「あれ?」 いきなりの疑問詞に、思わず隣に目をやる。
男性は声に出してしまったことにも気付いていないのか、夢中で本を読み続けている。
ずいぶん分厚い本だな、と思ったら、英和辞典だった。
(……大学生、かな)
20代前半ぐらいに見えた。
黒のジャケットにアンダーはグレーのニット。寒々しい冬の色を着ているのに、どこか温かい雰囲気を感じさせる人だった。
あんなに表情がくるくると変わるっていうのは、実は装丁だけが英和辞典で、中身はマンガ本。ってオチありってことなのかもしれなかった。
「あの。すみません」
「え、はい?」
じろじろと眺めていた横顔が突然こちらに向いたので、声がビクリと跳ねる。
そんなことにはまったく気付かない様子で、男性は早口に言った。
「メリークリスマスのメリーのスペルって、エムエーアールアールワイですか?」
一瞬。何語を使われたのかと思う。
(メリークリスマスのメリー?)
「……エムイーアールアールワイ、だと思いますけど」
「ああそっか。エーじゃなくてイーなんだ。ありがとう」
男性はペラペラと数ページ先までめくって、じぃっと視線を落とした。
しばらくしてから、ぱたん、と英和辞典が閉じられた。そっか、という呟きとともに。
「……どんな意味、だったんですか?」
気が付くと、口にしていた。
臣自身が驚いている隙に、男性のほうは気にもせずに、むしろ嬉しそうに答えを返してきた。
笑うと、もっとぐっと若いというか、幼い雰囲気になった。
「merryで、メリー。形容詞。意味は、陽気な、快活な、お祭り気分の、浮かれた」
へぇ。と思ったのがそのまま顔に出たのか、辞典を本棚に戻しながら、男性はさらに続けた。
「イギリスだとメリークリスマスはハッピークリスマスって言うんだって。一つ賢くなれちゃったな」
本当に嬉しそうに笑いかけられたので、臣も笑みを返した。
なんとなく、つられてしまう。そんな不思議な引力があった。
「気になって、わざわざ辞書で引いてみたんですか?」
「うん。メリークリスマスのメリーってそういえばなんだろうねえって……。知り合いの子に、聞かれて」
メリークリスマスのメリーの話になる知り合いの子なんて、ほぼ特定されているような。
どんな人かな、と思った。
そういう目で見ていたせいなのか。
蛍光灯の光が口元をかすめていった瞬間に、ある違和感を発見してしまった。
(……あ)
その正体までさとってしまって、臣は思わず赤面した。
「あの、口に」
きょとん、と男性は固まった。
「口?」
「はい、あの……」
それ以上、言葉にするのがはばかれて。
臣は黙って、制服のポケットに入れたままだった、どこかの英会話スクールのティッシュを手渡した。
男性は不思議そうな顔つきでそれを受け取る。それから何気なく、親指のはらで下唇をぬぐった。
「わっ」
と、男性が小さな悲鳴を上げた。
焦って手の甲でこすってしまったから、まずかった。
すっと口から頬にかけてまっすぐ伸びた、淡いピンク色の線。
「うわぁっ」
と、男性はさらに慌ててティッシュを何枚かとり出して、口元に当てた。
臣と目が合うと、照れくさそうに苦笑いした。
世間は天下のクリスマスイブなのだから。
名誉の勲章とでも言うべきかもしれない、なんてこっそりと臣は思う。……同性としてはなおさら。
でも失礼かもしれないけど、目の前の男性とそれは、あんまり結びつかないような気がした。
「もしかして今って、デートの最中だったりしますか?」
「うん。いちおうね」
確認がとれたので、臣はきょろきょろと辺りを見回してみる。
「なに?」
「あ、彼女さん、そこらへんにいるのかなと思って」
「あー。今はいないよ。トイレに行ってて……」
ぷつ、と言葉が切られた。
男性は笑みを消し、明らかに顔色を急変させた。
どうしたんですか? という臣が問いかけてみても耳に届いていないようで。
「……どうしよう」
と、呟きが口からもれた。
臣が眉をひそめた瞬間、ぴんぽんぱんぽんと陽気な音が流れ始めた。
女性の練られた声がフロア全体に響き渡る。毎度高島屋にお越しいただき……のお決まりの文句のあとに続けて。
「お客さまのお呼び出しを申し上げます。安藤春日先生さま、安藤春日先生さま、お連れさまがお待ちです。1階のサービスカウンター前までお越しください」
繰り返し申し……、という女性の声を遮って、うわぁ〜どうしよう、と男性が頭を抱えた。
「もしかしてこれって……」
臣は思わず人差し指で天井を差す。
男性は無言のまま、ただ頷いた。
じゃあまた。と社交辞令の別れの挨拶を残して。
超特急で消えていった。
エスカレーターで。
エレベーター使えばいいんじゃ、とフォローする暇もなく。
「先生、なんだ……」
小さくなっていく背中を見つめながら、臣は小さく呟いた。
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