記事No | : 1948 |
タイトル | : 良い話にしなくてはいけないのでしょうか。 |
投稿日 | : 2013/03/14(Thu) 10:14:48 |
投稿者 | : 桃青 |
ある女性。
若いころから旦那さんの途切れの無い女性関係に悩まれておられました。
御夫婦共に齢80近くになったころ、女性は病で命後一年という宣告を受けられました。
旦那さんは驚き、その一年を毎日入院している女性の元に通い、女性の身の回りの世話、下の世話までされたそうです。
女性は、「やっとこの人を独り占めに出来た。病気になったことは辛いけれど、病気になったお陰で、このひとと二人きりの時間を過ごせるのだから、こんなに嬉しいことはない。
これも仏様のおはからいでしょう。長いこと信仰してきて良かった。」
幸せだ。有り難い。と仏と周囲への感謝を言い続けて亡くなられました。
で、終わるのなら、少し哀しい話ですが、終わり良ければ、全てよしの良い御話の部類でしょう。
が、後日談があります。
こちらは、表立っては話されませんが、そういう話は、漏れて来るものなのですね。
この旦那さん、奥さんの1周忌が明けると、再婚されました。
30歳近く年下の女性です。
はぁ?(笑)
しかし、そんな若い女性が、右から左へ都合良くよく見つかったものだなあ。と思いましたら、旦那さん、この若い女性とは長い仲で、奥さんの病院へ通った足で、帰りにはこの若い女性の元で過ごされていたのですね。
御夫婦には、御夫婦にしか解らない事情も感情もあるでしょうから、私如きが奥様の心情について何をか況やですが・・・。
そのような裏事情を伏せて、「奥様は、長い信仰のお陰で、望んで止まなかった夫婦二人きりの時間を得ることができた。信仰のお陰で、死の病を悦びに転換できた。」という美談にする必要があるのでしょうか?
全ての事情を話したうえで、「信仰の力」として、この話を語るのなら、
「「闇がいよいよ深い。その闇をごまかすのではなく、闇を消すのでもない。
その闇に帰るのだ。
楽しさ明るさに帰るのではない、闇にこそ帰るのだ。
闇を闇と知らしめたものは何か。それこそが光ではないか。」
という、仏の智慧の話にもなるのでしょうが・・・。