疆 域
相模の国三浦郡 二萬二千五十八石、村里七十三、又出戸有り
 三崎郷 村名十四、又出戸あり。三崎或いは御崎に作る。蓋し三御聞き読み相通ずれば
    なり。按に中華万二千五百家を郷と云う。吾邦にて郷と称するは、その大概なり。
 三崎町 按に街坊相接す。大抵一町毎に界有り。故に俗に街坊を謂て町とす。
 東 黒嶋、大根海、鹿嶋、房州、鋸山、鞍掛山、洲の崎等有り。
 西 大崩、小坪、鎌倉七里ヶ浜、南湖平塚、大磯、小田原、箱根、真名鶴、伊豆、伊籐、
   洲の崎等なり。富士岳は雲間に高く聳ゆ
 南 豆州、大島
 北 姥神の森、尖山、武山
 路程 至浦賀五里、房州勝浦海上七里、鎌倉六里、戸塚八里、江都十八里、金澤八里、
    小田原十八里、大島渡海十八里。
按に相州の崎、豆房の間にあって両州崎に対す故に三浦と名く。或説に三浦郡の崎なるに
因って名るとも云い、未だ是の孰を知らざるなり。或いは曰く、日本に七御崎ありと。
御前岬各異なり。能州の三崎のみ、越後佐渡の崎に対して中央なるは字義同ずと云う。
 

 府治
御番所 慶安元年に置き、元禄九年に同郡浦賀に移す。
御役所 宝蔵山下にあり。享保六年これを置く。騎士一口、歩卒二口、浦賀御番所より来
   たり。官船を監し、且三崎港出入りの舶に検校す。これ三十日を以て瓜期とす。
御船蔵 宝蔵山下に有り。享保六年初めて作る。
   官船 下田丸、長津呂丸、千里丸、日吉丸、小緑丸
御塩硝蔵 宝蔵山下、半腹に有り。
御篝屋 城ヶ島にあり。延宝六年初めて置く。燈を照らし遠方の舟船をして、暗夜と雖も
   火光を見て方を知ることを得せしむ。蓋し国家の恵なり。享保六年より篝火に代わ
   る。
遠見御番所 享保六年初めてこれを置く。
牢岩穴 見龍山下に有り。慶安の頃、獄と為せし所なり。

この地は昔時和田氏領、中頃北條氏に属す。後向井兵庫の頭の采地となる。

 湊 年々風浪砂石を送り来たり、海漸く浅し。商客魚人これを患い、官に告す。よって
  南條金左衛門の尉奉行として、数万人をして是を疏鑿せしむ。実に宝永年中なり。是
  より以来、舟行自在を得て、民大いに利す。蓋し国家の仁なり。
 

 街村
東町 大東、中東の別あり。
香能連町 貞観中、香能連と云う翁此処に居す。壽百五十歳を経たりとぞ。後町名とす。
宝満町 昔此の所に浄土真宗の寺あり。宝満と名く。故ありて総州銚子に移す。今猶町名
   とす。
六軒町 札の辻
大黒町 昔この所にて売買せし物七品有り。蓋し大黒天は七神の一なり。故に擬して名く。
切通新道 新町 中之町 稲荷山町 平目町 磯崎町
花暮町 昔城ヶ島に好花有り。春来たり、貴賤此処に集まり眺望、杯酒、歓賞して日を暮
   す。因って名るとかや。
築出町 中頃、海浜新たに築出せし所なり。
背戸町 昔片側なり。風波の難あれば裏道を往来せし故に名く。
本宮町 海南社記に云う。二間の茅屋を造り三年棲む。夫婦相共に岩棲の処なり。
西之町 海南町 横町 鍋町 八軒町 上ヶ橋町 脇町 勘解由下 西濱 上山 寺屋敷

城村 一名尉の谷。按に貞観年中一人の尉此処に居す。因って名るとぞ。
城ヶ島村 田尻村
六ヶ村 向崎、宮川、原、東町岡、西町岡、二町谷以上六ヶ村、漁を業とし三崎の釣舟に
   属す。出帆朝、帰帆夕、笛法螺貝等を以て告と云う。中興漁業を止て、農家となる。
   今三崎に六ヶ丸と云る釣舟は、其の遺風なりと云う。
 

 
一貫橋 東町にあり。此の橋上にて誤って倒るる者は、必ず病を得と云い伝う。其の由来
   を知らず。
筑摩橋 鍋町にあり。君がかつがん鍋の数見んと云う。古歌によりて名けたるにや。
 

 清液
桜井 扇井 
浦嶋井 西隅に穴あり。
宝満寺井 於松井
雀井 大井とも云い、日蓮宗安乗寺の旧跡なり。
平目井
 

 島嶼洲渚 按に相州方言、石洞を屋蔵と云い、磯を根と云う。
城ヶ島 海上十余町に有り。此の島に一人の尉住む。因って尉ヶ嶋と名く。頼家公遊覧の
   時、城の字に改め玉うとぞ。昔は僅かに十八家ありしとかや。今は八十余宇あり。
   各々漁を業とす。
永世濱(一名酔女濱)
長戸呂 入江大小あり。
大濱、小濱、坊寝入、赤羽根、馬ノ背、水走、水垂、僧ヶ谷、鳩岩倉、狼烟跡、牛ヶ池、
一番森、二番森、養老子(一名夜桜子)、居洗井戸、細間
   昔鎌倉右大將遊覧の時は必ず此の所に宴す。
遊崎 頼朝公遊覧の時、實平左を顧みて挙螺を投ぜしむは此処なり。
釜嶋 由来上に同じ。
硯岩 同上。
淡崎 海南宮記に詳らかに見えたり。一名安房崎、此の崎房州に相対する故に名るとぞ。
神楽高根 海南社記に詳らかなり。
白島二、黒島二、
明神島 一名をシヤウシカ崎。此処漁をなさず。また舟を往来せず。もしこれを犯す時は、
   必ず祟りを得ると云う。
華嶋、離島、宝碌嶋、螺島
御座磯 昔海南宮、三崎に来たり玉う時、初めて此の所に着座し玉うと。
犠合池 海南社記に曰く、貞観の昔より分利の例を以て、故に年初魚を取る者、犠合と号
   し、草藁に包み、御座磯の海内に沈むと云う。今尚其の例あり。
中島、鳶島、
名賀島 昔鎌倉公遊覧の舟が此処に寄り玉いしと。
蛇島、二嶋、
向ヶ崎 此処昔はただ草樹砂礁のみにて人家稀なりしが、慶安年中御番所草創の頃、伊勢
   の漁者十人、三崎より此の所に移居す。其の子孫、今尚存ず。因って伊勢嶋とも名
   づく。
北條入江 北條氏、曽って城郭を此処に作る故に名るとぞ。一説に鎌倉幕下、この所にて
   放生会を行い玉いし故に名く。音通ずる故に、後世放生を北條に誤るとも云う。
忌崎 海南の祭十一月初申日なり。此の日、三崎忌服ある者は、此の所に避く。祭終わっ
   て家に帰ることを得る。俗に出居戸と云う。
鮫淵 大鮫常に此の淵底に潜る。もし見る時は、必ず風雨起こると云う。
尼ヶ崎 塁染崎とも名く。
経島
狭塚入江 天和中舞ウ(雨乞い)する処と云う。
手斧崎 手斧山とも名く。蓋し山の形状似たるに因って云う。
戸崎島、材木屋蔵、平瀬島、多羅根
矢立根 大小あり。
森崎、中根、関根、千鳥根、狗子根
笠根 東西にあり。
松下根 
没怪根 大小東西にあり。
通矢、窪返、日出根、鳩矢倉、鷹巣嶋、桶島、八景屋蔵
堂ヶ島 昔此処に三浦札所観音を安置す。今毘沙門海応寺に移せり是なり。
鵜鳥嶋、巣子浦
盗賊入江 天和中、房州の盗賊の船此処に来海す。
盗賊矢倉、長入江、横根、八尋濱
御伊勢崎 また山とも云う。
夕日映、長手崎、立島、西端、八背居根、小手崎、浅間塚、四方志入江、大根
西行屋蔵 土偶像あり。この処大いなる蛇有り。
恐毛立根、横瀬
獺屋蔵 獺多く棲めり。
白沙崎、小刀崎
 剣崎 萬治年中、官の材木海底に没す。海南の神主、剣を海に投じ龍神に祈る。即ち風
   波静まり、材木浮かび出づ。十八艘の刳木にて、三つ磯まで引き出す。因って、そ
   の処を剣崎と云う。
馬背、雨崎、
居島 海南社記に委あり。
灘崎 相模灘に相対す。因って名く。
横高根
歌舞島 安貞三年、駿河の前司歌舞を催せし所なり。
梵天島 昔一僧此に来たり法を修む。
望眩島、六ヵ矢倉、狸桁入江、
大戸呂崎 入江あり。
小嶋、地獄谷入江、立野嶋、大島、平島、狐濱
宿神屋蔵 諸磯にあり。或いは曰く、三浦荒次郎の乳母、木像の薬師を此に安置し、寝ヌ
   神と尊号して是を景仰す。後正念と云う者、村中に移し、宝暦中また見竜山下に移
   す。(愚按に海南社記に云く、夫婦相共に岩隠れの所と云う諸居修、修曽の音相近
   し。今諸磯と云うは、即ち所謂諸居修なるべし。この岩窟を指なり。寝ヌ神の説は、
   後人の誤り有るべし。因って明神濱の名あり)
明神濱、坐頭松、松ヶ下
油壺入江 三浦道寸城跡なり。
千駄屋蔵 同上
弁天屋蔵、雀島二、胴網入江、兜島、廣根、海老川、唐櫃入江、大石、預島、長濱、諸磯
根、笠湖根、夷耶保根、武楽根、志羅根、粒根、鎌根、石筝高根、沼高根、蘆高根、畳石

按るに七崎と称するもの三つあり。即ち上に所謂、磯崎、淡崎、手斧崎、小刀崎、小手崎、
剣崎、雨崎、これ東七崎なり。資盈崎、灘崎、小網代崎、黒崎、荒崎、三浦崎、刈屋崎、
これ西七崎なり。尼崎、淡崎、遊崎、手斧崎、灘崎、向崎、忌崎、これ内の七崎と云う。
 

 山林
楫谷山 海南社記に曰く、家司三郎殿拈じて楫咒して、「此に於いて宜しく静まるべきの
   地に止まるべし」と云て即ち抛つ。その落ち止まる処を楫谷と名く。
宝蔵山 古跡部に詳らかに見ゆ。
日和山 一名照臨山。土人この山に登り日和を窺い知る故に名く。昔稲荷山に鐘楼あり。
   六時を報す。享保中此処に移す。今は廃す。
鰹木山 一名獅子崎。海南楫谷山に相連なる。
粟餅山 曽って粟餅三郎兵衛と云う者ここに居す。因って山の名とす。
西山 御林
泰平山 一名八幡山。
陣屋山 御林
楫三郎殿山 海南社記に詳らかに見ゆ。
最福寺山 御篝屋有り。
薬師堂山 神宮寺旧跡
桜山 頼家公遊覧の処なり。按るに海南社記に云く、貞観中城ヶ島に補陀山海潮寺を建つ。
   開山は源心和尚、三崎香能連翁と云う者を大壇那とすと見えたり。星霜悠久、その
   跡的知りがたし。この桜山、一名観音台と云うを以て考えれば、正に是ならんか。
   予少時是を村翁に聞けり。
海南山 小網代村にあり。
物見山 諸磯村にあり。三浦道寸斥候を置く処なり。
拝之台 二町谷にあり。安貞中歌舞来迎の時、里民此処より遙拝す。因って名づく。
小濱屋敷 御林。
瑞故山 二町谷にあり。
天神堂山 諸磯にあり。昔天満宮を安置す。今海南社中に移す。
丸山 城ヶ島にあり。
籐右衛門山、多羅木山
稲荷山 中ノ町にあり。
 

 木石
桜 昔鎌倉右大將の命により宝蔵山及び城ヶ島に桜数千株を植えたり。春来たり好花繚乱
  興あり、詠なりしとぞ。歳月悠久今は枯れ盡きたり。将に惜しむべきや。按に桜は絲
  垂海裳なり。倭に桜の字を用いるは誤りなり。
桃 歌舞島にあり。今の見桃寺は、即ち昔右大將花を賞し玉いし処とぞ。
椿 向ヶ崎にあり。右幕下花を賞し玉う処。即ち今の大椿寺は其の跡なり。蓋し吾が邦の
  椿は中華の山茶花なり。俗誤って椿の字を用ゆ。故に寺号亦これに従い、兼ねて荘子
  逍遙遊の文字を取るならん。
白槇木 城ヶ島にあり。右大將遊宴の時、この島の栄を壽き、自ら揚枝を沙場に刺し玉い
  しが、生長したりと云い伝う。一説に佐原十郎に命じて、一枝を刺ししめ玉いしとも
  いえり。
銀杏 二株、海南社前にあり。
梅 同上
桜 同上。青賢像なり。
天狗腰掛松 泰平山にあり。
連理楓樹 圓海山にあり。按にもみじは、榿なれども倭俗に誤って楓の字を用ゆ。
紅梅 海雲山にあり。
四十丈松 原村にあり。三浦七木の一なり。
実右衛門松 城ヶ島にあり。永正年中、三浦道寸の臣亀崎兵部と云う者、板部岡三左衛門
   に害せらる。これ其の墓木なりと云い伝う。されども詳らかならず。亀崎の子孫は
   今猶存せり。
馬臼樹 宝蔵山に享保年中、公命によりこれを栽しむ。今は無し。
楊貴妃桜 二町谷清宝山にあり。
鉄蕉 見龍山に有り。一根三株、高さ一丈ばかり。四時蒼々たり。人奇観と為す。
桜 数株、見竜山にあり。宝暦中植える所、三主の風流にならって市明寄進す。
腹切松 小網代山にありて、三浦道寸自殺の処なり。今も牛馬をつなぐことを禁ずるなり。
姥松 諸磯村にあり。三浦義意の乳母この所に住しとかや。今も斧を入れず。
白石 二町谷村。
力石 海南社地。
鈴石 小網代村白髭神社にあり。昔西国の船、ここに泊まること数日、順風を得がたし。
  因って、この石を神に献じ祈りければ、忽ち風よくなり舟を出せしと云い伝う。誠に
  奇石にて、これを打たば金銕の声をなすなり。
 

 官船 並びに漁舟
大安宅丸 一名日本丸、向井忠勝碑の銘に委し。
下田丸、永津呂丸、千里丸、日吉丸、小緑丸
海士舟 往古この船のみあって四時漁すと。
餌糧舟 松魚(鰹)の餌とする海鰮(鰯)を取る。俗にケイヤウ舟と云う。蓋し音の似た
   るを以て誤るならんか。
丸木舟 一名舫チョウ、また伏突舟と云う。昔は十八艘なりしが、萬治年中より六十艘に
   定まる。按に舫チョウと称すること、芭蕉翁鹿島紀行にも見えたり。刀祢の下流総
   州銚子湊に多しとかや。中華にて所謂刳木なり。
小釣舟、押送舟、伍大力舟
 

 貢物
松魚 初鰹を貢物とす。按に徒然草に鎌倉の海に鰹と云う魚ありと記せり。されども昔よ
  り貢物とするに以てみれば、この魚三崎を第一とすべし。或説に、頼朝公房州鶴濱八
  幡に詣で玉いし頃、三崎の漁人松魚を献ぜしこと有ると云えり。
決明 貢物となる。味佗にこへたり。
蝦 貢物
挙螺 貢物となる。一種左顧挙螺あり。
鰹節
御肴物
小魚色々 鯛、平目、鮭、河豚、鮪、鯖、鮹、鯨、生海鼠、
     その外魚物乾魚これを略す。
海藻、鹿角菜、紫苔、若和布、神馬草、鼠大根、胡黄連、萱草、水仙
 右の外産物甚だ多し。筆に載せるに暇あらず。よって省略し侍る。
 

 神廟
正一位海南大明神 三浦郡総社、楫谷山に鎮坐す。
  旧記に云く、天兒屋根命の苗裔太宰廣嗣四代の孫藤原の朝臣資盈を云う、御母夢中に
  八幡大神、日輪を画きたる扇子を持ち懐中に進入すると見て孕めり。成人して後、聡
  明他に勝ると。筑前の国を知行し、博多の荘に居住す。妻盈渡姫、嫡子一人右兵衛の
  尉。天安三年春、文徳天皇の御宇、皇子御位を争う時、大納言善男が讒に因って、貞
  観六年親子二人及び家来郎等五十三人、舟船五艘にて十月二十五日、博多に於いて纜
  を解く、大隅薩摩方を志し乗り出し玉う。西風卒に起こり、白浪山の如く、常夜、船
  共の姿、吹き散らされ行方を知らず。七日七夜を経て、御坐船一葉主従六人、十一月
  朔日に湘南の岸に出着く。漁父群集し囲繞す。渇きを仰すに、鰹鯖魚を取り分利と名
  け献上す。その頃、安房、下総の賊の舟来りて頂岡に止まる時、軍を起し即ち退治す。
  三浦の人、いよいよ崇敬すと。下略す。
  相伝秘書に曰く、淡海公の孫宇合の長子太宰廣嗣が曾孫松浦廣尚の孫尚資が一子、筑
  肥二州を皆領し鎮守府将軍たり。父尚資、廣教が女を以て妻と為し九国探題箱崎に居
  す。死後継ぐもの無し。勅により資盈その職を賜る。これに依って恵慶比賣これに嫁
  す。両国を領し九州の將と為す。また私せざるか。
神詠 きりの海にみなみの弓をかけまくもかしこき神のためしにそひけよもつきし代々の
  宝の渡る舟かちやつのかみのあらんかぎりは
託宣 筑紫より吾来るの時は、下り船に楫谷とて潮生連汐生連。天地和合は吾に有り、人
  身は胎に有り。正を以て通行せば、即ち月満ちて危き無し。邪を以て通行せば、即ち
  日満ちて危き有り。吾が苦悩父母の如し。
社記に曰く、三浦道寸、新井城より日参す。年齢積みて歩行成り難し。城内に当社を勧請
  す。永正十五戊寅の歳七月十一日の合戦、神主父子加勢す。道寸自ら五指に血をそそ
  ぎ、父子の神印を定む。今もその遺風を捨てず。朱書きにして代々定紋とす。然
  れども血の穢れを恐れ、神前を憚り社務の時は、必ず替え紋を用ゆ。落城に父子戦死
  すとなり。三浦平大夫為次、神領を寄付す。上宮田、下宮田村はその旧地なりと云う。
東鏡に曰く、文治五年四月三日に右大將家、流鏑馬十騎、競馬三番、相撲十番これを興行
  す。
朱璽五石 金田村にあり。
神供米 向ヶ崎田尻村。
御手洗 寛永十七年大樹家光公、安宅丸と云う御舟にて江都入御の時、風波悪かりしに当
  社に奉幣あり難なし。因って向井將監忠勝、祠前に池を鑿ち橋を架す。擬宝珠に姓名
  を刻む。
神宝 宝剣一振無銘。霊木珠。社例伝。牛王、更津(九穴)貝、以上二品は間宮氏これを
  献ず。鏃、権五郎景政これを献ず。祝詞数通、吉田家歴代の諸公の書なり。
叟面 顎に疵有り。
龍神面 三浦郡菊名村の小原氏右近献ずる所なり。面裏に姓名を書く。右近の祖藤原の正
  次は、里見義弘の臣にて、安房の国小原村に住す。因って氏とす。里見没落の後、菊
  名村に来たり、西宮の社職となる。その子孫今なお存せり。この神面は、里見家累代
  の重宝なり。風雨の祈りに験あり。故に俗に「雨の面」「風の面」と云う。曽って当
  社、臨時の神楽に誤ってこれを用いしに、晴天忽ち雨降る。社人恐れ敬いこれを納む。
  雨即ち止むとかや。毎年夏神器を晒す時、この面には別に幕を覆う。天正年中に里見
  義弘、房州長狭郡峰岡山に於いて雨乞いす。社僧誤って水を面上に濯ぐ。忽ち大雨至
  り、神面飛動し池中に入らんとす。僧驚きてこれを留む。その時、顎に疵を付けたり
  と。義弘、新たに面を作ってこれに模擬し、大山不動堂に納め、面供料七十石を寄せ
  附す。その処を「雨乞塚」と名づく。塚辺に小池あり。今も里民、雨乞いして験なき
  時は、池の水を面にそそげば必ず雨ふるとかや。また義弘、平郡平久里村滝山にて雨
  乞いするに、即ち雨降る。因ってこの所にても、模擬の面を神宮寺、天満宮に納め、
  十五石を寄付す。里見落城の後は、二面の所在を知らず。以上右は二寺の旧記にあり
  と里人語りし。天和年中に小原右近、武州品川大井村にて、この面を用いて雨乞いす。
  即ち雨降る。里民その徳を仰ぐ。これより以来、右近が子孫毎年守護札を贈るとなり。
厄除守護、安産守、冕除守
火防守 吉田二位殿に神納す。
疫神除守 毎年除夜に神秘を出す。
風波除守、増運守
霰御供 例祭十一月初申の日、神秘を出すなり。
別宮社 海南神の御嫡左兵衛殿を祭る。安房の国飽剪村の鎮守たり。因って飽剪大明神(鉈
  切明神)と号す。天延三年正月十五日、初めて臨時の祭を行う。弓矢帯剣を作り、山
  賊を諫めるは刑罰式と云う。毎年十月、安房の国飽剪に於いて、岩窟の中に神船一葉
  漂い寄る。俗に舟越と号す。神社の古記に云く、毎年当所淡崎の東の海上に音楽の声
  あり。その所を神楽岳と云う。また曰く、十月の例祭、飽剪の神、舟にて光臨し音楽
  海上に聞こゆ。因って神楽岳、舟越等の神号ありと云う。
諏訪社 海南家司太郎殿を祭る。四隅東北方、狭塚入江に建つ。海南宮鎮坐を定め玉う時、
  三郎珠を投げ玉う。その落ちる処をして、太郎須波と云う。因って諏訪御霊と云う。
託宣 昔八幡を補佐し三韓を征す。今海南の左右に在り万民を守る。
住吉社 海南家司次郎どのを祭る。西北の方、宮外の入江城村に建つ。伝記に云く、主君
  斯の境を静め、幾世も当に須弥輿可覧と云う。因って住吉御霊と号す。
楫三郎殿山 今社は廃す。海南宮家司三郎殿を祭る。俗に風の三郎殿と云うは誤りなり。
  伝記に云く、西南の方居島の東に立つ。明神の宣に曰く、誰かある我が棲むべきこの
  地にありやと。三郎拈じて楫咒す。その落ちる処に定め鎮坐す。因って神号とす。
洲御前社 海南宮家司四郎殿を祭る。東南の方淡島に建つ。
  伝記に云く、吾等、須那阿留ところ宜しと云う。因って沙荒御前と云う。この神勇猛
  大剛にして、石を噛み砕き、鉄を爪切る。故に荒の字を置く。
御霊社 権五郎景政を祭る。
午頭天王社、大神宮社、稲荷社
相殿社 二十四神を勧請す。
王子稲荷社 寛延年中に下村氏勧請す。
海功霊社 神主経命を祭る。
御供所
石嗽盤 寛文六年九月、鈴木五平寄付す。
石燈籠二基 延保三卯三月、御代官山角籐兵衛、同じく与力中寄付す。
同二基 澤村氏、鈴木氏寄付す。
同一基 延享二丑六月、蔦丘舎草也寄付す。
  海南の海は唐迄も青く、梶谷の楫は船を恵み人を修するの教えにして上なき宝にや。
  されば宮柱太しき栄えも善尽し美尽して成就す。とくとこの水無月例祭の砌、遷宮ま
  しますの幸にまかせ、神帳をひらかしめ給うに、郡裏の惣社千戸の宗廟とて、老若男
  女足元も見えず押し合い侍る。予もそのひとりにして、爰に寸志の石燈篭を添えまい
  らせて恐み拝まん事を祈り、且つみあらかの上久玉へる朝影夕影光りとも仰ぎ奉るも
  のなるべし。
     海よりの旭や恵む若葉陰  
     夏山や幣にすかす夕月夜    草也
神主 大井氏三十余世相続す。
社家 小坂氏、篠沢氏
稲荷山 海南宮末社。中ノ町にあり。
神詠 いなり山杉のむらたち多けれど中なる道ぞ神のかよひ路
本宮社 貞観中の海南宮旧地。花暮町にあり。
龍神社 天文丙辰六月の祭に、漁人鰹鯖の初尾を献ず。花暮町にあり。
八幡舟玉社 泰平山にあり。
二所明神 寛永年中に、向井左近將監忠勝、大安宅丸の船玉神を八幡相殿に祭る。石燈籠
   二基寄付あり。
四郎兵衛稲荷 宝蔵山に在り。由来を知らず。
彌惣右衛門稲荷社 日和山にあり。由来を知らず。
姥神 原村にあり。疱瘡護神。
稲荷山社 同所
山王社 向ヶ崎にあり。
道祖神社 同上。
富士浅間社
秋葉社 海向山に有り。宝暦中建つ。
稲荷社 海雲山にあり。
 同社 見竜山にあり。
 同社 泰平山にあり。
海南社 城ヶ島。
神明社 二町谷にあり。
白髭社 小網代村にあり。
弁才天 小網代村石洞に安置す。若江ノ島と号す。(鴨長明の海道記に曰く、若江ノ島の
  つづき崎、三浦の三崎となどといへる浦にをとあり)
 

 佛刹
見龍山無量壽院光念寺 浄土宗
  本尊阿弥陀佛 恵心僧都の作、三浦七佛の第五。
  開祖 和田左衛門の尉義盛、筌竜院殿児誉安楽義盛大居士、中興鎌倉光明寺十九世法
     蓮社然誉上人
  霊宝 利剣名号弘法大師筆。三尊来迎佛。同弥陀如来二軸恵心僧都筆。二十五菩薩一
     軸同筆。子安観世音。
  大日如来 銅像、享保中六十六部右兵衛これを建つ。
  弁天堂 本尊弘法大師作、東都浜崎氏寄付。
  薬師如来 行基菩薩作、天平中諸磯に安置し、宝暦中当山に移す。
  塔中 称名院、源崇院中興まで五院有りしとぞ。今二院存ず。
  伝えて云く、昔和田義盛衣笠城を落ち、久里浜より舟に乗り、房総に赴かんとす時に、
  糧尽ければ、竜神に祈りしに忽ち筌と云うもの流れ来る。よってこれを用いて魚を獲
  て食し、餓えざることを得たり。後筌竜に化し昇る。一夜義盛霊夢に感じ、筌の御堂
  を建立す。故に今俗に「上の御堂」と云う。歴世久しきことなれば、詳細には知るこ
  とを得難し。
海向山本瑞寺 曹洞宗
  本尊地蔵菩薩 弘法大師作、三浦道寸父子の守り本尊。
  開祖 三浦荒次郎義意、大竜院殿玄心安公大居士。上総の国[久留里]圓覚寺開山佛
     光普照禅師。
  霊宝 佛舎利。二童子伝教大師作。蓮絲袈裟一具。人丸像古土佐藤原の信實筆。神詠
     関白某公御筆。虎図古法眼元信筆。布袋雪舟筆。
  当寺、昔海雲山にあり。享保四年に今の処に移す。小濱民部少輔屋敷跡なり。
泰平山最福寺 浄土真宗
  本尊阿弥陀佛 恵心僧都の作。
  開祖 権の大僧都永教。
  霊宝 十一面観音弘法大師作。聖徳太子御自作。六字名号蓮如上人御筆。
  塔中 観流寺、最勝寺、常光寺。
  伝えて云く、本天台宗、鎌倉に有り。宇多帝の御宇、建治二丙子年これを建つ。天正
  中故ありて三崎西の濱に有って山号海岸と改む。鎌倉最福寺屋敷と云うは、これ旧地
  なり。元禄十四中秋、西の濱より移し泰平山と改む。この地は向井兵庫の頭城跡なり。
城島山神宮寺 禅宗
  本尊薬師如来 行基菩薩の作。
  十二神 同作。
  伝えて云く、本城ヶ島にあり。人皇四十五代聖武帝、天平中に建つ。行基菩薩諸邦に
  佛像を建立すと云う。頼朝公祈願のこと有って、和田の義盛に命じて諸堂を造営せし
  む。曽って災に逢って本尊を紫陽山に移す。文禄年中、長谷川七左衛門この地を寄付
  す。
照臨山能救寺 禅宗
  本尊正観音 俗に河豚観音と云う。三浦第二札所。
  伝えて云く、寛永の頃、この地に鈴木九左衛門、大井清左衛門、川端茂右衛門と云う
  者あり。或時三人海に出て釣するに、一奇石を釣り得たり。捨てること三度にして帰
  る。その夜各々霊夢に感ず。夙に起って前の所に至り釣りをするに、また右の石を得
  たり。洗浄して見れば、救世菩薩の像なり。即ち負い帰り紫陽山の白室禅師に奉ず。
  師即ち佛工をして、新たに佛像を作らせ、石像をば本尊として崇敬す。利益いちじる
  し。これに於いて、三人落髪し、三帰戒を受けて堂司となり、終に正念往生を得しと
  かや。その子孫今に存せり。元禄中、この地に精舎を移し猶正宗に安ず。
海雲山龍潜庵 禅宗
  本尊不動明王 智證大師の作。
  釈迦如来 天竺佛。
  文殊大士 同上
  開運大黒天、達磨大師、毘沙門天
  開山 大心和尚。
  伝えて云く、宝蔵山に有り。享保中、この地に移す。
地蔵堂 俗に坂下地蔵と称す。本瑞寺の末。
中谷山浄称寺 浄土真宗
  本尊阿弥陀佛 作を知らず。
  開祖 慈海和尚
  雑記 小網代村三佛刹の一なり。遺跡、今御堂地と云う。元来禅寺なり。永正中、新
     井没落後、これに移り改宗すと。
城谷山音岸寺
  本尊十一面観音 弘法大師作。
    江ノ島弁天の霊夢に因ってここに安置すと云う。その記文最福寺に有り。三浦第
    一の札所、順礼詠歌ここより出づ。
海當山延命庵
  本尊地蔵菩薩 運慶の作。
  開祖 快竜、羽州秋田の僧なり。宝永七年来住す。
紫陽山見桃寺 禅宗
  本尊釈迦佛 作を知らず。
  開祖 向井兵庫の頭、見桃寺殿天慶玄竜居士。駿河清見寺白室和尚。
  霊屋 向井氏父子の木像を安置す。
  伝えて云く、天正中、向井政綱白室禅師に尊信し、為に一宇を建つ。禅師曽って故国
  の芙蓉峰を朝暮望み思いありし故、爰に建てられしとぞ。永禄中、風波避け難きて、
  今の処に移す。
一向山長善寺 浄土真宗
  本尊阿弥陀佛 作を知らず。
  開山 良如上人。
清宝山眞福寺 同宗
  本尊阿弥陀佛 作を知らず。
  開祖 宗元、俗名に三張治郎宗元と云う人。
  伝えて云く、暦応中、鎌倉郡飯島に建つ。永禄中、此処に移ると。
  塔中 西応寺、眞光寺、等泉寺。
圓海山大乗寺 日蓮宗
  本尊
  開山 日範上人。当寺は天和丙辰草創すとなり。
  宝物 御書記日重上人筆。曼陀羅六幅日蓮、日親、日朝、日遠、日乾諸上人筆。消息
     一軸日蓮上人筆。赦免状写し日朝上人筆。色紙二葉尊圓親王御筆。法螺貝日範
     上人所持。
香水山圓照寺 浄土真宗
  本尊阿弥陀佛 春日の作
  開祖 明願法師
  霊宝 光明本蓮坐御影親鸞上人筆。十字名号同筆(俗に宮川村身代わり名号と云う)。
     張子阿弥陀同作(水難除の本尊と云う)。聖徳太子自作。北條氏直の朱印一通。
  塔中 等覚寺、正光寺、円覚寺。
  旧記に云く、昔は天台宗宝満寺と云う。鎌倉名越坂にあり。右大將家布金の地なり。
  親鸞上人の他力易往の勧めを崇め改宗す。三崎に移る。貞応中、故有って円照寺と改
  むと云う。名越坂下に宝満寺畑、花見畑今猶存ぜり。
金剛山大椿寺 禅宗
  本尊十一面観音 唐佛作を知らず。観音三浦三十三所、第四の札所なり。
  開祖 大椿寺殿法円妙悟尼大姉。寛喜二寅正月逝す。
     中興旭永大和尚。天福元巳正月朔示寂すと云う。
  大悲閣 三十三体を安置す。
  威徳堂 本尊智證大師作。
  伝えて云く、當院は、頼朝公の妙悟尼を以て鼻祖とす。女僧の精舎なりけるを、旭永
  和尚改めて建長寺の末寺となる。また寛文八京都妙心寺に属す。
法界山無縁寺 浄土宗
  本尊阿弥陀佛 運慶の作
  開基年月 寛喜元年正月 三崎人民創建
  閻魔王 雲慶の作
  六地蔵
眞定院(眞浄院) 禅宗
  本尊石躰地蔵菩薩 弘法大師作。俗に首切地蔵と云う。
  開祖 不詳。或いは云く、三浦平大夫再興と。
  炎魔堂 本尊作を知らず。
蓮葉(乗)軒 禅宗
  本尊観音 作を知らず。三浦第三札所。
  阿弥陀堂
 

 墳墓 並びに碑碣
向井左近將監忠勝之碑 宝蔵山にあり。
  銘に曰く、慶長二十年乙卯、大阪御帰陣の節、征夷大將軍秀忠公に従い、此処を向井
  左近將監忠勝に拝領す。寛永十年癸酉、征夷大將軍家光公に従い、日本一の大安宅御
  船を向井左近將監忠勝これを承り、好んで作を為し、すでに成就す。大將軍御舟に成
  たれば、天下の諸大名供奉有り。その時日本丸と号く。伊勢の国主、仁木右京の大夫
  義長五代の孫、修理大夫政長の伯父、源氏向井式部の大輔政隅、紀伊の国田辺に於い
  て三十八歳にて死す。武勇の誉れこれ有り。式部の大輔が嫡男、向井治部少輔長勝、
  伊勢の国田丸の碁の場に於いて、助言の仁、碁の相手両人を指し害す。四十三にて切
  腹す。治部少輔が嫡男、向井刑部大輔忠勝、勢州に於いて、度々武勇の誉れこれ有り。
  六十六歳にて伊勢田子柄に有って病死す。武田信玄麾下刑部大輔が嫡男、向井伊賀の
  守政重、駿河の国用宗の城に於いて、天正十壬午年に六十一歳にて討ち死にす。伊賀
  の守養子向井兵衛の尉、同所に於いて討ち死にす。同心遠藤飛弾。杉山作左衛門並び
  に家来の者、落合三蔵、太持孫右衛門、渡邊兎角助、脇久蔵、原庄右衛門討ち死に。
  右の者共信玄公、勝頼公御存知の者なり。その外大勢討ち死にす。名を記すに及ばず。
  武田勝頼公麾下、後徳川家康公麾下伊賀の守が嫡男、向井兵庫の頭政綱、勝頼公、家
  康公御両御代数度の武勇の誉れこれ有り。勝頼公の御代に走り廻る。大方甲陽軍記に
  これ有り。六十九歳に病死す。秀忠公、家光公二代の麾下、兵庫の頭が嫡男向井左近
  將監忠勝、大阪寅卯両度の御陣に武勇の誉れこれ有り。秀忠公に従い、糧地相模の国
  三浦郡の内二十六ヶ村、上総の国望陀郡二ヶ村、周集郡大田和を宛られ、これを拝領
  す。將監嫡男向井右衛門の佐忠政、同二男向井兵部少輔政勝、同三男向井弁の助政次、
  同四男向井八郎政興、同五男向井内蔵の助重勝、同六男向井大学の助政儀と。向井氏
  代々の墳墓見桃寺に在り。
義村塚 岩浦村福寿寺にあり。義村即ち三浦平六兵衛なり。
不動塚 飯盛村妙音密寺にあり。道寸の祈願所。本尊俎不動、並びに武具等を納め今猶あ
    り。
江笛碑 海向山にあり。加州人毛利備後の墓なり。銘、「瀧の音跡に残りて時鳥 江笛」
    宝暦中に立つ。
念仏塚 大塚にあり。源空上人の筆に模擬す。下村氏建つ。
題目塚 同所にあり。金子氏、加藤氏これを建つ。
銭神塚 三戸村にあり。
十三塚 原村にあり。
 

 古跡
宝蔵山 一名城山。東鏡に云く、右大將頼朝山荘を建つ。
  北條五代記に云く、北條氏親、梶原備前の守を以て、この城を守らしむ。一書に云く、
  北條早雲、三浦荒次郎の霊に悩まされし頃ここに来たり保護すと。
蓮池、空堀、出塀、扇井、桜井、大畑、樹木畑などあり。
向井將監屋敷 陣屋山とも云う宝蔵山にあり。慶長中、向井氏旧跡。
向井兵庫屋敷 泰平山。
小濱民部屋敷 海向山にあり。
千賀孫兵衛屋敷 照臨山に有り。中屋敷とも云う。
間宮造酒之丞屋敷 城村。
御番所 府治部に詳らかなり。
新井 三浦陸奥の守平の義同の居城なり。永正年中、北條氏茂に攻められ落城す。この山
  海水繞りて岸高く、東方のみ陸に接す。爰に池を鑿ち橋を架す。攻めれば橋を引いて
  拒みし故に引橋と名けるとかや。池の跡今に存り。誠に百二の地形、無双の要害なり。
  山中に大いなる洞あり。千駄屋蔵と名く。洞中に千駄の粟を充置しかども、籠城三年
  を経て食盡き終に落城しけると云う。
  海南山、富士見穴、人拝、釣井戸、油壺入江、塩硝屋倉等あり。

  小網代村永昌、海蔵の二寺、毎年七月に三浦父子及び亡卒七十五人の冥福を修す。海
  蔵寺即ち道寸草創なり。永昌寺は菩提所なり。宝暦中、三浦五郎左衛門金粟を永昌に
  遣わし、祭を助く。誠に新井、衣笠等は相中の古戦場、見所多き地なり。
瓜畑 三戸にあり。昔爰に花街ありしと云い伝う。
亀崎田 道寸が臣亀崎兵部旧跡なり。
陣ヶ台 菊名にあり。道寸の陣鐘この所にありしと。文禄中、長谷川七左衛門沼間海宝院
   に移せしなり。
 

 年中行事
正月
 船乗初め  二日
 門松納め  四日
 左義長  十四日 おかしき童謡あり。
 初瀬踊り 十五日 一名日やり、女児集り踊る。
 火防神楽 十五日 海南宮
 本宮祭   同日
 百万遍  十六日 光念寺の僧街中に来り修す。
二月
 稲荷祭  初午日
 龍神祭  二十一日
三月
四月
五月
 龍神祭  十五日
六月
 天王祭   朔日
 御旅所  十五日 これを建つ。榊、注連、竹等、宮川、原二村よりこれを献ず。
 海南宮祭 十八日 漁夫久右衛門と云う者、霊夢を得て初めて祭るとぞ。因って俗に夢
   見の久右衛門と名く。子孫今なお存す。御輿を楼船に移し奉り、棹歌を発す。花暮、
   城ヶ島よりその役をなす。町毎に舞台を作り、狂言をなす。十七夜、街坊中燈篭、
   興あるながめなり。
七月
八月
 諏訪祭   二日 狭塚入江。
 八幡祭  十八日
九月
 稲荷山祭  三日 原村
 神明祭  十六日 楫谷山
十月
 十夜念仏 十六日より二十日まで 光念寺
十一月
 菜粥神事 初申日 
   社記に云く、貞観中、海南宮着岸まします時、雪降り天寒く。里人粥を献ぜし遺風
   なり。
 猿神楽  同日
 出居戸神事 同日 忌服を祓う祭なり。昔里俗、服を改めて、ヲシヤウシの小袖と称せ
          しとぞ。
 酉市    酉日 俗にヲシヤウシの祭と云う。社記に資盈卿をしえいしと。訓より誤
          るか。
 鍋市    同日 鍋町に立つ。
十二月
 

 祥異
海南社記に曰く、康和五年権五郎景政初めて臨時の祭を行う。毎年例と為す。
宣に云く、もし念ずる者、暫く侫り有れば即ち受けず。貞観の昔、賊の罪を冠り、纔者を
  刑す。その罪豈吾に有って汝が子孫長栄す。但し、悪行有らば五世にして失滅す。
◯ 源平戦争の時、三浦の義明、勝負を当社に卜す。忽ちに白狐に赤狐来たり、庭に闘い
  を見る。白は勝ちを得たり。因って源氏に属したりと云う。
◯ 仁和七年七八月の間、天沙を降らす。香能連の翁の曰く、これ沙荒御前の神号に応ず
  るなりと。因って荒の字を去て、洲御前と改むと云う。一説に頼家公遊覧の時、三崎、
  御前同音相通れば、混雑を恐れて洲御前と改め玉うとも云う。
◯ 洲の御前に白榎木あり。貞享三年四月自火を生じ、枝葉焼き盡したり。根株は尚存じ
  寄生木あり。汚穢不浄の徒触れば、必ず病を得ると。
◯ 天和中、長夏大旱す。民人甚だこれを患う。海南社司、神に祈り雨乞いす。よって和
  歌を詠むで云く、「いのるともしるしなきてぞしるしなれ、おのがこころに誠あらね
  ば」忽ち風雨起こりて大いに雨降る。この年大いに登り、民皆歓喜、鼓腹して歌いし
  とかや。誠にありがたき神徳なり。
◯ 享保中、漁人大きさ二丈ばかりの烏賊魚を得たり。不思議の物なりとて、閭里挙げて
  これを観る。少壮の徒これを食す。味酸く食に堪えず。よって土中に埋めぬ。またそ
  の頃、人に伝えて奇異を談柄すとぞ。
 

 旧記
東鏡に云く、
建久五甲寅八月朔、右大將家、御山荘に渡御し玉う。燭を秉るの程に、御台所、若君等渡
  御し玉う。(以下略)翌二日帰り御う。
同九月六日、渡御あり、若宮の垂髪等を召され廻雪の袖を翻す。その後、小笠懸ありと云
  う。
六年乙卯正月二十五日、渡御あり。義盛駄飼を儲ける。以下略。
承元二年戊辰五月二十一日、渡御中に管弦興を催す。(下 略)
建暦二年壬申三月九日、渡御あり。尼御台所並びに御台所、相州、武州以下扈従す。翌十
  日夜に入って還御す。
建保五年丁丑九月十三日、渡御あり。海辺の月を御覧の為なり。(下略)
安貞三年己丑二月二十一日、将軍家、竹の御所以下渡御し玉う。彼岸の初日、海上に於い
  て歌舞、来迎の義有り。走湯山の浄蓮坊、駿河の前司義村の請いに依って結構を為す。
  この儀兼ねての詣けに参ず。この所に十余艘の船を浮かべ、その上件の荘厳を構える。
  粧い夕陽の光に映え、鼓楽の音晩の浪の響きに添う。事終わって説法有り。その後、
  島々を歴覧す。二十二日に還御し玉う。
同四月十七日、渡御あり。舟中に於いて管弦詩歌あり。佐原の三郎左衛門の尉遊女等を相
  伴い、一葉に棹さし参向す。山陰の景趣、海上の眺望、勝地に於いて比類無しと云う。
  同十九日還御す。
寛喜二年庚寅三月十九日、渡御あり。磯山の桜を御覧の為なり。よって領主駿河の前司、
  殊なる儲けを以て案内を申す。相州、武州以下六浦の津より参られ御船を召し、海上
  に管弦、連歌有って、諸士秀句を献ぜらる。翌二十二日還御す。

北條五代記に曰く、
大永十年八月三日、異国船入津す。舟中に永楽銭数万貫を積む。将軍義満公が下知を以て、
  舟より揚げさせらる。この時に永楽銭初めて弘まる。
弘治二年、里見義弘、城ヶ島に陣を取り、北條氏康と戦う。(下略)北條氏政、里見義高
  が賊舟の為に、梶原備前の守を舟大将として、この湊に兵船数百艘をかけ置き要害と
  す。義高の賊船、近浦近里の民家を騒がし、財宝を奪う。或いは放火す。里人三崎へ
  告げ来ると雖も、海上近ければ、賊やがて帰船す。よって山上に薪を積み烽火す。鐘
  を鳴らし、即時に三崎に告げ知らす。
永禄八年三月上旬、北條氏康花見の興あり。小田原より舟に召し、御供の人々海陸言葉を
  かわし、甚だ珍興の遊びなりと。
天正四年、氏政の命に依って、三官と云う者入唐す。
同六年戊寅七月二日、黒船この湊に入津す。検使として安藤豊前の守来たって、和漢口通
  出で合い売買す。異国人称して、同景唐国にも有るべからずと云う。

北條盛衰記に曰く、
永正十五年、去る程に三崎に有りし亀崎、鈴木、下里、三富、出口五郎左衛門を初めとし、
  道寸の残党三浦組の者共、城ヶ島に渡り船を着け置き、近辺の浦々を狼ぜきす。松田
  左衛門を先手とし、早雲三崎に来たり、道寸が残党を討ち取らんとす。鎌倉建長寺、
  円覚寺の両和尚の取扱にて、早雲に降参す。三崎城を再興し、小林平六左衛門を初め、
  与力三十騎、手勢八十騎、亀崎、鈴木以下三浦組十騎を指し置くと云う。
天文二十一年三月上旬、里見義弘の兵船八十艘、城ヶ島を責め取らんとす。梶原備前の守、
  富永三郎左衛門以下これを防ぐ。義弘一戦に打ち負け、房州へ退くと云う。
永禄八年三月上旬、北條氏康父子、三崎の島山の桜遊覧の催しあり。小田原より舟に召さ
  れ、諸に傍て御船を漕ぐ。陸地の御供は、濱伝いに汀に傍て続きたり。その日は三崎
  の城に入り玉う。この三崎の景、致心言葉も及ばれず。唐の西湖、遼陽の秀たるも定
  めて過ぎざると云う。翌日城ヶ島へ渡海あり。磯山の桜咲き乱れ、恰も錦繍の機を脱
  して、織姉もこれを始むべし。古歌に「磯山の花のさかりはこころなき、あまも道手
  を打べかりけり」この所にて詠とかや。頃しも三月なれば、進んで潟に入り興あり。
  人々数盃を波に浮かべて、詩歌の宴とす。三日御進留有って、小田原へ帰り玉うと云
  う。

三崎の城は、永正十五年早雲寺殿再興あり。その後、北條美濃の守氏規領となりしが、関
東無双の湊たるに依って、梶原備前の守を船大将として数百艘の船を用意し、房州里見義
弘をふせがす。

天正六年の春、五代記に曰く、七月二日とあり。三崎の湊に唐船入津す。綾羅、錦繍、織
物、沈麝、珊瑚、琥珀等の品々を積み来る。氏政の検使として、安藤豊後の守来たって、
和漢口通売買すと云う。唐人帰国せずしてこの地に留まる。即ち小田原に居住し町屋を賜
る。商人となり、今もその子孫ありと云う。

三浦崎は北より南へ浮き出たり。また安房の国洲の崎は、東より西へ出たり。この間の渡
り八里、内海に上総、武蔵五カ国へ入海あり。また伊豆の国河奈崎は、西より東三浦崎へ
出向かう。この渡り十八里なり。内海の浦続き、小田原、鎌倉あり。三つの島崎、大海原
にて出向き、鼎の三足の如く。然るに三浦崎は三国の中にして、南に向いたる故、中を正
とし三崎と号とぞ云う。