ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしました。

 あ・ら・かると 国王編 vol.2  


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ルイ16世が主ですが、それ以外の国王についてのエピソードも含まれます。
  1. 太陽王と太陽神(ルイ14世) (H13.7.26.UP)
  2. 国王の名前いろいろ (H13.1.11.UP)
  3. ルイ17世のDNA鑑定-2 (H12.5.21.UP)
  4. ルイ17世のDNA鑑定−1 (H12.3.30UP)
  5. 花嫁で一番肝腎なところ(ルイ15世) (H11.11.25.UP)
  6. ルイ16世がギロチンを改良した (H11.6.18.UP)
  7. 「ご病気はヴェルサイユで」(ルイ15世) (H11.5.27.UP)
  8. ルイ16世と航海術
  9. 絶対王政
  10. ルイ16世が女好きだったら


「太陽王と太陽神(ルイ14世)」(H13.7.26.UP)

「太陽はあらゆる所に幸福をもたらし、決して変わることのない恒久不変の運行によって、生命と歓喜と行動を常に生み出すのである」という考えの元、ヴァロワ朝以来、太陽は国王を表す最高のものとして用いられてきました。ヴェルサイユ宮殿を造ったルイ14世ももちろん、自らを太陽神と重ね合わせてきました。

ラトーヌの泉水

政務を行っていた「玉座の間」「アポロンの間」とも言われ、天井には「戦車に乗ったアポロン」の絵があり、自らを象徴するアポロンと共にヨーロッパ一の大国フランスを統治してきました。また、宮殿内には、太陽王を表す金の徴の施された扉もあります。

ルイ14世が宮殿よりも気に入っていた庭園にはアポロンの三つの時代を表す彫像があります。まず、誕生を表す「ラトーヌの泉水」。ここではアポロンの母ラトーヌ(レダ)にぴったり寄り添うアポロンとアルテミスの双子の兄妹が置かれています。

アポロンの泉水

次に王の散歩道の奥にある「アポロンの泉水」には海底から天に向かって翔けあがろうとするその瞬間を表す彫像があります。これは金色に輝きとても豪華なものです。

そして、一日の終わりは「テチュスの洞窟」にある「ニンフたちにかしずかれたアポロン」の彫像です。誰の作かわかりませんが、こんな詩があります。

太陽が疲れたとき、そしてその責務を終えた時、
太陽はテチュスのいる海に降り、しばし寛ぐ。
そのようにルイも疲れを癒しに行く。
日ごと繰り返さねばならない心配りから。

このようにあらゆる所で太陽神ヴェルサイユを見守っています。まさに、ヴェルサイユ宮殿、そしてその創造主であるルイ14世の象徴でもあるのです(しかし、決して、ルイ14世が禿げていたから太陽と関わっていた等と思ってはいけません)。

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国王の名前いろいろ(H13.1.11.UP)

国王、皇帝、将軍等、世界にはいろいろな君主がいますが、その名前の付け方はヨーロッパ、アジア、日本とで大きく異なります。

まず日本では、家康の次の秀忠は別としても、家光、家綱等、基本的に父親から(要するに代々)一文字をもらって男子は名前を付けられます。「家」が付けば徳川本家、「義」が付けば足利家等となり、これは何も将軍職にあるものだけではなく、大名や一般的な武士、平安の貴族、はたまた現在にも時として見られる特徴です。また、江戸時代に葵の御紋を徳川家以外の人が用いると罰せられたように、「家」の字を使った名前と言うのもなかったのではないでしょうか。

さて、お隣中国でも天子が、例えば「孝」と言う字を使っている場合、国民は誰一人として「孝」の字を使うことが許されず、天子の父親や祖父等の名前すら使ってはいけなかったそうです。また、代々父子が同じ字を共有するという風習はなく、子供は決して父親から一文字をもらうということはありえなかったそうです。

ではヨーロッパに行きましょう。イギリスで言えば、エリザベス2世のエリザベスと言う名は極々平凡で同じ名前を使っている国民は非常に多くいます。まあ、エリザベスと言うのはエリザベス1世(1558-1603)が偉大な人物だったからわからないでもありませんが、これがチャールズ皇太子となるとやはり不思議です。チャールズ1世(1625-1649)は清教徒革命の時処刑されている国王ですから、かなり縁起が悪いです。しかも、チャールズ皇太子は即位するとチャールズ3世となり、以前にも縁起の悪い名前を使った国王がいたというわけです。

エリザベスにしろ、チャールズにしろ、ウィリアム、ヘンリーにしろ、国王の名前は不思議なほど平凡で同じ名前を何度も何度も使いまわしているという感じです。しかしながら、父親の名前を子供が名乗ると言うことはあまりありません。これはイギリスだけではなく、オーストリアスペインも同じです。

フランスでは若干違います。国王はずっと同じルイを名乗り、たとえルイ16世が処刑されて縁起が悪くても、子供はルイ17世、弟はルイ18世となります。これだけルイという名が国王に使われていても、やはりルイと言うのは平凡な名前で庶民が普通につけることができます。サン・ジュストもルイ−アントワーヌというようにルイを使っています。

また、ナポレオンはコルシカ出身で名前そのものは一般的ではないようですが、不思議なことにナポレオンも子供のローマ王にはナポレオン2世を名乗らせ、甥のシャルル・ルイ(ここでもルイ)はナポレオン3世となります。ナポレオン3世の子供が即位すれば間違いなくナポレオン4世になったことでしょう。

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ルイ17世のDNA鑑定-2(H12.5.21.UP)
グルーズ画ルイ・シャルル
こんな美少年が

これはこの前の「あ・ら・かると/ルイ17世のDNA鑑定」の続編です。

2000年4月19日、DNA鑑定の第一人者、ベルギー・ルーバン大学のジャンジャック・カシマン教授は、1795年6月8日タンプル塔で病死した10歳の少年は、ルイ16世マリー・アントワネットの遺児ルイ・シャルル(ルイ17世)に間違いないと結論づけました。

少年の遺体は解剖された後、医師の手で心臓だけが切除され、保存されていましたが、カシマン教授はこの心臓の一部と、王妃の遺髪、さらにオーストリアに生存している王妃の子孫らから採取したDNAの照合鑑定を行い、ドイツで実施した別の鑑定結果も参照したうえでの結論です。

まあ、このDNA鑑定そのものにもいろいろな問題はあるようですが、とりあえず、様々な伝説、物議を巻き起こしたルイ17世生き残り説がここで完全に否定されたわけです。

…とすると、両親亡き後、たった一人でタンプル塔に閉じ込められていた少年に対する過酷な扱いは一体なんだったのでしょう。人間扱いをされず、屈辱と汚辱にまみれ精神と身体を極限まで蝕まれた少年が、あのマリー・アントワネットの実の息子、世が世ならばフランスの国王であると考えると、胸が痛みます。

こんなになっても
いいのでしょうか。

この鑑定が出る前は、私たちの心のどこかに、タンプル塔での少年がいかに悲惨な生を強いられていたのかを知ってはいても、おそらくこの少年はルイ17世本人ではないのだから、という奇妙な安心感や納得感があったのではないでしょうか。本当はそれが誰であれ、決して許されない行為なのですが、この少年がルイ17世本人である確率がぐんと上がってきた今、それまでの安心感に対する良心の咎めも加わって、余計辛い、許せない、という憤怒が沸いてきます。

200年前のフランスと現在の日本とでは、人権に対する考えに大きな落差があります。「自由・平等・博愛」の精神は暴君の子供にまで及びませんでした。しかし、しかし!です。フランスはヨーロッパを指導する、などと言っておきながら、国家が一個人の精神を瓦解するまで痛めつけることなど許されるわけはないのです。しかも、相手は何も悪いことをしていない少年です。

母を売女呼ばわりさせたのは仕方ないとしましょう。しかし、そこまでやったのだから、この際、徹底的に正しい革命思想を植え付け、その身分を逆利用して共和国の利益となることをさせればよかったのです。

もちろん、こんなところで一人で力んでみても仕方ないことですが、この少年に対する処遇はフランス革命の大きな汚点であることは否定できません。

Special thanks to Ms Alchange of Death!!
最初の部分は2000年4月20日(水)に読売新聞に掲載された記事を参考にしました。(読売新聞には許可を取ってあります。)

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ルイ17世のDNA鑑定(H12.3.30.UP)

ルイ17世が実際のところどうなったのか、これは様々な人の想像力を楽しませてくれます。

ルイ・シャルル

一応、公式(?)発表では父ルイ16世と母マリー・アントワネットの死後、結核で死亡したとされていますが、病死したのは実は身代わり本物のルイ17世は生きていた、という説もあります。

実際、自分が本物のルイ17世である、という人たちも数多く現れました。中でも一番有名なのは、ドイツに現れたシャルルギヨーム・ノンドルフでしょう。彼は自分がルイ16世の子のルイ・シャルル本人である名乗り、フランス裁判所に立証書類を提出してフランス政府を困惑させた、という経緯もあります。

このように生き残り説が根強く残っている背景には、200年以上経っても消えない王党派の怨念の深さや、フランス革命の行き過ぎに対する悔悟の念が関係しているようです。また、王政が復活した場合、誰が直系を名乗るかが重要な問題となる可能性があり、ルイ王朝の糸が王子のところでぷっつりと切れている以上、真相究明は積年の課題でした。

さて、ノンドルフに話を戻しましょう。べルギーのルーバン大学ジャンジャック・カシマン教授が1998年にノンドルフの遺体をDNA鑑定しましたが、その結果、マリー・アントワネットとは一切関係がなかったと判定しました。この鑑定が正ければ、長く伝わっていたノンドルフの伝説は、単なる伝説にすぎないことになります。

となると、タンプル塔で病死したルイ17世が本物かどうかという興味がさらに湧いてきます。それを確かめるために今回、DNA鑑定が行われることになりました。この鑑定はルイ王朝研究者フィリップ・ドロルム氏の働きかけによるもので、鑑定するのは先に出たジャンジャック・カシマン教授です。

実は、王子のものとされている遺体を解剖した医師はこっそり心臓を切除したと言われています。そして、その心臓は歴代フランス王族の墓地であるパリ郊外サンドニ教会に保管されており、これとオーストリアに保管されているマリー・アントワネットの遺髪のDNAを比較し、心臓が本当に王子のものかどうかを確定しようというものです。

しかしながら、このDNA鑑定について、「王党派の残党が興味を持っているだけ」として主要な新聞は一行も報じていません。そこには複雑なフランス国民の感情が反映されているようです。

コレージュ・ド・フランスのエマニュエル・ルロワ・ラデュリ教授(歴史学)は、、「もし心臓が王子のものでないと判明すれば伝説復活につながり、逆に王子のものと確定すれば、歴史論争のひとつに200年ぶりにピリオドが打たれるだろう」と話しています。

鑑定チームは2000年2月の結果判明を目指していますが、心臓の保存状態は良好とは言えず、明確な結果が出るかどうかも微妙なところのようです。

1999年12月29日(水)に読売新聞に掲載された記事を参考にしました。(読売新聞には許可を取ってあります。)

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