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2005 Ch/HK/J/Korea 103 Min. 劇映画
出演者
張柏芝/Cecilia Cheung
(傾城 / Qingcheng - 皇帝の妾)(香港)
張東健/Jang Dong-Kun
(昆侖 / Kunlun - 奴隸)(ソウル)
真田広之
(光明 / Guangming - 將軍)(東京)
謝霆鋒/Nicholas Tse
(無歓 / Wuhuan - 謀反を企む公爵)(香港)
劉燁/Liu Ye
(鬼狼 - 公爵の刺客)(吉林省)
陳紅/Chen Hong
(満神 / Manshen - 女神)(江西省)
Qian Cheng
(皇帝)
見た時期:2006年4月
ご覧のように(東)アジア集結というキャッチフレーズが当たっています。準備期間10年、中国で記録破りの予算(推定35億円)を取り、アジアのスター集結の超大作と聞いたので期待していました。特に監督がさらば、わが愛 覇王別姫の陳凱歌というので絶対に劇場で見ないとだめだと思っていました。結果は失望。さらば、わが愛 覇王別姫の中身が濃かったので、陳凱歌がキリング・ミー・ソフトリーでこけたのはハリウッドに行ったのが原因、出せる実力がシステムでがんじがらめになって出せなかったのだ、と解釈していました。ですから国へ戻って最大級の予算をもらい、アジアのスターを動員すればさらば、わが愛 覇王別姫のような作品が作れるだろうと思っていたのです。テーマがファンタジーだとしても人間の運命、長い年月を扱うのだから彼だったら・・・と期待が高まっていました。
見せられたのはどこにお金が消えたのかよく分からない、中途半端な特殊効果を使った時代劇メルヘン。神や超能力が登場するため、一種のメルヘンと解釈するべきだとは思っていたのですが、あまりにもお粗末で、がっかりして帰って来ました。これ春のファンタ初日の最終回の上映だったのです。
今年の春のファンタは6本で、当初は全部見る予定にしていました。去年は用ができてやむなく不参加だったのですが、今年は時間的な制限も無く、見たい映画があるかとじっくりパンフレットを勉強したのです。
その結果最初6本のうち少なくとも4本は見ようと思いました。似たような話が重なっているのと、日本のデス・トランスに食指が動かなかったため2本減ってしまいました。デス・トランスは監督が来ていたようですが。ホステルには映画雑誌の解説などを読んでいるうちにビビってしまいました。以前だったらポップコーンを食べながら見ていられたような残酷シーンが続出なのだそうですが、ここ数年現実の方が映画よりずっとホラーになっていて、実際にひどい目に遭った人がいるという話が報道されるにつれ(ドイツでは以前からシビアな事件の写真が普通の雑誌に載ったりしました)、徐々に映画が遊びに思えなくなって来たのです。自分が年を取ったのが行けないと諦めていました。
ところが驚いたことに10歳以上若いハードコアのファンタ仲間にも同じ事を考えた人が出たらしいのです。仲間が他の都市で一足先にファンタに参加したのですが、やはりホステルを見るのを止めたと連絡が入りました。ベルリンの仲間も不参加に決めたようです。おそらく仲間の中では私が最年長で、他の人はまだ30代の人もいるのではないかと思うのですが。私は去年自分が重傷を負っただけでなく、仲間の1人を失っているので、まだ怪我や重病のシーンをエンターテイメントとして見られるほど肝が据わっていません。その上年を取って来たので、まあ今年は弱気の年と決めていました。しかしまさか若い衆にも脱落者が出るとは思っていませんでした。入場者の数は一昨年の春のファンタに比べ少なかったのも目につきました。
無極の観客は比較的大きな会場の3分の2程度でしょうか。夏のファンタの大きいホールよりは小さいですが、小さい方のホールよりはずっと大きいです。深夜の上映だったので、来場者はそれほど少ないとは言えません。東洋人は少なく、アジア人が上映を聞きつけて大挙して飛んで来たという様子はありませんでした。
神経に響く拷問シーンなどが無い映画だろうと当たりをつけていたので、気持ちは楽でしたが、監督に対する期待は高過ぎたようです。
以前見た日本人が出ている外国映画で、日本人がよくやったと思えたのは全職殺手。私はこれで劉徳華がすっかり好きになってしまったので、無間道で主演になった時は我が事のように喜んだものです。全職殺手に一緒に出ていた反町隆史は全然見劣りしませんでした。その上2人とも外国語を一生懸命勉強したらしく、好感を持ちました。その他の作品では日本人が悪役だったり、あまり気合の入った演技でなかったりして、あまり感心しませんでした。ラスト・サムライはまだ見るに至っていません。
私は井上さんに比べアジアの作品を見る機会が少ないので、知識もあまりありません。その数少ない作品の中で無極の真田広之は良くやっていたと思います。主演に当たる人物は3人。王妃を演じる女性と王妃を助けた奴隷、王妃が助けてもらったと思い込んでいる将軍で、真田広之は将軍を演じています。台詞はかなり多く、どうやら北京標準語をしゃべっているようです。吹き替えでないとしたら大変な作業だと思います。似て非なる漢語の発音をきれいに忘れて本当の中国語に取り組まなければならないのです。それは韓国語を母国語にしている人も同じ。さらには香港の発音から北京の発音に切り換えなければならない人達はもしかしたらもっと大変だったかも知れません。100歩譲って仮に吹き替えだったとしても、口の動きは自然で、違和感を感じず、出ているのは皆中国人だと思えてしまいます。
語学の障壁を感じさせず真田広之は微妙な立場の将軍を説得力ある演技でこなしています。ジーン・ハックマンと比べるのは行き過ぎかも知れませんが心理的にはちょっとアンダー・サスピションのハックマンと似たような要素があります。自分に弱みがある男が女を愛してしまい、そのために処刑されるのも我慢という立場に立ってしまうのです。
★ ストーリー
子供の頃戦争で荒れ果てた地に取り残された孤児が、生きるためには何でもする決意をします。監督の奥方の女神が彼女に「愛さえ諦める決心なら、それ以外の富、名声、地位、何でも手に入るようにしてあげる」と言います。約束通り成人した時彼女は皇帝の妾。豊かな生活、男なら誰でも振り向く美貌を手にします。
本人は富や名声である程度満足していたので、最初は上手く行っていました。ところが愛人の皇帝に謀反を起こした公爵がいて、男たちの権力争いの中で命を失いそうになり、その時助けてくれた男に惹かれるようになります。その人物は実際には将軍の奴隷でしたが、たまたまその時将軍の鎧兜を身につけていたので、将軍だと思われてしまいます。その時の争いで死んだ皇帝を殺したのは奴隷だったのですが、鎧兜のために犯人は将軍だと思われてしまいます。将軍はその時実は重症を負って他の場所に隠れていました。
将軍は権力を全て失い、皇帝の妾だった傾城と暮らし始めます。城が傾くという名前は意味深であります。奴隷の昆侖は傾城が好きなのですが、分をわきまえて黙っています。将軍は傾城が誤解していることを承知しながら自分の幸運を味わっています。昆侖は主人がいないと自分の存在を見失ってしまう男で、光明将軍が幸せに生き長らえば自分も存在理由ができて満足。身分の高い人の愛人を取ってしまおうなどとは考えません。
権力構造が変わり、将軍は現実世界に呼び戻されます。将軍を皇帝の暗殺者として狙っている刺客鬼狼がおり、傾城を捕らえようとする無歓がおり、捕らえられた将軍には皇帝暗殺者として処刑が目の前に迫って来ます。かつては戦いを恐れなかった将軍ですが、今は判決が出る日に裁判所でもう1度傾城を見られることで満足する男になっています。
残酷な公爵から下った使命を黙々と実行していた刺客の鬼狼は、戦いで昆侖を殺そうとしたその瞬間昆侖が同郷の男であることを悟り、殺すのを止めます。2人の出身地はよそから来た支配者にめちゃくちゃにされ、多くの人が死んでいるのです。
後半の後ろ半分あたりで鎧兜の誤解は解けますが、運命の波にもまれて・・・という筋運びになり、悲劇が待っているわけです。最後の方で残酷な公爵の正体がばれますが、辻褄の合わせ過ぎで、ストーリがきしみます。無歓という名前がまた意味深。その上最後にまたプロデューサーでもある監督の奥方の女神が出て来て「あれ、無かったことにしよう」という話になってしまうので唖然。
この女神が孫悟空の老子のようないい加減なキャラクターですと仕方ありませんが、無極に出て来る女神はあくまでもマジ。オトシマイがいささか強引です。これでゴールデン・グローブのノミネートを勝ち取ったのは、ストーリーが理解できなかったからに違いありません。分からない時には崇高な話だ、何か凄い事が隠されているんだと誤解が生まれやすいですからね。
この作品の最大の弱点はキャスティング。張柏芝は現代の作品に出ると欠点は見えません。井上さんはあまりもろ手を上げて支持していませんが、旺角黒夜などは売春婦なのに最後には気品すら感じられて私は彼女は良くやったと感じていました。その同じ人が今度は皇帝の妾、後の将軍の愛人の役なのに気品が感じられないのです。そして現代的過ぎるのです。メイクや髪型が行けないのかも知れませんし、体の動きのせいかも知れません。時代が古い上、半分は御伽噺なので、奥ゆかしい竜宮城の乙姫様のような動きをしなければ行けないと思うのです。
俳優は誰を取っても使い方が上手ければ良さが出そうな人たち。しかしイメージに合わない役をもらったり、時代背景、あるいは御伽噺というスタイルを良く考えずに割りふりすると、せっかくの人材も上手く生きません。御伽噺にする場合でも焦点をどういう風にするか良く考えないと失敗します。衣装、メイクによって観客の持つイメージががらっと変わってしまいます。例えば織田信長の時代を描くストーリーでも、妖怪が出て来るアクション・ファンタジーと割り切り、当時のファッションを無視するのならそれはそれでいいと思います。しかしそれでしたら全体をその路線で統一しないとだめです。
陳凱歌はおそらく統一したつもりでいたのでしょう。季節を示す花の色がどぎつかったりするのもそのためでしょう。しかし木からハラハラと落ちる花びらの色がきつく、欧州かと思わせる平原のお花畑の色が淡く欧州風だったりします。時代を無視するファッション、セット、ロケ地であっても、1本の映画全体の調和は必要です。室内のセットにもシルク・スクリーンのような物が出て来たり、金の鳥篭ということで大きな金の牢獄が出て来たりするのですが、何かを暗示しているつもりで、十分な意図が伝わって来なかったりし、そこに妙に現代的なデザインが盛り込んであったりするので、私は笑いそうになりました。これはキリング・ミー・ソフトリーでも見られた暗示の不発弾で、あちらではサドマゾを暗示しているつもりだったようなのですが、失笑を買う結果になっていました。外国を意識せず、自国民だけを対象にした作品を作った方が却って、外国に出した時にも賛同を得られたのでは無いかという気がします。
特殊効果の使い方が上手い監督は最近増えていて、新しいところではキングコングに出て来た恐竜シーンが思い出されます。陳凱歌も大勢の兵士、水牛の暴走シーンなどで使っていますが、これも上手く行っていません。ちゃちで安物に映ってしまうのです。
さらば、わが愛 覇王別姫を見た時は、世界の黒澤が抜かれたと思ったものです。それに比べ、キリング・ミー・ソフトリーと無極はおよそ彼の実力からかけ離れた出来です。プロットだけを見ると人生のボタンを掛け違えた将軍(日本)、韋駄天走りの奴隷(韓国)、暗い過去を背負った鬼狼(中国)の3人は演技でかなり深みが出せる役ですし、妙なファッションを止めれば、残酷な無歓(香港)もまじめに受け取れ、演技で勝負できる役にすることができます。それをなぜああいう中途半端な失笑を買う仕上げにしたのか、監督の方針が良く分かりませんでした。
中国で中国人だけのために作る映画にシンボリズムをたくさん取り入れるのはいいかも知れません。同じ考え方の人たちを相手にするのですから、1つ暗示するだけで10の巾を持った意味が伝わるでしょう。囚われの身の女性の首にどういう縄、紐がかけられているのか、それで何を言いたかったのかを分かってくれる人がたくさんいるでしょう。しかしその限界は中国語圏。日本、韓国にまでその意味が伝わるかは未知数です。北野武の Dolls にも服装や自然の描写で各種の象徴的なシーンが使われていましたが、彼はこの映画を撮るにあたって、自分のお金を使い、国の税金は使っていない様子。制作国は日本一国で、外国のコンテストに出したとしても取り敢えず対象としているのは日本人。その場合は外国人が日本の文化を勉強しなければ行けません。しかし数カ国の共同制作ですと、その範囲の人に意味が伝わるような配慮が必要です。映画だけでなく、何事でもそうですが、対象をきっちり絞ってかかると分かりやすい作品が生まれます。その点、無極は焦点が絞られておらず、エンターテイメントとしても徹底していません。
さらば、わが愛 覇王別姫を見た時、私はまだ京劇はほとんど知らず、なるほど、こんな訓練をし、歌舞伎と同じぐらい専門的な俳優が演じているのだと感心したものです。そういう風に外国人にも興味を起こさせる力のある作品でした。ですから、無極も本格中国風で通して、外国人には中国のメルヘンはこういう風に表現するのだというところを見せても良かったのではないかと思うのです。その方が監督の実力も出たのではないか、そんな気がします。彼の作品でまだ見ていないものの1つに評判の始皇帝暗殺があり、その話を聞くと、彼は中国的で大掛かりな作品では成功しそうに思えるのです。いずれ見てみたいと思っています。
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