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春夏秋冬 総目次 |
春夏秋冬 (5)
09/12/22 伊根の舟屋(いねのふなや)(丹後半島・京都府)
舟屋の里公園からの伊根湾 スライドショー「伊根の風景」 伊根湾をぐるりと囲んむ舟屋群、中央にぽっかりと青島(蛭子神社)、右に遊覧船のりば・七面山物揚場からつづく舟屋群、左に伊根町漁港・立石地区から耳鼻地区への舟屋群。 |
丹後一宮・籠神社(このじんじゃ) (宮津市) |
12月の中旬から日本海側は雪に覆われている。雪が来る一週前、神戸での墓参りのついでに、兄夫婦と由良浜から宮津・伊根を旅した。宮津市は、「丹後天橋立大江山国定公園」の中心地であり、白壁の商家が残る町並み、畳敷きの御堂を持ちステンドガラスの映える小さなカトリック教会などが美しい。由良浜での冬場のカニ三昧を楽しんだ後、丹後半島の東海岸を国道178号線で、伊根漁港まで車を走らせた。
伊根湾は、北に湾を開いた穏やかな入江だ。NHKの朝ドラや釣りバカ日誌などで有名になった地であるが、人の訪れは意外に少ない。観光協会のパンフレットにあった「舟屋日和」というに相応しい普段の生活を感じる。伊根湾の北東端にある舟屋の里公園からの展望は素晴らしい。広い入江と小さな舟屋の群れ、景色と人の生活が調和している。湾の入口に蛭子神社(江戸初期の創建、事代主命または恵比寿を祭神とする)を祀る青島が坐る。聖なる島として漁民の信仰心を支え見守ってきた。伊根漁港は、中世からブリ漁業の基地として栄えたが、時にはクジラが湾内に迷い込み一大捕鯨場となった。江戸中期から昭和の初めまでの270年間に約350頭の鯨が捕れたと、舟屋の里公園にある観光案内所の職員が説明してくれた。
天橋立の北端にある丹後一宮・籠神社(このじんじゃ)まで戻る。祭神は、天孫系の彦火明命(ヒコホアカリノミコト)を主神とし、天照大神と豊受大神を相殿に祀る。第十代崇神天皇(3世紀から4世紀初めに実在した大王と見なされる)の時、天照大神が大和笠縫邑からこの地に一度立ち寄り伊勢に遷られたとする御由緒より、元伊勢を名乗っている。相殿には、水の最古神である天水分神(アメノミクマリノカミ)と航海・漁業の神である海神(ワタツミノカミ)も祀られ、海人(あま)族の信仰の起点であることが分る。
籠神社の宝物、海部(あまべ)氏系図と息津(おきつ)鏡・辺津(へつ)鏡は興味深い。海部氏系図は、平安時代(貞観年中)に書写されたもので、始祖を彦火明命とし、海人族を統率した首長から丹波国造としての海部氏を経て、律令国家では籠神社に仕える祝部氏となる系図である。現存する最古の系図として貴重な存在である。息津鏡と辺津鏡は、伝世鏡として神宝であったが、昭和62年公開され、前者は前漢鏡で後者は後漢鏡であることが判明した。前漢鏡は弥生時代の北西部九州で王墓の副葬品として多数出土するものであるが、籠神社の鏡は代々伝えられた鏡であり、天から授けられた鏡として尊重する。息津鏡・辺津鏡は、物部氏の系図を語る『先代旧事本紀』にある”ニギハヤヒノミコトが天神御祖(あまつかみみおや)から授けられた十種神宝”の鏡二種に相当するが、籠神社神宝の鏡との関係は分らない。
海を相手に暮らす海人族にまつわる伝承・伝説は多い。日本列島沿岸の海人族は、多くの渡来人とともに大陸文化・文明の摂取を成し遂げた。丹後半島には、伊根の北西すぐの筒川に浦島伝説を持つ宇良神社(浦嶋神社)があり、西の半島付根の網野町には、浦島子を祭神とする網野神社や島児神社がある。秦の始皇帝の命で不老不死の仙薬を求めて日本列島に到来したとする徐福伝説も、筒川の近くの新井崎神社にある。浦島伝説・徐福伝説はいずれも道教思想にまつわり、海人族が活躍した至る所に見られる。
京丹後市峰山町には弥生墳丘墓・赤坂今井墳丘墓がある。この時代の出雲・越など日本海沿岸の首長墓は四隅突出墳丘墓を主流としているが、ここ丹後・丹波地方だけは方形の墳丘墓を築いている。この地方が独立した特異な存在であったことが伺われる。崇神天皇の時代に派遣された四道将軍の一人である丹波道主王命(たんばのみちのうしのみこと)は、山陰道を出雲に向ったことになっていて、旧山陰道は、福知山附近から現在の176号線を北上すると言われている。京丹後市久美浜町の久美浜は、丹波道主王命が国見した地とする地名伝説もある。日本列島が新しい文化・文明で歩き出した時代に、北九州・瀬戸内海経路だけでなく、出雲・丹後・丹波の渡来人が運んだ文化は見過ごせない。
09/11/13 再び九州へ(福岡・大分・熊本)
10月の末から10日間余り、九州への旅をした。今年7月の九州遺跡探訪の旅では、集中豪雨に見舞われ、旅半ばで引き返すはめに落ち入り、再度訪れる機会を伺っていた。10月末に橿原考古学研究所主催の桜井茶臼山古墳の現地見学会が開かれること、同時期に附属博物館で秋季特別展「銅鐸ー弥生時代の青銅器生産ー」が催されること、31日(土)に中高時代のバスケOB会が神戸で開かれることなども相まっての旅であった。11月3日(水)が休日であり、高速道¥1,000を利用して四国にも立ち寄り、四国特有の積石塚見学も行程に入れて、明石・鳴門大橋と”しまなみ街道”を経由して、自車で九州を往復した。全行程3,130kmの旅だった。
今回の旅では殆ど好天に恵まれたが、四国の石瀬尾山(いわせおやま)古墳を訪れた時は古墳の在処を探している中に雨が降り出した。高松市街に近い標高232mの峰山公園の周囲に古墳は点在しているのだが、部外者の助けとなるような案内標識はない。霧も出てきて人気もなく困っていると、丁度パトカーが巡回に来た。走り寄って、「古墳は何処ですか」と聞くと、カーナビで見て、「確かにあるが、道がない。・・・こんな天気だから無理しないで、早めに切り上げてください」と言われた。最近、軽登山での遭難や物騒な死体遺棄事件などが頻発しているので、不審者を訪ねてのパトロールだったかもしれない。もう4時も過ぎている。結局、幾つかある古墳に辿り着くには枝道の多いハイキングコースを雨にずぶ濡れになりながら歩きまわる事となった。
四国には、吉野川や四万十川の源流を訪ねての旅や、四国八十八ヶ所巡礼の旅などで来た事がある。道後温泉は別として、熱い湯量の多い温泉が少ないことは知っていた。まして高松市近辺で温泉を探すのは至難と思っていたが、高松空港から僅かに南下した所にある塩江温泉は鄙びた感じがして良い。さらに2.5km奥に入った”さぬき温泉”で一泊した。山中の一軒宿の露天風呂は気持ちが良い。当然のことながら源泉は20℃程度の沸かし湯だが、その源泉は弘法大師の功徳があるという。そう言えば、国道193号沿いの塩江温泉郷の立ち寄り湯も「行基の湯」と幟が立っていた。
託宣・戦勝祈願の神として奈良時代に神格を上げた宇佐神宮を後にして阿蘇山に向った。宇佐ー玖珠を結ぶ国道387号線では岳切渓谷に寄り道した。一枚岩の河床の上を落葉を浮かべて緩やかに流れる水が美しい。再び国道に戻り15分も走ると、標高543mの峠を越える。峠からの展望は絶景で、東奥山七福神と名付けられ注連縄が張り巡らされた巨岩七体を見渡すことができる。峠の広場の片隅に岩清水がこんこんと湧き出ている。
玖珠を過ぎ久大本線・引治駅の近くに壁湯温泉福元屋がある。川沿いの洞窟風呂は秘湯の名に恥じない。泉温は30℃ほどのぬる湯だが、温泉名が示す通りに岩壁から絶え間なく源泉が湧き出ている。温泉巡りをしている男性二人が入っていた。一人はこの日だけで五つの温泉に浸かってきたという山口県からの人、もう一人は香川県から来た人で、二人ともに何度かここに宿泊したらしいが、その日は立ち寄り湯で温泉巡りをしているらしい。九州の秘湯の情報やよもやま話を聞きながら30分ほど浸かり放しでいた。
阿蘇山・中岳の火口を見学して、旅の後半に入った。阿蘇外輪山を北西に越え、菊池市に入る。鞍岳の西麓・旧旭志(きょくし)村に藤尾支石墓群がある。弥生時代中期後半の墓域で、支石墓10基、積石墓4基、甕棺2基が発見されている。支石墓については、先の九州旅行でも注目したが、朝鮮半島南部からの渡来人系の墓と見なされる。有明海に近い九州中央部に支石墓が残存していることを是非確認しておきたく、インターネット情報で位置確認をしてきたが、何の標識もなく、ただ田舎道を右往左往するだけだった。ようやく小さな石標を見つけ、一車線の砂利道を入っていくと、林の中で軽トラに出くわした。すぐに軽トラはバックしてくれて、わずかな窪地に乗り上げて待ってくれた。すれ違いさまに、お礼を言って、「この奥に遺跡がありますか」と尋ねると、爽やかな若者が、「もう少し行くと、養豚場が二つありますが、その直前に何か歴史的なものがあります。」と答えてくれた。ブタの臭いが漂う養豚場近くの小さな空地に車を停めて、無事に墓地確認作業が出来た。
旅の印象的な事物をスライドショーで示す
康楽館 (小坂町) (ロールオーバー)内部桟敷席 |
七滝に向う園児の列 奥入瀬渓流 |
09/08/26 小坂町 (秋田県)
東北自動車道を小坂ICで降りて、樹海ラインと呼ばれる県道2号線を経て、十和田湖方面に向った。小坂ICから3分の距離で、小坂町の中心地である「明治百年通り」を横切る。小坂町は、明治時代にいちはやく鉱山技術を取り入れ大繁盛した町である。「明治百年通り」は小坂製鉄鉄道(現在運休中)の終点である小坂駅からの線路と小坂川に挟まれ、そのアカシア並木は”日本のかおり風景百選”に選定された。明治を彷彿させる文化遺産としての「康楽館(こうらくかん)」、「小坂鉱山事務所}、「天使館」などの明治期からの西洋建築物が道沿いに並んでいる。
小坂鉱山の歴史は古い。江戸時代(文久年間)に金・銀の採掘から始まり、明治期には銅山の開拓があり、昭和の後期には新鉱床の発見により復興したが、平成2年閉山した。現在では鉱山技術をリサイクル技術として生まれかわりつつある。ここに文化遺産として残されている建物は、繁栄した明治期のものである。
アメリカ木造ゴシック風の明治の芝居小屋である康楽館は、現在も大衆演劇の常設公演場として、また歌舞伎、文楽、落語の公演も随時開かれている。外観正面は下見板張りの白塗り、上げ下げ式窓と鋸歯状の軒飾り、内部天井には中央にチューリップ型電灯と八角形の枠組みと、手の込んだ明治期の洋風建築が売り物だ。平成14年に国の重文指定を受けている。
内部施設を¥600で見学できる。切穴(すっぽん)と呼ばれる役者のせり上げ装置、回り舞台、緞帳の上げ下げなどは全て人力で行われる。桟敷席は傾斜がつけられ見易く配慮され、花道の他に仮花道もある。古い芝居小屋は、四国の内子座を含め全国に4軒を残すだけと聞く。楽屋には役者、落語家の落書きサインがひしめいていた。
大衆演劇の常設公演や、他の建物、郷土館なども是非見たかったが、先を急いで、樹海ラインを十和田湖へと登って行った。すぐに、日本の滝百選に選らばれた「七滝」に到着する。江戸時代の紀行家・菅江真澄が十和田湖へ向う途中に立寄り、短歌とスケッチを残している。「七滝」は約60mの高さを7段にわたって落ちる。幼稚園児が先生に連れられて遠足に来ていた。道路を挟んだ向こう側に、滝の茶屋「孫左衛門」がある。
東北の名所・史跡に行けば必ず、菅江真澄か明治の文人・大町桂月の足跡に触れる。奥入瀬渓流も大町桂月がこよなく愛した所だ。この季節、紅葉の頃の華やかさはないが、ナラ、カエデ、ブナなど、樹々の緑の間を流れる渓流が美しい。十和田湖・奥入瀬を一周し、山間の秘湯・ランプの宿として有名な「青荷温泉」に向った。
(「湯の旅」に旅の詳細を記載)
09/08/07 吉武高木遺跡(早良国の王墓) (福岡県)
梅雨明けが遅れた7月の九州を旅した。山口・北部九州に停滞した集中豪雨のために、予定半ばで撤退したが、背振山系を一周し、水稲耕作技術の導入遺跡、漢書や倭人伝に現われる国の遺跡と資料館などを巡ることができた。関東では見ることは稀な支石墓、大きな甕を棺とする甕棺墓、朝鮮半島からの多鈕細文鏡、大径の前漢鏡、細形銅剣、細形銅戈、細形銅矛などを大量に、ごく当たり前のように見ることができた。大形の甕棺墓が群葬されている様は、吉野ヶ里、奴国の丘歴史公園(須玖岡本遺跡)、金隈遺跡などで、発掘時の状況のままで見ることが出来る。伊都国歴史博物館2Fの一室中央に、一挙に飾られた平原1号墳(王墓)の40面の前漢鏡(破片を含め)は圧巻だ。各地で見る出土品の数々も見事で興味が尽きないが、発掘後埋戻された遺跡に立ち、遠い昔を想う気分は爽快だ。変わらない山と川、近隣遺跡との関係などを現地で直に感じる事が遺跡巡りの醍醐味である。
弥生時代(BC200~AD300)の九州の墓制の変遷は興味深い。朝鮮半島南部から持ち込まれた支石墓は、縄文晩期から弥生前期前半に水稲耕作技術とともに玄界灘沿岸や有明海沿岸に伝来した。弥生前期中頃から中期初頭には、木棺墓とともに大形甕を棺とした甕棺墓が出現し、中期は甕棺墓が盛行する。紀元後の後期には甕棺墓は急激に衰退し、箱式石棺墓などに変わり、やがて古墳時代を迎える。
吉武高木遺跡から西方の飯盛山を望む。 左(南)側に高木遺跡、右(北)側に大石遺跡、樋渡遺跡がつづく。 |
吉武高木遺跡 |
吉武高木遺跡は、福岡市の西端、室見川の中流域・左岸にある吉武遺跡群の一つの墓地遺跡である。室見川は背振山を水源として北流し、玄海灘に向けて扇状に早良平野を形作る。背振山系がせりだした飯倉丘陵と長垂丘陵が東端と西端を区画している。昭和59年度(1984)の第4次調査で、弥生時代前期末から中期初頭の金海式甕棺墓・木棺墓や多くの豪華な副葬品が出土した。大きな墓拡をもつ甕棺8基と木棺4基が、東西27m・南北13.5mの区画に主軸を東北に向けて整然と配置されている。隣接して小児用の甕棺が幾つか繋がっている。木棺墓の埋土上には大型の標石があった。特に3号木棺墓は、多鈕細文鏡1、細形銅剣2、細形銅戈1、細形銅矛1、碧玉製管玉95、硬玉製勾玉1を副葬し、王墓の風格をもつ。昭和60年の第6次調査で、墓域から東に50mの所に、東西4間(9.6m)・南北5間(12.6m)の掘立柱建物跡も見つかった。高床式の祭祀場での権力者による祖霊祭祀の原型と見られる。復元模型を福岡市埋蔵文化財センターで見ることができる。吉武遺跡の出土品は、福岡市博物館に常設展示されている。
吉武高木遺跡の100m北側に、前期末から中期後半の甕棺墓主体の大石遺跡、さらに100m北側に、中期後半から後期の墳丘墓の吉武樋渡遺跡がある。500年近くの早良地域の墓制や社会の有り方が一堂に会している。大石遺跡は中期末まで続いた集団墓地であるが、その一郭に高木遺跡と同時代の銅剣などを副葬する甕棺墓が10基あった。高木遺跡の3号木棺墓に見るような副葬品の集中化はなく、高木遺跡よりはランクの低い集団の墓と考えられている。副葬された銅剣の状況、石剣の切先や磨製石鏃の出土、被葬者の状態から「戦士」の墓とされている。樋渡遺跡では副葬品の集中はなく、高木遺跡の時代の王(または首長)のような権力は分散したと見られる。早良地区は奴国の一部に組み込まれたようだ。弥生中期末頃(紀元前後)には、魏志倭人伝の国々(奴国、伊都国、末盧国など)が玄界灘沿岸に群立する。
室見川の河口近くには、右岸に藤崎遺跡や弥生から古墳時代にまたがる複合遺跡・有田遺跡があり、さらに上流部の吉武遺跡につながると考えられている。玄海灘沿岸に到達した水稲技術は、階層化社会・支配者層を生みながら内陸部に王国を作る。国と言うには小さく未熟ではあっても、階層化された集団が、弥生前期末(紀元前150年頃)に誕生していた。水稲耕作が伝来した頃の縄文晩期・弥生前期初頭のムラの様子は板付遺跡に集約されている。台地上に環濠がムラを区画し、狩猟採集生活をするとともに、環濠外の低地に水田を作っていたようだ。板付遺跡弥生館指導員の横山さんは、吉武高木遺跡の発掘担当者だった。板付遺跡のことは勿論、吉武遺跡の王墓のこと、北九州の弥生時代のことについて数々のご教示をいただいた。一夜漬けの私と違って、地道に弥生の世界で働いてきた専門家の話は快い。お手持ちの吉武遺跡発掘時の特別展図録を無造作に進呈して下さった。
現在の吉武遺跡群は、埋め戻されて草原として保存され、説明看板がその在処を教えてくれるだけである。西方に飯盛山(382.4m)があり、大和平野の三輪山、出雲平野の仏経山などと同様に、神奈備としての性格があるのかと、山麓の飯森神社に行ってみた。飯森神社の創建は貞観元年(859)で、祭神は本殿にイザナミノミコト、相殿に宝満神(タマヨリヒメノミコト)と八幡神(ホムタワケノミコト)、中宮社はイソタケルノミコトとあり、この地一帯の総社であった。
(「九州の遺跡探訪」に旅の詳細を記載)
09/05/30 田毎の月 (姨捨・長野県)
松本から国道19号線で北上し、明科から国道403号線で猿ケ馬場峠を越え、姨捨、更埴を経て長野市に通じる道は、昔の北国西街道(善光寺街道)である。現在は、長野道とJR篠ノ井線が併走している。
姨捨山は姨捨の南の冠着山(1252m)の別名だとされている。長野道では姨捨SA直前のトンネルで潜り抜ける。
”姨捨(おばすて)”といういう語感は、「老母を山に捨てる”棄老(きろう)伝説を連想しがちだが、実際にそのような制度がこの地にあったとは考えられていない。むしろ、養老(ようろう)説話として、老人の知恵を尊ぶことを、姨捨の地名に則して物語に当てはめたようだ。
姨捨の地名は、5世紀末の武烈天皇の和風諡号「オオハツセワカササギ」と関連し、オオハツセの転訛だとする説がある。更埴を中心とするこの地域には、5世紀初めから末まで、有明山の森将軍塚古墳など大型の前方後円墳が幾つか築造されていて、畿内王権との関わりが深かったことを物語っている。これらの古墳は千曲川の右岸の小高い尾根上に築かれ、現在の屋代地区などの自然堤防上に集落が集中し、後背湿地に水田・農耕地帯を抱えていた。これに対して、姨捨辺りの千曲川左岸は自然堤防が築かれる事なく、生活の場は僅かな山麓の斜面地に限られ、景色には恵まれていても豊穣な地ではなかったようだ。
平安時代中期の更級日記には「月もいでて やみに暮れたる姨捨に なにとて今宵 たづね来つらむ」と歌われ、紀貫之、藤原定家など多くの平安歌人に”月の名所”として取り上げられた。棚田の成立は16世紀に遡るとされるが、江戸時代になると潅漑設備も整い、姨捨の傾斜地に多くの棚田が築かれた。与謝蕪村は「帰る雁 田毎の月の くもる夜に」と詠み、俳人・文人の集う所となる。現在では、この棚田の美しさと月の名所を合せて、”田毎の月”としての保存活動が行われている。
09/05/09 西国33ケ所巡り (滋賀・岐阜・長野)
西国33ケ所満願の寺 谷汲山華厳寺 |
平成16年10月13日に那智山・青岸渡寺から始めた西国33ケ所巡りを、31番長命寺(近江八幡市)、32番観音正寺(安土町)を経て、平成21年5月5日に谷汲山・華厳寺で結願した。”谷汲さん”として親しまれる華厳寺は、岐阜県大垣市の北、揖斐川に合流する根尾川の右岸にある。
満願の湯、谷汲温泉で汗を流し、以前に結願した坂東33ケ所と秩父34ケ所とを合わせて百観音巡礼満願のお礼参りとして、長野県の善光寺と別所温泉の北向観音をも形通りに巡った。善光寺は7年に一度の前立本尊御開帳で賑わっていた。ご本尊は絶対秘仏として人前には出ないが、そのままの姿を写したという前立本尊の御開帳である。厨子内に一尺五寸の阿弥陀如来を中心に、一尺の観世音菩薩と勢至菩薩が控えている。
今回は割愛したが、谷汲さんから、根尾川沿いに国道157号で薄墨桜で有名な旧根尾村を通り、温見峠を越えると越前大野に達する。揖斐川沿いに国道303号と417号を北上すれば、徳山ダムを経て林道で冠山(1257m)を右手に巻き、国道417号に繋がり鯖江市に到る。いずれの道も岐阜・福井の県境越えは山深く、日本の原風景の美しさが漂う道だ。岐阜県側の最奥集落であった旧徳山村は、ダム建設により昨年5月に完全に水没した。昭和60年のダム建設前後の徳山村を、何度か通った記憶が懐かしい。
南鬼無里には民家風そば屋がある |
長野善光寺から裾花川沿いに鬼無里(きなさ)に至り、白沢峠を越え白馬に至る国道406号線も好きな道だ。民家が途絶える南鬼無里から高度を上げ、白沢峠で標高1100mになる。峠で白沢隊道に入るとすぐ直角に左に折れる。・・・と、短いトンネルの先に白馬連峰が目に飛び込んでくる。何度見ても感動が新たに起こる。
トンネルの出口左に小広場がある。車を止めてパノラマに見入る。五竜遠見スキー場上の五竜岳の頂上附近は雲で覆われているが、特徴ある菱形の雪形が時折り姿を見せる。八方尾根スキー場の上半分にはまだ雪がついている。
堺ナンバーの乗用車がやってきた。中年男女4人連れで、善光寺参りの帰途だという。あまりの絶景に、おおはしゃぎだった。「ごっつい景色や。関西ではこんなの見られへん。」
あいにくの小雨模様だったが、それでも春遅い初夏の白馬連峰を見せてくれた。季節季節により変化する連山の趣きも見ごたえがある。冬季の晴れた日には、あくまでも白くて大きい白馬連峰を見ることができる。もう少し下った白馬みねかたスキー場の頂上からはもっと間近なパノラマを見ることもできるが、トンネルの出口に広がる白馬連峰の姿の方が勝っている。
09/04/20 奄美大島にて (鹿児島県)
平瀬マンカイの場所 左(人が立つ)が神平瀬、右大岩がメラビ平瀬 歌い踊り、会食の場となる浜辺は、中国からの漂着したゴミで一杯。 祭りに合わせてムラ中で片付けると、土地のおばさんが説明してくれた。 (mouse-over) 奄美博物館には大熊のフユウンメ祭り(ノロ行事)のジオラマがあった |
奄美大島を旅行する機会を得た。北は北海道から南は先島諸島の南端まで、日本国は随分と長細いものだ。それに呼応して文化・歴史の地域差も大きい。本土・九州が弥生・古墳時代を通して次第に畿内大和政権確立に向かっていた頃、本土と琉球諸島との交流は交易(朝貢)だけを主としたものであった。琉球諸島の生業が、従来の漁労採集から農業生産に代るのは12~13世紀であり、交易による利潤の蓄積も相まって社会の階層化が顕著となり、大型のグスク(城・砦・拝所)が登場しグスク時代となる。15世紀初めに沖縄島に琉球王国が誕生し、16世紀初頭までに先島諸島や奄美諸島を支配下に置くようになる。幕末の薩摩藩支配・明治維新以降の日本国編入まで500年余を本土と別の枠組みの中で過ごした歴史は大きい。
琉球王朝では、祭政一致の体制をとり、政治を司る男帝と祭祀を司どる女帝(聞得大君(キコエオオキミ))を頂点とする。畿内大和政権草創時の卑弥呼と男帝、あるいは大物主神と倭迹迹日百襲姫などの世界を連想してしまう。聞得大君が琉球王朝の諸島に祭事を司るノロを任命する。
平瀬マンカイは、一時途絶えていた琉球王朝以来の豊穣神祭りを、昭和35年に再興復元したもので、旧八月の新節(あらせつ)の日に、龍郷(たつごう)町の秋名・幾里で行なわれる。当日早暁に、水田を見下ろす山の中腹でショチョガマという荒っぽい神事を、ムラの男全員で行う。午後の満潮に合わせて、海辺でマンカイが行われる。参加者は、ノロ、クジ(男神職)、シドワキ(ノロを補佐する女神職)である。実際には、現在ノロはいないので、芸達者なおばあさん達がノロ役5人やシドワキ役4人を務め、クジ役もムラの男性3人が勤める。マンカイは招き開くという意味があり、ノロ役は神平瀬に、クジ役とシドワキ役は女童(メラビ)平瀬に登り、その間で掛け合いで所作とともに歌い、ネリヤカナヤ(海の向こうの理想郷)からイナダマ(穀霊)を招く。平瀬とは波打ち際の平たい岩をいう。歌い終わると、神平瀬のノロは沖に向かって正座し祈り、メラビ平瀬では円陣で八月踊りを行う。その後、浜辺で歌い踊りが繰り返される。衣装は白を基調とする。「秋名アラセツ行事」として国指定重要文化財となっている。
ノロの行事は琉球王朝以来のものである。沖縄・奄美大島には、姉妹(ウナリ)が兄弟(イヒリ)を守るウナリ神信仰という古来の原始信仰がある。ノロ制度はウナリ神信仰を基盤としているようだ。奄美大島創生神話で湯湾岳に降臨した阿麻弥姑(アマミコ)と志礼仁久(シレニク)の二神は姉妹の女神なのだろう。
浦の橋立 (龍郷町) (mouse-over) |
名瀬から秋名に至るには、大熊(だいくま)の町から県道81に乗換える。この大熊には、奄美大島で唯一の伝統的な古式ノロ制度が残っていて、初穂を祝う「アラホバナ」やノロの収穫祭「フユウメン」などが執り行われる。大熊の街中は新しい道や住居が立ち並び、急速に開発が進んでいるようだった。伝統の逸失が懸念される。民俗学者の谷川健一は、「日本の神々」の序で、「日本の神々の原型に迫るには、神社神道や国家神道の外側に置かれ、そのために古風を残すことができた民俗神や、仏教の薫染のきわめて少なかった奄美・沖縄の中に、記紀以前の日本の神々の手がかりを求めることになった。」と述べている。奄美に仏教が伝来したのは江戸中期頃である。
空港から走ってきて、国道85号は龍郷町役場附近で左折する。右方向に行けば秋名だ。この交差点の直前の景色が気掛りになっていた。右には遠浅の湾がぽっかりと開けていて、左側には酒造工場とレストラン・おみやげ屋の千鳥館があり、小さな橋の左向うの景色も良い。帰って調べてみると、この国道58号線自体が「浦の橋立て」らしい。この交差点の地名が「浦」、小さな橋は「浦川橋」だ。薩摩藩が橋立て(堤防)を築き大干拓事業をしたらしい。最近まで旧道は迂回していたが、屋入(やにゅう)トンネルが出来て58号線が橋立の上を通ることになった。美しい左の窪地は干拓の残り香のようだ。県道81を秋名方面に向かうと、龍郷小学校近くに西郷南州謫居地がある。龍郷町は幕末の歴史が残る町ででもある。
09/04/06 浜通り・中通りを巡る旅 (福島県)
波立海岸(いわき市四倉・久ノ浜) | 松川浦(相馬市) | |
久ノ浜の波よけブロックに飛散る太平洋の波は大きい | 松川浦漁港から斜張橋を渡り、大洲松川浦ラインをドライブする |
波立海岸は”ハッタチ海岸”と読む。福島県の太平洋岸・国道6号線沿い、いわき市の北寄りにある。岬に弁天島があり、薬師如来を本尊とする波立寺(はりゅうじ)がある。会津で名高い奈良平安朝の僧・徳一上人が海上鎮護を祈って創建したと伝えられる。初日の出の名所であるが、風の強い日に、太平洋の荒波が波消しブロックに砕け飛び散る様も良い。国道沿いの駐車場に、西行の歌碑「みちのくの古奴美(こぬみ)の浜にいちや寝て、明日や拝まむ波立の寺」がある。
松川浦に泊り漁港の朝を迎える。潟湖には海苔・あさりの養殖の竹竿が林立する。松川浦は、砂州で囲まれた南北5km・東西3kmの気水潟で、北側に巾約80mの水路が開け、水路上に287mの斜張橋・松川浦大橋が平成7年に架けられた。北の松川浦漁港から橋を渡り、潟に浮かぶ中州や大小の島々を見ながら7kmの砂州を走り、南端の磯部漁港までドライブできる。
福島県は会津地方・中通り・浜通りの三地区に大別され、それぞれを奥羽山脈、阿武隈山地が区切り,、気候的にも相当な開きがある。
会津地方は、北越との関連が深い。中通りには、常陸・下野からの道が白川関で出会い、陸奥・多賀城を目指した古代の東山道が通っていた。現在の国道4号・東北道、国道49号・常磐道の道筋とほぼ似ている。浜通りは、現在の国道6号沿いの地域であるが、太平洋と阿武隈山地に挟まれ、どちらかというと山地が多い地域である。
一昨年より、5世紀前後に築造された関東・東北の古墳を中心に古代歴史を点々と覗く旅をしてきた。福島県の浜通り・中通りは、過去に訪れる機会も少ない地域である。2日間の駈足で、いわき市四倉の玉山1号墳を出発点として、双葉町の桜井古墳、二本松の傾城壇古墳、郡山市の大安場古墳と地域の歴史民俗資料館(博物館)などを織り交ぜ、阿武隈山地の周辺を旅した。双葉町歴史民俗資料館では清戸さく横穴の装飾壁画レプリカと近隣の古墳群の発掘調査状況が、南相馬博物館では羽山横穴の装飾壁画をレプリカや古代製鉄遺跡のジオラマを見ることが出来た。鹿島歴史民俗資料館では、相馬への人の出入りとか、この地の特色ある化石発掘状況の説明をも受けた。大安場古墳は古墳公園として前日(4月4日)に復元・オープンしたばかりで、土地の人々で賑わっていた。ガイダンス施設も立派で、附近の古墳からの出土品を併せて興味深い展示がされていた。
帰路、枝垂れ桜で有名な三春に立寄った。訪れた地蔵桜の開花は四月中旬だが、その枝ぶりは見事で、取り囲む村の静かな佇まいと見事に調和がとれていた。開花時には多くの観光客が押し寄せるだろうが、出来るだけ山村の雰囲気が壊れない状況で見たいものだ。
ススキの原が広がる富士の裾野 (東富士演習場) (mouse-over) 駒門風穴 |
09/01/17 富士の裾野 (静岡県)
太宰治は昭和13年(1938)9月に山梨県・御坂峠の天下茶屋で執筆する。「富獄百景」には、”まんなかに富士があって、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひっそりと蹲って湖を抱きかかえるようにしている。”とある。 この”おあつらえむきの富士”を、”注文どおりの景色”を、”まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。”と軽蔑する。そして、路傍に咲く黄金色の月見草に、”3778mの富士の山と立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力士草とでも言いたいくらい、けなげにすくっとたっていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。”となる。
御坂峠から見る北面の富士山も、雪を被った姿は大きく堂々としていて、上の酷評ほどではないが、御殿場・裾野市から見る南面の富士山は、まじりけがなく好ましい。富士の前面はススキの原で埋められている。この広大なススキの原は、大正年代から軍の演習場として使用され、自衛隊に受継がれているので、煌びやかな開発が行われることなく現在に残っている。
自衛隊東富士演習場内を通過する道が何本かある。滝が原駐屯地から入る畑岡道、忠ちゃん牧場から入る山口道などは未舗装であるが走りやすい。畑岡道と山口道が分岐する辺りに総合火力演習場があり、年に一度一般に公開される。広大な演習場の7割は民公有地であり、枝道もここかしこにあるが、戦車訓練用の道であったり、急遽演習用に作られた道もあり、不発弾の危険もあるので、事情が分らないままに立ち入らないほうが良い。
滝が原駐屯地から駒門駐屯地まで約15km、富士裾野を楽しむことができる。駒門近くには、裾野を見渡す駒門展望台があり、駐屯地近くに駒門風穴(こまかどかざあな)が見学できる。風穴は、富士山の周囲に幾つかあるが、駒門風穴は最古の大きなものの代表的なもので、三島溶岩流の表面が冷えて固まった後に、内部の熱い溶岩が流れ出したものという。大正11年に天然記念物に指定されている。本穴は入口より291m、枝穴は岐点より110mで見ごたえがある。
富士の裾野は、春夏秋冬いずれの季節も良い。ススキが刈り取られ黒い火山灰地がむきだしになる春も良い。夏の夜には、ご来光登山の灯りが右寄りの太郎坊から山頂まで続く。秋には涼しげなススキがなびき、冬には背丈の高い枯れススキでうずまる。早朝の霧は裾野一帯に流れることなくたまり、モヤとなって一寸先も見えない世界をつくる。