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ゾンビーノ / Fido

Andrew Currie

2006 Kanada 91 Min. 劇映画

出演者

Carrie-Anne Moss
(Helen Robinson - 専業主婦)

Dylan Baker
(Bill Robinson - ヘレンの夫)

K'Sun Ray
(Timmy Robinson - ヘレンとビルの息子)

Billy Connolly
(Fido - ロビンソン家の奴隷ゾンビ)

Tim Blake Nelson (Theopolis)

Sonja Bennett (Tammy)

Henry Czerny (Bottoms)

Jennifer Clement
(Dee Dee Bottoms)

Alexia Fast (Cindy Bottoms)

Rob LaBelle (Frank Murphy)

Aaron Brown (Roy Fraser)

Brandon Olds Stan Fraser

Barbara Moss (ヘレンの母親)

見た時期:2007年8月

2007年ファンタ参加作品

俳優が役を正しく理解してきっちり演じたため不快な映画ができてしまったという皮肉な作品です。思い出すと参考になりそうなのはスッテップフォード・ワイフ。小市民的な町はああいう感じで描かれています。

ニコール・キッドマン的な中心人物はマトリックスのキャリ・アン・モス。スッテップフォード・ワイフのような妙なロボットは出て来ず、代わりに登場するのは人に飼い慣らされたゾンビ。ストーリーにはきっちりした方向があり、言いたい事も良く分かります。社会の疑問を投げかけて来ます。

コメディー仕立てで、重要な問題をマイルドに持ち込もうという努力も分かります。ところが俳優、特にキャリー・アン・モスが頑張り過ぎて、不快なニュアンスをボーンと持ち込んで来ます。胃に来ます。扱うテーマが快くないのでそれは仕方ありませんが、ゾンビーノを家族で楽しめるコメディーだと思って見に来る人が多いのではないかと思い、そう言う意味では後味が悪くなるのではないかと思います。

どういう話かと言うと、1940年代や50年代のアメリカを思わせるような社会。実は人類は28日後を思わせるような熾烈なゾンビとの戦いにかろうじて勝ち、平和を取り戻したところ。数多い生き残り(あるいは死にそこない)ゾンビは首に鉄の輪をはめられ、三キの仕事を引き受ける下僕と化しています。ゾンビが逆らうとこの首輪の装置が働き、抵抗を封じる仕掛です。

ゾンビを使う人間はゾンビに対して人間的な感情は抱いておらず、使用人、それも解放前のアメリカの奴隷のような気持ちで接しています。ご主人様たちは面倒な家事や庭の芝刈りを自分でやる必要は無く、中にはダッチワイフ的な使い方をしているらしきおじさんもいます。

そんな町の中で一家族だけゾンビを持っていません。それがロビンソン家で、専業主婦ヘレンは不満です。しかし夫のビルは反対。この一家も近所の家族もスッテップフォードのような完璧な家族を演じています。ですから自分の家にゾンビがいないというのはヘレンに取っては絶え難い差。それである日強引に男性ゾンビを調達してしまいます。

ビルはそれを見て反対。今にも「返して来い」と言い出しかねない様子ですが、きっぱりと決心したヘレンは隙を見せません。息子のティミーもゾンビにフィドと名前をつけてかわいがり始めます。

問題は名前をつけたところから始まります。この社会にははっきりした差別があって、ゾンビを人間扱いしては行けないのが不文律。ところがロビンソン一家ではフィドを下僕以上人間以下の比較的優しい扱いをします。

人間扱いが行けないのはゾンビが安全な存在ではないから。首輪を外し自由に動き回らせると噛みつき、噛みつかれた人は以前のゾンビ戦争中と同じく自分もゾンビと化してしまうのです。それで社会はゾンビに対してきっぱりとした差別をしていました。それをロビンソン一家は曖昧にしてしまい、まもなく問題が発生します。

徐々にティミーになついていたフィドが近所の人を襲ってしまったのです。その上ティミーが苛めに遭った時、ゾンビはティミーに良かれと思って犯人の少年も襲います。それを隠す必要が生じ、事件に気付いたヘレンとティミーはフィド擁護派になります。しかしフィドにやられた近所の人と少年はゾンビになって行き、せっかく終戦を迎えたゾンビ戦争がまた始まりそうになります。万一戦争が再発すると国中が巻き込まれます。

結局話は丸く収まるのですが、その収まり方が嫌味な感じを強く残します。社会を風刺した脚本を書いたつもりだったのでしょうが、その辺の風刺とかなり違い、言いたい事を不快な後味にしたまま終わります。このあたりの扱いは Black Sheep の方が勝っています。そして自分なりに出来事に決着をつけたキャリー・アン・モスの様子も感じのいいものではありません。彼女はこの役をそういう風に《非常に正しく》理解し、《非常に正しく》演じています。ですから脚本の意図した通りの《非常に嫌な》印象を残して終わります。

何が私の気に障ったかと言うと、ゾンビと人間の格差の表現。そして明らかに自分の下に来るべきゾンビを甘やかすとこういうトラブルが起きるんだぞというメッセージ。最後は自分の意に逆らう夫よりも命令に従うゾンビの方がいいという選択。こんなメッセージが通ったのでは私たち有色人種は社会のどこに組み込まれるのかと心配になります。こんなメッセージが通ったのでは私たち貧困層は社会のどこに組み込まれるのかと心配になります。こんなメッセージが通ったのでは間もなく現役を退く私たち準老人層は社会のどこに組み込まれるのかと心配になります。そういったいくつもの要素を白人中産階級戦勝側の立場から、実にあっけらかんと勝ち誇って描いています。

キャリー・アン・モスについてはマトリックスに出ていた時から私はちょっと不信感を抱いていました。自分は女優でマネージャーが持って来る役を演じるだけだと言えばそれまでですが、気の弱いトーマス・アンダーソンを叱咤激励して自分たちの仲間に取り込む様子は純愛物語には見えませんでした。役を自分の方で選んでいるのか、マトリックスがああいう役だったからそれを見た監督が彼女を起用したのか、その辺はカナダなので情報が伝わっておらずさっぱり分かりません。ただ、他の俳優は演じているのに、彼女だけは地かも知れないという妙なニュアンスが出ていました。それほど演技が上手いのかも知れません。キッドマンが演じたスッテップフォードの奥方はいかにも作り事で、自分は実はこんな女じゃないんだという主張がありありと見えていました。女優としてはどちらの選択が正しいのでしょうか。

スタンドアップ・コメディアンのビリー・コノリーはファンタにが出てからの注目株で、タイムラインでも顔を見ています。彼はタイトルにもなった役を撮影開始寸前、台本はファックスで送られて来たぐらいの慌しさで引き受けています。元々予定されていたのは日本語も分かるらしいペーター・ストルマーレ。ところが彼はアメリカの人気テレビ・シリーズの悪役が決まりゾンビーノを降りてしまいました。

ストルマーレとモスですと全く違った作品ができたかも知れません。コノリーはティミーとのからみが良くて、善良な印象を出しますが、ストルマーレですとモスとのからみがおもしろくなったかも知れません。その代わり子供向けのストーリーにはならないかも知れません。おもしろい映画をぴったりのキャストで作るというのは夢の夢で、せっかくの企画なのに突然誰かが出られなくなってしまうということもあるようです。

逆にコノリーが重要な役で出演したは誰も期待していなかったのに、色々な人があちらこちらから集められて来て、突然波長が合ってしまい、爆笑活劇ができあがってしまいました。きっちり台本を読んで演じたのに不快な後味になってしまったり、どうなるか分からず作り始めたら大傑作ができてしまうなどの番狂わせも時たまあるようです。

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