古代北東北の旅
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2.城柵 1/2 宮城県へ 2/2 岩手・秋田県) 

概要 1.古墳・古墳群 2.城柵 3.環状列石(縄文遺跡) 4.その他の遺跡など

1/2岩手県・秋田県 胆沢城跡 奥州市埋蔵文化財センター
徳丹城跡 矢巾町歴史民族資料館
秋田城跡 秋田県立博物館
払田柵跡 秋田県埋蔵文化財セン

1/2宮城県 多賀城跡  東北歴史博物館
桃生城跡  

胆沢(いさわ)という地名が「続日本紀」に出てくるのは、780年(宝亀11年)で、朝廷軍が藤原継縄(つぐただ)を征東大使として北上川を遡上し戦闘をしかけるところである。戦闘用の覚鱉城(かくべつじょう)も急遽建設されている。797年(延暦16年)に坂上田村麻呂が征夷大将軍になり、802年(延暦21年)に胆沢城を造営する。この造営を機に、蝦夷の戦闘集団の長アテルイとモタイらは降伏し、事実上の決着がつく。長らく多賀城にあった鎮守府は胆沢城に移される。桓武天皇(在位781-806)は蝦夷征討に積極的だったが、905年(延暦24年)藤原緒嗣(式家)に「軍事(蝦夷征伐)と造作(平安京造営)が天下を苦しめ、これらを直ちに止めることが徳政」と諌められ、征夷の停止が決定された。

803年(延暦22年)には陸奥最北・最大の志波城が造られたが、水害の被害に遭うことが多く、811年(弘仁2年)に徳丹城が造営され役目を移すが、軍事より税の徴収体制の確立を主任務とする。同年、文屋綿麻呂が征夷将軍になり北方の二村を攻めているが、大規模な征夷は行っていない。
秋田城多賀城と同様な役割・運命をたどり、8世紀前半に出羽柵として造営され8世紀後半に秋田城となった。払田柵は桃生城と同時期(8世紀中葉)に造営された雄勝柵と見られたこともあるが、出土品・使用された柱の年代鑑定より9世紀初頭に造営されたと推定されれ、史料との一致は謎とされている。

     胆沢城(いさわじょう) 奥州市水沢区佐倉河   
802年(延暦21年)に造営され、10世紀半ばまで機能した。9世紀半ばに外郭南門や政庁正殿などが瓦葺となる。頻繁な建替えが行われている。外郭は一辺670mの築地と内外の溝で方形に区画される。南北中央に外郭南門と北門がある。築地は下幅3m、高さ数mの土塀で、数十mの間隔で櫓がのせられていた事が分かっている。全体の面積は46万㎡。大同3年(808年)頃に多賀城から鎮守府が遷った。鎮守府は坂東から派遣される鎮兵の掌握と征討を主としていたが、次第に蝦夷に禄を与え饗応し服従を求める儀式「俀饗」を行い、戸籍を確定する任務が大切になった。

   奥州市埋蔵文化財調査センター
胆沢城跡の建物柱、瓦、土器類、漆紙文書など出土品の展示、造営工事の説明のほかに、角塚古墳出土埴輪や江釣子古墳群出土の蕨手刀、上田蝦夷森古墳出土のえみしの冑などが展示されている。
主題は胆沢城で、政庁の模型、古代東北と蝦夷、アテルイと坂上田村麻呂をテーマにしたアニメ風ビデオが上映される。訪れたのは上映時間外であったが、こころよくビデオを見せて貰えた。
胆沢城跡  薄緑部分が外郭
(奥州市埋蔵文化財センターパンフレットより)
旧国道4号は政庁南門からの南大路と「政庁前門」の辺りで交差する。五間一戸の十二脚門の外郭南門はさらに南にある。 看板の所が「政庁南門」(その向うに正殿) 政庁南門と外郭南門の間にもう一つの門(政庁前門)が9世紀中頃から存在した。
「正殿跡」 一辺90mの政庁の中心から北寄りに正殿があった。北辺に沿って建物があった。 「北辺の建物跡」 すぐ北側に内郭(政庁)の塀があった。
広い外郭内で南を望む(埋蔵文化財センターの方) 「東脇殿跡」 他に種々の建物跡が発掘されている。

     徳丹城(とくたんじょう) 岩手県紫波郡矢巾町大字西徳田   調査中の遺跡で、志波城(盛岡)を解体した材木が使われている。外郭と内郭よりなり、外郭は一辺約350mで東西南北を向いた方形である。北辺だけが築地(土壁)で、他は丸太材の柵列である。時代が律令国家から藤原氏の貴族社会に移る最後の律令国家遺跡とも位置づけられる。
看板地点は「南西かんが跡」。左の陸橋は4号線 外郭で仕切られたほぼ中央に内郭(政庁)がある。内郭は東西76.2m、南北推定85mの板塀で、正殿を含め左右対称に配置されている。
政庁跡(丸太列)を南西から見る 内郭の西辺と南辺の中央に四脚門があった。西門跡から政庁跡を見る。右奥が南門跡である。
西側から見た正殿(左)と東脇殿(右) 正殿の奥(北)は発掘調査中
4号線の反対(西)側に矢巾町歴史民族資料館があり、徳丹城跡の説明パンフレットなどが用意されている。徳丹城跡の発掘調査状況、出土品・最新ニュースなどが分かる。日本初の木製冑が展示されていた。藤沢狄森古墳群からの出土品の展示・説明もある。 西外郭ラインは資料館側にある。外郭辺の中央には八脚門があった。徳丹城跡・外郭西辺案内説明版がある。左の道は政庁跡に通じる。

     秋田城(あきたじょう) 秋田市寺内   
江戸時代後半から菅江真澄らによって研究されてきた。近年の調査で、外郭は築地で、築地は基底幅2.1m、高さ2.2mの土塀上に瓦葺の屋根がつく。出土品は土師器、須恵器、赤褐色土器、鉄器、瓦、木簡、人形、漆紙文書など。一部は秋田県立博物館で見られるが、城跡内にある出土品収蔵庫に展示されている。
秋田県立博物館(秋田市金足鳰崎字後山52)
『日本書紀』斉名天皇4年(658)(蝦夷豪族恩荷が比羅夫に忠誠を誓う)、『続日本紀』神亀4年(727)(渤海使者の来朝)、『続日本紀』天平5年(733)(出羽柵を現秋田城地に北進)がパネル表示されていた。漆紙文書、木簡の展示もある。秋田城、払田柵の説明と出土品の一部展示などもある。秋田県には地蔵田遺跡など幾つかの弥生遺跡があること、遠賀川式・遠賀川系・搬入遠賀川式の土器、後北C・D式土器を副葬した土壙墓が見つかっていることも知る。6世紀代の土壙墓には黒曜石を盛土に混ぜたものが見受けられる。
秋田城出土品収蔵庫 閲覧無料だがPM16:00まで
秋田城発掘の最新ニュースや城の全貌が分かるらしいが、残念ながら時間外の訪問となった。

出羽柵は「でわのさく」とか「いではのき」とか読まれる。
外郭は一辺550mの不正多角形で、中心に政庁がある。大地震や反乱に幾度か遭う。写真政庁の上に護国神社があり、その周辺から1958年(昭和38年)の調査は始められた。 外郭東門と築地と呼ばれる土壁が一部復元されている。東大路は、小高い丘(高清水丘陵)上の東門を抜け、政庁に向う。
内郭(政庁)の築地(基底幅1.2m)と東門も一部復元されている。 第1期復元図
東北の建物跡 正殿跡 同じ位置で6回建直しがあり、第1期が最も大きく、第5・6期が最小である。桁行は各期とも5間、梁間は第1期が3間、以降は2間である。各期に南面片庇がつく

     払田柵(ほったのさく) 秋田県大仙市払田字仲谷地   
外柵が角材(高さ3.6m、縦横約30cm)の材木塀で、延長3.6km、外柵内87.8haの広大な遺跡である。造営年代は、出土土器より8世紀末~9世紀初頭とされていたが、外柵の材木塀の年輪年代法測定は801年の伐採となり、創建はそれ以降となる。終末は10世紀後半とされている。古代の文献に見つけ出されないので、土地名の払田を冠した。雄勝説、山本郡衙、河辺府説などあるが未決着である。


復元した外柵南門と外柵の一部。訪問日には台風4号が秋田に再上陸した。嵐の前触れの中で、その雄大さに魅せられる。外柵は建て替えられることなく、9世紀中頃にはその機能を失った。
払田柵総合案内所で総合的な知識を得る。ビデオを見て、発掘調査出土品(材木や墨書土器など)の展示を見る。
外柵南門から大路(幅12m)を歩き外郭南門へ 大路を川が横切っている。物資の輸送に使われた。
外郭南門に至る。南門両側に石塁が残り、後方の長森丘陵上に政庁がある。南門外の手前西側に建物跡がある。

政庁の概念図  政庁は板堀で囲まれ、東西南北に門を持つ
政庁の前面左右に西・東前殿がある。前殿は待機所
政庁南門跡。 政庁は4回建て直された。 広場(雨に濡れて光ってる)の向こうに正殿跡。 この東西に脇殿(政務を行う)があり、広場は儀式に使われた
政庁北門から北(丘陵裏側)を眺めた図 秋田県埋蔵文化財センター 払田柵の向かいにあり、払田柵出土品の展示・説明もあるが、秋田県の旧石器、縄文、弥生・続縄文字時代から江戸時代までの発掘出土品が展示されている。作業室・収蔵庫の見学も出来る。秋田県の飾りのない古代を見ることが出来る。縄文時代より秋田のアスファルトは接着などによく使われ、土器に貯蔵されたアスファルトなど珍しいものもある。 
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