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日書院展(平成21年4月15日)
 東京都美術館で開催される日本書道院展(日書院展)には長女が出展しているので、毎年妻と二人で見に行くことにしている。従来は開催時期が6月のため、雨の日が多かったように記憶しているが、ここ2,3年前から4月開催に変更されいる。
齋藤佳僊書
第一科審査会員に推挙
当然のことながら過去はJRで出掛けていたが、最近は妻の行動が鈍くなってきており、特に昨年の足の事故以来、急激に歩く距離・速度共に落ちてきていて、公共交通機関利用はとても無理のため、昨年より車で出掛けることにした。

 幸いなことに上野駅には公園口の屋上が駐車場となっており、便利に利用することができる。駐車場から50m程、急坂を下らないとならないが、そこは駅公園口の横手である。美術館までは500m程であるが、最後の階段を下り、地下入り口に到達するまでには20分以上掛かってやっと到着した。

 日書展会場は館内の一番奥のため、100m程歩いて、会場入り口に着く。長女の作品の展示場所が第2会場であることを確認し、第1会場の役員や受賞作品を見学しながら、第2会場に向かった。長女の作品の前に柱があり、余り良い場所ではなかったが、今回の作品は第一科審査会員に推挙されていた。
西洋美術館前にて

 折り返して第3会場及び第4会場を見学して来ると入り口付近に戻ってきたので、妻をベンチに座らせて休ませ、細かく区切られた第5会場から第13会場までの1階会場を駆け足で見学してきた。2階会場では全国学生書道展を開催していたが、省略してきた。

 妻は全く無表情でどれだけ理解できたかは分からないが、映像認識はできており、妻なりに上野公園、都美術館、書道の展示物は過去の記憶と重ね合わせることができたと思っている。

 帰途西洋美術館入り口のつつじが咲き始めていたので、妻の写真を撮っていると、丁度西洋美術館から出てきた、二人連れの若い女性が近寄ってきて、「二人並んだところを撮りましょう。」と声を掛けてくれたので、撮ってもらった写真である。

散歩再開(平成21年4月15日)
 妻は昨年の足のケガ以降、歩くことに自信を無くしたのか、興味をなくしたのか、歩き方が鈍くなって来ていた。また昨年暮れ頃から、寒さの影響もあったのかも分からないが、足下を見て歩くことが多くなり、時々腰を「くの字」に曲げて前傾姿勢を取るようになって、体の重心が前方に移動し、姿勢が不安定になることもあった。そこで、スーパまで往復1km程だが、天候をにらみながら夕方の買い物には出掛けていたが、夕食後日課にしていた散歩を止めていた。

 春になり暖かさも増してきたら、機会を見て散歩を再開したいと思っていたが、4月に入っても寒い日が続いたり、雨風の日もあり、中々その機会がなかったが、5月に入り天候も安定して来ると共に、歩き方も前傾姿勢を取ることもなくなり安定してきたので、夕食後の散歩を再開した。

 スーパへの買い物には図のように決まったルートを歩いているが、同じ道を往復することなく、帰途は花の植え込みのある路地を入って回り道をしてくる。夕食後の散歩には、たまに出掛けることがあったが、1年以上休んでいるので、道をどのように覚えているか、またどのようなルートを歩くのか非常に興味のあるところであった。

 結論から言うと、従来同様、日によって散歩の経路を変更し、違ったルートを歩き始めたことである。まだ、自宅周辺の散歩ではあるが、4日間のルートは図のように四方に歩いていることが分かる。

 歩き方は数歩歩いては止まり、そして周りを見渡し、また数歩歩くの繰り返しなので、非常に時間は掛かる。しかし、ある方向を向くと、しばらく見つめて、過去の記憶にある映像と重ね合わせ確認しているようである。また交差点に来るとスッと直進するところもあるが、前方を眺めているかと思うと、首を左または右に曲げ、景色を眺めて進路を変えている。

 また、従来同様、表通りだけでなく、路地へも入り込んでいる。そして、回り道をしながら、最終的には自宅に辿り着いている。1年以上の空白期間はあるが、映像情報に関する記憶は今も健在のようである。

 その後の散歩では1度東方向の池上線を越えたこともある。現在は自宅周辺のみの散歩ではあるが、徐々に散歩の輪を広げ、池上駅、蒲田駅、矢口渡駅方面への散歩を思い出すことを期待しています。

成年後見人制度(平成21年8月20日)
 3月初め妻の簡易保険満了の通知がきた。そしてその手続のため、かんぽ生命の職員が訪ねてきた。妻は今は書くことも話すこともできないので、代筆処理で済むものと思っていた。しかし、現在は「本人自筆が必要であり、また書けない場合には口頭による確認が必要である。」とのことである。それらが不可能の場合は成年後見人を立てる必要があるとのことである。

 成年後見人制度(平成12年制定)のできたことは知っていたが、言葉だけで詳細については承知していなかった。身の回りの世話をしてくれる人が近辺にいない人にとっては良い制度だなと単純に考えていた。従って、夫婦間においてもこの制度が適用されるとは考えてもいなかった。

 また成年後見人が必要と言っても、夫婦間の問題であり、弁理士を介せば簡単な手続きで済むと思っていたが、区役所などを調べていくと、被後見人と後見人が夫婦であるか、他人であるかに関係なく、後見人を決めるのは家庭裁判所であり、家庭裁判所に対して申請書を提出し、裁定を仰ぐ必要があることが分かってきた。

 即ち、成年後見人用の書類を提出し、その書類審査を受けるという単純なものでなく、全く一般の訴訟事件と同様に「一つの事件」として申立をし、その裁定を受けることが必要になる。その申立をするための提出書類の内容を聞いてまた驚いた。 遺産相続時の手続書類に匹敵するとも劣らない、書類の準備が必要となる。それらの書類は以下の通りである。

(1)東京家庭裁判所の様式
書 類 の 名 称
申立書
申立事情説明書
後見人等候補者事情説明書
親族関係図
財産目録・資料(預貯金通帳の写し、不動産登記簿謄本など)
収支状況報告書・資料(領収証の写しなど)
 
(2)本人についての書類
書 類 の 名 称
戸籍謄本
住民票(世帯全部)
登記されていないことの証明書
医師の診断書
 
(3)後見人候補者等についての書類(但し、申立人と同一の場合は不要)
書 類 の 名 称
戸籍謄本
住民票
 
(4)申立人についての書類(但し、被後見人と同一の場合は不要)
書 類 の 名 称
戸籍謄本
住民票
 
 先ず親族関係図には本人(被後見人)から見て、配偶者、子供、両親及び兄弟、並びに配偶者の両親までを記載する必要があり、それを証明する戸籍謄本が必要になる。本人の財産目録として預貯金、保険類及び不動産などを全て整理する必要がある。そして本人の収支報告書をまとめねばならない。医師の診断書と共に、必要に応じて精神鑑定を実施するので、その鑑定料10万円(最大)を準備しておく必要がある。本人に関する書類中「登記されていないことの証明書」とは本人が現在『後見人を置いていないこと』(登記がなされていないこと)を証明して貰うものであり、その取得のためには東京法務局まで出向き(郵送も可)、取得する必要がある。若干余談になるが、法務局には成年後見人用の窓口が有り、列をなしてるまでではないが、登記の無いことの証明書の取得並びに後見人登記簿の取得のために、途切れることなく人が訪れている。以上のように可成り大量の資料であり、資料の収集やまとめのために約1ヶ月程掛かってまとめ上げた。

 書類の準備ができたところで、家庭裁判所に「申立て」の予約のために電話をして、約半月後に日程が決まった。当日、東京地裁に出向き、審査のための審査料の印紙及びその後の郵便物用の切手を地下売店で準備し、手続を済ませ、事情聴取を受けた。

 提出書類に従って2時間ほど、事情聴取は行われたが、提出書類の医師の診断書によって、本人の認知度が確認できたため、本人に対する再度の精神鑑定は不要となり、直接審判を受けることとなった。そして半月後に審判の結果が送られてきて後見人として認定された。

 家庭裁判所に確認したところ、半月ほどで法務局に登記がなされるとのことであったが、結果的には1ヶ月ほど掛かってやっと登録済みの通知を貰い、再び東京法務局に出向き登記簿を取得して、やっと簡易保険を受け取るための手続ができた。最終的に保険を受け取るまでに3ヶ月以上費やしたことになる。

 今回の処置によって、妻の財産は家裁の管理下にあり、後見人として妻の財産を管理していく必要があり、年度毎に預貯金など収支報告が義務づけられたことになった。

 余談だが被成年後見人になることによって、妻は選挙権を失った。早速7月に都議の選挙があったが、今まで投票券は2枚送られてきたものが妻の投票券は無く1枚となっていた。ここ数年選挙権はあっても棄権していたので、投票券が送られてきても投票には行かないのであるが、来るべきものが来ないと「人権」を失ったことを実感し、一抹の寂しさを感じる。

行動の変化(平成21年12月27日)
 今年1年を振り返って見る。今春妻の介護度更新の審査により、「介護度5」と認定された。従来からの知能低下に加えて、自らの意思で行動できなくなったことによるものである。足のケガ以来、1年を経過し、ケガそのものは完全に治ったが、今まで出来ていた行動そのものを忘れてしまったようである。朝目を覚まし、寝床から体を起こし、立ち上がる。また、椅子に座っていて何かしたいと思えば、椅子から立ち上がる。このような当然のように出来ていた行動が出来なくなった。足腰の筋力が弱ったためかとも思ったがそうではない。起き上がったり、立ち上がると言う行動そのものを忘れ、またそのために”どのような行動(動作)をとるべきか”を忘れたようである。

 足のケガをした際、最初寝床から起こすために、体を抱えて起こしていたが、これではこちらも腰を痛めることとなり、長続きはしない。そこで一旦ベットに座らせ、両手を持ってかけ声と共に弾みを付けながら、2,3回手を引いていると、やっと立ち上がるのだと認識して、自分でも足に力を入れ、立ち上がってくれるようになった。このようにある程度、同じような行動を繰り返していると、新しい記憶も蓄積されるようで、現在ではかけ声と共に立ち上がってくれるようになり、手は出しているが殆ど力を加えることなく、自力で立ち上がることができている。

 しかし、このような支援による行動は一応覚えてくれたが、自分で立てるように動作をまねさせようとするが、これは教える方法がない。立ち上がるためには、両膝をつき、片足膝立てをし、手の補助を借りながら、膝立てした足に力を入れて立ち上がる。我々一般人は他人の動作を見て、それを真似て同じ行動を覚えていくことが出来るが、真似るという行動そのものが理解できない。

 散歩に関しては春先頃、家の周辺だが少し歩き始めたので、更に発展してくれることを、期待していた。しかし、残念な結果になった。今年は可成り天候不順で、5月に入り散歩もこれからと言う時に、雨がちの日が続いた。従来は雨の日でも傘を上手にさすことが出来たので散歩に出掛けていたが、最近は傘の持ち方を忘れてしまい、上手く傘をさすことが出来なくなった。また1,2滴雨が降り出すと、急に本降りになるケースが多く、散歩に出掛けられる日数が大幅に少なくなった。

 そうこうしているうちに 夏を迎えた。夏の暑さには弱く、買い物に出掛けても、歩けないのではなく、歩かないのである。従来の散歩でも、立ち止まることは多かったが、前方を見つめ立ち止まっては周りをキョロキョロ見回して観察していた。しかし、周囲を見回すことなく、俯き加減となってきた。歩いても3,4歩で立ち止まる。歩幅も小さいので、1回歩いて1M程度である。たまに10歩ほど歩いてくれると非常に進んだ感じになる。スーパーまでは往復で約1km有り、従来は買い物をして帰宅するのに、3、40分程で済んでいたものが、歩くだけで1時間を超えるほどになってきたので、デーサービスから戻ったら買い物へ、そして夕食後散歩に出掛けると言う訳にはいかなくなった。

 秋を迎えても今年は天候不順が多く、散歩に出掛けるチャンスも少なくなり、たまに散歩に出掛けるようになったが、家を出て右折、右折し、次の通りで従来は左折し、家から遠ざかり散歩コースに向かっていたが、右折して家の方向に戻るようになってきた。どうやら昔のように歩き回ると言うことも忘れてきたようである。このようなことから最近は夕食後の散歩は止め、雲行きを眺めながら、スーパーへの買い物だけは出掛けるようにしている。

 不思議なことに唯一発達してきているのが、指先のセンサー機能と握力である。ピック病の特徴として握力が強いことは以前に述べたが、その握力が更に強くなり、指先のセンサー機能も発達してきている。従来から手など握る傾向があり、その握力の強さに驚いていたが、最近はその握力が更に増している。そして指先のセンサー機能は素晴らしく発達し、指先に触れるものは何でも素早く捕まえる傾向にある。歩くなど体の動作機能は低下してきているのに対して、指先に機能が集中して仕舞ったようにも感じられる。

 従来は衣服を脱ぎ着する際、その行為が分かっていたので、自分で袖に手を通し、協力してくれていたが、最近は服を脱ぎ着するという行為の目的が分からなくなったのか、袖に手を通そうと服を持って行くと、両手で服を握りしめたり、やっと袖に手を通し袖口まで指先がくると、今度は袖口を握りしめるなど指に触れる物を握りしめたくなるらしい。その握り方が一寸物を握っていると言う感覚でなく、グッと握りしめたいるのである。その手を離しに掛かると、更に握りしめに掛かり、その手を離させるためには可成りの力を必要としている。また、両手で握っているような場合、片方の手をやっと解いて離させ、反対側の手を解きに掛かろうとすると、今解いたばかりの手がまた掴みに掛かる。それを繰り返す場合もある。

 更に困ることは服を脱ぎ着している時、片方の手首を握られて仕舞うことである。片手では着せられないので、手を抜こうとすると、更に力が加わり骨が痛いまで握りしめられる場合もある。手首を握られていても、力が手先だけで腕の力がないのならば、手首を握られながらも両手を動かすことが出来るのだが、腕も手首を握った位置で、固定されてしまい、片手は完全に封鎖されてしまう状態となる。体の動きが鈍ってくるのに対して、このような手の力と敏捷さがどこから生まれてくるのか、不思議でならない。

 もう少し冷静に考えてみると,、本人は言葉を失っており、当然のごとく感情を言葉で表現することが出来ない。また、顔や態度で表現することもできない。一見感情がないようにも見えるが、人間である限り喜びや悲しみは持ち合わせているであろう。普通に手を握っている時には、静に握り返し離そうとしない。何か安心感があるのか、静にしている。一旦手を離そうとすると強く握り返してくる。何か手で握りしめていることが、孤独感から逃れる、唯一の手段であり、手に触れる物を握り締めようとしているのではないかと思われる。本人にとっては唯一の感情表現手段であり、その結果、センサー機能が発達し、握りしめる力も増してきているのかも知れない。もし、感情表現の一つであるならば、理解してやれないのが、残念である。


介護10年目を迎えて(散歩)(H22.6.13)
 妻の日常の行動に異常が現れ始めたのが21世紀を迎えた2001年(平成13年)で、今年は10年目を迎えた。一日一日では変化は分からないが、10年を振り返ってみると、その変化は大きい。従って、介護の内容も色々と変遷してきているが、この10年間続いているのが、『散歩』である。
多摩川の散歩コース

 妻は健全な頃より、日常の買い物に蒲田まで往復2.5km程の道のりを歩いて出掛けることを日課とするほど歩くことには慣れていた。また自分も退職後の運動不足を補う意味を含めて、時々妻と多摩川まで4〜5kmを1時間から1.5時間程かけて散歩に出掛けていた。(図参照)

 この散歩は妻の症状が現れ始めてからは日課となり、少々の雨でも傘をさして出掛けるようになった。月日を追う毎に、他人との会話ができなくなり、挨拶さえできない状態となって、「散歩」は唯一行動を共にする手段となった。

 寒い冬場など多摩川土手を歩くのは厳しいので、徐々に土手に出る手間の道を曲がるようになりだした。会合などに出掛けた時には、出掛ける際、「帰宅後散歩に出掛けるから待っているように」と言い聞かせて出掛けるのだが、帰宅してみると、待ちきれず、一人で出掛けてしまっていることも何回かあった。慌てて追いかけるのだが、当時は歩く道は十分承知しているので、そう気にはならなかった。
 
 忘れもしない問題が発生したのは2003年7月17日の出来事である。何時ものように、あるクラブの会合に出掛け、帰宅してみると,家の中の雰囲気が違う。昼間買い物に出掛けているが、帰ってきた形跡がない。前日、蒲田まで、一緒に出掛けた際、一寸普段と違った行動を取ろうとしたことを思い出した。ここ2,3年一人で電車に乗って出掛けることがなかったのだが、昨日JR蒲田駅のコンコースを渡っている際、自動切符売り場の方に向かい切符を買おうとする仕草をしたことである。この変な予感が当たり、JRに乗ってしまい、翌日埼玉県川口で見つかった事件が起きている。

 この事件以降、一人で留守番させることが出来なくなった。毎日の買い物及び散歩に一緒に出掛けるようになった。2003年度の介護申請で「介護1」となったので、4月より、デーサービスに月、木曜日の週2日通わせていたが、秋より火、金曜日の2日間ヘルパー派遣を依頼し、蒲田までの散歩を兼ねた買い物、及び妻も参加する形での夕食作りをお願いした。

 2004,5年頃より多摩川方面への散歩から、妻が健全な頃、良く犬の散歩に出掛けていた池上駅方向に散歩ルートを変更した。池上駅周辺で踏切を越えたり、越えなかったりでほぼ同じ道を歩いていた。しかし、2007年(平成19年)春頃の出来事である。散歩道を歩いていると何時もは通り過ごす路地の前で立ち止まり、しばらく路地を眺めていた。そしてその路地に入り始めたのである。そして路地を進み、右折を繰り返して元の通りに戻り、歩を進め始めたのである。これを契機に、角角で立ち止まった時、進む方向を本人の選択にませたところ、健全な頃、買い物など出掛けていた家を中心にした約2km四方の範囲を日毎に方向を変えて歩き始めたのである。そして、最終的には自宅に戻ってくることが出来ることが、分かった。

 これは脳障害により、知識、常識と言ったものは失われているが、眼からの映像情報については正常に処理が出来ており、歩く行動にフィードバック出来ていることになる。本人も毎日コースを変えて散歩することに興味を持ってきた様子であった。またどのようにコースを決めているのか興味があり、毎日のコースを7ヶ月間にわたって記録を取ってみることにした。その結果、歩くコースは8つに分けることができ、それぞれのコースを月毎にほぼ同じ頻度で、歩いていることが分かった。

 順調に進んでいた散歩だが、2008年1月の下旬になって、急に歩き方がにぶくなりだした。本人が「ここが痛い。」と言ってくれれば簡単だが、顔をしかめる訳でもなく、ただ歩かなくなっただけである。右足の親指に少し傷があり、それが原因かと思い、医者に診て貰うが、特に問題はないと言う。医者は指定した場所に対する判断はしてくれるが、当然ながら、体中を見回して歩かなくなった原因を追及してくれる訳もない。

 その後、1週間ほど無理をして散歩に出掛けたことが、大きな失敗の原因であった。月末の風呂上がりに何時ものように椅子に座らせた際、「左足の踵部分が大きく黒くなっているのを発見!」よく見ると靴擦れで出来た、直径3cm程の血豆である。原因の分かったことはよいが、時既に遅く処置の施しようがなく、基本的には自然治癒を待つしかない状態となっていた。原因は足の浮腫から生じた靴擦れによるものである。若干足の浮腫には気がつけていたのだが、毎日履いている靴ではき慣れており、靴擦れなど全く想像していなかったことである。全く本人の立場になって、本人の症状を見つけ出す介護の難しさを痛感した。

 靴擦れが完治するまでには3ヶ月程掛かり、この間に生活行動に大きく変化が生じた。一人でベットから起き上がることが出来なくなったため、先ず、ベットから起こすために一旦ベットに座らせ、手を引いて起こし始めたことから、ベットから起きると言う行為を完全に忘れてしまったことである。椅子に座っても自ら立ち上がって歩き回ることもなくなり、これも手を引いて歩かせることが必要になった。

 春先より散歩を再開し始めたが、従来は雨の日でも上手に傘をさすことが出来ていたので晴雨に関係なく、散歩に出掛けていたが、傘をさすことが出来なくなったため、雨の日は勿論、歩行速度が遅いので、散歩の途中で雨に降られると困るため、雨模様の時にも散歩に出掛けられなくなった。一応散歩は復活できるようになったが、散歩を日課とすることが出来なくなった。季候の良い春先のうちに散歩を元のように習慣づけたいと思っていたのだが、思った以上に天候不順な日が多く、天候を睨みながら、出掛けるものの、習慣づけるまでには至らないうちに夏を迎えた。夏の暑さは妻にとって大敵で、従来からも夏場には歩く速度が落ちたのだが、それが更に遅くなりだした。

 2年ごとに更新される介護度は2009年度の更新で、介護度3から一気に介護度5に上がってしまった。天候を見極めながら、一応散歩には出掛けていたが、歩く速度が徐々に遅くなりだし、昨年の夏頃より、往復1km程のスーパへの買い物が散歩の中心となってしまった。夏も過ぎ、涼しくなった秋に何とか散歩を回復したいと期待したのだが、可成り天候不順な日が多く、散歩に出掛けられない日が多かった。 冬を迎えると新型インフルエンザの発生で、散歩より新型インフルエンザ予防が優先となり、暖かい日のみの散歩となってしまった。スーパへの買い物時間は従来30分程であったが、徐々に歩く速度が遅くなり、暮れ頃には1時間ほど掛かるようになっていた。

 新型インフルエンザも一段落し、再び春に期待したのだが、歩くことに対する興味がなくなったのか、屋内では遅くなったと言っても比較的スムースに歩くのだが、屋外へ出ると歩かなくなりだした。数歩歩くと立ち止まる。しばらくしてまた数歩歩くの繰り返しとなってきた。足腰が弱って歩けないのではなくて、歩こうとしないのである。火曜日はヘルパーと一緒にスーパへ買い物に出掛けて貰っていたが、今年4月頃より帰途、前傾姿勢となり抱きかかえながら、帰宅することが2,3回発生したため、買い物の途中での事故を防ぐためヘルパーと一緒に買い物に出掛けることを止めることになった。

 最近ではスーパへの買い物時間が1時間半程掛かるようになった。歩く間隔はそう変わってはいないのだが、歩幅が狭くなったためのようである。従来は3歩歩けば1mは進んでいたものが、歩幅がやっと足の長さで、場合によってはつま先と踵が重なっている場合もある状態となり、5,60cm程になっているためである。やはり買い物に出掛ける時間に1.5時間も掛かってしまうと予定が狂ってくるので、買い物とは別に少し短いコースで本人の気乗りするコースを現在模索中である。
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