ここの背景画像はまりまりさんの「いろいろ素材」からお借りしました。

マリー・アントワネットの小部屋

 オーストリアで その4 <1 2 3 4 5>

オーストリアとフランス

マリア・テレジアの娘であるマリア・アントニアには姉が何人もいましたが、名門ハプスブルク家の生まれであるため、年齢さえ合えば、いつでも政略結婚の道具として使われる運命にありました。実際、姉達の多くも政略のために結婚し、恋愛結婚をしたのはマリア・テレジアが一番愛したマリア・クリスティーネだけでした。

マリア・アントニアはフランスに嫁がないとしても、元々、平和で安穏とした結婚生活など期待できない運命だったのでしょう。

そのマリア・アントニアがヨーロッパで一番贅沢のできる国に輿入れすることになった事情を見てみましょう。

長い間フランスオーストリアの関係は険悪でした。仏墺戦争、七年戦争等の泥沼の戦争、おまけに両国の間にイギリスやプロイセン、ロシア等の利害が複雑に絡まりあい、お互いに相手国を信用することができないでいました。

当時、フランスイギリス新大陸と貿易の覇権対立の真っ最中であり、強力なヨーロッパの同盟国を必要としていました。

一方、オーストリアプロイセンに二度も奪われたシューレジェン(シレジア)を取り戻すことが悲願でした。ですから、プロイセンを相手にするためにやはり、強力な後ろ盾が必要でした。


仏墺同盟から七年戦争へ

ポンパドゥール夫人

オーストリアフランスは今までの怨恨を忘れ、互いを自国の為に利用しようと考えました。1756年、フランスの同盟国だったプロイセンが、フランスの敵国であるイギリスと友好関係を結びました。その直後の1756年5月、突如としてフランスオーストリアは仏墺同盟を結びます。これにはルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人の意見も大きく影響していました。

ヨーロッパ中が驚いたこの仏墺同盟はプロイセンを刺激し、6月、プロイセンは新たな同盟国イギリスと結んで、オーストリアフランスロシアの三国に戦争をしかけました。しわゆる、七年戦争です。その背後にはイギリスフランスの植民地戦争があり、シレジア奪回を望むオーストリアの思惑がありました。

七年戦争は1763年2月のパリ条約で終焉します。結果はフランスにとって惨憺たるものでした。百万人の人命と二十億ルーヴル以上の戦費を失い、海外市場、植民地争奪において決定的にイギリスに敗退してしまいました。事情はオーストリアにおいても同じです。シレジアはついに奪回できませんでした。

しかし、マリア・テレジアはくじけません。さらにフランスとの同盟強化を図り、「ヨーロッパの均衡」を安定したものにしようとしました。つまり婚姻による結びつきです。それは幼いマリア・アントニアをルイ15世の孫に嫁がせることを意味していました。この計画にはフランスの国政をあずかっていたショワズールオーストリアの宰相カウニッツも賛成でした。


婚  約

マリア・アントニアが未来のフランス王妃に選ばれたのは、ただ単に年齢の釣り合いでした。ルイ15世の孫ルイ・オーギュストマリア・アントニアよりひとつ年上で、他の姉達だと年上になってしまうからです。

マリア・テレジアは1763年5月、メルシー伯爵を大使としてフランスに送り、ショワズールといろいろ画策させましたが、ことは簡単ではありません。まず、ショワズールと対立する王太子夫妻が大反対を唱えました。二人は王太子妃マリー・ジョゼフの母国ザクセン選帝侯家の8歳の姫君を自分の息子の嫁に迎えたかったのです。

1765年、王太子(ルイ15世の長男でルイ16世の父)が病死しました。つづいて1767年、王太子妃も突然病死したのです。毒殺という噂も流れましたが、とにかく最大の反対者は消え、1769年6月、ルイ15世からマリア・テレジアに正式な文書が届けられ、ブルボン・ハプスブルク両家の婚約は公にされました。そして、華燭の典は翌年、1770年の復活祭と決められたのです。


 学  習

さて、ようやくフランス王家へのお輿入れが決まったのはいいのですが、マリア・テレジアはある重大なことに気が付きました。

つまり、マリア・アントニアは愛くるしく優雅でスタイルもいいのですが、ほとんど躾などほったらかしにされていたため、13歳になると言うのに、筆跡は拙く、母国語であるドイツ語の文法は誤りだらけで作文にも時間がかかりました。フランス語はドイツ語的な表現がかなりあり、やはりろくに話せませんでした。おまけに、歴史や社会常識もほとんどわきまえていなかったのです。 ほとほと困ったマリア・テレジアはパリから家庭教師を呼び寄せました。誠実で機知に富んだオルレアン司教のヴェルモン神父です。彼はマリア・アントニアをこのように評しています。
ダンスを踊る
マリア・アントニア

「大体において正確な判断を下すことはできますが、ひとつの問題にじっくり取り組ませようとしてもそれができないのです。本来はできる子だとわかってはいますが…」 この文の前後はこちら→

つまり、マリア・アントニア学習に熱心で魅力的で知能も高いのですが、集中力がありませんでした。おまけに、すぐにふざける癖があり、しょっちゅう気が散ってばかりいたので、学問的な才能を発揮できなかった、というわけです。

とは言いながら、救いようのない劣等生というわけでもありませんでした。イタリア語は流暢に話せたそうです。またダンスも優雅に踊ることができたし、大作曲家であるグリックに教わったハープやクラヴサンをちゃんと習得しました。

H13.4.12.UP

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