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記事No : 1944
タイトル 本当はどうなの?
投稿日: 2013/03/12(Tue) 19:03:50
投稿者桃青

生活の実践の中に菩薩行を見出して行く教えです。

釈迦の因行果徳を頂く教えです。
略してしばしば「徳を頂く」と、言ったりします。

すると、何の因果か、因行果徳で仏に成る教えのはずが、
「得」する教えになってしまったりするんですね。

具体的に言えば、
「御題目で、良い子を授かった。夫婦は円満で、
 商売はウハウハ。」
みたいな感じ。。。

それも悪くないですが、困ったことに、そればっかり言っていると、だんだん信仰していたら、上手く行かないほうがおかしい。
みたいになって行くんですよね。

上手く行かない場合は、なんとか「仏様のおさとし」に帰着させるようなストーリーを拵えようとするんです。

このような傾向は、某M教証会でも日蓮宗座談会でもまったく同じです。
そういう場では、一生懸命信心したら、身の上に良い出来事が起きた。という話がされます。
聞き様によっては自慢話大会です。

良い出来事が起きたという体験を持つかたにとっては、それは自慢話ではなく、信心がもたらした摩訶不思議な出来事であり、だから皆皆信心したらきっと良い出来ごとが起きますよ。
という素直率直な心情の吐露なのでしょう。


私は、それを聞くたびに、信心したら身の上に良いことが必ず起きなくてはならないのだろうか?
と、思うのですよ。 
某M教の大管長は、フライドチキンが食べたくてカネが足りなかった時、眼の前に小銭が落ちていて食べることができた。
という体験を信仰のお陰である。(御霊の導きである。)と、機関紙の巻頭に書いて、心あるひとの失笑を買っていたが、なに、日蓮宗の座談会だって、これと五十歩百歩の体験が日々語られています。


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