世の中、一筋縄ではいかないことくらい、わかっている。しかし、全く違うのである。逆なのだ。「おまえは一体、何を言っているんだ。日経のやり方に何も問題なんかないんだ。おまえは若いんだから、上司の命令に従っていればいいんだ」というのである。これは私が記者クラブや編集方針、取材方法、記者教育などあらゆる問題について疑問を挟む時に、再三に渡ってデスクや部長から聞いたセリフだ。研修時の編集局長でさえ、そうだった(これについては、後に感想を書いた)。きれいに洗脳されてしまっていて、もはや正論や理想論は全く入り込む余地がないのである。私は、世の中に本当の「悪」というものが存在するとしたら、このことを言うのではないかと感じ、どうしても納得する訳にはいかなかった。

 「おまえ、誰から給料貰っていると思っているんだ!会社の方針に従うのが当り前だろうが。もっと大人になれ!」とデスクに怒鳴られたこともある。私は、日経が定義するような汚い「大人」になるくらいなら、子供のままでいた方がいいと強く思った。「裸の王様」そのものの新聞社に、「王様は裸だ!」とはっきり言ってやったほうがよほど健全だし、社会のためになる。だから、自分の意見を述べることだけは続けなければならないと思い、実行したのである。

 自分と会社とのあまりのギャップに悩んでいた当時、同期の記者が「平気で嘘をつく人たち」という本を薦めてくれた。私はこの本を読み、我が意を得たり、と思ったものだ。「自分自身を照らし出す光や自身の良心の声から永久に逃れ続けようとするこの種の人間は、人間のなかでも最もおびえている人間である。彼らは、真の恐怖のなかに人生を送っている。彼らを地獄に送り込む必要はない。すでに彼らは地獄にいるからである。・・・本書がその命題のひとつとしていることは、邪悪性を精神病の一形態として規定できないか、これを、すくなくともほかの大きな精神病に向けられていると同程度の科学的研究の対象にすべきでないか、ということである」(スコット・ペック著)。この本がベストセラーとなったのは、日本社会のあらゆるところにこの種の病巣が広がっていることの反映であろう。

 そんな訳で、私は入社2年目には、会社を辞めようと思っていた。ただ、唯一の問題は、直属の部長やデスクたちが、「特殊な人物」なのではないかということだった。転職関連の本を読むと「人間関係だけで辞めるべきでない」と必ずと言って良いほど書いてある。たまたまの巡り合せかも知れないから、私もその通りと思い、我慢していた。だが、その疑念はある日、きれいに晴れた。その部長は、同年次で最初に部長になった人で、いわゆるラインの出世頭だということを知ったのである。人事(とその基となる評価指標)は、その会社の根幹を為し、何よりも明白にその会社の本質を表す。私利私欲や企業利益追求のためなら、世間に説明できないことでもどうどうとやるのが、この新聞社の本質なのだ、ということを、この時、身に染みて感じたのである。

 私はこうして、この会社が日本を支配する歪んだ権力構造(=巨悪)の一端を為しているのは間違いない、と結論付けるに至った。

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