古代北東北の旅
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1.古墳・古墳群 1/2 宮城県 2/2岩手県へ) 

概要 1.古墳・古墳群 2.城柵 3.環状列石(縄文遺跡) 4.その他の遺跡など

      
1/2宮城県 雷神山古墳 2/2岩手県 角塚古墳
観音塚古墳 江釣子古墳群
遠見塚古墳 熊堂古墳群
青塚古墳 藤沢狄古墳群
浮島古墳群
南東北(宮城・山形・福島)の古墳分布を調べると、古墳時代前期から大型前方後円墳が築造されていたことが分る。福島県の会津大塚山古墳は墳長114mの大型前方後円墳で、国産の三角縁神獣鏡を出土し、群馬・前橋天神山古墳などの前期後半古墳の典型を示す。太平洋岸・原町市の桜井古墳(墳長75m)も前期古墳である。山形県南陽市には、4世紀後葉の前方後円墳で県内最大の古墳として稲荷森古墳《墳長96m)があり、付近には古代郡衛跡がある。

宮城県の代表的な古墳は、名取市の雷神山古墳(墳長168m:東北最大)で、4世紀後半の築造とされる。仙台市の遠見塚古墳は墳長はやや小さめ(110m)だが、雷神山古墳に先行するものとされている。名取市には早期の古墳として、前方後方墳である観音塚古墳、東北では珍しい中期古墳・名取大塚山古墳(今回は訪れない)などがあり、古墳文化が浸透していた風がある。大崎平野には、早期・前期古墳として青塚古墳(墳長100m)がある。
古墳時代の幕開けに南東北の果たした痕跡を確認する事から今回の旅を始める。

     雷神山古墳 (らいじんやまこふん) 名取市植松字山   
墳丘長168m、後円部径96m・高12m、前方部幅96m・高6mで前方部二段・後円部三段構成の墳丘。周庭が一部にあるが本格的な周濠はない。前期後半・4世紀末の築造で、畿内の津堂城山古墳と同時期。仙台平野を統治した首長墓と見られている。東北最大の古墳。底部窄孔壷型土器、埴輪壷などが出土している。古墳の北側には、直径54m・高8mの三段構成で周濠を有する小塚古墳(円墳)が存在する。
北側に駐車場、正面入口がある。古墳のある小高い丘は公園になっていて、案内図と説明板が完備されている。「名取市の古墳分布」の説明板もあり、古ぼけてはいるが説明は要を得ている。仙台平野(名取平野)は北の七北田丘陵と南の阿武隈川に挟まれた地域で、中央を流れる名取川(広瀬川)を境に南が名取郡、北が宮城郡であった。阿武隈川の流域に沿っては、福島・宮城に古代遺跡が多い。名取市には平安時代に熊野三山勧請に努めた”名取老女”の墓とか、奥州33観音の祖としての老女の存在が伝えられ、古い歴史を感じる。
入口から上っていくと、広々とした敷地に左に後円部、右に前方部の美しく整備された墳丘が見える。前方部の右端は墓地になていて、一部削られている。
後円部が三段構成であることがよく分る。 前方部左から見る。
前方部右から後方部への周庭を見る。 前方部には側面から登る。
葬送の儀式に際して、参列者が何処から墳丘に登ったかが、問題になることがある。
前方部の隅角線に沿って登る説(近藤義郎)やくびれ部に近い側面から登るとする説(藤田友治)がある。
前者の場合には、前方後円墳の前方が撥形に開くこととの関係で論じられ、
後者の場合は、古墳時代前期末から中期になると現れる造出(つくりだし)での側面拝礼へとつながっている。
前方部に登り、後円部を見る。左下遠方に街並みが見える。
後円部の傾斜は緩やかで、背後からも登れる。 後円部墳頂には雷神山古墳の名称の由来となった雷神塚がある。
三段構成の綺麗な小塚古墳(円墳)がすぐ東側にある。 小塚古墳には周濠がある。周濠から雷神山古墳の後円部を眺めた図。

   観音塚古墳 (かんのんづかこふん) 飯野坂古墳群  名取市飯野坂字山居37 
前方後方墳で、墳丘長63m、後方辺32m・高6m、頂径16m、前方幅30m?・長32m・高5m、くびれ部幅9mと「前方後円墳集成」にある。前期前半の築造で、畿内の桜井茶臼山古墳と同年代とされる。
仙台平野の古墳時代初期には他の東日本の各地と同様に、前方後方墳が築造されたことを物語る。名取市周辺では、多くの方形周溝墓も見つけられていて、他の地域と同様に、方形周溝墓→方墳または円墳→前方後方墳または前方後円墳の図式がおおまかに成り立っている。この事情が、今回旅する「北東北」と大いに異なっている。
雷神山古墳の北方1.5km内にある。町中の混みいった所であるが、名取ケ丘に「飯野坂古墳群」の小さな看板を見つけて狭路を入っていく。登りきった所に広場があるが、保育所の駐車場であった。観音塚古墳は登り切るまでの左側の林の中にあった。付近にも、古墳らしき高まりがあるが、樹木が生茂り近づけない。
町中から簡易舗装と未舗装の混じる狭路を登る。 林の中に白杭が見える。良く見るとこんもり盛上がった古墳らしきものが見える。
落葉をかき分け近づくと、確かに「観音塚古墳」とある。 おそらく、後方部に相当するのだろう

     遠見塚古墳 (とおみづかこふん) 仙台市若林区遠見塚1丁目23〜10   
墳丘長110m、後円部径63m・高6.4m、前方部長47m・高2.4mで前方部一段・後円部二段構成の墳丘。馬蹄形の周濠がある。前期後半・4世紀末の築造で、雷神山古墳と同時期。東北地方で第三位の大きさで、仙台平野の首長墓と見られている。多数の土師器や二重口底部窄孔壷型土器の破片が墳丘と周濠内外から出土している。内部主体は、後円部中央とやや西寄りに二つあり、いずれも粘土槨、割竹形木棺で墳丘の主軸方向に並行に設置されている。東槨より硬玉管玉1、ガラス小玉4が出土したが、終戦後の米軍による土採りにより後円部上段北半分は破壊されていた。南小泉遺跡(弥生・古墳時代)の真中にある。南小泉遺跡は、古墳時代の土器編年の標識として、前期の塩釜式に次ぐ中期の南小泉式として著名である。現在は付近は住宅地である。
先の観音塚古墳と違って、4号線バイパスの脇に、綺麗すぎるほど整備した姿を呈する。
4号バイパスを古川方面に向って左側にある。バイパス陸橋に標識まである。 昭和50年〜57年に整備したことを説明してある。主軸はほぼ南北を指す。後円部側が北。
南西隅から見る 前方部前面(南)から見る
後円部の墳頂から前方部を見る 後円部を背面より見る

     青塚古墳 (あおづかこふん) 古川市塚ノ目字屋敷118   
墳長100m前後、後円部径55〜60m・高5m、墳頂径約20m、前方部は削平され確かなことは分らないが、前方部の極端に低い前方後円墳とされている。二重口底部窄孔壷型土器などの出土品があり、4世紀末〜5世紀初の前期末古墳と推定されている。「前方後円墳集成」では、2−4期(前期前半ー後半)に比定されている。旧古川市(現大崎市)には名生館官衛(みようだてかんが)跡があり、大崎平野は古くから畿内勢力との結びつきがあった土地である。
青塚古墳は、東北道・古川ICのすぐ近くであるが、住宅地の中にひっそりと存在する。古墳全体が熊野神社の宮域で、墳頂部に神社本殿がある。
緑の部分が前方後円墳と推定されている。主軸は北東(南西)30度にある。赤茶の所に「塚ノ目生活センター」がある。 北東側の熊野神社への石段(後円部の背後から登ることになる)
石段を登りきった境内(後円部墳頂) 北側に回り込む(この斜面に後円部の広がりがあった。
南西方向にも参道が下る(石碑の右奥に前方部があった。 前方部があったと思われる保存地域を下方から
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