ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしました。
ルイ16世の祖父、ルイ15世は孫の王太子が結婚するとき、60歳でしたが、相変わらず美男子(美老人?)で、まだまだ女性が大好きでした。1770年、内閣書記官のブーレが、王太子妃マリー・アントワネットがストラスブールに到着したとき、王に報告しました。 ルイ15世 「して、花嫁は美人かね」 ブーレ 「天使のような美しさでございます」 ルイ15世 「肌の色は」 ブーレ 「雪よりも白うございました」 ルイ15世 「目は」 ブーレ 「この世のものとは思えぬほどの美しさでした」 ルイ15世 「して胸の盛り上がりは」 ブーレ 「さて、それは…。臣下の身といたしましては、おそれながら、そのようなところまで拝見いたしかねましたので…」 ルイ15世 「ブーレ。そなたは馬鹿者だな。そこが一番肝腎なのだ」 国王はそう言うと笑い出しました。こんな祖父に比べて、15歳のルイ・オーギュストは女性の扱い方も全くわからず、輝くばかりに美しい花嫁をただまぶしげに見ているだけでした。 ルイ15世がただの色好みでこう言ったのかどうかはわかりませんが、「花嫁は胸が一番大切…」と言うのは、後継ぎを生むのが一番の役目である未来の王妃ならば確かにその通りでしょう。とにかくせっせと子供を生んで、王国の安泰を図らなければなりません。マリー・アントワネットが第一子を身ごもったのはそれから11年後の1781年でした。
花嫁で一番肝腎なところ(H11.11.25.UP)
「ルイ16世がギロチンを改良した」 (H11.6.18.UP)
身分制のある国ならどこでもそうですが、処刑の方法にも身分差はありました。フランスでは斬首刑が許されるのは特権階級のみで、庶民は車引きとか火刑とか、罪科によって違いますが、とにかく残酷なものでした。それがあまりにも残酷なので、ルイ16世は拷問を廃止して、刑を平等にするように命じました。
そして、ご存知のようにギヨタン博士(英語読みでギロチン)が、パリの処刑人アンリ・サンソン(誰よりも処刑について詳しい)と彼の友人で機械工でもあり製図工でもあるシュミットと共に、新しい処刑道具の開発をしていました。その最終的設計図を、1792年3月、国王の侍医に提出しました。侍医はテュイルリー宮殿に事務室を持っており、そこでこの三人と打ち合わせをしました。
四人が図面を検討していると、扉が開き、当時テュイルリー宮殿に住んでいた、ルイ16世が現れました。
ここまでは事実のようです。そして、この後、事実かどうかは不明ですが、デュマの小説(「93年のドラマ」)にも書かれているうな続きがあります。つまり、こうです。
国王は図面を丹念に見ました。錠前作りが趣味で、機械物に強い彼の目が刃に行ったとき、
「欠陥はここだ」と言いました。「刃は三日月型ではなく、三角形で草刈鎌のように三角形になっていなければならない」
そして、ペンを取り、「草刈鎌状の刃」を持った器具の図面を書きました。
それから間もなく、この器具の最終案は議会に提出され、「一瞬の内に処刑が済むので、罪人の肉体的苦痛はほとんどなく、まさに人道的なものである」ことを強調しました。その後、動物実験などを繰り返し、4月25日の午後3時、この装置による初めての処刑が行われました。(その後のことについてはこちらにどうぞ→「あ・ら・かると/ファッション/ギロチン・モード」)
それから四ヶ月も立たない内に、国王一家はタンプル塔に幽閉され、間もなく、ルイ16世も妻マリー・アントワネットも妹のエリザベス内親王も、国王が最終的に磨きをかけた器具で処刑されることになるのです。
フランス宮廷のいかめしい礼儀作法は、絶対王制の基礎を確立したフランソワ一世の時代に始まり、ルイ14世の代で絶対的なものとなったのです。複雑な規則や作法と言うものは、国王の絶対的権威を高める道具の一種でしたから、極言すれば、国王のためにできあがったもの、というわけです。
自由なオーストリアで育ったマリー・アントワネットを悩ませた宮廷作法は、しかしながら、国王にすら無理を強いるものでした。
1774年4月27日の夜、狩からトリアノン宮殿に帰ったルイ15世は激しい頭痛に襲われました。国王の容態が普通でないことを察した供の者たちは、ヴェルサイユに国王を移すべきである、と考えました。病床で苦しんでいる国王に向かって侍従はこう言いました。
「陛下。ご病気はヴェルサイユでなさってください」
フランスの国王たるもの、飾り寝台以外の所で長患いをしたり、逝去したりすることは宮廷作法が許さなかったのです。どんなに病状が悪くても、ヴェルサイユに戻らなければならない、というわけです。
ヴェルサイユに戻った国王は、天然痘にかかっていたことがわかり、5月10日の午後、崩御しました。
とかく「愚鈍」だとか「無能」だとか言われているルイ16世ですが、彼は国王にさえ生まれなかったら、人の尊敬を受けていた人物になっていたかもしれません。
確かに、奥さんの言いなりになっているような人物でなければ、フランス革命ももう少し違った方向に行ったことでしょう。
しかし、国王でなかったら、いいえ、国王でももう少し平和な時代の国王であったら、生来の人の良さで案外人気者になっていたかもしれません。
ルイ16世を「間抜け」とか「頭が悪い」と思っている人は多いでしょう。ほとんどの人はそう思っているかもしれません。しかし、彼の優れた一面を見ればそれが間違っていることがすぐわかるでしょう。
彼のよく知られた趣味と言えば、狩猟と錠前作り(これは父親から教わったそうです。錠前作りは王家代々の趣味?)です。よく、錠前作りを物笑いの種にしていることもあるようですが、それは間違いです。錠前作りには、きちんとした設計図を作る思考力と器用な手先と根気が必要です。軽佻浮薄な人々のなかにあって、黙々とそのようなことをした彼は見上げたものです。
この二つ以外にも彼が傾倒したものがあります。それは「航海術」です。書斎には、数学用の器具、手塗りの地図、海図、望遠鏡、六分儀座、錠前、太陽系儀、環状天球儀などがありました。
趣味と言っても中途半端なものではありません。彼は船の設計から戦艦から大砲を撃つ方法、海上での病気とその治療法、潮の動き、底荷と貨物の計算、軍事作戦行動と手旗信号の解読まで、航海術全般にわたって専門家並みの博学な知識を持っていました。凡庸な頭脳ではここまでの知識は身に付けることはできないでしょう。彼には明らかに理科系の優れた思考能力があったのです。
さらに彼は、貴族と平民の士官を区別した制服を廃止して、新しい制服を作るよう命じ、そのデザインの手伝いさえしたのです。また、のちに財務総監になったテュルゴやサルティーヌなど海軍大臣として最適な人材を登用しました。
彼の航海術への並々ならぬ興味をあらわすエピソードとして、シェルブールの軍港視察があります。当時、国王がヴェルサイユを出ることは稀でした。用がある人が国王に会いにくればいいのであって、国王自ら出向くことなどしなかったのです。しかし、彼はどうしてもシェルブールに行きたかったので、ルイ14世以来の習慣を破りました。戴冠式とこの視察が国王として行った行事の中で唯一の幸福なものと言っているくらいですから、本当に楽しんだのでしょう。その時は、国王の博学振りもさることながら、海の荒くれ男達とも結構仲良くやっていたそうです。
残念ながら、彼の航海術の博識が実際に役に立ったことはありません。しかし、彼自身が海軍大臣となったのならば、もしかして有能な大臣となったかもしれませんし、学者になっていれば、それはそれで成功していたかもしれません。残念なことに彼は、国王以外の職業を選ぶことができなかったのです。
絶対王政を表す言葉を、国王の立場からいくつか示して見ましょう。
ルイ14世(太陽王)の「朕は国家である」はあまりにも有名ですが、孫のルイ15世の言葉も絶対王政の真髄を表す言葉でしょう。
「至上権は余の内にある。立法権は余にのみ属し、余は何びとにも依存せず、また何びととも分かち合わない。公の秩序の一切は余から生まれる。国民の権利と利害は必然的に余の権利と利害と結合され、もっぱら余の掌中にある」 ここまで言われてしまえば、感服する以外ありません。
また、人のいいルイ16世も、1787年の親臨法廷で
「それは非合法だ」と言われると、
「それは合法である。余が望むからだ」
と言っています。これも絶対王政を的確に言い表しています。とかく馬鹿にされがちなルイ16世ですが、この言葉を自分自身の言葉としてさらっと言えるあたり、やはり絶対王政の国王だな、と感心します。
日本には「英雄色を好む」という権力者にとっては実に都合の言いことわざがあります。確かにざっと見渡しただけでも主だった政治家は皆さん、女性が大好きだったようです。源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊藤博文…。また、世界でも同様の傾向がみられます。シーザー、ルイ14世、ナポレオン、始皇帝などなど枚挙にいとまがありません。
もちろん、女好きだけれども偉大な政治家ではない、と言う人の方が実は圧倒的に多いのですが、いずれにせよ、英雄は色を好むようです。
なぜでしょう。これは、私の大好きな竹内久美子さんの理論なのですが、女性と楽しい時間を過ごしながらも、女性の嫉妬ややっかみなどで日常を奪われないためには(騒動を巻き起こしながら複数女性を相手にするのとは全く違います)、特殊技能が必要になってきます。つまり、そのような男性は、複雑な人間模様の中で繰り広げられる、さまざまな困難な状況に対応しなければなりません。そのためには、次のようなことが必要不可欠になってきます。
そして、これらの才能は取りも直さず、優秀な政治家に必要なものなのです。
そう、マリー・アントワネットのお尻に引かれ、彼女ひとりしか愛さなかったルイ16世は確かに市井の夫というのであれば、そこそこの幸せをつかめたでしょうが、彼は不幸にも国王だったのです。
もし、彼がルイ14世のように、愛妾、愛人をたくさん持ち、女性達を亭主関白で支配できるような能力を持っていたら、フランス革命など起きなかったかもしれません。よしんば、時代の趨勢ということで起きてしまっても、自らが断頭台の露と消えることはなかったでしょう。妻一人を熱愛したという彼のほほえましさが、実は文字通り命取りだったのです。