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  1. フットボールとアメリカ 29.09.2002
  2. 「試写室」で何を見たのか? 09.11.2002
  3. 王様の夢を国民が共有することなどあり得ない? 05.03.2003
  4. アメリカは振り上げた拳を下ろせまい 05.03.2003
  5. 「ときメモ」ファンド成功? 06.03.2003
  6. それが答えだ!! 17.03.2003
  7. 公社化・民営化で変われるか? 26.01.2004
  8. 有権者はあまりにも無責任である! 02.02.2004

フットボールとアメリカ

 今年もフットボールシーズンがやってきました。今年のNFL開幕戦はNHK−BSでも生中継されていましたが,今回の注目は試合ではなく,イベントそのものです。
 今年のNFL開幕戦がニューヨークで行われたことはご存じのことだと思いますが(え,知らない? そうなんですよ),ニューヨークで行われた理由はもちろん9・11追悼です。開幕戦に合わせてボン・ジョヴィのコンサートも行われたようです。さらには,スーパーボウルをニューヨークで開催しよう(しかも早いうちに)という提案もあるようです。
 これだけNFLのイベントをニューヨークに固めようという意図には,9・11を深く印象づけようというのと,フットボールがアメリカに深く根付いていると言うことが現れているのでしょう。そして,フットボールはアメリカの象徴と言われるように,フットボールの試合が行われていると言うことは,アメリカという国が,(成績はどうあれ)順調に動いていると言うことを示しているのでしょう。事実,9・11の際にフットボールの試合は1週間分中止→順延されました。JFKが暗殺されても中止されなかったNFLがです。
 ひょっとすると,NFLを見ることは,それを通してアメリカを見ることなのかも知れません。

 ちなみに,スーパーボウルのニューヨーク開催は障害が大きいです。多種多様な地域から人が来るには寒すぎる!

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「試写室」で何を見たのか?

 2002年11月4日,朝日新聞のテレビ欄を見ると,「試写室」と題して番組紹介をしていた。(雪)氏が当日午後9時から放送された「超歴史スペクタクル/古代エジプト夢と冒険/ピラミッドとは何か!?」と言う番組を紹介していたのだが,これは朝日新聞史上に残る駄文ではないかと思う。
 と言うのも,この文章が,全ての番組を同一基準で見ていて,「いかにも番組制作者をバカにしたもの」であるからだ。
 まず,「ピラミッドを取り上げる番組が珍しくない中で,問われるのは視点」,これは別に間違っていない。番組作り、視聴率獲得と言う観点からも,研究という観点からも必要とされる点である。
 が,「この番組では,エジプト研究で知られる吉村作治・早稲田大学教授による『ピラミッドは王の墓ではない』『建設に従事したのは奴隷ではない』との視点」という書き方には問題がある。まず,番組を見れば分かるのだが,この2点は既に仮説化している。「問われるのは視点」という記述からすると,視点とは仮説を立てる上での前提を言うのではないか? だとすれば,上記の2点は「本当に王の墓か」「建設に従事したのは本当に奴隷だったのか」という視点から考古学的要素を収集・分析した結果出て来た仮説である。
 研究者の言説を有り難がって無批判に受け入れるのには問題があると思うが,研究者がそれなりの根拠を以て打ち出した仮説は傾聴に値する。これを我々が持っている視点と同一視しているとすれば,それは大きな問題である。
 「映像は迫力があり」「工夫が感じられる」というのは番組構成に関するものであり,ここまで言わせたと言うことは,吉村氏と番組が意見のすり合わせを綿密に行い,吉村氏の意見を忠実に表現し得たと言うことなのだろう。
 だが,「今回の説が研究者の間でどう受け止められているのか」「ほかにどんな説があるのかも知りたくなった」からと言って,「書籍などの案内があると親切だろう」と言うのはあまりにも馬鹿げている。ここで,「今回の吉村氏の説について知りたいから,それを読むための書籍(すなわち参考文献)の案内が欲しい」と言うのなら話は通っているのだが,この文章では,文脈からすれば「研究者間での評価や他の説を知りたいから文献を案内せよ」と言っているのだ。それは視聴者自身の仕事である! この番組では「吉村氏の説を紹介する」ことに主眼をおいているのだから,吉村氏の説の根拠となるような文献を紹介する必要があるとしても,他説の文献についてはわざわざ紹介する必要がない。他説を知りたければ,自分が動けばよいだけの話である。(雪)氏は自分が椅子にふんぞり返った状態でも,望めば研究者が何でも教えてくれるとでも思っているのだろうか? 番組の主旨を全く理解していないと思われても仕方がない部分である。
 実は最後も何を考えているのか分からない。「労働者の徴収における強制の有無」や「地方に残された家族の生活」など「いろいろ気になる点も出てきて」というのはまあ分かる。番組を見て興味が出てくれば,当然気になる点も出てくるだろう。しかし,「もっと説明がほしかった」と言う結語は何事か。
 番組の内容を見れば,考古学的検証を基にして番組を作っていると言うことは簡単に分かる。つまり,考古学的に立証できないことについては言及を避けているのである。余計な推測や憶測で安易に判断することを避けているのを読みとらなければならない。だから,「徴収における強制の有無」や「残された家族の生活」について言及がないと言うことは,「それを証明できるものがない」と考えるのが筋であろう。
 そもそも,「労働者が奴隷ではなかった」という説も,「労働者の墓」や「労働者の住居」,「労働者の欠勤記録」が発見されたことから導き出されたことであり,最近のことである。
 「もっと説明が欲しかった」という結語で全てを片付けてしまっているのは,こういった過程に注意を払わず,研究すると言うこと自体を何も分かっていないと取られても仕方ない位に研究者をバカにした書き方である。
 私はこの分野について学習したこともないので,あまり断定的なことは言えないが,ピラミッド研究は現在転換点を迎えているのかも知れない。新しい遺跡の発見や,進んだ科学技術の導入により,新たなる仮説が導き出される段階に入っているようだ。我々が現在見ているのは,まだ研究途中の段階であり,分からないことが多くても仕方がない。それはこれから解明されるべきことである。
 そもそも,(雪)氏はこの番組をどの様に見たのだろうか? 研究成果を見ているとは思えない,何か「1つの完結したストーリー」として見ている感じがする。そう考えると「もっと説明しろ」とか「書籍を紹介しろ」とかいう書き方も分からんではない。が,完成品でなければ評価しないと言うのでは,それこそ新説は評価されないではないか! 歴史・考古学研究に完成品があるかどうかの疑問を全く通り越しているね,これは。
 一番腹立たしいのは,番組構成や番組内容そのものに対する部分ではないところで無下に評価を下げていること。
 私はこんな推測までしてしまう。(雪)氏はピラミッドに関する番組にもう飽き飽きしていて,この番組を見るとき,「ピラミッド!? もうそんな番組見飽きてるなあ。ま,見なければならないんなら見るけど」とか考えて,横目で見ていた(正面から番組を捉えようとしていなかった)のではないだろうか,なんてね。

 実はこうも思っている。「研究というものをこんな感じでしか捉えられないから,ノーベル賞を受賞するまで研究者を放ったらかしにしたり,発掘偽装事件が起こったり,研究費を必要な箇所に投入できなかったりするのである」 …果たして言い過ぎか?

 この(雪)氏の文章にはもう1つ問題点があるのだが,それは後ほど。

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王様の夢を国民が共有することなどあり得ない?

 さて,上(2.)で指摘した(雪)氏の文章にあるもう1つの問題点とは,「労働者の徴収における強制の有無」や「地方に残された家族の生活」について言及したがる心理である。その前に,まず,番組ではピラミッドやその建造に参加した労働者をどのようなものと捉えていたかを知る必要がある。
 そもそも,ピラミッドというのは王の墓ではなく,王の存命中に建造されるもので,ピラミッドが古代エジプトの死生観と大きく関わっているとしている。
 そして,ピラミッドは,王の死後王の魂(バー)がこの世に戻ってきて復活をアピールする場である(クフ王の場合)ともしている。
 この2点は番組中で紹介されていて,ピラミッドによって王は太陽神と一体となり復活を遂げ,ピラミッド建造に参加した労働者は王と一体になり,死後復活することができる。そのことによって死の恐怖から逃れられるというのである。
 以上のことから,労働者の参加動機には,宗教的な意味合いも多分に含まれていると考えることができるのは理解できるだろう。

 さて,そこで,「労働者の徴収に関する強制の有無」や「地方に残された家族の生活」に言及したがる心理のどこが問題かである。
 まず,「労働者の徴収に関する強制の有無」の方だが,この根底には「強制なしに一般民衆が権力者に協力することはあり得ない」という考えが見え隠れする。「大量の労働者を獲得するためには,強制的に住民を挑発して労働者にした事例もあるはずなのに,その点について番組では言及されていない。それについては言及されなければならない」とでも言いたいのではないかと思ってしまう。
 宗教的な意味合いについても,「全員が権力者と運命共同体や宗教共同体を構成するのは,権力者の強制なしにはあり得ない」と考えているようである。
 そして,「地方に残された家族の生活」は,「働き手を奪われ困窮にあえい」でなければならないのだろう。権力者の道楽に,何の関わりもない民衆が強制的に参加させられ,残された家族は困窮する。この図式が念頭にあるからこそ,(雪)氏は冒頭の2つの疑問について,答えをほしがっているのではないだろうか?

 そして,私にはこれが何とも「みんしゅしゅぎ」的な考え方で嫌なのだ。現代の価値観で過去を見ていて,出てくる疑問も「権力者による抑圧の存在」や「被支配層に対する虐待の存在」についてという何とも「みんしゅしゅぎしゃ」の喜びそうなものである。
 どうも,権力者である王と被支配者である民衆とは必ず対立するものであると認識されているようである。しかも,支配されている弱者であるところの民衆は絶対善であり,それと対立する王は絶対悪であるという前提もあるように思えてくる。

 王様ってのは民衆を抑圧して,貧しい民衆の少ししかない財産を搾り取って自分だけは良い生活している悪いやつなんだ。だから,王様の力が強いから民衆は反抗できないけど,民衆は王様に対して反感を持っているものなんだ。王様に共感するなんて本質的にはあり得ないよ。表面上はそう見えても,内面では反感で一杯なんだ。それが民衆ってものなんだよ。もし,内面でも反感がないとしたら,それは王様がマインドコントロールしてるからなんだ。マインドコントロールして一体化を図ろうとするのはファシズムの考え方だよね。民衆をマインドコントロールしてファシズムに走るなんて,やっぱり王様ってのは悪いやつだねえ。
 …このような考え方をしてないだろうか? 王様と民衆の関係を現代民主主義の考え方を排除して先入観なしに見ないと,王様の夢を民衆が共有して自発的に参加するなんていうことは到底信じられないんだろう。

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アメリカは振り上げた拳を下ろせまい

 ここ1ヶ月程,アメリカ・イギリスによるイラク攻撃の可能性が高まってきて,世界規模での反戦運動も巻き起こり,大きな社会現象となっています。その動きの中で,マスコミでも様々な分野の人(いわゆる「一般人」も含めて)の意見が載っていますが,その意見を見ていて多少気になることがあります。
 まず,「キリスト教(聖書)には『汝が敵を愛せよ』とあるのに,何故アメリカはイラクに寛容でないのか」というものです。確かに,マタイによる福音書(5.44)、ルカによる福音書(6.27)にそのような記述があります。ただ,この言葉には,「神の前には平等」と前提があることを忘れてはならないのです。
 我々日本人は「神」と言うものを良い意味では身近に,悪い意味では軽く考えがちで,一神教が言う「神」の意味を深刻に受け止めていないように思います。一神教にとって「神」は唯一絶対のもの(全知全能とも言いますね)であり,自分たちの信じるほかに「神」はいないのです。もし「神」でないものを信仰している人たちがいるとすれば,それは「邪神」(悪魔)を信仰しているのであり,「神」を信仰させなければならないと考えるのです。キリスト教がヨーロッパ諸国の進出の中で広まった際に,被侵略地域で信仰されていた神が多数邪神とされたことは覚えておくべき事でしょう。
 さて,意外なことに,キリスト教とイスラム教は信仰する神は同じです。が,それ故に大きな溝があります。まず,イスラム教ではムハンマドが最後の預言者とされていますが,キリスト教はムハンマドを預言者として認めていないので,イスラム教は異端と認識されています。
 逆にイスラム教は,キリスト教が信仰するところのイエスの後にムハンマドが完全なる預言者として登場したと解釈しているので,キリスト教は不完全宗教であると見えるのです。
 キリスト教もイスラム教も異端に対して断固たる処置を取ることで知られています。世界史で十字軍やイスラム帝国の進出を習った時を思い出してみるとよく分かります。

 そして,重要なことは,政治権力のキリスト教会は愛すべき「汝が敵」に異端を含まなかったという過去があり,キリスト教徒の深層心理にその思想が刻み込まれている可能デイがあると言うことです。
 ここからすると,「汝が敵を愛せよ」はアメリカがイラクに寛容である必要性を説くものではないと言うことになるのです。イラクは同じ「神」を信仰するものではない(と考えている)ので,不用意な寛容は禁物と考えているのではないかと思います。
 あくまで私見ですが,「強いアメリカ」とか「世界の警察」とか言う考えは,ひょっとしたら,「自分たちは神の意志を忠実に実行している」という概念に基づいているのはないだろうかとも思うのです。そうなると,ますますイラクに寛容ではいられなくなります。イラクは邪教徒フセインの国であり,そこに寛容を示すことは神を冒涜するという考えも成り立ってくるのですから。
 さらには,アラビアという地域には経済的利権が絡んでいるので,ますますイラクに対して圧力を強めようとするのです。

 今回のイラク問題に関して言えば,国内事情、国際関係、経済、宗教の問題が絡んでいるために,アメリカは振り上げた拳を簡単には下ろせないであろうということです。簡単に拳を下ろすと,ブッシュ政権を危うくすることはもちろん(多分政権は崩壊するでしょう),それこそアメリカのメンツは丸つぶれになってしまいます。
 「じゃあ,元々拳を振り上げなければ良かったじゃないか」という意見もあるでしょうが,それはそれで,アメリカの威厳が全く損なわれてしまいます。
 まず,今のブッシュ政権が,寛容ではなく強さで保っているものであると言うことを考えなければなりません。「強いアメリカ」を前面に押し出したことによって2001〜2002年に支持率を高めたことを忘れてはなりません。
 もう1つ気になること。現在の「反戦派」と呼ばれる人たちは,戦争を起こしたくないあまりに,アメリカのメンツをつぶすことに力を向けているように思われるのです。「戦争反対、査察強化」と叫び,アメリカの武力攻撃の準備をつぶすことだけに専心するのでは,アメリカのメンツが保ちません。
 本当に武力行使に反対したいなら,アメリカのメンツの落としどころも考えなければならないのです。それこそ,フセインを失脚させるくらいのことをしなければ,アメリカのメンツは保たれないでしょう。
 ここで,1つ疑問を。イラク−バグダードに「人間の盾」として行った(行っている)人たちは,何のために盾になりに行っているのでしょうか? 「イラク国土を攻撃させないための盾」と言う答えが返ってきそうですが,それは誰のためでしょうか? 「イラクの一般民衆のため」と言うでしょうか? それなら,イラク首脳部に対して何らかの働きかけをしているのでしょうか?
 そもそも,今回の問題が起こってから,イラクに何らかの変化があったでしょうか? フセインは支持率99%で相変わらず大統領の座にあり,大量破壊兵器の査察は劇的な変化なく進み,つい先だって始まったミサイル(アッサムード2)の廃棄作業も明らかに時間稼ぎの手段となっている状況(「アメリカが軍を引かないとミサイル廃棄を中断する」みたいなことを言ってますね)で,ただただアメリカを責めて問題が解決するものなのでしょうか?
 イラク問題はただ査察を強化すればそれで済む問題ではありません。もはや戦争反対で事が収まる状況ではないのです。“No War”を言うのにも,そこを考えなければならないのではないでしょうか?

 最後に1つ私見を。「アメリカのイラク攻撃はすでに決まったことである。現在の問題はその時期と規模,そして事後処理であるので,攻撃反対の声はもう遅すぎたのである」と思いますがどうでしょうか?

 注※現在では,キリスト教もイスラム教も寛容化策が進み,キリスト教徒やイスラム教徒とそれ以外の宗教信者との共存が可能とはなっています。ただ,原理主義から見ればそれは「方便」にすぎないと考えられているのもまた事実なのです。また,まだまだ深層心理においては宗教的寛容が進んでいないようで,9.11直後にイスラム教徒、アラブ系に対する風当たりがきつくなったという事例、宗教を仲立ちとして派閥ができているという実態はその現れと言えます。
 今回宗教的な見解を書くのに参考としたのですが,キリスト教やイスラム教などメジャーな宗教に関する入門書として,私は『井沢元彦の世界宗教講座』(井沢元彦著/徳間文庫−1996)をおすすめします。文章は平易で,基本原則を理解するのにはうってつけです。

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「ときメモ」ファンド成功?

 ゲーム制作会社のコナミがゲームの制作費を募る形で運用した投資信託「ゲームファンドときめきメモリアル」が2003年2月末に償還を迎えたそうです。2003年2月21日の朝日新聞朝刊の経済面隅っこに小さく記事が載っていました。
 1口1万円で,コナミの「ときめきメモリアル3」と「GS(Girls side)」に制作費を出すという形で投資し,2本の出荷本数に応じて償還額を決定するというものでした。確か,一方の出荷本数が多くても,他方の出荷本数が少なければ償還額は伸び悩む形になっていたと思います。
 で,発売開始からの半年で「ときメモ3」は19万本,「GS」は16万本を出荷。償還額は1口10000円に対して10105円となったそうです。
 投資期間2年2箇月で利率は年0,48%程度。記事は,「(元本を上回り)まずはハッピーエンドといえそうだ」としています。が…,単にハッピーエンド,万歳と言うわけでもないような気がします。
 まず,元本を上回ったとは言え,年率にすると0,48%の利率,決して高くないですよ。現在の金利0,01%時代からすれば高いと見えるかも知れませんが,損する可能性があると言うことを考えると「高い」とは言えません。
 コナミとすれば,第1回目なので,はずれがないようにとよく考えて「ときメモ」という人気ゲームを対象にしたと思うのです。成功させることで次回以降の呼び水とする考えもあったはずなのです。
 コナミのコメントとして「積極的にゲーム制作を支援してくれるファンを投資家として呼び込むことができた」と言うのがありますが,当初呼び込みたかったターゲットは果たしてファン層だったのでしょうか? 私は,ファン層を呼び込むためだけに企画したファンドではなかったと思います。もちろん,ファン層からも出資を募りたかったとは思いますが,むしろ当初は,「ゲームへの投資は意外に利益を生む」という前例を作り,投資家全般を呼び込むことを狙っていたのではないかと思っているのです。
 とすれば,今回の0,48%は,結果として成功とは言い切れないのだと思います。
 まず,出荷本数。「ときメモ3」の19万本に対し,「GS」は16万本と3万本の差しかありません。これはどういう事なのかを考えてみる必要があります。「3万本の差しかない」と言ったのは,当初から均衡点(償還金10000円となる)での出荷本数は「GS」の方が少なく見積もられていたからです。
 この結果として,「ときメモ3」が意外と売れなかったか「GS」が意外と売れたという結果が出てきているように思います。
 ただ,「GS」が意外に売れたと言うことであれば,償還金はもう少し増えているはずなのですが,どうやらそうでもないので,「ときメモ3」が意外と売れてくれなかった(償還金がプラスである以上「売れなかった」とは言えない)という事なのでしょう。
 さらに,記事には「年間利回りは0,48%と,必ずしも高くはない。ただ,出資額の多い順に希望者全員の名前がゲーム終了時の画面で紹介されているほか,20万円以上出資すれば限定版ソフトがもらえる特典がついた」と書かれていますが,これって,ゲームファンが投資しようとする動機にはなっても,職業投資家が魅力を感じる部分ではないですよね! この部分でしか投資のメリットを表現できないようでは,今後一般投資家を呼び込めるかというのは疑問ですね。

 で,このゲーム制作費投資ファンド,結果としてどうだったかと言えば,投資者から見れば,今回は「ちょっとした小遣い稼ぎ」だったと言うことになりましょう。ただ,投資としての魅力を十分に示すことができなかったという点で,出資を募った側から見て成功と言えるかどうか微妙なところです。「失敗こそしなかったけど,こんなはずじゃなかったのになあ」という悩みの声が聞こえてきそうな気がします。
 ゲームファンドが,ゲームファンだけを巻き込んだ「内輪のもの」で終わってしまったら困るわけで,今後,この発展系でどれだけ利益を生むことができるか。「ファンドの組み立て」、「ゲームの質」、「投資者のメリット」が上手にミックスされなければならない,非常に難しいものであるというのが分かったように思います。まあ,コナミには,これに懲りずにまた挑戦して欲しいですけどね。

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それが答えだ!!

 2003年3月5日の参議院予算委員会で,イラクへの軍事攻撃について聞かれた際,小泉首相は「世論に従って政治をすると間違う場合もある」と答弁しました。それに続けて「それは歴史の事実が証明している」と述べてもいます。
 確かに,これまで世論に間違いがなかったとは言えませんし,小泉首相の言っていることは間違ってはいないのでしょう。
 ただ,日本は民主主義の国であり,民主主義の国においては,多数決によって示されるもの,これすなわち民意,が「答え」なのです。世論は民意の反映ですから,世論は「答え」なのです。
 「答え」が間違っているとすれば,どこがどう間違っているのか説明する必要があり,それなしに「答え」を軽視するのは民主主義の原則にもとる行為ではないでしょうか?
 そもそも,「答え」が正しいか間違っているかを決定する要件は何なのでしょう? いえ,そんな哲学方面に走る必要もないのかも知れません。世論は「答え」であり,それを尊重するのが民主主義の原則であると言うことは明白なのですから。

 何はともあれ,小泉君に言っておきましょう。世論,「それが答えだ」!!

 …と,これで話が終われば簡単なのですが,そうはいきません。
 そもそも,小泉純一郎という人間を首相の座に押し上げたのは世論なのです。そうである以上,小泉首相のやっていることは,世論が出した「答え」なのです。
 「小泉純一郎を選んだ覚えはない」という人がどれくらいいるでしょう? 就任当初92%の支持率だった小泉首相です,誰もが1度は「小泉純一郎が日本を変えてくれる」と思っていたのではないでしょうか?
 ですから,小泉純一郎は「答え」なのです。「答え」が見当外れであったとするならば,次の選挙で落選させてしまえばいいのです。そしてその時,「世論に従って小泉純一郎を首相にするという“政治”をしたら間違った」とでも言ってやりましょう。

 と言うわけで,世論,すなわち我々民衆にも言っておかなければなりません。小泉純一郎,「それが答えだ」!!

 もし,小泉純一郎を首相にしたことが間違いだったとすれば,小泉が首相に就任した当初から「小泉内閣では構造改革はできない」と言っていた小沢一郎の言葉は正しかったと言うことになりますし,「世論に従って政治をすると間違うこともある」という小泉首相の言葉の正しさを証明することにもなります。…小沢一郎ってのは世論から乖離していると思われてたんじゃなかったっけ?

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公社化・民営化で変われるか?

 2003年4月1日,郵政事業庁は日本郵政公社となり,民営化への第一歩を踏み出しました。小泉純一郎首相の言うことには,4年後(2007年)の民営化を目指すそうです。が…,今一つ郵政民営化へのステップが見えてきません。
 そもそも,郵政公社になって何が変わったのでしょうか? 職員は国家公務員としての地位を確保されています(郵政とつながりの深い国会議員が頑張ったからでしょうか?)し,郵政事業庁時代の遺産はそのまま使えますし,公社は税金面で優遇されていますし。
 …つまり,公社になったから変わったと思う方が間違いなのです。サービス業としての基本を備えている人は,公社化以前からそうですし,備えていない人が公社化以降急にそうなったと言うこともありません。

 しかしながら,一番訳が分からないのは,公社化によって郵便料金が即下がると考えている人がいることです。郵便料金がもっと低くても,職員数削減や流通システムの効率化によって採算が取れるはずであるというのはよく言われていることですが,そのためには,職員数削減や効率化を行わなければならないのです。しかし,国家公務員はリストラできません! 公社化しても,国家公務員である以上,簡単には退職に追い込むことができないのです。
 そして,郵政公社の抱えているであろう問題としては,リストラをしようとすればする程,有能な人材が流出してしまう危険を抱えていると言うことが挙げられます。
 公社化以降の入社試験形態を見てみると,選別化がさらに進むことが予想されます。試験は,一般職と総合職に大別され,一般職を内務と外務に分けています。
 この試験形態により,建前上一般職から総合職はい上がることは可能であっても,そうなることは今後ますます困難になっていくでしょう。さらに,内務と外務を一般職という職種で括ることは,内務職と外務職を一緒のものとする方向へと誘います。つまりは,内務の人間が外へ営業に出たり,外務の人間が内務事務を行ったりすることになると言うのです。
 一見世の中の動きにあったように見えますが,この傾向の問題点も浮き彫りにされるべきでしょう。
 まず,内務と外務を兼務させることにより,1人あたりの労働時間が増加するおそれがあります。器用貧乏が増える可能性があるんですな。

 今後,民営化に向け,郵便貯金・簡易保険の廃止論が上がってくるでしょう。今現在郵便事業の赤字を貯金・保険事業で埋めている状況で,郵便貯金と簡易保険を廃止したら,郵便事業は大変革を迫られることになります。リストラ関連では,それこそ,国鉄清算の繰り返しとなるかも知れません。採算を取るためにどうするのかという方向によってはですが,郵便料金は値下げどころか値上げすら予想されます。郵政民営化によって被る影響について,一般大衆も郵政公社に勤めている皆さんも,覚悟できてますか?

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有権者はあまりにも無責任である!

 大阪府知事選挙は2月1日に投開票が行われ,太田房江知事が2期目の当選を果たしました。150万票以上を集めて圧勝となったわけですが,投票率が40.49%と過去最低となってしまいました。何でも,太田知事は府内の全有権者の2割の票で当選となったそうで,これを以て「府民の信頼を得たとは言えない」と言う人もいるでしょう。
 が,そもそも有権者の4割しか投票に行っていないのですから,2割も取れば十分でしょう。それよりも,投票に行かなかった6割の有権者は何をしていたんでしょうか?
 まあ,当日いきなり予定が変わって投票に行けなかった人もいるでしょうが,そのような特殊な人が6割もいるとは考えられません。むしろ,行く気のなかった人が大半だと考えるのが妥当でしょう。
 選挙は,候補者が今後4年間大阪府をどう引っ張って行くかと言う主張に対して,自分の意見(賛成か反対か)を表明する絶好の機会だったのです。
 特に,財政が厳しい大阪府にあっては,誰を選ぶかと言うことが方向性を決定する大きな要因でしたが,大阪府の今後に関心を持っている人が少ないと言うことが如実に現れてしまっています。
 最も問題なのは,「私が1票を入れようが入れまいが結果は同じ」と考えることです。
 確かに,ある1人が1票を入れるか入れないかは選挙の大勢には影響しないでしょう。しかし,それを行使すること無しに「政治が悪い」と言ったところで,所詮は遠吠えにすぎません。
 そもそも,自分の1票で簡単に政治を動かせるなどと考えるのは傲慢の極みでしょう! 政治を変えるのには1人1人の力が重要ですが,たった1人の力が即政治を変える訳ではないのです。
 確かに,現在の政治には不信を覚える点が多々ありますし,1票を投じた政治家がその信頼を裏切ると言うことも多々あります。それゆえ,1票を投じることに無力感を持つことも十分理解できます。しかし,だからといって,それは投票に行かないことを正当化してはくれないのです。投票に行かないと言うことは,自分に与えられた参政権を放棄することに他なりません。そして,それは,「自分では決定せず,他人が決めたことが気に入らなければ批判する」という無責任の表れであり,そのような人に政治を批判する権利はないのです。
 参政権を有している以上,いかに無力感を覚えようとも,我々はその権利を行使することを止めてはならないのです。いつの日にかその1票が政治を、世の中を変える力になることを信じて…。

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