映画のページ

パッション /
The Passion of the Christ /
Die Passion Christi

Mel Gibson

2004 USA 127 Min. 劇映画

出演者

James Caviezel
(イエス)

Andrea Ivan Refuto
(イエス - 子供時代)

Maia Morgenstern
(マリア)

Monica Bellucci
(マグダラのマリア)

Claudia Gerini
(Claudia Procles - カイファの妻)

Mattia Sbragia
(Caiphas - カイファ)

Rosalinda Celentano (悪魔)

Luca Lionello
(イスカリオテのユダ - 弟子)

Hristo Jivkov
(ヨハネ - 弟子)

Francesco De Vito
(ぺテロ - 弟子)

Hristo Shopov
(Pontius Pilate - ローマ帝国ユダヤ総督)

Luca De Dominicis
(ヘロデ)

見た時期:2004年3月

ドイツではもめました。この作品を見るのを止めるようにというメッセージがユダヤ系の団体とキリスト教会の両方から出されました。ドイツには他の国より複雑な事情があるため、議論も複雑になるとは予想していましたが、それを飛び越えて見るのを止めてしまえという指示が出るとは思いませんでした。却ってその方が後に禍根を残すのではないかと思います。

たたみ込むように起きた次の出来事でまた考え込んでしまいました。年に1度か2度会う映画の知り合いに見ない方がいいと言われたのです。公開の2日ほど後です。この人は普段は時間があれば色々な映画でも見る人で、映画ファンと言えます。私は目が小数点になる寸前でしたが、聞いてみると、本人はまだ見ていないのです。争いたくなかったのであまり深く突っ込みませんでしたが、映画ファンとしては見ないでこういう事を言うのはちょっと道を外れているように思います。

実はこの話の時私はもう見ていたのです。例によってタダ券が当たったのでいつものように出掛けて行きました。相手が私人でなく雑誌社や新聞社でも、せっかくの好意を無駄にしては行けないので、私はたとえどんなに評判が悪くても、ラジー賞候補だと言われても時間が許せば当たった券を使って見に行きます。見ないで批判というのはまずい。アルジェントでも招待でしたら見に行きます。

私が見た日はどうやら公開初日だったようです。映画館がやや引っ込んだ場所にあったせいなのか、教会などのお達しのせいなのか分かりませんが、客席はガラガラ。同じくタダ券で来たらしい2人連れが何組か座っていたほかはゼロに限 りなく近かったです。私は宗教問題の作品という風に考えず、ロード・オブ・ザ・リング同様長い本を読まずに済ませることができるといういいかげんな考えで喜んでいました。

聖書はいずれちゃんと読まなければ行けないと思ってはいるのですが、何しろ長い。2冊もある。文学の大作と見なすこともできる大掛かりな書物なので、気合を入れて全部読むとなると一生かかりそうです。ギブソンが原本として使ったのはギリシャ語が現存している新約聖書。これの元になるはずの本は残っていません。その上ネストレアラント版とかタスカ版とかあり、本来は比べなければ行けないのです。かなり大仕事になりそうなのでためらっているのです。ドイツで読んだことがあるのは古いドイツ語に訳されたものと、ギリシャ語からゴート語に訳されたもののごく1部。ドイツ人はギリシャ語からラテン語になり、そこからマルチン・ルッターのドイツ語版を経由したものを現代のドイツ語で読んだという人が多いです。ルッターという人は一般の人には宗教改革をやりプロテスタント派の元になったことで有名ですが、別な方面の人たちからは現代のドイツ共通語の基礎を作った人として、言語学者扱いで尊敬されています。私も行きがかり上長い間そちらに首を突っ込んでいたので、ルッターという人無しにドイツ語を語ることはできません。カソリック教会は長い間ラテン語のままでしたが、ルッターが聖書をドイツ人に分かり易いドイツ語に訳したため、普通の人でも読めるようになり、解釈の相違からカソリック教会と袂を別つことになりました。

旧約聖書はユダヤ教とキリスト教が共通して使っているもので、2つの宗教はその後別々の道を行ってしまいます。2つの宗教を兄弟喧嘩のように見る人がいるのはそのせいです。メル・ギブソンはパッションの中では扱っていません。旧約聖書は人間味あるエピソードが多く、キションというドイツで有名な人などはオリジナルをヘブライ語で読んだ方がずっと楽しいと言い、ニタリと笑ったそうです。他の国の言葉に訳される途中で、人間味あふれる部分が失われてしまっているとか。ヘブライ語はそう簡単な言語ではないので、彼の見つけた楽しみを共有できる人はドイツにはそうそういないです。やはり聖書と聞くとまじめな書物と思ってしまいます。

新約聖書はキリスト教徒が独自に編んだもので、メル・ギブソンは新約聖書の福音書をベースにしています。本人曰く福音書を心から信じているのだそうです。不勉強な私はキリストが死ぬ時3人一緒だったとか、中の1人は彼に敵意、もう1人は尊敬を示したとか、十字架を丘に運ぶ時に誰かが助けたぐらいのことしか覚えていませんでした。ですからたったの12時間分の物語を120分程度にまとめたものでも、こういう風に絵で見せてもらえれば、ああ、なるほどこうだったのかと早分かりできるわけです。しかし福音書を丸ごと信じると歴史家から足を掬われます。ご注意を。

聖書で生まれ、聖書で死ぬ欧米人にはこんなのんきな考え方は通用しないです。なにせ、赤ん坊が生まれたらもう洗礼。少年になったら元服(とは言わないか)。かみさんめとる時は婚儀。そして死ぬ時は葬儀(西洋ではその後が続かず、おぼん、三回忌、七回忌、三十三回忌というのは聞きません。ちょっとさびしい)。ドイツではその上教会税まで払っている人が多いです。生活に密着しているので、距離を置いて見よう・・・などと言う方が無茶。

話が聖書に集中し過ぎました。元に戻しましょう。個人的な感想を言えば、2度は見ないだろうけれど1度見て良かったです。私の関心は本を読むのを端折るという事のほかに、しゃべっているアラム語とラテン語を聞いてみたかったという点に集中していました。重点はこちらの方が重いです。ラテン語をしゃべっているのを聞いたのは、処刑人Vaya con dios ぐらい。ラテン語で2人以上の人間が会話をするのを見たのはこれっきり。宗教映画で司祭が何か唱えているというのはどこかで見たことがありますが、言語のメロディーに気を取られてさっぱり意味が分かりませんでした。

パッションの始めのシーンはアラム語でした。さすがに欧州系の言葉でなかったためお手上げ。居眠りしてしまいました。アラビア語がちょっと分かる知り合いは数語アラビア語と共通の単語があったと言っていました。この人はアラビア語が流暢にしゃべれるわけではないのですが、もしアラビア人がこの映画を見ればもっとたくさん共通の単語が見つかるかも知れません。アラビア語特有の喉の奥から出る強い発音は聞こえず、現代のヘブライ語で聞かれる喉のやや奥の方から出るアラビア語よりは弱い「ハ」という音も目立ちません。アラビア語、ヘブライ語、アラム語は系統は同じで異なる言語です。アラム語はキリストが生きていた頃すでに1000年の歴史を持ち、今日も生きている言語。イスラエル人は現在ヘブライ語を話していますが、当時は徐々にユダヤ人のしゃべる言葉もアラム語に変わりつつありました。旧約聖書の大部分はヘブライ語で描かれていますが、話し言葉はアラム語にバトンタッチしたため日常しゃべる人がいなくなり、その後人工的にビンテージされた言語になり、イスラエル建国でまた大勢の人がしゃべるようになったそうです。

前半の途中で突然話が分かるようになり、びっくりして目を覚ますと、ローマ人がアステリックスの登場人物のような鎧兜で立っています。ははあ、ということはこの男たちラテン語をしゃべっているんだなと推測。動詞が過去形なのか、否定形なのかなど詳しいことは分かりませんでしたが、聞いたことのある単語に尾を付けたような言葉がどんどん耳に飛び込んで来るようになりました。ドイツの語字幕がついていて、ドイツ語は長いから読むのが大変だと覚悟して出かけて行ったのですが、上映中俳優がしゃべるテキストはかなり少なく、翻訳もかなりコンパクトにまとめてあったので、筋は大体は分かります。そこで見るドイツ語の単語と耳で聞くラテン語の語幹の辻褄がちょくちょく合うのです。オーディオ、ビデオ、トランスポートなど現在でもラテン語系の言葉はたくさん使われています。ですから聞いたことがあると感じるのも当然。

登場した俳優の中で顔も名前も知っていたのはベルッチ一人。キリストを演じたジム・カヴィーゼルは知りませんでした。The Thin Red Line はまだ見ていないのです。頭文字がキリストと同じ JC だというのは、メル・キブソンに指摘されるまで気づきませんでしたが、驚いたのはカヴィーゼルの体格がすこぶる良く、肉付きも良かった点。私はいくつか絵画を見て、キリストは痩せた人だと思い込んでいたのです。しかしよく考えて見ると、わりと裕福な家のまだ40才にもならない青年です。これまで色々絵で見たり、話に聞いたりしていたのと違うなあという印象ですが、それだけでもギブソンが力を入れ、できるだけ聖書に近い形で映画化しただけのことはあります。法王が何を言ったか、言わなかったかで暫くガタゴトしましたが、結局、福音書に描いてある事をかなり忠実に映像化したという点は皆が認めています。

狂信的とも映るユダヤ人の長老たちの裁判での態度。無茶苦茶強引に死刑に持ち込むのですが、一体なぜイエスとユダヤ人長老がここまで対立したかは映画では詳しく描かれていません。外国人の私にはさっぱり分かりませんでした。映画を見終わって、権威を重んじるユダヤ教の長老たちに比べイエスはリベラル過ぎたのではないかと想像しています。

日本にキリスト教が来た時も最初は殿様からお墨付きを貰っていたりして、あっという間に民衆の間に広がりましたが、その後厳しく弾圧を受けています。日本の場合は当時の封建社会にとって民主的過ぎたというのが結論でしょう。年が経つとカソリックの方が古くなってそれに対抗するもっとリベラルな人たちが現われますが、古い権威は自らオーバーホールしないと新しい人たちが現われて、取って代わられる運命。この時代にはユダヤ教の方が古く、キリスト教は新参者だったのでこういう対立になったのでしょう。

パッションではたまたまユダヤ教が狂信的に描かれていますが、宗教に狂信的になるのはいつの時代、どの宗教でも危険度は同じ。宗教を人間にある程度の道筋を与え、人殺し、強奪などといった事をしないように戒める、言わば人間が気持ち良く生きて行くためのルールと捉えると、狂信的になって他の宗教を信じる人を締め出したり、殺したりしてしまってはその宗教の神の方針にも反してしまいます。最近はその辺をゆっくり考えない人が出たりして世の中に混乱が起きています。アジアの宗教はその辺わりとゆったりした考え方のものが多いです。多神教だと神にもがさつなのや、図々しいのなど色々あるのだという風になりますし、仏教のように仏という存在を1つの狭いイメージに絞ってしまわず「善行を重ねればあなたも仏になれる!」というキャッチフレーズでオープンなイメージにしておくなど、わりと大らかです。宗教戦争なんて中世の時代の話だと思っていた私は、最近の世界の動きに正直言って非常に戸惑っています。

パッションは政治、宗教的に論議が生まれることを最初から予定して作ったような作品ですから、国によっては見ない方がいいと上の方が言い出すこともあり得るでしょう。私は原則として禁止にしてしまわず、見てから良し悪しを判断するべきだという考え方。ですからタダ券が貰えたので早速行きました。しかし私でもこの作品は小学校を出る前の子供、あるいは中学ぐらいの子供には見せない方がいいかと思いました。ある程度育って、世の中には色々な事があるのだと知ってから見ても遅くありません。

信心深い人からは自分がこれまで信じていた聖書の解釈とメル・ギブソンの示した福音書に密着した解釈に差が出て、ショックを受ける人が出るかも知れません。日本はキリスト教人口が少ないので社会問題になったりはしないでしょうが、欧米のキリスト教系の国で日本より大きな問題になるのは仕方ありません。不思議なのは私の耳に聞こえて来る摩擦はアメリカとドイツだけという点。欧州にはイタリア、フランス、ベルギー、スペイン、ポルトガルなどもっともめそうな国が揃っているのです。ですが見ない方がいいと言ったのはドイツだけ。私の耳に入っていないだけのことかも知れませんが。

自分が信じている宗教の映画を私財を投げ打って撮るという試みでは監督が何をやってもスポンサーからのクレームというのは出ないでしょう。どうやら観客動員数はなかなかの成績で、ギブソンは元が取れそうですが、仮にフロップになってしまっても、プロデューサーから文句を言われることは無いでしょう。構想12年で、ギブソンが2004年に世界がどうなっているかを予想できたとは思えません。2003年にドイツでイスラエルのパレスティナ政策やアメリカのイラク 政策に反対する人が大勢出るとはほとんどオーストラリア人と言っていいギブソンには予想できなかったでしょう。911事件が起きておらず、イラク攻撃が行なわれていない中での公開ですと、議論の趣旨もがらっと違ったでしょう。興行収入は公開時わりと良い成績でしたが、イースターに入って1度落ちたランクがまた上昇したそうです。上にも書きましたが、暴力が過ぎるとか、1つの宗教に考え方が偏っているとか、気に入らない部分があれば文句たらたら言うのは構いません。ただ、見ないで他の人に「見ない方がいいよ」と勧める人の気持ちは理解できませんでした。

参考作品: クンドゥンアレックス殺し屋 1マトリックス(3本)

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