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記事No : 1952
タイトル Re: 良い話にしなくてはいけないのでしょうか。
投稿日: 2013/03/18(Mon) 11:23:55
投稿者桃青

「信仰していると、良いことが有る。」

確かに、良いことはあります。
その良いことの内には、

「闇がいよいよ深い。その闇をごまかすのではなく、闇を消すのでもない。
 その闇に帰るのだ。
 楽しさ明るさに帰るのではない、闇にこそ帰るのだ。
 闇を闇と知らしめたものは何か。それこそが光ではないか。」

という光(仏の智慧、般若の智慧)を知ることでもあり、
仏教本来の目的は、この闇(無明)を照らす光(仏の智慧、般若の智慧)の存在を知らしめることなのだ。
ということが、いつの間にか、陰に隠れてしまって、
なんだか、世俗的な満足を得るというところばかりが強調されるようでやりきれない。

物事の有様を冷静に、ありのままに見つめることによって、現実の問題の根本解決を図ろうというのではなく、
宗教的な色眼鏡で物事を見て、「この眼鏡をかけると世界が良い色に見える。」と喜んでいるのが信仰者というものなのだろうか?
と、感動を与えるように編集を施された体験談を見聞きする度に思う。

このような事例は、私の周辺の善男善女に関してだけ起きるのではない。
例えば、某M教会では、教会組織が組織的に、某M教会に起きた歴史的事実を隠蔽している。
そして、科学的に事実を検証することを使命、本命とするべき学者達が、
「事実を公表すると、教会員の信仰の躓きになるから。」
という理由で教会の方針に迎合した論文しか発表しない。

「信仰を失わせることになるから。」という理由で、事実を伏せるの心というものは、
某M教の最高幹部達の心も、浮気夫が同時進行で行っていた他の女性との交際を伏せて、病床の妻との会話だけを取り上げて美しく感動的な体験談にして信仰を鼓舞する心も同じであろう。

人間て、ほんとうにどこでも同じようなことを考えるものですね。

一念三千世界です。

闇を照らす光を知らない某M教の幹部たちは、教会の闇の歴史を照らす光を知らないから、なんとか隠蔽してやり過ごすしか方法が見つからないのでしょう。

しかし、闇を照らす光(仏の智慧、般若の智慧)を知っている仏教の指導者であり、「日月のよく日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」から御名を取られた日蓮聖人の弟子を自認するものたちが、某M教の幹部や学者達と同じことをしているのは、残念だ。


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