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NHK紅白歌合戦 

『NHK紅白歌合戦』の第1回は、昭和26年1月3日に放送を開始、トップバッター菅原都々子さんが歌う「憧れの住む町」が流れるや、スタジオ内の熱気が日本中に響き渡り、NHKの電話回線が不通になったというエピソードまで残っている。
 日本がサンフランシスコ条約に調印し、マッカーサーが解任され年のことであった。翌27年の第2回は90分に拡大して放送された第3回が28年1月2日、第4回はこの年の12月31日に放送されている。つまり、昭和28年には2回放送されているが、これは第1回から第3回までは年に一度の歌謡エベントとしてはまだ定着していなかったからだ。
 大晦日恒例の公開番組として定着していくのは、テレビが本放送を開始する第4回からであった。『紅白合戦』が大晦日になったのは、正月は興行の世界がかき入れ時で、会場の確保が困難だったため、興行の少ない大晦日のほうが大会場を抑えやすかったためと言われている。
  

 
 
紅白歌合戦の選考基準

その年の活躍度                
世論の支持               
番組の企画・演出プランとの合致
@「出場して欲しい歌手」「聴きたい歌」
〈後世に残したいと思う歌」について全国3,600人を対象にした
NHK放送文化研究所の調査
A「NHKのど自慢」などの予選出場者の曲目
BCD/カセットの売上げ
Cカラオケのリクエスト
D全国放送局による1万人アンケート

 

時代の終焉と始まり

 昭和64年(平成元年)には昭和歌謡の歌姫でもあった美空ひばりさんがこの世を去る。そうした中で「紅白歌合戦」も大きな転換点を迎え、「第40回(平成元年)は大きく様変わりする。これまで午後9時スタートだった放送時間を7:20分〜11:45分までの4時間25分に拡大、5分のニュースをはさみ前半を著名人の証言と歌で構成する「戦後歌謡史」後半に1年のヒット曲で綴っていった。この「ロング紅白は」新たな平成版の「紅白」始まりを予感させるものであった。以後、「紅白歌合戦」は音楽シーンの変化に呼応しながら長時間紅白として定着していき、現在に至っている


ひばりさんの登場

 昭和29年、プロレス中継が始まり、力道山・木村正彦対シャープ兄弟の対決に街頭テレビには黒山の人だかり、この年の「第5回紅白歌合戦」にひばりさんが「ひばりのマドロスさん」で初出場、6回、7回に出場しなかったものの、32年の第8回目には出場2回目にしてトリをつとめる事になる。ひばりさんの登場は、来るべきテレビ時代の「幕開け」でもあった。


昭和の歩みの中で

 池田内閣が「高度成長・所得倍増」掲げた昭和35年以降は変革に満ちあふれ、社会に新しいものを受け入れようとする機運が高まっていった。音楽会も歌謡曲、ポップス、 グループサウンズなど百花繚乱の華々しさであった。
第13回(37年)には戦前派の歌手が姿を消し、新旧の世代交代が行われた。この時の視聴率は81.4%を記録、「紅白歌合戦」はNHK年末恒例の番組から芸能界最大のエベントとして「国民的行事」とまで呼ばれるようになった。
第17回(41年)にはGSブームやフォークソングの流行の影響で、ジャッキー吉川とブルーコメッツが「青い瞳」マイク真木が「バラが咲いた」で初出場を飾り、紅白のステージにも新しい音楽の風が吹き始めた。
第21回(45年)には山口百恵、森昌子、桜田淳子ら花の中3トリオ、郷ひろみ、麻丘めぐみ等10代歌手が台頭してきた。
第29回(53年)には山口百恵の「プレーバックPart2}沢田研二の「LOVE(抱きしめたい)」がそれまでの演歌にとって代わり、トリの座を射止めた。今でもカラオケで歌われる歌の多くがこの年代に生れており紅白はそうした歌を多く取り込んでいった。歌謡曲全盛時代の第26回(50年)からはブラジルへの衛星放送も始まった。

 
 

 

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