ここの背景画像、gifアニメは「QUEEN」さんからお借りしました。
このタイトルには矛盾がありますね。28歳では老婆とは言わないものです。でも、アンシャン・レジームの頃、この言葉が現実にありました。
1787年から1789年にかけて、イギリス人の農学者であるアーサー・ヤングがフランス各地を旅行しては、農学者の目で革命前夜のアンシャン・レジームを鋭く観察しました。このエピソードのその最も有名なものです。
さて、時はバスティーユ襲撃が起こる2日前の1789年7月12日。ヤングが馬を休ませるために長い坂道を歩いて登っていたとき、貧しい女性と一緒になり、さまざまな話をしました。
「私の夫は小さな土地と、牝牛と小さなやせた馬を一頭ずつしか持っていないのに、ひとりの領主様には42リーヴルの小麦と三羽のひなを払わなければなりません。もうひとりの領主様には、90リーヴルの燕麦と1羽のひなと1スーの貨幣を払わなければならないんです。もちろん、この他にも人頭税や他の税金があります。子供は七人いますから牝牛のお乳はスープを作る足しになってくれます」
「それならなぜ馬を売って牝牛をもう一頭買わないのかね」
「とんでもございません。そんなことをしたら、夫は作物を運ぶことができなくなります。偉い人たちが私達貧乏人のために何かをしてくださるらしいけれど、誰が何をしてくれるのかさっぱりわかりません。でも、神様がもっと良くしてくださるにちがいありません」
この女性は、労働のために腰が曲がり、顔は皺で硬くなっていました。近くで見ても60歳か70歳に見えました。でも、本人は28歳であると言うのです。実年齢よりも30歳以上老けて見えることは異常なことです。
当時の農婦達は男性よりも厳しい労働をしていたそうです。その過酷な労働は、体の均整や女性らしさを完全に破壊していました。この農婦一人が特別に老けていたわけでもないのでしょう。イギリスの農婦も大変な仕事をしていたはずですが、フランスの農婦の過酷さはすさまじいものがあったようです。ヤングはこの両国の差異を「政治による」と言い切りました。本質をずばりと突いた鋭い指摘です。
異性に嫌われる女性 (H11.8.26.UP)
以前、同性に嫌われる女性として、ロラン夫人について書きましたが、今度はこの時代の異性に嫌われた女性としてスタール夫人について少し述べてみたいと思います。
スタール夫人 |
スタール夫人はご存知でしょうか。あのネッケルのお嬢さんですから、平民とはいえ、上層ブルジョワで、マリー・アントワネットの愛人フェルセンとの結婚話も出ていたほどの人です。しかも当代きっての文筆家です。
中学生の頃、スタール夫人の童話を読んだことがあります。ずいぶん前のことなので詳しくは覚えていないのですが、その教訓じみたワン・パターンに閉口したことだけは忘れられません。かいつまんで言うとこうです。
すっごく美人だけれど性格と頭の悪い少女がいて、世の男の人はこの少女に夢中にります。でも、すぐその足りない脳みそにいやになってしまい、すごく醜いけれど性格が良く知性のある少女に惹かれ、その少女と幸せになる、というわけです。要するに、容姿などに惑わされてはいけませんよ、人間大切なのは知性と性格ですよ、というわけです。
まあ、そうなんでしょうが、文庫本一冊全部こういう話だといいかげんうんざりするものです。当時は、スタール夫人がどういう人なのか全くわからなかったので、この本は行方不明になってしまいました。もう一度確認の意味で読むことができないのが残念ですが、とにかく、このようなストーリーが好きな女性ということは間違いないでしょう。
スタール夫人は美人ではなかったようです。おそらく、自分の書いた童話は自身の投影だと思われますが、幸せになる少女は「醜いけれど性格が良く知性がある」ことになっています。知性は、これは疑うべくもなかったようですが、性格については多少疑問が残るところです。
イタリア戦線から凱旋してきたナポレオンに夢中になり、「二人の天才(もちろんその一人はスタール夫人自身です)が結ばれることはフランスの国益に合致する」と言い放ち、ナポレオンの家に押しかけトイレまで追いかけてきて、「天才に性差はない」と豪語しました。
とにかく彼女はナポレオンに夢中になりましたが、残念なことにナポレオンは知性的な女性には全く興味がありませんでした。彼は、確かに頭はあまり良くなかったかもしれませんが、かわいくて軽薄で、どこからどう見ても「女」のジョゼフィーヌにぞっこんでした。
ナポレオン以外の男性も、まああまり好意を持っていなかったようです。
「私は気が滅入ったとき、少なくともスタール夫人の夫ではないと考えて、自らを慰めた」(ポッツォ・ディ・ボルゴ)
「妻から得られる心の安らぎの有り難味がわかるには、スタール夫人と一ヶ月も同棲してみたら良い」(タレーラン)
「気取り屋のジュネーヴ女は美徳を備えているが、欠点がひとつある。それは、やり切れない相手だということである」(タレーラン)
ポッツォ・ディ・ボルゴもタレーランも反ナポレオンの立場を取っており、この意味ではスタール夫人と同じですが、その同士にさえここまで言われるのですから(しかもタレーランは一時スタール夫人を愛人にしていた)、すごいものです。
寵姫と秘蹟 (H11.5.13.UP)寵姫の政治的地位については、前のコラムでも述べましたが、王妃に準ずる権力を持ってました。しかしながら、国王が崩御すると、どんなに権勢を奮っていても、その瞬間に転落するはかない権力に過ぎません。
それどころか、崩御しなくても「臨終の秘蹟」を受けたとたんに追放の身となってしまうのです。この「臨終の秘蹟」と言うのは、一般の日本人には馴染みがないのですが、カトリックの信者が死に臨むときに受ける、悔悛、聖体、終油の三秘蹟のことで、これをしないと安らかに神に召されないのです。そして、「秘蹟」を受けるためには、宗教上、道徳上の罪を一切正直に告白しなければなりません。そして、告白をした後、仮に死ぬことがなくても、同じ過ちを二度と犯すことは許されないのです。
これは神から王権を預かった国王とて、同じです。そもそも厳格な教会にとっては、寵姫愛妾を持つなどもっての他です。したがって、国王が「臨終の秘蹟」を受ければ、寵姫愛妾はまっさきに追放されます。そして、同じ過ちを二度犯してはいけないわけですから、追放した寵姫らを二度と呼び戻すことはできません。
ルイ15世は二回「臨終の秘蹟」を受けました。一度目は1744年の春のことです。戦場に出たルイ15世はメッスで大病にかかり、時の寵姫シャトールー公爵夫人も看病しました。しかし、病状は悪化するばかりです。国王は「秘蹟」を受け、シャトールー公爵夫人の追放が決定されました。
ところが、数日後に国王は健康を取り戻しました。公爵夫人を深く愛していた国王は、すぐさま彼女を宮廷に迎え、世間の物笑いになりました。
二度目こそ、本当の「臨終の秘蹟」となりました。時の寵姫はご存知デュ・バリー夫人です。シャトールー夫人との苦い経験がありますので、ルイ15世は万一に備えて、腹心のデギヨン公爵に下準備をさせてました。
秘蹟を受ける前に、デュ・バリー夫人をヴェルサイユから退かせ、12キロ離れた邸に行かせました。そして、ルイ15世が崩御すると、前もって作成しておいた国王の命令書を発行し、フランスで一番厳しい修道院に入らせました。これは、ルイ15世の苦肉の策です。彼はもちろん、王太子夫妻がいかにデュ・バリー夫人を憎悪しているのか知っていましたから、最悪の事態を防ぐためにここに軟禁させたと言うわけです。
もっとも、デュ・バリー夫人はこんなところにいるような人ではありません。さっさと修道院を出て、数々の愛人を持ち、再び華やかな世界(もちろん、以前とは比べ物にならないくらい地味?ですが)に戻り、そう、挙句の果ては断頭台に登ることになるのです。
寵姫と愛人の違い (H13.4.10.UP)日本人にとってはどっちも同じっていう感じですが、この二つは全然違います。 寵姫というのは、いわば正式の愛人。日本で言えば側室みたいなものです。王妃や宮廷に正式に紹介され、身分は王妃に準じます。ですから、寵姫になったら、お金も権力も欲しいがままとなります。それ目当てに廷臣やら何やらが近寄ってきておこぼれに預かろうとし、さらに権力は拡張されます。
ポンパドゥール夫人 | デュバリー夫人 |
でも、しょせん、寵姫は寵姫。国王が死んでしまったら、手のひらを返したように、汚らわしいなどと言われ、さっさとお払い箱です。
そして、愛人。これは短期間の気まぐれの関係みたいなものです。すぐお役ごめんになってしまいますが、油断は出来ません。どのような寵姫だって、まずは愛人からスタートするのですから。特に、フランス随一の美男子といわれたルイ15世は非常に女性が好きでしたし、また、寵姫になることを望んでいる貴婦人は多くいましたから、愛人の数は数知れず、だったようです。
上述のポンパドゥール公爵夫人は、あまり健康でなく、28歳でルイ15世の要求に答えられなくなってしましましたが、その後も権勢を維持しようとして、「鹿の苑」という一種のハーレムを作って次々と王の好みの愛人を送りつづけました。しかも、王が本気にならないようにたった一度お相手させたら宮廷から追い出してしまうのです。そうすれば、たとえ自分自身で夜のお勤めができなくなっても、他の女性が寵姫に成り上がることがなく非常に都合がいいというわけです。ポンパドゥール公爵夫人が頭がいいのか、そんなことで騙されるルイ15世が情けないのかよくわかりませんが…。 (関連記事→「あ・ら・かると/女性/ポンパドゥール夫人と『鹿の苑』」)
同性に嫌われる女性フランス革命時代には実にさまざまな女性が登場します。マリー・アントワネット、デュ・バリー夫人、テロアーニュ・ド・メリクール、テレジア・カバリュスなどなど、みんなひと癖もふた癖もありますが、それなりにファンもいるようです。
ところが、ここにどうしても同性から好きになってもらえない女性が登場します。現代の女性からも嫌われていますが、同時代の女性からもかなり露骨に嫌われていたようです。
どう?きれい? |
ロラン夫人です。彼女はジロンド派の女王でもあり影の黒幕でもありました。内務大臣をしていた夫の資料は全てロラン夫人が作っていました。彼女のサロンはそれこそ当時のフランスの知性が集まった場所で、あのロベスピエールさえ(実はしぶしぶ)参加したことがあります。
とにかくその知性と教養は並外れていて、男の人さえかなわないくらいでした。揺れ動くフランスをその手で動かしていた時期さえあったのです。
ジロンド派が没落したとき、夫と子供や愛人を先に逃がしている内に、自分が逮捕されてしまいました。そして、処刑されるときも、世界史に残る名台詞を言って死に向かったのです。
「自由よ、汝の名の下でなんと多くの罪が犯されていることか」 (もっとも、これは後世の歴史家の創作ということですが…)
彼女が死んだことを知って、夫と愛人は自殺しました(もちろん別々にですよ)。まさに女冥利に尽きるではありませんか(それにしても夫は情けないなー)。
と、ここまで読んでいただければ、ひょっとしてかっこいい女性と思われる方もいるかもしれません。確かにロラン夫人も静かに死んでいけば、それでよかったのかもしれませんが、持ち前の自慢癖が働いて自伝などというものを牢獄で書いたのです。その自伝こそ、後世の女性から嫌われる原因になったわけです。
内容をかいつまんで言うとこうです。
「私は美しい。その上、この世でも珍しいくらい頭がいい。なのに、私は貴族になれない。貴族ときたら、私を無視する。あー憎らしい。貴族なんてなくなってしまえばいいんだわ」
「私はすばらしく頭がいいけれど、決してそんなことをひけらかさないの。だってそれって上品ではないでしょう。私は上品だから、そんなことしないのよ」
「私の目とか口とかはひとつひとつを取ってみればあんまりよくないかもしれないけれど、全部合わせると不思議なくらい美しくなるの」
「男の人は私をほおっておかないわ。でも、私は並外れて美人で頭がいいからその辺の男なんて相手にしないのよ」
どうです。多少の脚色はありますが、大体こんなもんです。男の人から見たらどうかわかりませんが(実際ロラン夫人のサロンは夫人目当ての男性で一杯でしたから)、ここまで読んだ女性はきっとロラン夫人を許せない!と思うでしょう。
でも、一言ロラン夫人のために弁護すると、当時の女性が自分の持っている才能を遺憾なく発揮したいと思っても、そういった下地がまるでなかったのです。現代でさえ、女性の社会進出を快く思わない男性が多くいる中、当時、社会に出たいと思っても、男性どころか女性さえ敵となってしまいます。お上品に立ち振る舞っていたらすぐ潰されてしまいます。だから、とにかく自分を防御し、自信を付けるためにも過剰なまでのプライドが必要だったのでしょう。
でも、社会に進出する前からずいぶんな自惚れやさんだったようですけどね。