古代北東北の旅
(2.城柵 1/2 宮城県 2/2 岩手・秋田県へ)
概要 | 1.古墳・古墳群 | 2.城柵 | 3.環状列石(縄文遺跡) | 4.その他の遺跡など |
大和朝廷が陸奥経営に本格的に動き出すのは奈良時代の始めである。この時代は藤原不比等の暗躍もあり、大宝律令の整備など律令国家の体制が確立した時代である。元明天皇の709年(和銅2年)に巨勢朝臣麻呂を鎮東将軍に任命する。720年(養老4年)に按察使・上毛野広人が陸奥柵(仙台・長町付近)で殺される事件が起る。724年(神亀元年)に東北経営の拠点として、按察使兼鎮守将軍・大野東人により多賀柵(城)と出羽柵が造営され、前線基地として758年(天平宝字2年)に桃生城と雄勝柵が造営される。767年(神護景雲元年)に伊冶(いじ/これはり)城が現在の築館に造営される。 朝廷と蝦夷が戦争状態に突入する時期は、774年(宝亀5年)朝廷側の行方郡の穀倉が焼かれ、桃生城が攻められた頃からである。780年(宝亀11年)にアザマロの乱が起こり、按察使・紀広純が伊冶城で斬られる。戦場は胆沢地区に移り、蝦夷軍はアテルイの活躍により攻防が繰り返される。征夷大将軍・坂上田村麻呂が登場し、802年(延暦21年)に胆沢城を造営したのを機に、蝦夷の戦闘集団長・アテルイらが降伏し、一応の決着を見る。 |
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「蝦夷塚」が北上川流域に築かれたのは、7~8世紀中葉で、朝廷側の融和政策が続いた時代に相当する。 |
多賀城(たがじょう)跡 多賀城市市川字城前 多賀城碑によれば、724年(神亀元年)、按察使兼鎮守将軍・大野東人(あづまひと)により造営された。文献上では737年(天平9年)「続日本紀」に初見する。東北の国府(行政)と鎮守府(軍事)の両面を受け持った。初期は多賀柵(さく/き)と称されていた。鎮守府の役割として、「788年(延暦7年)に多量の軍糧を運び込み、歩兵・騎兵など52800人を集結させた」と記録されているように広大な城である。外郭は凡そ1km四方で、政庁は中央南寄りの一辺約100m方形部分である。発掘調査の結果、第Ⅰ期~第Ⅴ期の建替えが見られる。第Ⅰ期は正殿・東西の脇殿が主で、全て掘立柱の建物である。第Ⅱ期になると礎石を用い、正殿前の広場は石が敷き詰められ、南門に翼廊がとりつけられる。焼失に遭い建直しをしたのが第Ⅲ期で、さらに大々的に修復したのが第Ⅳ期となる。。第Ⅰ期が大野東人創建の多賀柵の時代、第Ⅱ期が藤原朝獦(あさかり)により修造された多賀城で、焼失は伊冶公呰麻呂(いじのきみアザマロ)の乱による火災と見られる。第Ⅳ期は貞観11年の大地震(869)による建替え、第Ⅴ期の終焉は10~11世紀の律令制体制崩壊時とされる。 |
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右図黄矢印地点 左側に政庁があり、右側奥の丘上に多賀城碑がある。 | |
外郭は築地で不正方形(南辺約880m、西辺約660m、北辺約780m、東辺約1010m)。外郭の門は現在、東・南・西の3ケ所で確認されている。外郭線はほぼ丘陵上を巡っているが、西辺と南辺の一部は低地上を通る。低地では帯状に土盛して築地を造った。 | |
政庁前の登り道 | 南門前、政庁のある丘から下を見る |
南門の推定復元図と発掘された礎石跡 | 第Ⅱ期政庁の指定復元模型 |
政庁の南正面に門跡。左右の翼廊(ブロックで示されている)。正殿は政庁の中央北寄りにある。(第Ⅱ期) | |
政庁正殿跡(第Ⅱ期) この時期の正殿は礎石式の四面廂付建物で、その南側に石敷広場がある。基壇部分だけ復元。 | 西翼廊跡 |
政庁の外、北東を歩く(右上に政庁) | 政庁から丘を下り外郭南門に至る区間は発掘調査中であった。道路を渡り、多賀城碑のある南側の丘に登る。 |
多賀城碑 お堂の中に石碑がある。歌枕「壺碑」として有名である。「奥の細道」で芭蕉も訪れ感涙したという。 石碑は、高さ約2m、幅約1m、暑さ約70cmの砂岩の碑面に多賀城の位置と造営に関する記事を刻んだもの。724年(神亀元年)に大野東人が創建し、藤原朝獦(恵美押勝の三男)が758年(天平宝字2年)に修造したことを記す。 日本三古碑(他は栃木の那須国造碑と群馬の多胡碑)の一つ。史料との不一致があり偽物説もあるが、現在は真物とされている。 |
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外郭南門跡と推定復元図 | |
東北歴史博物館 宮城県多賀城市高崎1-22-1 JR東北線「国府多賀城駅」に連なる。1974年(昭和49年)に開館した。総合展示室に”多賀城とその周辺”のコーナーがあり、多賀城と多賀城廃寺の総合的な解説・発掘調査成果が展示されている。総合的に東北の石器時代から近世までの歴史を網羅していて、縄文文化・古墳文化への序章となる。写真撮影は特別な展示以外は許可されている。訪問時には、東北地方の仏教に縁深い「慈覚大師円仁とその名宝」特別展が催されていた。 |
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桃生城(ものうじょう)跡 宮城県河北町飯野字中山 天平宝字2年(758)、藤原朝獦により、雄勝城と同時に蝦夷政策の前線基地として造営された。昭和49-50年と平成6-13年に発掘調査されてその存在・位置が確認された。説明板には「標高60-80mの丘陵にあり、遺跡の規模は東西800m、南北650mで外周を築地塀、土塁、材木塀、大溝で区画している。遺跡の東側・中央部に東西116m、南北72mほどの築地で囲まれた政庁があり官衙の役目をなしているが、西側には建物がない。774年(宝亀5年)に海道の蝦夷の攻撃のため焼失した跡が認められる。その後の再建はなかったらしく15年間で役割を終えている」とあった |
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桃生城跡は前方の丘陵上にある。右の公民館を目安に「桃生城探し」の迷走は終わった。 桃生町から河北町で、土地の人々に尋ね回ったが、聞いてはいても行った人は居なかった。探し当てた遺跡は草茫々で、僅かに政庁跡らしきものを確認できたに過ぎない。丘陵内を迷っていた時に、畑仕事をしていたおばさんは「ここの畑からも土器が出た。桃生城は同じ丘陵だが、直接行く道はない。」と言っていた。 |
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右上地図の現在地。 | 坂を登りきった所。右に行けば政庁跡がある。上の地図はこの説明板のもの。 |
なんとか政庁跡に辿り着いたが・・・。 | 左に行って土塁跡を見ようとしたが、行く手を塞がれ断念する |
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